2006/02/13(月)23:49
落陽のパレルモ/ASIAN WINDS!(マチネ・前楽)
東宝公演最終日ということで、客席も舞台も気合が入りまくりでした。
前楽公演 2階センター若干上手寄り。
たらたらしているうちに楽が近くなり、これは二度目の観劇はなしかと思っていたんですが、チケットを譲っていただけることになったので観劇。感謝。
二度目なので、やはり印象的だったことをつらつらと。
やはりこの演目は好き。ラスト以外。
「あなたが不幸になるのを見るくらいなら死んだ方がまし」
何もかも捨てて愛を貫けたらと歌うアンリエッタ(ふづき美世)への母親・カヴァーレ公爵夫人(高ひづる)のセリフ。
家名を背負い、家の存続と繁栄こそが幸せとしているから、そうでなくなることが不幸なのか。
どんなに愛していても別れなくてはいけないから、それでも忘れられないまま生きていくこと不幸なのか。
前者の「不幸」を指しているようにしか聞こえないのがきつい。アンリエッタを思っているようで、そうではないところが。
自分がそう教えられて育ち、それが絶対、娘の幸せを思うからこそ出てくる言葉なんだろうけど。
幸せについての価値観があまりにつらい。
このセリフによってアンリエッタは更に縛られることになる。
家を継ぐことを前提に教育されていることもあるし、愛する母親の言葉にそむくことはできない。
あげく死なれた日には、言われた次期は違えども、それは遺言になる。
母親からの言霊の呪いというのはいつの世にもあるんだな。
このあたりは家というものについての私の立場や考えがあるので、余計にそう思うんだろう。
今まで見た舞台上の彼女の中で、アンリエッタが一番好きです。
ふーちゃんがとても綺麗でした。化粧がどうこうっていうんじゃなく。これが退団オーラ?
晩餐会で偶然出会ったヴィットリオ(春野寿美礼)と互いに一目惚れしあい、教会で彼への思いを自覚する。
観劇後、民族のアイデンティティにかけて絶対にありえないセリフ、という話になる。
言われてみるとその通りなんだよね。
「その血の一滴までも愛してる。君が君であることを愛している」ということを言いたいのだろうけど、だったらいっそそのままストレートに言ってしまった方がいいんじゃないかと。
下手な言い回しをすることによってリアリティが薄くなる。
「宝塚だから(夢の世界だから)」、というのは免罪符にもなりえる言葉だけど、夢を見せる上でリアリティというのは大切だと思う。
史実を絡ませているのであれば尚更。
それこそベルサイユのばらで、アントワネットと絡むことによってオスカルにリアリティがうまれるように。
ニコラ(蘭寿とむ)ら革命家の面々も熱い。
その分、教会での無駄死にっぷりが泣けてくる。
特筆すべきは幼年時代のヴィットリオ(野々すみ花)と母・フェリーチタ(華城李帆)。
大人が演じる分、どうしてもわざとらしさが出る幼年時代だけれどよかったです。
恋人に貰ったロザリオをヴィットリオに渡し、崖から飛び降りるフェリーチタ。
それに気づいて母を呼ぶヴィットリオ。自身で死を選ぶ母は、そのときだけ現実を生きたんだろうな。
初見のときも泣けましたが、そのとき以上。熱演でした。
その後に続くヴィットリオが銀橋で歌う「ロザリオの祈り」が血を吐く勢いで熱かった。
それらがあるからやはり余計にラストに納得がいかない。
いや、だからこそ納得がいくという考え方もあるかもしれないんだけど、私は納得いかない。
ヴィットリオがただ母の祈りだけを思って生きていたとは思えない。
確かに少年時代は母とまだ見ぬ父を思っていただろうけれど、成長するにつれ理解していく自分の出生と周囲の環境。
平民と支配階級の間にある歴然とした差別を実感し、貴族と同じ土俵に立つには軍隊しかないと自ら道を選んでいる。
生育環境にも起因する「すべての人間が平等である世の中」という思想を持つ存在だと認識していたんだが……
「母の祈りは通じた=お父様は必ず迎えにきてくださる」という思いの昇華と、その後の「貴族として迎え入れられ、貴族社会で生きる」が成立する人格だとは思えない。
アンリエッタは家名と愛の間で苦悩し、家名を選んだ。
ヴィットリオは平民である自分と貴族(=アンリエッタとの愛の成就)を比べ、後者をとった。
「父が貴族であった=貴族であるはずの自分=平民ではない自分」を夢見ていたのか。
穿ちすぎと言われてしまえばそうなんだけどね。
だから本当にラストに納得がいかないんだってばさ。
何度も言うんだけれど、ラストに納得がいかないことだけを除けば、やはりとても好きな演目。
観劇に、ショーはもう一回観たいという私にしては珍しく、ショーより芝居の方がリピートしたかった。
ラストが納得できないけど。
1から10まですべてを表すよりも、1から8くらいまでを表現して残り2を観客の想像に任せるというのもあるんじゃないかな。
テーマも話の構成も好き。ヴィットリオとヴィットリオ・F、ヴィットリオと自身の幼年時代、1942年の恋人たちと1860年の恋人たち。
絡ませ方も対比のさせ方なんかも本当に感動した。
お衣裳も大道具も好き。
なんかこう、本当にラストに納得いかないんだな、私。
いい加減とりとめなさすぎ。
***
中国パートの落ちる水滴ライトが好き。
点灯しているランプを落とす→消す→ゆっくり引き上げる という単純といえば単純な仕掛けなんだけど、両花道の映像と相まってとても綺麗。
映像を使うことに抵抗感があったけど、こういう使い方はいいですね。
スカステホームページでマミさんがエッセイでおっしゃっていたのはこういうことなのかな。
このときのオサの大掛かかりな衣裳も好きなんだけど、雲水さまざまな位置で押さえる上から垂らした布、これが好き。
布の表情が変わることによって、本当に雰囲気が変わる。
今日が花組最後のあすかちゃんを筆頭に、カンカン帽を持ったダンスが元気でかわいい。
そしてふと気づく。
そういえばカンカン娘ってなに?
「カンカン(帽子の)娘」なのか、「(フレンチ)カンカン(を踊る)娘」なのか。どちらかのことなのかと調べてみた。
どうもどちらも違うっぽいですね。というか、発表当時もこの件については話題になったらしい。
結論としては、カンカン娘はカンカン娘だということにしておいた方がよさそうです。
ギャランドゥがギャランドゥ以外のなにものでもないのと同じようなもんですかね。
「♪一つグラスに ストローが二本~」のあたりが聴きたかったな。
山寺の和尚さんの気合の入りっぷり、気障っぷりが上がっていて楽しかった。改めて、これでキザれる花組男役に感動。
チャイナタンゴの徒花も、あれは男役の気障りっぷりがなければよいのではないかという話。
迫力美人で通ると思うんだ。
初見では韓国パートがえらい長く感じたんだけど、今回そうでもなかった。
ただ最後が盛り上がるだけに次のフィリピンパートが蛇足に感じられる。
最後がフィリピンパート→中詰め→韓国パート→おさふーデュエット→ロケット→ボレロ→フィナーレ だったほうが流れがスムーズな気がする。私見。