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もし私たちが、私たちの実質を見極めるために雑念を捨てるという決心をしさえすれば、神の約束が分かるのです。神の約束が大問題なのです。神の約束によって地球が造られ、自転、公転しているからです。
これを釈尊は明けの明星として見たのです。明星として神の約束が輝いているのを釈尊は見たのです。約束の片鱗をちらつと見たのです。それを具体的に提案したのがイエスです。そこで、般若心経と聖書を、どうしても一つのものとして扱わなければならないのです。 神の約束の片鱗を捉えた釈尊と、神の約束の実体を自分の人生観において具体的に説明したナザレのイエス、宗教家ではないこの二人の人物をしっかりつかまえれば、私たちの本体がよく分かるのです。 人間の本体は肉体ではなくて、死なない命なのです。死なない命を見つけることが、宗教ではない本当の人生勉強なのです。 私たちは同じ時代に、同じ命で生きています。命は宇宙に三しかありません。自分の命とか他人の命はないのです。一つの命で、同じ時代に生きているということは、非常に深い縁のつながりがあるということでありまして、他人が、世界中の人間が死んでいくのを黙って放っておくことはできないのです。できるだけ多くの人に、死なない命のことをお知らせしたいと思うのです。 ところが、この話を聞く人がなかなかいないのです。本当の魂が死なない命だということを申し上げているだけですが、この話を真剣に聞く人がめったにいないのです。宗教団体というバカなもののために、述べているのではないのです。 宗教は人間のためにあるのです。私がお話をしているのは魂のためでありまして、魂と人間とは違うのです。皆様は五官をご自分の実体だとお考え頂きたいのです。五十年生きていた。六十年生きていたというのは、固有名詞の人間の感覚です。皆様の目の働き、耳の働きは、実は皆様のものではありません。神のものなのです。生理機能、心理機能も実は人間のものではないのです。セックスも同様です。 親鸞上人が一番困ったことはセックスの問題です。これには本当に困ったのです。いかなる行も及びがたき者であって、地獄一定であると歎異抄で言っているのです。自分は地獄一定であっていかなる行も及びがたいほどセックスという悪因縁が絡み付いていると言っているのです。これはどうしようもない。他力の本願に頼るしかないと言っていますが、他力の本願に頼ったところで、本当に極楽へ行けるかどうか分からないと言っているのです。 親鸞は正直な人でした。この人でも考え違いをしていたのです。セックスを自分のものだと思っていたのです。これが親鸞の間違いなのです。セックスは天地宇宙の矛盾、業であって、これにはあるべき理由があるのです。このことに気がつけば、自分の性欲から救われることになるのです。 命は人間のものではありません。従って、人間の性欲、食欲も、人間のものではないのです。他人のもの、神のものです。 まず、命は他人のものだという気持ちを持つことです。そうすると自分が何とかならなければならないという気持ちから離れることができるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.12.06 10:34:26
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