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歴史・

2021.08.12
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カテゴリ:歴史・
A級戦犯の処刑報告書を発見 米軍作成、「正確に執行」と記載

8/11(水) 21:05配信
共同通信・YAHOOニュース

 第2次大戦後、極東国際軍事裁判で死刑判決を受けた東条英機元首相らA級戦犯7人の処刑について「正確に執行した」と記載した米軍の公文書が、11日までに見つかった。刑執行の手順書はこれまでに発見されていたが、執行完了の報告書は確認されていなかった。専門家によると、今回の発見でA級戦犯の処刑を巡る主な公文書が出そろったことになる。

 見つかったのは、執行を指示したマッカーサー元帥に宛てた文書。「囚人の処刑」と題され、占領期に横浜市に司令部を置き、巣鴨プリズンを管理した米第8軍が作成した。日本大生産工学部の高澤弘明専任講師(法学)が米国立公文書館で入手した。






最終更新日  2021.08.12 01:20:08


2019.06.07
カテゴリ:歴史・
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<コラム>三国志時代の銅貨幣から邪馬台国を検証する

工藤 和直配信日時:2019年6月6日(木) 23時20分レコードチャイナ

2018年10月、橿原考古学研究所は「黒塚古墳の研究」で天理市の黒塚古墳(3世紀後半)から平成9年~10年にかけて出土した33面の「三角縁神獣鏡」が蛍光X線分析から中国で製作された可能性が高いという結論を出したが、中国のどこでいつ作られたのかの結果はあれから半年を経たが出ていない。 

魏志倭人伝の記載に景初2年(西暦238年)12月に倭王「卑弥呼」は洛陽に朝貢し、時の魏二代皇帝(曹叡)は卑弥呼を倭王と為し親魏倭王の金印紫綬を授け、銅鏡100枚を下賜したと記録がある。その銅鏡が黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡であるというのが畿内説派のストーリーだ。 

筆者は中国駐在時に先秦貨幣(秦代以前の貨幣)を含め中国古銭(主に円銭)を収集してきた(写真1・2)。秦始皇帝によって統一貨幣となった「半両」、漢代経済安定政策の基準になった「五銖」など多くの古銭を集めることができた。しかし、後漢以降「魏・呉・蜀」の三国時代になると、呉や蜀の貨幣(銅銭)は稀に見られるが、魏時代(曹操以降)の貨幣がなかなか見つからないのが実情であった。 

山田勝芳「貨幣の中国古代史」によると、後漢末「董卓」による悪銭(董卓小銭)流通により市場経済は混迷した(西暦191年)。その後の洛陽を都とした魏国(曹操)は、董卓小銭を廃止して漢代からの五銖銭を標準貨幣にしようと鋳造を試みるが、銅原料が洛陽周辺から手に入らず、また燃料炭(木炭)も長い戦災によって極度に不足、銅銭による貨幣経済安定が得られない状況であった(写真3は曹魏五銖)。その反面、呉は揚子江周辺(華中)、蜀では成都の西南部で銅鉱石が掘られ「直百五銖:写真1左」・「太平百銭」・「世平百銖:写真1右」や「大泉五百:写真2左下」・「大泉当千」・「大泉二千:写真2右上」などの銅貨幣が鋳造された。これらの筆者が集めた大型銅銭を見るにつけ、銅銭鋳造すらおぼつかない「魏」では、銅鏡をつくることは不可能であったろうと推定する。 

強大な兵力を有する「魏」は西暦263年に「蜀」を滅ぼし、西暦265年には魏の実権を握っていた司馬炎による晋王朝(西暦265年~316年)が樹立、西暦280年にはついに「呉」を滅ぼし、ここに三国時代は終了する。ようやく安定した銅鉱石を入手して安定した銅鋳造が可能になったのは、西暦263年以降280年代に入ってからである。そうなると、景初2年(西暦238年)に卑弥呼に下賜した100枚に銅鏡は、魏の時代というより漢時代に作られた漢王朝の「漢鏡」を提供したと考えるのが普通であろう。 

黒塚古墳出土33枚銅鏡が中国のどこで生産されたか未だに公開されてないのは、おそらくは華中(揚子江周辺)製の銅・錫・鉛鉱石を使ったからであろうか、畿内説の論客にとっては益々不利になる結果となるからであろうか。2世紀~3世紀初の「漢鏡」が畿内から出ない限り、「漢鏡」や「西晋鏡」など多くが出土する北九州に取って代わることはない。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。






最終更新日  2019.06.07 17:29:29
2018.08.21
カテゴリ:歴史・
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<コラム>突然消えた長江文明、日本人はどこから来た民族なのか?​

工藤 和直配信日時:2018年8月20日(月) 22時20分・レコードチャイナ

我々は世界4大文明として、メソポタミア・インダス・エジプト・黄河文明と教科書で習ったが、それに先立つ「長江文明」が中国中央部にあったと再考せざるを得なくなった。1973年・1978年の発掘調査で、浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)は紀元前6000年~紀元前5000年頃のものと推定され、大量の稲モミなど稲作の痕跡が発見された。河姆渡遺跡は明らかに黄河文明とは系統の異なるものであり、それまでの「中国文明は黄河文明から始まった」という当時の定説を大きく覆す事になった(図1)。 

長江文明は稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明とは違うが、どちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。すなわち稲のDNAから見て、日本に来たのは長江の稲である。ところが、湖北省荊州長江中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000~2500年頃)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3500~2200年頃、周囲7キロメートルに渡り城壁があり夏王朝以前にあった都市国家ともいわれる)の時代を最盛期として突然消滅した理由は、夏王朝により征服されたと考えられる(洪水説もある)。 

江蘇省蘇州市東北に広がる陽澄湖の南岸の唯亭鎮東北2キロメートルに、草鞋(そうあい)山遺跡がある(写真1)。日中両国の考古学者が、5年の歳月をかけて発掘・調査した結果、蘇州の草鞋山遺跡一帯で暮らしていた先住民は6千年前に水稲栽培を始めていたと認定した。これは福岡県の板付古代水田遺跡より3500年も早い時期で、これまでに発見された世界で最も古い古代稲田である。これは1994年宮崎大学で行われたシンポジウムで、日中両国の専門家の一致した結論である。この結論は、アジアにおける稲作起源の中心地は紀元前4000年頃に、長江沿いにあったとされた。 

苗族は長江中流湖北省の武漢から荊州にかけて長江文明(屈家嶺文化)を発展させた少数民族であるが、夏王朝の南進によって故郷を追われ現在の雲南に逃げた一族と、淅江省から海伝いに日本に逃げた一族に分かれたと言われる。苗族の正月風習の多くは、日本人の風習と重なる点が多いし、日本人DNAにも苗族のDNAと共通する点もある(図2)。 

人類(ホモサピエンス)は14万年前の東アフリカタンザニアを起源とする。黒人の中から突然変異によって生まれた白色に近い人類は迫害を受ける中、サハラ砂漠を抜け、ナイル河を下り、7万年ほど前のイラン高原でヨーロッパ系とアジア系に分かれる。華人も日本人も7万年前を起源とする人類である。そして約5万年前にイラン高原からタリム盆地を抜け、中原に来た華人は黄河流域と長江流域に分かれ、それぞれ独特の文明を築く。日本民族は約4万年前にモンゴル高原から朝鮮半島もしくは樺太を越えて移住した民族によって、旧石器・縄文文化が栄えるが、紀元前8世紀には、長江を追われた稲作や鉄器などの近代文明を擁する弥生民族が南方から九州に移住、現存の縄文人との混血により現代日本民族が出来上がったと考えられる。 

この弥生民族こそが夏王朝によって追い出された長江民族(苗族など長江流域の部族)であったと予想される。最近の研究で日本の弥生時代は500年ほど早い紀元前8世紀と言う新説がある。また、中央アジアのキルギス族の間では、遠い昔キルギスの兄弟の一方が遠く日本に渡り日本人になったという話が伝わっている。確かに、キルギス族は何となく日本人に風貌が似ている。 

古事記は、その名が示すように古事(民族の起源)を記録した書である。天皇の系譜を表した帝記と神話や伝承を記した旧辞から構成される。この旧辞の中に天孫降臨の巻があるが、伝説とは言え高千穂の峰(鹿児島県および宮崎県)に降臨されたニニギノミコト他の神々はしばらく鹿児島の薩摩半島南端(現在の野間岬)に居られたという伝説から見て、この神々こそが新文明をもたらした弥生人(長江文明人)であった可能性が極めて高い。 

日本語は、文法面から見るとモンゴル語・朝鮮語・トルコ語と同じアルタイ語族になるが、発音から見るとタミル語や江南地方の呉語(蘇州語も含む)に近いとも言われる。蘇州語の単語の中に“イネ”と発音する言葉があるが、日本語の“稲”と同音同意語である。その他、蘇州語に日本語と同じ同音同意語が多く見られるが、単なる偶然と思われない。 

■筆者プロフィール:工藤和直 
1953年、宮崎市生まれ。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。






最終更新日  2018.08.21 02:08:54
2017.07.29
カテゴリ:歴史・
靖国神社元No.3が「A級戦犯合祀手続きは間違いだった」と告白

2017.07.29 16:00NEWSポストセブン

靖国神社の内部から声を上げる人物が現われた
【靖国神社の内部から声を上げる人物が現われた】

 終戦記念日を前に、また靖国神社をめぐって国内外が騒がしくなる季節がやってきた。しかし、例年とは様相が違う。これまで沈黙を貫いてきた靖国神社の内部から声を上げる人物が現われたのだ。2006年から今年6月まで靖国神社に勤め、宮司、権宮司に次ぐ禰宜(ねぎ)という幹部職にあった宮澤佳廣氏がこのほど『靖国神社が消える日』を上梓した。宮澤氏は執筆の動機をこう語る。

「私は靖国神社に11年間、その前は神社本庁に21年間おり、内外で靖国問題に関わってきました。そこで、国のために戦って亡くなった人たちを祭神として祀る靖国神社の特別な公共性を考えた場合、今のように民間の宗教法人のままであれば、靖国神社は内部から崩壊してしまうのではないかという危機感を抱いたのです。

 事実、靖国神社が宗教法人であれば、トップである宮司と少数の責任役員の判断で九段の土地を切り売りすることだってできてしまう。それを防ぐためには、靖国神社が宗教法人格を返上して、もう一度国が責任を持ってお祀りする国家護持のあり方を模索すべきだというのが私の考えです」(以下「 」は宮澤氏の発言)

 宮澤氏がその問題を痛感したのが、東条英機・元首相ら「A級戦犯」が合祀された経緯である。

「昭和53年のA級戦犯合祀は、当時の松平永芳宮司の判断に基づき、宗教法人である靖国神社の社内手続きに従って行なわれました。対外的な発表もなく、報道によって明るみに出たのは翌年のことです。あの時点で国民的合意を得るような努力をしていたら、中国や韓国、あるいは国内の左翼といった反靖国勢力につけ込まれることもなく、靖国問題はまったく違う経過を辿っていたはずです。私はA級戦犯を祀ることには賛成ですが、手続き論としては間違っていたと思っています」

宮澤氏が靖国神社に奉仕した直後の2006年7月、日経新聞がスクープした「富田メモ」によって、問題は大きくクローズアップされた。富田朝彦・元宮内庁長官が残したとされる、

「昭和天皇は靖国神社へのA級戦犯合祀に不快感を示していた」という内容のメモだ。宮澤氏はすぐ「これは本物だ」と確信したという。

「富田メモは発見の当初、『偽文書ではないか』という声が神社界の内部からも上がっていました。しかし私は昭和天皇が昭和61年に詠まれた『この年のこの日にもまた靖国の みやしろのことに うれひはふかし』という御製(和歌)にずっと注目していて、戦犯合祀と無関係と解釈するのは難しいと感じていたのです。ついにそれを裏付ける文書が出てきたのかと思いました。

 しかしすでに、A級戦犯は合祀されているのだから、これは変えられない。だとすれば今からでもその合祀について、国民的合意を形成するような動きを靖国神社としてとらねばならない。そうしないとこの富田メモは、反靖国勢力に利用されてしまうだろう。そんな風に思い、私の意見をまとめて提出したのですが、日の目を見ることはありませんでした」

◆自衛隊員を祀れるのか

 宮澤氏は今後、同じようなことが起きることを危惧している。実は今、亀井静香・衆議院議員らを中心に、戊辰戦争の白虎隊や西南戦争の西郷隆盛ら“賊軍”を靖国神社に合祀すべきであるという運動が起きている。

「徳川康久・現宮司は徳川将軍家の末裔で、『向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった』と共同通信のインタビューで述べており、その運動に共感を持っているように見受けられます。しかし、『時が流れたから恩讐を超えて合祀しよう』となれば、いつか『大東亜戦争で戦った相手方も祀ろう』という宮司だって出てくるかもしれない。A級戦犯合祀についていまだ国民的合意が得られていない事実からしても、やはり靖国神社は宗教法人のままではいけないのです。

 憲法改正では自衛隊を軍として認めるかどうかの議論が行なわれています。では、万が一自衛隊員が有事で殉職した場合、その自衛隊員は靖国神社に祀られるのか。私は自衛隊員も国家に殉じたと国に認定された以上、祭神として祀られるべきだと考えます。しかし、それは本来、個々人の信教の自由に基づいて祀るとか、祀らないといった次元の話ではないはずです。やはり今このタイミングで、靖国神社の国家護持という課題に向き合うべきなのです」

 宮澤氏の本は、これまでベールに包まれてきた靖国神社の実態や内部での意見対立などを赤裸々に述べており、神社界では早くも“暴露本ではないか”との声が挙がっている。宮澤氏はこう否定する。

「私がこの本で訴えたいのは、『靖国の公共性』をどう維持していくかです。そもそも宗教法人の私事性と靖国の公共性は相容れないわけですから、当然、その矛盾が神社の内部にも何らかの形で現われてくることになります。これまでは外部の反靖国勢力によって『靖国の公共性』は攻撃にさらされてきましたが、むしろ今は、靖国神社の内部からそれが崩壊していく危険性が高まっているように感じるのです。

 国民の間から戦争の記憶が薄れ、戦没者遺族もどんどん少なくなっているなか、政府も国民も、靖国問題から意識が離れていっているように見えるのも不安です。今こそ、もう一度靖国神社について国家全体で考えるべき時ではないでしょうか」

※週刊ポスト2017年8月11日号






最終更新日  2017.07.29 19:42:05
2014.01.07
カテゴリ:歴史・
外交儀礼で「ミャンマー」使用=ビルマ呼称と使い分け-米政府

【ワシントン時事】「『ビルマ』と呼ぶのが米政府の政策だが、特定の状況では外交上の儀礼として『ミャンマー』と呼ぶ」。米国務省のハーフ副報道官は6日の記者会見で、ミャンマーの呼称を状況に応じて使い分ける方針を明らかにした。

 ミャンマーでは1989年、軍事政権により「ビルマ」から「ミャンマー」に国名が変更されたが、米政府は軍政を認めない立場から「ビルマ」の呼称を使い続けてきた。

 しかし、民主化の進展を受けて2012年に同国を初訪問したオバマ大統領は、記者団の前で「ビルマ」の呼称を使わず、13年に同国のテイン・セイン大統領が訪米した際には「ミャンマー」と明言した。ケリー国務長官は今月3日、「ミャンマーの独立記念日」を祝う声明を発表した。

 ハーフ副報道官は会見で、こうした呼称の混乱について問われ、「誕生日(独立記念日)を祝うような場合は外交上の儀礼(が必要)だ。その場合は『ミャンマー』を使う」と説明した。依然として「ビルマ」の呼称に軸足を置く米政府だが、微妙な姿勢の変化は民主化を進めるミャンマーとの「和解のしるし」(AFP通信)とも言えそうだ。(2014/01/07-14:39)



※「ミャンマー」と「ビルマ」とどう違うのかと言えば、全く違いは無いのだ。詭弁ではない。発音してみればわかるが、「ミ」は「ビ」と転訛、つまり単なる「訛り」にすぎない。現地人が「ミャンマー」と言ったのを英人が発音しやすいように「ビルマ」と発音、表記しただけである。ちなみになぜ「ミャンマ」なのかと言えば、・・・これ以上は次回(笑)。






最終更新日  2014.01.07 16:29:57
2013.05.23
カテゴリ:歴史・
英、日本大使館の盗聴記録作成 太平洋戦争開戦前、米国向けに

2013年5月23日 08時22分・東京新聞

 【ロンドン共同】太平洋戦争開戦前の1941年2月に、日本の動向に危機感を抱いたチャーチル英首相(当時)が、在英日本大使館員同士の電話盗聴記録をまとめ、ルーズベルト米大統領(同)に送るよう外務省に指示していたことが分かった。

英公文書館が23日公開した当時の機密文書で明らかになった。

 具体的な手法は不明だが、英政府は当時、恒常的に日本大使館の電話を盗聴しており、その内容から、日本が英国に戦争を仕掛ける可能性に危機感を強めた。

 チャーチルはこうした日本の動きを米側に伝えるため、盗聴記録の要約作成を求め「会話の生々しさをなくさないように」と指示していた。







最終更新日  2013.05.23 14:01:27
2013.05.13
カテゴリ:歴史・
「日本人奴隷」3人、メキシコに…安土桃山時代

 安土桃山時代末の1597年、日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかった。

 ポルトガル人で同国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさん(大航海時代史)と、東大史料編纂へんさん所の岡美穂子助教(日欧交渉史)がメキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認した。

「日本人奴隷」の実態を示す貴重な資料であり、日本人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料としても注目される。研究成果は近く海外で出版される予定。

 審問記録には、日本名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された、「日本生まれ」の人物の名があった。「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性とみられる。

 ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。

その後の詳細は不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をしていたとみられる。当時のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった。

 ベントゥーラは来歴不明だが、ミゲルは94年、ポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスに売った。

 ペレスはマニラ在住時の96年、隠れユダヤ教徒として当局に逮捕され、有罪判決を受けた。次の異端審問のため一家は97年12月、マニラから太平洋航路でスペイン領メキシコ・アカプルコに移送された。その審問記録に、ペレスの「奴隷」として3人の名があった。

 ガスパールは審問で、食事内容をはじめとするペレス家の信仰の様子などを証言。その後の99年、ベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え、1604年に解放された。

(2013年5月13日14時44分 読売新聞)






最終更新日  2013.05.13 22:14:18
2013.04.29
カテゴリ:歴史・
神話の世界・出雲王朝VS大和王権~考古学界も火花散らす

2013/04/29 15:57更新・産経新聞・IZA

【萌える日本史講座】

 朝鮮半島などから土地を引き寄せて島根半島が出来上がったという「国引き神話」、オオクニヌシノミコトによる「国造り」に続く天照大御神(あまてらすおおみかみ)への「国譲り」…。日本誕生にまつわる数々の神話に彩られた神の国・出雲。

実は考古学界では数十年前まで「神話だけの世界で実証性に乏しい」と軽視され続けた。

昭和59年の荒神谷(こうじんだに)遺跡(島根県出雲市)での大量の銅剣や銅鐸(どうたく)発見で「出雲王朝論」が唱えられても、関西の学者たちは「大和勢力(畿内)が『僻地(へきち)』の出雲に埋めた」と主張。

「出雲VS大和」は、古代だけでなく考古学界でもし烈な火花を散らした。5月10日は出雲大社の大遷宮。出雲神話が再び熱い。(小畑三秋)

 ■論争ヒートアップ

 「荒神谷の発見は、出雲に巨大勢力の存在を示す画期的な成果だ。大和や九州と一線を画した出雲王国が存在した」

 「出雲に大量の青銅器を造る力はなかった。出土した銅剣や銅鐸などは、大和の勢力が、支配圏の最も縁辺部に埋めることで外敵の侵入を防ぐ祭祀(さいし)の役割があった」

 荒神谷遺跡から、国内の総出土数を上回る銅剣358本、さらに銅鐸6個と銅矛16本がセットで見つかって以来、各地で「青銅器の謎」をめぐる学会やシンポジウムが開かれ、そのたびに「出雲王国派」と「大和派」が議論を戦わせた。

 出雲王国を唱えるのは、島根などの考古学研究者、文献学者が多く、大和派はもっぱら関西の考古学者だった。「大和や北部九州の勢力が、それぞれの境界にあたる出雲の地に銅剣や銅鐸、銅矛を埋めた」との第3の説も出されたが、あくまで大和や北部九州が中心だった。

 ■地下からよみがえった出雲王国

 「島根県内には100メートルを超える古墳がみられない。弥生時代をみても、『銅鐸は近畿、銅剣・銅矛は北部九州』という二大文化圏から出雲は外れ、あくまで縁辺の地とされた」

 数十年前までの考古学界の風潮についてこう話すのは、島根県文化財課の松本岩雄文化財専門官。「神話の世界では主要舞台でありながら、考古学的には全国レベルで議論されることはなかった。仮に議論を提議しても『実体がない』といわれるだけだった」と、振り返る。

 今では出雲王国のシンボルとされる「四隅突出墳」という弥生時代後期の特異な墳墓についても、関西の研究者からは「変な形をした田舎の墓だ」といわれるほどだった。

 こうした出雲への偏見を覆したのが、荒神谷遺跡の発見。さらに平成8年には、同遺跡からわずか3・5キロほどしか離れていない加茂岩倉遺跡(雲南市)で、銅鐸39個がまとまって出土し、1カ所の遺跡としては全国最多の出土数となった。

「国内最多」がこれほど重なる出雲をもはや、考古学者も「辺境の地」と言えなくなった。

 加茂岩倉遺跡の銅鐸と、荒神谷遺跡遺跡出土の銅剣には奇妙な共通点があることも分かった。それぞれの表面に「×」印が小さく刻印されていた。何を意味するかは不明だが、松本氏は「共通の意識をもった集団が同じような時期に埋めたことは間違いない」と話す。

 ■最大のミステリー

 「考古学最大の謎」(松本氏)といわれる銅鐸や銅剣の大量埋納。松本氏がここで着目するのが、かつて「田舎の墳墓」と関西の研究者らに揶揄(やゆ)された「四隅突出墳」だ。

方形の墳墓の四隅から舌状の張り出しが伸び、ヒトデのようにも見える奇妙な墓で、今から1800~1900年前の弥生時代後期に隆盛した。

 荒神谷や加茂岩倉遺跡の青銅器が埋められたのは弥生時代後期初めごろで、四隅突出墳の出現とほぼ重なる。松本氏は「四隅突出墳に埋葬される強大な統治者が出現したため、これまでの銅剣や銅鐸をあがめる祭祀が終焉(しゅうえん)し、一括して埋められたのでは」と推測する。

 新しい王の出現とは、大和など外部勢力による出雲征服を意味するのだろうか。

 これについて松本氏は、荒神谷、加茂岩倉両遺跡の青銅器が極めて丁寧に並べて埋められている点を重視。「外部の征服に際して緊急避難的に埋めたのなら、これほど丁寧に埋める余裕もない。

征服されたとすれば、見せしめのため敵対勢力によって粉々に破壊されたことも考えられるが、そうではない」と話す。あくまで新たな統治者の誕生は、出雲内部でのことだとする。

 四隅突出墳が集中する出雲市の西谷墳墓群では、弥生時代後期の40~50メートルクラスの大型墳が見つかり、岡山・吉備地域の土器が大量に供えられていた。大和や北部九州に対抗した「出雲・吉備連合」勢力の存在をも浮かび上がらせた。

 しかし、これほど独自性を誇示した出雲も、古墳時代になると四隅突出墳が忽然(こつぜん)と姿を消し、一気に大和勢力の傘下に組み込まれていく。古墳も100メートル以上の大規模のものがないことは、中小の勢力に分断されたことを意味する。

 ■大和に不利な神話は消せ!

 現在の考古学論争だけでなく、1300年前に編纂(へんさん)された古事記や日本書紀をひも解くと、「大和中心主義」はさらに露骨だった。

 「国(くに)来(こ)、国来」。出雲の神が、かけ声とともに各地から領土を綱で引っ張ってきたという国引き神話。「出雲の国は最初に小さく造りすぎた。

もう少し縫い足そう」と朝鮮半島の新羅から余った土地を綱でたぐり寄せ、隠岐や能登半島などからも土地を引っ張ってきて東西に縫い合わせたのが島根半島と伝える。

 出雲の領土拡張を物語る国引き神話は、奈良時代に編纂された出雲国風土記の冒頭に記されながら、不思議なことに同時代に成立した古事記や日本書紀にはいっさい登場しない。

 その理由として、出雲の神が真っ先に新羅の領地に目をつけたエピソードは、朝鮮半島支配が出雲主導だったことにつながると、大和側が警戒したためともいわれる。

 一方、記紀にしっかり記されているのが、国造りと国譲り神話。オオクニヌシが国土開拓につとめ、ようやく稲穂の実る豊かな国土になった途端に、高天原の神・アマテラスが「自らが統治すべき土地だ」と国の譲渡をオオクニヌシに要求した。

オオクニヌシの息子が抵抗したが無残に敗れ、国は高天原に譲られた。

 高天原に例えられる大和王権が、出雲勢力を駆逐したという大和中心主義を記紀が強調したことを如実に示す。

 とはいえ、古事記・上巻の中で3分の1を占める出雲神話が、歴史的に重要であることは揺るがない。

 ■出雲神話を発掘が証明

 神話のエピソードが決してフィクションでないことを証明したのが発掘調査だった。

 国譲り伝説の中で、オオクニヌシは天にそびえるほど高層の神殿を建てることを条件にしたと古事記は記す。この高層神殿こそ現在の出雲大社とされ、平成12年に本殿南側で前代未聞の巨大建物の柱が出土した。

 現在の本殿は高さ24メートルだが、平安時代の文献史料から、かつては高さ48メートルもあったとされる。しかし、現代の15階建てビルにも相当する高層建築を平安時代に建てられるはずはないと、建築学者からも疑問視され、出雲神話はフィクションといわれ続けた。

 しかしこのときの発掘で、太さ1メートル以上もある柱3本がしっかり束ねられた状態で見つかった。これほど太くて強固な柱は高層神殿にしかあり得ず、実際に建てられていたことが証明された。

 日本海岸に面した出雲は、中国や朝鮮半島から最新技術や文化が直接渡ってきたとされる。その結果、大和や九州とは一線を画す強大な勢力が誕生。発想豊かな神話に結びついたようだ。

 国譲り神話に登場する出雲大社の巨大神殿について松本氏は、「天に届くような神殿を建てたという神話があったからこそ、当時の人たちは高さを追求した」と指摘。「歴史が神話をつくったというより、神話が歴史をつくったともいえる」






最終更新日  2013.04.30 18:16:12
2012.08.08
カテゴリ:歴史・
金海(キメ)で伽耶王陵級古墳 発見

2012年08月08日10:44・ハンギョレ・サランバン

原文入力:2012/08/07 23:58(655字)

大成洞(テソンドン)で4世紀の木棺墓2基など確認

4世紀 金官伽耶時代と推定される大型王陵級古墳が慶南(キョンナム)、金海、大成洞古墳群で発見された。

 金海、大成洞古墳博物館は去る6月から行ってきた大成洞古墳群に対する7次学術発掘調査で、4世紀前半に作られた王陵級の大型木棺墓2基と5世紀後半頃の石槨墓5基を確認したと7日明らかにした。

発掘された古墳の中で注目されるのは88号と91号と名付けられた木棺墓で4世紀に中国東北地方鮮卑族系統の銅椀(銅製の器)と銅鈴(青銅鈴),殉葬人骨などが確認され、墓の性格を巡って学界の関心が集まっている。

シン・ギョンチョル釜山大教授は「墓の規模や殉葬跡などから見て、王陵級であることが明らかで、中国・日本系統遺物が一緒に出てきていることから古代東アジア古墳遺物編年に重要な根拠資料になるものと見られる」と話した。

博物館側は8日午後3時に現場説明会を開く計画だ。

ノ・ヒョンソク記者 nuge@hani.co.kr

原文: http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/546174.html 訳J.S






最終更新日  2012.08.10 00:54:48
2012.04.21
カテゴリ:歴史・
韓国の古墳が語る、「任那日本府説」は虚構

2012年04月21日09時48分 中央日報

全羅南道順天雲坪里(チョンラナムド・スンチョン・ウンピョンリ)の古墳群で、日本の「任那日本府説」に反論できる大伽耶系遺物が大量に出土した。写真は発掘された大伽耶系土器。

日本は雲坪里の古墳群がある沙陀(順天の昔の地名)を任那四県の一つと主張したが、今回の発掘で虚構であることが明らかになった。

韓国考古学界は、任那四県は大伽耶の支配を受けた4つの地域(地図上の大使・帯沙、現在の順天・光陽・麗水)に限られたとみている。[写真=順天大博物館]

全羅南道順天雲坪里(チョンラナムド・スンチョン・ウンピョンリ)の古墳群で、日本の「任那日本府説」の虚構を立証する遺物が大量に出土した。一部の日本の学者が主張してきた「任那四県」地域で、大伽耶系の遺物だけが出土し、日本系の遺物は全く出てこなかったからだ。

順天大学博物館(館長カン・ソンホ)は順天市西面(ソミョン)の雲坪里古墳群に対する第3次発掘調査で、伽耶系の古塚古墳2基から、大伽耶系の遺物200余点を発掘したと20日、明らかにした。

発掘された純金製耳飾、馬具類、大刀、土器類、玉などはほとんど6世紀ごろの大伽耶系の遺物と確認された。湖南(ホナム)東部をはじめとする伽耶地域を日本が支配したという任那日本府説が、後代に操作されたことを立証する決定的な証拠だ。

雲坪里古墳群は日本が主張してきた「任那四県」の一つの沙陀(順天の昔の地名)に属している。全羅南道東部地域では唯一、古塚が残っている伽耶系の古墳群で、06年と08年に続いて3度目の発掘作業が行われた。

今回発掘された古塚は、百済が全羅南道東部圏を掌握する直前の西暦500年ごろの順天地域の支配層の墓と確認された。

慶北(キョンブク)大のパク・チョンス教授は「今回の発掘は、任那日本府が栄山江(ヨンサンガン)流域まであったという一部の日本学者の主張を正面から覆す結果」とし「この日本学者らの主張通りなら、日本上流層と頻繁な交流をした沙陀の支配層の墓から日本の遺物が全く発見されないというのは、彼らの主張が虚構であることを示す決定的な証拠」と述べた。

その間、韓国国内の古代史学界は、「任那四県」を大伽耶の領域である全羅南道の順天・光陽(クァンヤン)・麗水(ヨス)と見なしてきた。したがって順天大の今回の発掘は、国内史学界の見解を考古学的に証明する成果を残したという評価を受けている。

イ・ドンヒ順天大学芸研究室長は「雲坪里の発掘を通じて、日本が主張してきた任那四県が大伽耶の連盟体の4つの地域であったことが明らかになった」とし「およそ4年間にわたる発掘で、任那四県の位置と内容が操作されたことを証明する成果を出した」と述べた。

順天市はこの日、諮問会議を開き、雲坪里遺跡について国家文化財への指定を申請することを決めた。

◇任那日本府説=4世紀半ばから6世紀半ば、日本の大和政権が韓半島南部地域に進出し、百済・新羅・伽耶を支配したという主張。『日本書紀』の6世紀始めの記録に出てきた「任那四県を百済に割譲した」という内容に基づいた日本の代表的な歴史歪曲の一つ。



任那日本府説覆す? 古墳群で遺物出土=韓国

2012/04/19 21:22 KST

【ソウル聯合ニュース】韓国南西部の全羅南道・順天の雲坪里古墳群で任那日本府説を覆す可能性のある遺物が出土した。

 順天大学校博物館は19日、発掘調査中の伽耶の古墳から6世紀初めごろのものと推定される大伽耶系の純金製耳飾りや馬具類、大刀、土器類など約200点が出土したと明らかにした。

 博物館側は「雲坪里古墳群は紀元500年前後の同地域の支配層の墓」として、新たに出土した遺物は当時、任那4県のうちの一つだった同地域が大伽耶と連盟関係にあったことを示す重要な資料と話した。

 任那4県のうちの一つから日本系の遺物ではなく伽耶系の遺物が大量に出土したことは、同地域に盟主国としての大伽耶の影響が及んでいたことを裏付けると説明した。






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