白毛山凡人の写真俳句

2021/04/05(月)16:03

あかがねの・・・

寺社彫刻(43)

あかがねの道を若駒軽やかに  あかがね街道の銅は馬の背中に45キロほどの荷物を振り分けにして運ばれていました。山間部では二つ、平野部では上に一つ増やして三つにしてました。馬や馬子は宿場の間の村から調達したようです。小夜戸地区は花輪の上流側の隣村、中野地区の川の対岸になり、いくつかの集落が集まっていました。場所からするとまず沢入宿(そおりしゅく)に荷を取りに行って花輪宿の蔵に入れるまでを請け負っていたと思われます。  そんな小夜戸地区のほぼ中央にあるのが小夜戸稲荷、出来は素晴らしく花輪の彫刻家が彫ったことは間違いないところですが誰が彫ったかは分かりません。年代の特定も分かりませんでしたが、近年木片の裏に墨書きが発見され、それには寛政3年(1791)とありました。この年は二代目の常八が生まれて6年目、昔の年ですと7歳になります。初代常八は74歳この二年後に亡くなります。二代常八は当初は栗原新蔵に継がせるつもりだったのかもしれません。それが八王子に残る常八の墨書と栗原新蔵16歳の墨書です。その6年後に二代目を名乗ることになる常八が生まれました。両親とも不明ですが初代吟八と同じ墓に入っていることから血のつながりがあり、初代吟八の娘の子である可能性が高いと思われます。年齢からすると娘の母親は初代常八の妹ということも考えられ、姪の子ということになりましから、相続関係は全て納得いくと思います。では、父親は誰かということになりますが、それは後日のお楽しみ。もちろん今の段階では想像の域を脱せず、断定するのはあまりにも証拠が少なすぎます。  ここまで来ると時代劇の世界ですよね。ついでにもう少しお付き合いください。では初代石原常八は何者かという話になります。これだけの作品を作る実力があるとことから古くからの弟子で妻沼の聖天堂にも参加していないとおかしいでですよね。聖天堂の奥の殿上棟の時24歳一番の育ちざかりということになります。飯綱権現堂の墨書きには石原常八雅詖(いしはらつねはちまさとも)残しているそうです。  ここで一番可能性があるのが松島文蔵雅朝(まつしまぶんぞうまさとも)です。文蔵は前原藤次郎とも年が近いと思われるところから石原吟八の所から一緒に独立し、花輪の一つ下流の荻原の集落で組んで行っていたようですが、出身地は小夜戸地区と思われます。  小夜戸稲荷は花輪の彫刻集団の見本みたいなものですが、きちんとした棟札や墨書きがほとんどありません。そんなところから、ついつい時代劇めいた話になり、長くなるので次回に続きます。もう少しお付き合い願います。 ​ にほんブログ村​

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