☆誤訳と混同の戦略談義
☆誤訳と混同の戦略談義
わが国の戦略理論研究は、誤訳の定着にふりまわされているところがある。
「ランチェスター戦略」という話を聞いたことはないだろうか。
これは英語で言うと、オペレーションズ・リサーチ(OR)という方法論なのだが、軍事用語で「オペレーションズ」というのは「作戦」という意味しか持たない。
あの湾岸戦争の「砂漠の嵐作戦」はOperation of Dessert Stormという。したがってOperations Researchというのは≪作戦研究≫であり、≪ランチェスター作戦研究≫と呼ばれるものは太平洋戦争で日本の神風特攻隊の自爆攻撃を艦隊単位で一斉ターンして回避したり、戦艦大和や武蔵のように巨大な艦船を確実に撃沈させるために片側に魚雷攻撃を集中するなど数学と確率で最も効果的な作戦行動パターンを明らかにしたものだ。
閣下の祖父の親戚の一人は、特攻隊員として志願し、アメリカの巡洋艦を撃沈した。その理由も実はランチェスターにある。
アメリカ軍は日本軍パイロットがほとんど「右利き」であり、特攻で突っ込む直前に死の恐怖と緊張のために、思わず右方向に操縦桿を引いてしまうことを発見した。
その対策として、ランチェスターたちは、「特攻隊が突っ込んできたら、直ちに艦船を右にターンさせるべきだ」と結論した。
そのおかげで、多くの艦船が沈没を逃れ、大破・小破で特攻隊攻撃を乗り切ったのである。
しかし、閣下の血縁の特攻隊員は「左利き」であった。
したがって「戦略」という誤った訳語を「オペレーションズ・作戦」という術語にあてはめることで不幸なことに「作戦レベルと戦略レベルを混同する」という致命的な弊害に陥ってしまっている。
このORの誤訳、「戦略と作戦の取り違え」の延長線上に、たとえば「ライバルを具体的に想定しないで、組織内部のシステム上の改善を戦略だという」、誠にトンチンカンな議論が一般にまかり通ることになる。
それどころか先日、私が出会ったある経営学者は、「経営戦略は全社員で議論すべきだ」という固い固い信念を持っていて、「軍事戦略の議論と、経営戦略の議論を一緒にしては困る。経営組織は軍隊の組織とは全く別物だ」と感情的に断固拒否された。
これが日本の経営学の一般的常識であるとすれば、こうした机上の空論に対して、私の姿勢は反対にプラグマティックにならざるを得ない。
経営の方針や目標というものは公開の場で議論してもいいし、その方が社員といわず、組織にとっても活性化するかも知れない。しかし、それはあくまで現場に関わりが深い「作戦レベル」の話である。
すなわち、実際には作戦内容のレベルしか議論をしていないのに、この経営学者のように勢いをつけ「われわれは戦略を議論しているのだ」と勝手に決めつけてしまうと、どうなるであろうか。
社員の全員が全く予想もしえない苦境や突発的な事件に遭遇した時、「社員全員の意見を少なくとも幹部の報告を聞いてから」と経営者が逃げ回っていたら、その会社は緊急事態に対応できないで大損害を受けて、社会的な信用も確実に失墜してしまうであろう。
そのような戦略なき経営判断の遅れが、多数の生死を左右する場合もありうるのである。
皆さんは、そのように失敗した企業経営者の最近の実例を五本の指に余るほど挙げることができよう。
それでも単に作戦レベルの話を、「戦略」と言い続けて、満足していいのであろうか。
議論や表現は自由だが、非常に有害な迷信の一種と断罪せねばならない。
つまり、緊急事態や危機管理が必要な事態において、危機を増幅させる組織的な「戦略不在」とは、戦略ではない作戦レベルの議論を「戦略」だと勝手に思い違いをしていることが原因であり、この迷信を打破することが、戦略理論第三章の前提である。
それは「戦略は常に極秘事項であり、決して公の場で議論するような内容であってはならない」ということだ。公開されるべきものは作戦・オペレーションズや戦術・タクティックスのレベルである。
したがって、「戦略を公開討論する」などという人々は、およそ全く本当の戦略理論を理解しない人々の集まりであると断言してよいであろう。
今日、最も体系的に戦略理論が公開されているのはキッシンジャー戦略理論だけである。
ヘンリー・キッシンジャーは両親とともにナチスドイツの迫害を受けてアメリカに移住したユダヤ移民一世である。
このことはクリントン政権の国務長官オルブライト女史の前歴と同じであるが、彼は苦学して弁護士になり、共和党の政治家で財閥の総帥ロックフェラーに抜擢され、彼の政治的後継者としてニクソン政権に参加した。
最初は国家安全保障会議顧問であったが、次第にニクソンの信頼を得て、最終的には国務長官としてベトナム戦争から米軍が撤退するまでの全権を委任されるまでになった。
したがって彼が歴史上成し遂げたのは、戦略理論の中で最も困難とされている《撤退》というテーマである。
キッシンジャー戦略の全貌を紹介するにはベトナム戦争全体の経緯も説明しなければならないので、それは後章にゆずることにするが、この他にも当時、アメリカで「戦略論」といわれたのは、ケネディ・ジョンソン政権下で国防長官だったマクナマラの戦略理論がある。
この手法は非常に数学的で美学的でさえある方法論なので、現在でも似たような手法を応用する研究者が少なくない。
ところが、このマクナマラ理論は自動車会社のフォードで実験され、全米の販売会社でアンケートをくばり、その集計結果をごちゃまぜにしてフランケンシュタインのような新車モデルを二年後に発売するというムチャクチャなことをやった。
これは当然、大失敗した。
南ベトナムでも彼はゴジンジェム政権に特別注文し、「戦略村」というゲリラ対策の防衛拠点をつくらせて、あちこちに地雷をしかけるように奨励した。
これがいつものマクナマラのやり方なのだ。
今日、インドシナ半島の諸国で、多くの人々が打ち続いた内戦の後遺症に悩まされ、残留した地雷の撤去作業に苦しんでいるが、これはもちろん、マクナマラ戦略の犯罪である。
ところがマクマナマラという人は非常に強運の持ち主である。
彼がフォードの副社長をしていた時も、彼の経営計画の失敗が常識でも明白であったにもかかわらず、彼は全く批判を受けることがなく、かのケネディの抜擢人事によって、合衆国政府の国防長官に栄転した。
これで彼の天才ぶりを疑うことは恥とされたのだ。
国防長官になると、彼は腐敗したゴジンジェム政権を軍事クーデターで引きずり倒し、アメリカに忠実な中級将校グェンバンチューに権力を与えて傀儡(カイライ)政権とした。
これも大失敗だった。
ケネディの暗殺後も、マクナマラは地位に居すわって、ベトナム戦争に関わったが、彼の得意とする「拠点戦略」は地図の上の陣取りゲームのようなもので、南北ベトナム戦争にアメリカが介入する根拠となった「ドミノ理論」も非現実的であった。
やがて大量の武器が北ベトナム側ゲリラによって、「戦略村」からどんどん持ち出され、事実上ゲリラの物資供給源になっていることが判明した。
1968年のテト攻勢では、この「戦略村」のほとんどがゲリラによって内部から占拠され、その結果、村落が戦場になり、アメリカ軍の部隊が村民すべてを虐殺する事件も多発した。
その後に、事態の切迫から、やっとマクナマラは辞職したが、その実態を知った後任のクラーク・クリフォードは、戦争拡大どころかジョンソン大統領再選にも反対することになった。
ところが戦争を継続していたジョンソン大統領はマクナマラの大失敗を公表することを回避したので、またもや彼は世界銀行総裁という立場に栄転し、今度は低開発地域諸国の農業開発と食料資源問題をめぐって、またまた彼独自の戦略理論を展開した。
それは低開発諸国に自然破壊による輸出作物の栽培を奨励し、穀物や生活用品などは生産性の高いアメリカなど、先進諸国の輸出産品や援助物資を流し込み、アメリカ型の経済近代化を全世界で一気に推進しようとするものであった。
すると政権の息がかかった大土地所有者階級と少数の財閥だけに富が集中し、大多数の零細農民の困窮は短期間に激化することになった。
その結果、ラテンアメリカ諸国では都市と農村が全く乖離してしまい、各地でゲリラ運動が起こり、特にブラジルでは猛烈な熱帯雨林地域の極端な生態系破壊が進んで地球環境問題が深刻になった。
そして、その損害の事実が世界に広まるにつれて、世界銀行やIMFの地球生態系崩壊を促進するような開発戦略体系は、現在のような厳しい告発と激しい抗議運動を引き起こすことになった。
それでもマクナマラは世銀総裁の任期を全うして巨額の退職金も持ち去ったのである。
この問題に興味がある人はアメリカのジャーナリスト、デービッド・ハルバースタムの不朽の名著である《ベスト・アンド・ブライテスト》の一読をおすすめしたい。
ちなみに、マクナマラとキッシンジャーは今でも健在である。
キッシンジャー博士はテレビ番組にも出てくるが、昨年、老マクナマラはベトナムを訪問し、戦争前のホーチミン主席がアメリカ独立宣言をベトナム憲法宣言にも引用して、ソ連よりアメリカと国交を望んでいたことを知った。
これで彼の「ドミノ理論」は虚構であったことが判明したが、この理論はニカラグアやチリなど中南米諸国において、どう考えても民主主義的な体制とはいいがたい軍事政権の誕生にも、アメリカが深くタッチする結果をもたらした。
ニカラグアでは腐敗しきったソモサ政権が倒れ、左翼のサンディニスタ政権が登場し、チリでは反対にピノチェト将軍の右翼クーデターが起きた。
するとアメリカ政府はキューバとニカラグアが連携して、中南米諸国で大規模な左翼革命運動を組織するかも知れないと考え、エルサルバドルなどで右翼勢力の野放図な民衆虐殺行為を容認する一方、ニカラグアの反政府右翼勢力コントラに多大な援助資金を投入した。
その資金源となったのが、イランイラク戦争当時に、アメリカが極秘にイランに武器を売却して得られた大量のウラ金で、この事実がアメリカ議会で暴露されて≪イラン・コントラ疑惑≫としてレーガン政権末期をゆさぶることになった。
その後、この対決戦略の失敗を認めたブッシュ(父)政権は、麻薬密輸疑惑もあったパナマの独裁者やコントラの幹部を切り捨て、アンゴラに直接介入しつつ、ニカラグアでは国際的な選挙監視によって民主的な政権を成立させることを条件にして、コントラを解散し、左翼独裁政権の実質的な退陣を要求した。
現在では、この「国際監視による民主選挙実施」というニカラグア方式が、カンボジア・インドネシアでも実現している。
私は声を大にしていいたいのだ。
マクナマラ戦略のような失敗の犯罪をきちんと批判することが戦略研究の良心であり、その手法の欠点を十分に知悉して排除することが人道であると考える。
そして本題にもどるが。
戦略理論体系を具体的に公表したのは、老キッシンジャーだけであり、彼のライバルであったベトナム・中国・ソ連の戦略理論などは現在でもほとんど公表されていない。
彼がパリでベトナムの代表と和平交渉をしていた時、サリバン国務次官補さえ、キッシンジャーは欧州統合に関する根回しでヨーロッパを回っていると信じていた。
周恩来と初めて会見した雲南省昆明空港の極秘会談にはタイの避暑地からスタンレー山脈を飛び越えて駆けつけた。
世界中どこの国へ行っても、その国家の採用している戦略理論体系は外交や軍事の暗号のように、まさにトップ・シークレットなのである。
これは当然のことであろう。柔道やレスリングのような格闘技で「私はこういう技をかけます」と手の内を明らかにして試合をするということがあろうか。
キッシンジャーが戦略理論体系を明らかにしたということは、合衆国政府機関はすでにさらに進歩したと考えられる別のマニュアルで外交戦略を展開して、キッシンジャー戦略は「フリーソフトウェア」になったということだ。
戦略は常に創造するものであり、ゲームやスポーツのように基本的に学ぶものではない。
戦略学という名目で得られるものは、格闘技の教科書のように、具体的に記述できるのは、ほんの一部に過ぎないのである。
《孫子兵法》も、「戦略戦術の実際と応用は、知ったからといって実行はできない」と断言している。
