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曹操閣下の食卓

☆戦略と戦術

☆戦略と戦術


 前回の講義において、私は「マクナマラ戦略」の歴史的な失敗について概説したが、科学的方法論としてのマクナマラ理論の中には再評価すべき点もないわけではない。

 例えば彼が得意とした「拠点戦略」であるが、1966年のテト(旧正月)攻勢の寸前にマクナマラとウィラード統合参謀本部議長は相談し、ラオス国境を通るホーチミン・ルートを攻撃する拠点としてベトナム奥地の高原ケ・サンに戦闘機と爆撃機が給油できる中継飛行場を建設した。
 ここから定期的に偵察機を飛ばしてホーチミン・ルートの実態を把握したかったのが理由の一つだが、もちろんラオス国境を越えて直接爆撃をする可能性も持たせていた。
 命令を受けたベトナム駐在軍司令官のウェストモーランド将軍は地図を見て、なるほどと思い、「ケ・サンを基地にすれば、テト前夜にもホーチミン・ルートの出口を叩いてしまうことができるだろう」と考え、さっそく海兵隊一個師団を投入した。

 このケ・サン作戦は、この高原の飛行場が敵側に察知されない秘密基地であることが前提であったが、高原の上の大工事と米軍一個師団の移動は北ベトナムの情報網によって即座に察知された。
 ボーグエンザップ将軍はテト攻勢の指揮を発動する直前であったが、事態を重視してケ・サンに重火砲部隊と戦車部隊を含む三個師団を急行させて完全包囲してから総攻撃を開始した。
 ところがケ・サン基地ではスコールのためにセメント工事が終わっておらず、海兵隊の大部分は土嚢とテントで生活し、ガソリンや弾薬類はドラム缶のままで山積みされた状態であった。
 そこに周囲のジャングルから、ありとあらゆる種類の砲弾がブチ込まれ、テントには狙撃弾や迫撃砲弾が乱射された。海兵隊は多数の死傷者を出して土嚢の下の泥水にうずくまるしか生きる道はなかった。

 ウェストモーランドは
 「ケ・サンが敵に包囲された」という報告を受けると、
 「ここが決戦場になる」と事態を誤解して、さらに物資と援軍を投入しようとした。
 やりかけたとたんにテト攻勢が始まり、南ベトナムの各都市で市街戦によるゲリラ攻撃がいっせいに開始された。

 ケ・サンに到着した輸送機は、たちまち集中砲火を浴びて次々に爆発炎上した。ウェストモーランドが近辺に派遣した駐留軍は、ゲリラが占拠したユエ・ダナンなどの奪回に追いまわされて次に打つ手が全くなかった。
 この報告を聞いたジョンソン大統領は激怒して、マクナマラとウィラード統合参謀本部議長を呼び、ホワイトハウスの執務室にケ・サンの模型を持ち込んで、海兵隊救援の方法を聴取したが、もともと道路のないジャングルの高原地帯に建設した基地であったので直ちに陸路から援軍を送る手段はなかった。
 そこでジョンソンは
 「敵はジャングルにいる。ジャングルを全て爆撃するのだ」と命令し、ケ・サン基地の周辺を最高命令で「絨緞爆撃」することになった。
 この爆撃がはじまってからベトナム軍は即座に退却し、ケ・サン包囲戦は終結したが、基地の周辺は月面や砂漠のような状態(いわゆる「ハンバーガー・ヒル」)になり、飛行場も丸裸になったので、
 「ケ・サンに秘密基地を置いて、ホーチミン・ルートを監視する」という当初目的は結局は実行不可能になった。
 というより、もともと「おかどちがい」の戦略ゴッコの化けの皮が剥がれたのである。
 またケ・サン以外に同じような主要拠点を建設することも事実上不可能になったので、米軍情報当局はホーチミン・ルートに関する基本的な情報にも事欠くような状況に追い込まれた。

 明らかにマクナマラの「拠点戦略」の失敗が、ウェストモーランドの「戦術錯誤」を生んだのであるが、これはシカゴの金融会社が西部地域の金融市場を狙うために、サンディエゴに拠点を置く場合とは全く意味合いが異なっている。
 それでも失敗は多いのだ。
 サンフランシスコのウェルズ・ファーゴ銀行は西部開拓時代の名門銀行だが、ニューヨークやシカゴでビッグ・ビジネスに進出したりしない。

 ケ・サンとサンディエゴの違いは明らかであろう。
 マクナマラの失敗は簡単なことで、ケ・サンがホーチミン・ルートからは高地で断絶されて離れているからヘリコプターで物資を運搬すれば秘密基地に使えるだろうと現地にも行かずに錯覚したことである。
 シカゴにいればサンディエゴの地方新聞の朝刊も昼には手に入るし、街路の完全な地図もあるし、ビジネス・パートナーからの助言もある。
 必要ならば銀行で資金を送ることもできるし、その気になれば、自家用車でも鉄道でも、飛行機でも自分で移動することは可能だ。

 しかしケ・サンは戦いが始まってみると、弾薬庫どころか塹壕一つも防御施設のないテント村にすぎなかった。
 逆に北ベトナム軍からすると、ケ・サン付近には偶然にも対仏戦争で使った昔の輸送路が走っており、正確な地図と標識もあったので、三個師団を完全包囲に張りつけて砲弾や物資を供給することは水道の蛇口をひねるように容易なことだったのである。
 マクナマラが選んだ「拠点」ケ・サンは、まさにハサミの真中に指を突っ込んだも同然の危険地域だったのだ。

 当時のアメリカ軍にとってベトナムの辺境地域や奥地が「拠点戦略」を展開するのに十分有効な条件を豊富に備えていたかを問うのは無意味である。
 ケ・サン包囲戦では飛行場が使えなくなったので物資の補給も不可能になり、そのために他の飛行場で、出番を待機する輸送機がどんどん累積していった。
 その結果、アメリカ軍はテト攻勢に対する初動態勢で兵力の緊急展開が大きくつまずき、南ベトナムの各地の蜂起を鎮圧することは不可能だった。

 こうした失敗の教訓を精査すれば、戦略オプションの選択には、TPO(Time・Place・Occasion=時・場所・事情)の認識が不可欠であることは当然理解されるものだと思われる。
 この判断を誤ったマクナマラは多くの兵士の生命を自分のお粗末な戦略ゲームの犠牲にしても何の感情も持たないのであろうが、逆に「拠点」を包囲によって孤立させて、テト攻勢の都市蜂起の準備段階で、アメリカ軍の戦術系統を混乱に陥れた北ベトナム軍は戦略的に圧倒的優位に立った。

 いわばアメリカ側が倒錯と失策によって「定石」のタブーを破って自壊してしまったのに対して、北ベトナム軍はこの「定石」を敢えて踏み込んで超越することにより、「ケ・サン包囲」という有力な戦略オプションを切り札とすることができたのである。
 アメリカ軍は、ベトナムに行く前に戦略的に敗北していたと結論しなければならない。

 「テト攻勢」の時、ウェストモーランドの幕僚は完全にパニック状態だった。
 その中に青年将校のシュワルツコフとコーリン・パウエルがいた。マクナマラの失敗については、よく教訓を噛み締めたであろう。

 この二人のコンビが組み立てた戦略は、すべて「ヒット・エンド・ラン」である。戦争の終結が早い。損害も少ない。費用も、思ったほどかからない。
 しかし、あんまりにもあっさりと勝利してしまうと、「相手が弱すぎたんだ」という逆の非難にさらされる。
 これがイラク戦争にブッシュ政権が踏み込んだ危険な誘惑の伏線だったのだ。

 イラク侵攻計画を立案したのは、日系人の陸軍参謀総長エリック・シンセキ大将をネオ・コンの政治力で更迭させて、作戦指導の実権を掌握した「ベトナム戦争を経験しない若手参謀たち」だった。
 右翼宗教家から「イスラムは殺人カルトだ」という狂信主義まで広く政治勢力を結集したネオ・コンのリーダーたちは、ゲーム参謀将校たちのパソコン・ファンタジーに魅了され、喜んで手を握った。
 それはケネディ暗殺調査にも関わったCIAの創設者で民主党の大物アレン・ダレスと、経営数学の天才・マクナマラの関係にもよく似ている。
 彼ら「ゲーム世代のペンタゴン乗っ取りクーデター」がまず前提としてあって、
イラク占領が「困難だ」とするシンセキ・プランは却下された。

 アメリカ陸軍総参謀長の綿密な戦略計画が、こんなふざけた政治権力ゲームによって握りつぶされたのである。
 「われわれは特殊部隊をバクダッドに降下させ、24時間以内にサダム・フセインを捕虜にすることもできるのだ」
 こんな突飛な発言をしていた国防長官もいたっけな。
 スパイ映画の観過ぎだね。

 戦略理論第四章は、「戦略レベルと戦術レベル、および作戦レベルはそれぞれに限界がある」ということである。
戦略レベルと作戦レベルを混同する迷信の惨害は、すでにオペレーションズ・リサーチの誤訳で指摘したが、その間に≪戦術≫という概念を確立しなければならない。
 戦術・タクティクスTacticsのタクトTactはオーケストラの指揮者の≪指揮棒≫と同じ意味で、タクティクスの原義を意訳すると、≪指揮命令手段≫ということになろうか。
 戦略目的を達成するために何をどうするか。
 これを決定するのが戦術レベルである。

 具体的に解説しよう。
 ある企業経営者が、
 「不況の中でも発展する道を探してみよう」という大方針を決めたとする。
 これだけでも選択枝はいくつもある。
 「不況にあわせて、会社内部を引き締め、利益率を上げよう」というオプションもあるし、
 「不況面ばかりを追わず、購買欲が旺盛な一部の消費者層だけにターゲットをしぼり込んでみよう」というオプションもある。
 複数のオプションを組織全体の何割かの比率に振り分けて同時に行なう場合もある。

 このオプションが一単位の戦略であり、キッシンジャーの術語では≪戦略オプション≫という。
 逆にいえば、≪戦略≫とは、このようなエキスパートズ・ナレッジによる膨大な数の≪戦略オプション≫の集合体として構想される系列であり、戦略オプション自体の選択項目は
 「不況脱出後には何から手をつけるか」とか
 「不況が長引く場合は何を優先させるか」といった状況判断の変化によって、その内容が刻々と変容していくものである。

この≪戦略≫を、組織経営の普遍的な原則として確立したのは、初代ユネスコ事務総長のカール・マンハイムである。
彼は軍人でも政治家でもなく、キッシンジャーと同じようにナチスの迫害を逃れるために亡命したオーストリアの社会学者であった。
したがって軍隊の軍事戦略であれ、キッシンジャーの外交戦略であれ、今日の企業経営や国家経済の戦略においても、≪戦略≫の体系的な方法論は根本的に同一で、古今東西を問わず、あらゆる組織は最も合理的な戦略体系を適用すべきである。
 企業だから、国家だからと、それぞれに≪戦略≫の方法論を独立させると、これは近視眼的な学者たちの独自の解説には都合がよく、また便利ではあっても、結果的には架空の理屈に閉じこもって空転したり、普遍的に共通するパラドックス、絶対矛盾や畏るべきタブー(禁忌)などを軽視することで、客観的に自滅崩壊の経路を突進してしまうことになりかねないのである。
 さらに、断固として退けなければならないのは、合理的な戦略を不合理な過誤や現実の想定ミスに陥らせるような、さまざまの「迷信」である。

 晴れの日はいいが、雨になると商売にならないという場合に、いつも晴れが続くと想定するのは楽観的な希望的観測ではなく、非現実かつ有害な「迷信」であると厳しく排除すべきである。
 私が冒頭で、「戦略レベルと戦術レベル、および作戦レベルはそれぞれに限界がある」と前言したのは「戦略レベルの失敗を、戦術レベルで補うことはできない。
 さらに戦術レベルの失敗を、作戦レベルでリカバリーすることはできない」という否定的な意味を含んでいる。
 その戦慄すべき結末は、すでに前段の「マクナマラの失敗」で検証したところであろう。

 さて、「不況でも発展しよう」という一つの戦略オプションは立てた。
 その時に何をどうするか。

 新商品を開発して、ヒットさせること。
 これはマーケティング技法によって売れ筋をつかみ、ヒット商品を育てるという具体的な方法論になるが、これが戦術レベルの議論である。

 あるいは、従来の商品価格を引き下げるとしたら、仕入れの原価を引き下げるとか、生産コスト・流通コストを圧縮することを考えなければならない。
 大量発注の見返りにリベートを受け、それで期間限定の低価格攻勢に撃って出ればライバルを悩ませることもできよう。これも戦術の方法論である。
 これまでは安売り店を主な相手に商売をしていたが、これからは一流店と取引ができる名門ブランドを取り入れ、他の関連商品の値崩れを防ぎ、利益を確保しようという戦術もあるだろう。

 そこで作戦である。
 例えば有名人を顧客に引き込む。
 小さな料理店でも、グルメで知られた有名人の色紙がかざってあると、一般の人々は「ここは上等な店だ」と思うであろう。
 その有名人が食べた料理が通常勤務しているアルバイトとは別のシェフによって作られていたとしても。
 非常に人気のある芸能人をCMに起用するのは、もちろん同じ理由からであるが、無名の新人タレントをCMに使っても回数を増やすとか、人気番組で視聴率が高い時に連続させるとか効果的に露出を高める作戦は存在する。

 「定まった戦術を実現可能ならしめて、具体的な行動計画Action Planアクション・プランに組み立てる」
 これが作戦レベルである。
 作戦には臨機応変の処置が必要である。
 そして最も現場に近い歴戦の勇士の瞬時の直観と深い目利きが求められる。
また、作戦レベルが失敗しても、戦術レベルで正しい選択がなされていれば、犠牲や損害は最小限度に食い止められる。
 失敗した作戦を早急に打ち切って、局面から撤退させ、別の作戦に新手の人員を投入すれば、ライバルの側面や背後に回わることも可能なのだ。

 ところが、どんなに作戦レベルで苦闘しても、犠牲や損害が無限に拡大していくのは、戦術や戦略に重大な失敗と欠陥がある場合であり、直ちに戦略オプションを変更しなければならない。
 キッシンジャー外交戦略の場合、北ベトナム政府の背後でマクナマラのドミノ理論では「敵対勢力」と分類されていた中国の毛沢東主席とニクソン大統領を握手させ、核兵器制限条約という課題を打ち上げてソ連のブレジネフも交渉の場に引き出した。
 つまり、「連携した敵の一部を分断して味方にする」とか、あるいは「敵の勢力を離間分断して逆に連携の手をのばし、対立する敵の勢力を弱める」という、「何が敵か」という戦略全般の転換が必要になったのである。
 これはドミノ倒しの逆転回であり、米ソ対立の代理戦争から始まったベトナム戦争終盤で、アメリカがみずから中国とソ連と握手を交わしたことは、結果的に北ベトナムを孤立させ、戦争終結を早めて和平交渉を促進する展開につながったのである。
 このことは「当面の敵を最小にし、当面の味方を最大にする」というレーニンのボリシェビキ理論と共通しており、この点でも戦略理論が古今東西を問わない唯一の合理的体系であることを例示している。
 つまり、戦略理論は純粋にテクニックであり、だからこそ戦略専門家は、生・死・毀・誉の大義と倫理の支柱を必ず要求されるのである。

 戦略オプションが正しく、最終目的の達成に最も効果的であれば戦術は限定されてくる。
 戦術の全面的な転換は容易なことではないが、この場合にも犠牲は最小限度にとどめることができる。
 あるいは最終的な成功によって多数の犠牲をもやむをえないこととして、後で差し引きして考えることになる。
 このように戦術の失敗は戦略変更によってリカバリーされることがある。

しかし、キッシンジャーの外交戦略の展開において、最も障害となったのは南ベトナムのグエンバンチュー政権であった。
彼らは腐敗した軍事政権で、アメリカの経済援助を民衆に効率よく分配せずに、手際よく親族などで独占し、民衆を敵に回してゲリラ勢力に勢いをつける役割しか果たしていなかった。
フィリピンの独裁者も、インドネシアの独裁者も、その親族は腐敗しており、パリやニューヨークで国民の膏血を散財浪費していたことはよく知られている。
しかし、キッシンジャーはグエンバンチューの軍閥を再度の軍事クーデターで権力の座から引きずりおろすことはできなかった。
彼はそうしたいと何度も思ったであろうが、北ベトナムが最大のライバルで前面に迫っている以上、アメリカが南ベトナムで体制内部の分裂や混乱の原因を、自分から創り出すことは危険が大き過ぎた。
それをわかっているグエンバンチューと側近たちも開き直って、キッシンジャーの足を引っ張るマネさえもした。

 もともとグエンバンチューの政権は、マクナマラのドミノ理論で反共主義の砦として擁立されたので、アメリカに調子を合わせて反共主義さえ唱えていれば、民主主義を否定して人権を抑圧する全体主義国家でも許されるとアメリカ政府関係者も信じていた。
 しかし、ベトナム戦争が拡大してアメリカ軍側の被害も大きくなると、マスコミが南ベトナムの実情をテレビを通じて暴露しはじめ、その非民主主義的な軍事独裁の実態が明らかになるにつれ、アメリカ市民からベトナム戦争そのものに対する強い疑問と激しい抗議が巻き起こった。
 キッシンジャーは、こうしたアメリカ国内の世論にも板バサミになっていた。
 これも最初のマクナマラ戦略の失敗の産物が後々まで尾を引いたのである。

 この実例から判明することは、
 「戦略オプションそれ自体の失敗は、グズグズして時機を過ぎると別な戦略オプションでリカバリーすることはできなくなる」ということである。
 キッシンジャーが戦略オプションとして選択できたのは、グエンバンチュー政権を切り捨て、アメリカ軍を北ベトナムとの戦場から一方的に全面撤退させ、南北ベトナムの間に暫定的な休戦協定だけを置き土産にすることであった。
 撤退の決断が早ければ、それだけ損害も少なくてすむが、前進すれば失敗することが明らかになっても撤退の決断がつかない時、戦略オプションの選択肢は少なくなり、全体の瓦解を待つことになる。

 馬王堆前漢墓『帛書・黄帝四経』にいわく、「決断すべき時に決断しなければ、かえって後々の混乱の災いが身に及ぶことになる(當断不断、反受其乱)」



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