☆クラウゼヴィッツ批判
☆クラウゼウィッツ批判
「戦略とは何か」を考える上で、必読の書となるのは故・司馬遼太郎氏の大作≪坂の上の雲≫である。
しかし、すべてを通読するのは大変だし、司馬遼太郎さんが戦略理論専門の大家であったわけでもないので、このドキュメンタリーの内容そのものにとらわれてしまうのは非常に危険である。
何といっても、これは前世紀初頭の日露戦争の話であり、現在のRMA(Revolution in Martial Affairs軍事上の革命)などとは全く関係がない。
しかしながら、「戦略とは何か」を十分に理解していた児玉源太郎大将、
それとは逆に精神的こだわりで正面からの銃剣突撃のみに執念をもちつづけた第三軍司令官乃木希典大将、
失敗の責任を他部門に押しつけ、自分たちはストーブの回わりで酒をあおっていた乃木軍の高級参謀たち、
こうした冷静、錯誤と無能ぶりの三段階のギャップは、国であれ地方であれ民間であれ、どのような組織でも診られる現象で、私は特に東映の≪203高地≫という名画ビデオを推奨したい。
そこで伊藤博文が児玉源太郎を呼んで、
「今度のイクサは勝てるんか」と日露戦争全体の見通しを聞く場面がある。
すると児玉は
「今度の戦争は勝てません。うまくいって五分五分か六分四分。持てる力を最大限に発揮して、敵地に乗り込んで決戦し、引き分けに持ち込む。そうすれば世界の列強は、わが国の実力を認め、外交による国際圧力でロシアの領土拡大に掣肘を加えることができます。それだけが、資源と財源に乏しいわが国に許された唯一の戦い方です」と軍事と外交を一体化した戦略を説明する。
「しかし勝算のない、勝つ見込みのない戦争に踏み込んでどうなる」という伊藤の反問に、
「戦争をやるのは今しかない。このまま現状を放置して三年以上経過すれば、極東ロシア軍の勢力は数十倍に拡大するだろう。その時にロシア軍が全力で九州をめざして朝鮮半島を南下してきたら、わが日本はなすすべもなく敗退するしかない。今ならば五分五分でロシアと対等に戦える。戦争の決断が遅れたら遅れるほど余計な将兵の血が流れることになりますぞ」と激しく一喝する。
この一言が伊藤博文を動かす。伊藤は、ロシアと日本の最終的な講和交渉の仲介役としてアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に注目し、ハーバート大学で同窓の仲だった金子堅太郎に説得工作を依頼する。
「今度の戦争には勝てない。だからこそ勝ったという形で引き分けなくてはならない。その時に誰かが止めてくれなくては、日本は破滅してしまう。それはアメリカしかない」というのが伊藤の意見であった。
このあたりはフィクションもあろうが、この伊藤と児玉の軍事・外交連携が日露戦争の戦略と指導方針を決定したのは歴史的な事実である。
実際には、これにあと二つ、ヨーロッパでフィンランドやポーランドやロシア帝国内部の民族独立運動やレーニンなど社会主義の反体制運動家とも提携する明石元二郎大佐(後の台湾総督・明石男爵)の諜報活動と、進水したばかりの軍艦までも抵当に入れて、ロンドンやニューヨークで日本の戦時債券を売りまくった財務官・高橋是清の活躍があったことも頭に入れておかねばならない。
しかし、このように軍事だけではない政治・外交・財政・情報の一体化した戦略全体をバラバラに破壊しかねない大きなトラブルが発生する。
それが乃木将軍の第三軍による旅順要塞攻略の失敗の連続であった。
当時の陸軍の主要問題は児玉が予測したように、ロシア軍が占拠した満州地域で大決戦を行なうことで、その準備は進みつつあった。
しかし物資の輸送を担当する海軍は旅順湾とウラジオストックのロシア極東艦隊の閉塞と足留めには成功したが、これらをすべて撃破することができず、特に旅順港に停泊する艦隊を陸軍が背後の陸地から砲撃して撃滅することを要求した。
いわば旅順攻撃は「付け加えの戦術」であったのである。
それが大問題になったのは、第一次総攻撃で十万人の戦死者を出し、続く第二次総攻撃で十五万人の戦死を出して、退くに退けなくなったからである。
その失敗の理由ははっきりとしていた。
当時の日本軍はヘルメットも盾も持たない状態で、密集陣形のまま石ころだらけの山坂を駆け上がって銃剣突撃をくりかえす。
それに対し、ロシア軍は防御陣地に最新鋭の機関銃と手榴弾をたっぷりと装備し、移動式の大砲も設置して、軍服しか着ていない日本軍の来襲を迎え撃つのであった。
特に悲劇を重ねたのは、現場の指揮官の多くが緊急召集されたので、機関銃や手榴弾で部下がバタバタと残酷に殺戮されるのを見ても、その兵器の実態がわからず、部下たちの「敢闘精神」のみを報告して責任を全うしたと放心状態に陥るありさまであった。
その機関銃の対策として、最前線の兵士たちに護身用の小さな鉄板が配布されたのは第三次総攻撃以後であった。
乃木将軍の参謀たちは現場視察は儀式的なものと考えており、現場の情報をくみ上げることもせず、「対策の欠如や遅れ」を批判する将校は、むしろ軍規違反として処罰していた。
児玉将軍の幕下の参謀は「必要な物資がなければないで仕方がないから、何か知恵を出せ」と徹底的に教育されていたが、乃木将軍の下では
「必要な物資をよこさなければ一歩も進めない。進めというなら、あなたに責任を取ってもらうぞ」とケンカ腰で横暴をふるう伊地知参謀長がいて、あくまでも精神主義にこだわりつづける乃木将軍の銃剣突撃作戦を鉄壁のガードで守っていた。
最後に乃木将軍は
「私に二個大隊をくれ。それを率いて最後の突撃をし、私も名誉の戦死で散りたいのだ」と言い始めた。
そこでついに児玉大将が大山巌元帥の命令で参謀総長の立場のまま第三軍に乗り込み、伊地知参謀長を一喝して後方にあった砲撃陣地を24時間以内に前面に移動させ、≪203高地》の防衛陣地に集中砲火を浴びせた。
攻撃開始から数時間で旅順港を囲む多くの高地で、最も防御陣地が手薄い≪203高地》は陥落した。
児玉はさっそく、その頂上に当時最新技術であった電話線をつなぎ、弾道観測所を設置して、旅順港に停泊するロシア艦隊を山越えに砲撃、次々に撃沈した。
これは現在のRMAの軍事技術革新とも共通する情報通信技術の軍事的応用パターンとしても最初の成功例であるが、そのおかげで旅順港閉塞作戦にかかっていた連合艦隊を修復した東郷平八郎提督は満を持してバルチック艦隊を待ち受け、歴史的な大勝利を手にすることができたのである。
この日露戦争における児玉戦略を徹底的に研究したのは、むしろ第二次世界大戦後のアジア諸国であった。
ベトナムのボーグエンザップ将軍は《ベトナムの戦略は軍事だけではなく、政治と外交などさまざまな要素を統一するものだ》と述べている。
明石元二郎大佐とレーニンの親交は、モスクワ発行のレーニン全集における日露戦争の記述にも好意的に反映されたので、東北アジアの社会主義諸国においても、軍事・政治・外交を一体化させた児玉源太郎の大戦略法は、ほとんど名前を使わずに、また由来を語らずにひそかに各国で学習されたのである。
その一方で児玉の戦略理論よりも、乃木将軍の「作られた英雄像」とその「敢闘精神主義」の亡霊にふりまわされた後の日本陸軍には、伊藤と児玉のような発想の持ち主は統帥部にも内閣にも現れず、失敗を失敗と厳密に認めることもなく、多数の将兵の悲惨な犠牲をものともしない「乃木式の小英雄」がのさばる結果になった。
今日の日本のわれわれは、数人の戦略否定論者の「迷信」がまねくであろう戦略の不在の状況が、いかに現実の損害を大きくしてしまうかを、この≪203高地≫の教訓から知るべきである。
また合理的な戦略理論による「迷信」や阻害要因の排除によって、いかに損害を軽減し、プラス効果が上げられるかに注意していただきたい。また、間違った戦略や現実とは食い違うような混乱・矛盾した戦術・作戦には否定以外の関わりを持たないこと。それらを「迷妄」として真正面から攻撃することが必要である。
このように戦略問題に《軍事》という枠組を取り去って、外交・政治・財政をも一体化していく方法を《大戦略》という。
これも後章で詳しく記述するが、国家戦略は常に大戦略であらねばならない。
国家の政策を矛盾のない体系として、持てる力を最大限に活かす方法こそ、《大戦略》に他ならない。
現代日本の私たちは平和国家という国是を持っているのであるから、日露戦争のように海を渡って他国の支配地域に押しかけて軍事力を行使することはない。
しかし、同じ大戦略システムは、国内の組織や制度改革の実施にも必要不可欠なものである。
われわれは、こうした理論と学術を知らなければ、世の中に指導者として立って行くことはできないのである。
日露戦争における児玉源太郎の大戦略論の基本となったものは、明治維新政府でプロシア陸軍から招聘されて、陸軍士官学校の教官となったメッケル少佐の非常にすぐれた戦略理論であった。
そのメッケルの理論の原典となっているのは、プロイセン・フランス(普仏戦争)戦争を成功させたばかりの参謀総長モルトケ監修の軍事教科書である。
普仏戦争は、宰相ビスマルクの威力外交とモルトケの電撃作戦の勝利で、実際に青年時代に訪欧してビスマルクと会見したこともある伊藤博文の頭にあるモデルは、常に普仏戦争におけるプロイセンの政治と軍事の戦略的一体化であった。
これにもう一つ、陸軍の草創期に参加した伊藤博文と児玉源太郎は、明治維新の戦略を支えた長州の大村益次郎という人物を知っていた。日露戦争に勝利すると、彼らは巨費を集めて靖国神社の前に大村益次郎の像を建て、自分たちの守護神として国家鎮護の感謝を捧げた。
大村は孫子兵法の忠実な理解者で、長州征伐の迎撃では、一時退却という大芝居をやって、幕府軍を不利な海岸に誘導し、そこで待ち構えた伏兵を出して、先端の小部隊を徹底的に殲滅した。あとは逃亡するにまかせた。
実はここで長州軍の迎撃能力は払底していたが、大村は幕府軍が再度総攻撃をするほどの統率力もないと見ていた。その賭けは当たった。
それで大村は西郷隆盛・陸軍大将をさしおいて、日本陸軍の創設者となっているのである。
伊藤は自分が実質的に指導した日清戦争では大勝利をおさめたにもかかわらず、自ら李鴻章と談判して結んだ下関条約を、ドイツ・フランス・ロシアの三国干渉によって変更を余儀なくされた。
その時に占領を放棄した遼東半島は、旅順要塞はもちろんロシアの支配下に落ちた。
≪軍事的に勝利しても、外交をしくじると全てを喪失する≫という危機感は、あるいは児玉源太郎より痛切な感情を持っていたかもしれない。
児玉源太郎も国際世論と列強各国の動静が二国間の戦争の行方にも影響するという基本的な外交センスを心得ていた。
それはモルトケと大村という先人の思想があったからである。
これに対して、第二次世界大戦の昭和軍閥は国際連盟脱退後は国際世論など全く無視し、敵軍を無条件降伏させれば講和条約交渉は無意味だと強引に突き進んでいった。
それで外務省と別に大東亜省を設置したり、陸海軍の前線将兵は国際条約違反など知らずに戦争の惨害を拡大していった。
陸軍と海軍も足を引っ張り合い、外務省経由の情報も無視していた。
この昭和軍閥の権力における理論的な支柱になったのが、プロイセンの軍人であったカール・フォン・クラウゼヴィッツの≪戦争論 Von der Krieg≫である。
このクラウゼヴィッツ戦略論は今日でも関心を持つ多くのファンがあるので、現代戦略理論の立場から明確に否定しなければならないと思う。
そもそもクラウゼウィッツの≪戦争論≫初版は、彼の死後になってから未亡人の手によって、ささやかに出版されたものであって、未完成原稿や項目は削除されていたと考えられる。
彼の≪戦争論≫は国民経済の大半を軍事力の展開に利用する「総力戦構想」について述べたものであるが、軍事と外交の関係については全く記述がない。
また軍事と政治との関係についても記述が少ない。
もしも≪戦争論≫の出版までクラウゼウィッツが健在であったら、
「そこのところはどうなんですか」という質問にも答えられたであろうし、おそらくはモルトケと同じように
「国家の大戦略において軍事は外交と一体化する」という原則を自著に書き加えたであろう。
そこに死後・未完成出版という大きな穴がある。
さらに不幸なことは、モルトケ戦略が明治世代の教科書であったとすれば、クラウゼヴィッツが日本で紹介されたのは大正時代以降であったから、「メッケル・ノート」よりも新しい印象で、最も体系的な戦略理論として受け入れられてしまったことである。
また「メッケル・ノート」は門外不出であったのに対し、クラウゼウィッツの≪戦争論≫は著作であったから、民間の批評家も多くを引用して世論を形成するに至った。
したがって、「軍事組織は外交や財政と協力して国家戦略の最も決定的な一部を執行する」という政治的に中立なモルトケの考え方に対して、クラウゼウィッツの≪総力戦≫の思想は、軍事組織が経済や社会をも統制し、最終的な戦争目的の完成に不都合なものは排除していくという「軍事政権」の構想に発展していった。
そこで第一次世界大戦の直前には、ドイツのみならずフランスにも実質的軍事政権が誕生し、大日本帝国もそのような国際的な潮流に流されていった。
今でもビスマルクの時代より、クラウゼヴィッツの理論は新しいと考える人々が多いのは驚きである。
クラウゼヴィッツはナポレオン戦争時代の人物であり、トルストイの≪戦争と平和≫には、ナポレオンのドイツ侵攻でロシアに亡命してきたドイツ貴族の一人としてあまり好意的でなく描かれている。
彼の思想には、鉄道を軍事利用したモルトケや電報で怪情報を操作したビスマルクのような新しい技術をドンドン利用するような発想はない。
ナポレオン軍がロシアで敗退した状況を知っているので、ゲリラ戦の効果の大きさは知っていたが、貴族なので自分からコマンド部隊を率いて敵地に乗り込むような具体性はない。
トルストイがクラウゼヴィッツの本質を見抜いていたからかどうかは知らないが、この亡命貴族はロシアに金銭面、待遇面でもやっかいになりながら、ロシアそのものには侮蔑の感情を隠さなかった。
それというのも、強大なナポレオン軍に撃ち負かされ、生命からがら亡命してきた人々であったので、戦争の危機感もなく、享楽的に毎日を過ごしているブルボン王朝のようなロシア貴族社会のありさまに彼らはどうにもガマンがならなかったのである。
あるいはクラウゼヴィッツの一般的な社会観は、ここで大きくネジ曲がってしまったのかも知れない。
前にも述べたように、軍事組織が政治権力を掌握し、産業や経済にも統制を強要して最終的な国家目的の完成をめざすというのが、クラウゼヴィッツの総力戦構想なのであるから、これは官僚統制国家における「産業統制」のみならず軍事政権下における「軍産複合体」といった、さらにゆがんだ副産物も歴史上に残してしまったということもできる。
言うまでもなく、こうした構想はヒトラーのナチス・ドイツの第三帝国に結びついたばかりでなく、スターリンによる社会主義国家の典型にも影を落としている。
戦後のアメリカも、軍人出身のアイゼンハワー大統領が退任演説で警告したように「軍産複合体」の伏魔殿が存在し、キューバ侵攻やベトナム戦争などに大きな傾斜の圧力を加えた。
日本の≪昭和十五年体制≫といわれる官僚統制機構もまたクラウゼウィッツ構想の亜流として形成されたものである。
スターリンの神話が崩れ、中国に改革開放政策が定着した現在、クラウゼヴィッツが構想したような軍事産業統制国家の枠組みを信奉する人々は少数派になっている。
わが国においても官僚統制の弊害と腐敗が暴露され、構造改革が深刻に叫ばれるようになって久しい。
しかし、改革というものは、道路公団でも、社会保険庁でも、なかなか大変である。
「お前たちの仕事はどうなっているんだ」と総裁や長官が絶叫しても、少しずつしか代わっていないのが現実だ。
しかし、「変わった」のは事実だ。改善は始まっている。
だからこそ、クラウゼヴィッツの不完全かつ未完成な構想の欠陥は徹底的に批判されるべきであるし、その産物と副産物も終局的な総括の俎上に揚げられるべきである。
孫子兵法の根本的な思想の一つに≪最初を見れば、結末も予測できる≫というものがある。
クラウゼヴィッツの戦略構想は権力の媚薬によって破綻をまぬがれたフランケンシュタインだったのである。

