墨子「世の中はサカサマ」
☆墨子曰く「世の中はサカサマだあ」
このように戦略問題を解説していると、まるでやりたい放題のように誤解される恐れがある。
このことはキチンと交通整理しなければならない。
利益と道義、経営戦略と経営倫理は本来両立すべきものである。これを自己の信念としなければ、戦略理論の実用は何の役にも立たない。
社会を改善するわけでもなく、人間を良くするわけでもなく、ただ儲けたい人間に儲けさせ、支配したい人間に支配をさせ、そのあげくに世の中を悪くする「方術」になってしまうであろう。
よく言われる謀計や詐術は、戦略問題では何だか当然のことのように取り扱ってしまいがちだが、私はあえて否定する。
そして、悪は一つの「戦術」でありうるとしても、大きな善が戦略でなければ、その悪ゆえに全体が大義名分を喪失してしまいかねないことを厳しく指摘しておかなければならないと思う。
ここでも、「戦略レベルの失敗は戦術レベルでは取り返しがつかない」という公理が適用される。
戦略レベルに偽悪が介在すると、戦術レベルでどんなにイメージ・アップのPR活動をしても最終的には過去の悪行の記録がどんどん暴露されて行き詰まってしまう。
この点で雪印食品・三菱ふそう・三菱自動車・国土計画などの一連の大企業スキャンダル事件は、経営倫理という観点ではなく、
「消費者の無知と無関心につけこんで、ラベルやデータを書き換えて代替品や不良在庫品や粗悪品を売り込んで利益をあげる」
「消費者サイドを無視して、多数の人間組織を支配し、その権勢の増殖をはかる」という犯罪行為・社会的背信行為そのものを通常業務の範疇としていた組織的な「悪の再生産サイクル」の典型として批判されるべきである。
大義名分をうしなった人々は、存在すら許されない。
つい先年までは、雪印の社員章をつけて街角を歩いたり、あるいは雪印のマークをつけた運搬車が街中を走ることすら、一般大衆の非難の眼と、遠慮会釈のない罵声にとりかこまれているのである。
今では、大手町すら三菱の社章をしているサラリーマンを見かけることは少なくなった。そのかわりに社章ではない丸ビルのバッジをつけている人はたくさんいる。やはり人間だよな。
オフェーリアや屈原のように清純潔白なままで入水自殺することも、決して人生の失敗ではなく、一つの注目すべき生き方を強烈に表現する意味において実績と成功を勝ち得ている。
もちろん、自殺行為や自滅を美化するような「滅びの美学」は戦略問題では言語道断である。
しかし、人間の出処進退や、人生の意味を考えることは人文社会科学の一つとして、決してムダではない。
一方でオフェーリアは自殺するくらいなら、本当に死んだ気持ちになって恋愛に全てを投げ出してみるべきではなかったかとか、屈原は宮廷から逃亡して自殺せずに、政敵と刺し違えても粛清クーデターを起こすべきだったということは一面では考えられる。
しかし、それは「文学的な忖度」というものだ。彼らの死に多くの人々が同情を寄せるのは、彼らが清純であったからである。
したがって謀計や詐術は、まことにやむをえず戦略問題に入ってくるし、ライバル側が自分たちの悪行に自問自答するようなヤワな善人だという保障は何もない。
しかし戦略問題は、成功しても失敗しても、その実態が後になって上下左右から鋭く切り刻まれ、批評の土台に載せられることを覚悟しなければならない。
「成功の理由は何か」とか、「失敗の理由は」と問われたとき、質の悪い謀計や詐術は、決して胸をはって説明できることではないであろう。
わかりやすい大義名分を立て、真善美を戦略とし、正義と正直を戦術とすれば、これが最も上策であることは間違いない。
長期的なビジネスや定住型の組織を経営する場合、謀計や詐術は自分の信用を傷つけることになる。それはまるで自分の経歴や過去、社会的立場をごまかして結婚をするようなものである。
そのような「ウソ」の結婚はたちまち破綻する。
よく芸能人の結婚や離婚が話題となるが、虚栄や虚飾に満ちた結婚生活ほど、すぐ破綻しやすいということであろう。
これが離婚が禁止されて認められなかったり、男性優位で女性の人権が全く認められていない場合は、虚栄と虚飾が全てを支配することになる。
日本のビジネス社会も、「赤信号、みんなで渡ればこわくない」という一面があったことは事実である。しかし、東京周辺でみるかぎり、もうそんな時代は終わったと考えていいだろう。
そのような暴威を振るった社会悪が、だんだん一つ一つ引きずり出されて、ギロチン台にのせられ、公開処刑されつつあることは、好むと好まざるとにかかわらず、社会の進歩と言わなければならない。
われわれは過去の社会悪をスタンダードとすることなく、新しい現実New Realitiesを常に発想の基盤としなければならない。
逆に短期的な商売の儲け話や住所不定のようなビジネスは、信用を傷つけるような行為をしても何も制約がない。だから、このような類の商談は、まともなビジネス社会から相手にされないと考えられてきた。しかし、バブル経済以降、こうした考え方は常識として通用しなくなってきている。
もし、あなたが社会の改善と進歩を希望するならば、最善の道を選ぶべきである。
しかし、もし、あなたが社会が転覆することを望み、無関係な人々をまきこんで不幸に突き落としても自分だけが栄えようとするならば、最終的な破滅の道だけが約束されるのである。
《左氏春秋》に登場する樂喜という人物は、孔子より少し前の時代、今から二千五百年以上も昔の人物である。左氏春秋・襄公九年(紀元前五六四年)に、宋国の国都(現在の河南省宋丘市)で大火災があり、その時の樂喜の功績が記録されている。
「宋で大火災があった。知事(司城)の樂喜は緊急対策の全権を委任された。まず大夫(地方長官)の伯氏に郊外からの支援体制をまかせ、救援体制づくりを発令した。火事が発生した地点では小さい家は引き倒し、大きな建物にはたくさんの水泥(塗)をかけて延焼を防止した。消火作業に役に立つ運搬用具・工事用具・バケツ類は全て倉庫から引き出して並べさせ、まとめて用意させた。そこで情報を集めて火事の状況を判断し、各地区への配分割り当てを決めて搬送させ、要所要所には消火用水、延焼防止用の土嚢や水泥を蓄積させた。それから樂喜はみずから城内を巡回し、防火作業が手薄なところには増員を指示し、火が進む方向がわかるように表示して、住民をうまく避難誘導させた。また将軍の華臣を消防総監代理に任命して城内の消防部隊(正徒)を統率させ、消防総監には、郊外の住民を臨時救援隊に召集して、火事場に送り込む事務にあたらせた」
古代の中国は、昔の日本のように木造草葺の家屋が多かった。
そこで大きな家屋の延焼を防ぐために、水泥(塗)を用いたというのだが、つまり泥を屋根や柱、外壁に塗りつけたのである。
これは火災の熱で蒸発しやすい水よりも、延焼をくい止めるのに効果的であったと考えられる。
また水泥は遠くの火元にもたやすく投げつけることができた。
もちろん、この当時はポンプが発明されていないので、水を飛ばす装置などはなかった。
現代でも消火用ボンベがない時に、水をかけるのではなく、泥土を火元に投げるのは最も安全で確実な消火方法であるとされている。
油類が発火している時に、不用意に水をかけたら爆発的に燃え広がる可能性がある。
「消火用水がない」といって火災を傍観せざるをえなかった神戸市の消防隊も、この故事を知っていたら、やるべきことはたくさんあったに違いない。
消防署は各家庭やビルなどに設置してある消火器や消火用具のリストを日常管理している。
地域の住民が避難すると、これらは実際に使われずに各所で温存されていた。
それらを緊急総動員すれば、水道が止まるような異常事態にあっても、かなりのことがやれたと思う。
冷静に考えれば、《樂喜方式》は現代にも通じるはずである。
戦略学、あるいは経営学の立場で、この故事から学ぶことは多い。
特に「人」の問題。樂喜という指導者には、大火災の時に自分自身が何をなすべきか、何から順番に着手すべきか、誰に何を依頼し、何を命令するか、全ての戦略オプションが頭脳の中にハッキリとイメージングされていた。
これこそが大火災を防止するのに決定的な役割を果たしたのである。
そして驚くべきことに、城内の消防体制づくりと同時に、郊外の住民を動員した救援体制づくりも最初に着手していることである。
したがって、どのような事情があったにせよ、兵庫県知事は携帯電話で自宅からでも内閣あるいは防衛庁に直接、自衛隊の救援要請をおこなうべきであったし、公用車とか局長会議を待つべきではなかった。
一秒一秒ごとに人命が喪失しつつあった非常時において、その通常の行政手続きの「意識の壁」を打破することができなかったのは、まさに指導者本人の問題であったと言わなければならないのだ。
私は、神戸市長と兵庫県知事、そして当時の内閣総理大臣・内閣官房長官・国土庁長官を、すべて「業務上過失・遺棄致死」で刑事告訴したいものである。
古代の樂喜も、政治経営は「人」の問題であると考えていたようだ。
それでおそらくは儀式的な訓練しか知らなかったであろう消防隊長(遂正)を更迭し、隊長代理に歴戦の将軍である華臣を指名して任命したのである。
華臣は火災よりも悲惨な戦場で、まさに「刻一刻に人命が喪失する」という修羅場の経験を何度もくぐり抜けて、宋軍を指揮してきた抜群の人物であった。
当時の宋国は、南方の強国・楚の事実上の属国であり、楚の領土拡大戦争のために自国とは無縁の地域に遠征することが多かった。
したがって遠征地でも、属国の宋軍は楚軍から差別待遇され、不利な扱いも受けたであろう。
華臣はそんな宋軍を敵軍からも、味方の楚軍からも守り抜いてきた将軍であった。
こうした経験を持つ人物に非常時の才能を発揮させることができたのは、樂喜が「人」を知り抜いた指導者だったからである。
兵庫県や神戸市は、「いざとなったら救援してもらうパートナー」として、周辺の自衛隊駐屯地の幹部職員と交流していたであろうか。
自衛隊を「旧大日本帝国の軍国主義の尻尾」などと軽蔑して、会合で制服自衛官と同席をすることさえはばかるようなことを誇らしくカン違いし、《平和宣言都市》などという手前勝手な自己満足の世界に閉じこもっていたのではないだろうか。
そのような、ありもしない迷妄の積み重ねが、つまるところ多数の生命を犠牲にしてしまった根本の原因なのである。
ミカンの皮は指でむけるが、りんごの皮は指ではむけない。
ナイフを使うか、皮ごと歯でかぶりついて食べるしかない。
「雨が降ったら傘をさす。傘がなければ雨やどり」ということは簡単に思いつくではないか。
それが≪天地自然の理≫なのである。
これは松下電器を創業した松下幸之助翁の造語なので、わざわざ言い換える必要もないと思うが、私自身が経験したり、いろいろな立場で見聞した範囲でも、あらゆる失敗の本質は、多くの人々が考えるように「運が悪かった」というわけではなく、このような≪天地自然の理≫に反しているからだと言い切ることができる。
三国志の時代、長江中流の夷陵で、年老いた劉備の蜀軍と、年若い陸遜の呉軍が対陣した時、大軍を率いる劉備は陸遜を侮り、百キロに及ぶ街道筋に四十以上の陣地を構えた。
陸遜はあえて戦おうとせず、猛暑になる時期を待った。
夷陵は山が迫り、長江が流れていたので、猛暑の季節になると兵士たちは陣地の中で渇水に苦しみ、帷幕(テント)の中で蒸しあげられた。
普通の軍師がいれば、そうなる前に軍を分け、いろいろな方向から進ませて前後左右から敵陣を突くのであるが、それができなかったのは、劉備が関羽と張飛を相次いで喪失したばかりで、配下の武将たちを直接統治することに自信がなかったからであろう。
計略によって関羽を討ち取った陸遜にはそれがわかっていた。
やがて劉備は慈愛の心を動かされて、猛暑の被害から逃れるために、各陣地を河川の側や山麓の山蔭、森の近くなど居心地の良い涼しい場所に移動させた。
しかし、「背水の陣」という言葉があるように、これらの場所は、敵軍から奇襲攻撃を受けた場合は、たちどころに窮地に追い込まれ、逃げ場を失ってしまうと≪孫子兵法≫にくりかえし明記された地形である。
それでも劉備は、敵軍が攻めてこないので安閑としていた。陸遜は劉備の人格から、そうなることも予測して奇襲のチャンスを待っていたのだ。
陣地の配置図を受け取った諸葛孔明は「このような軍略を建策した人物は誰か。直ちに斬り捨てよ」と憤激したが、劉備本人のやったことだとわかると、すぐに敗戦処理の措置に没頭したという。
同じく戦地の情報を入手した魏では、曹操の長男の曹丕が「劉備は負けるぞ。さっそく東呉に兵を出せ」と命令した。
これも劉備が深い計略もなく、兵法のタブーを破っていることが明白であったからである。
今から二千五百年ほど前、春秋時代の思想家、墨子は次のように述べている。
「王侯貴族は賢明な人々が多い。だから技術もない自分の息子やお気に入りの人物には特別な修行もせずに料理をつくらせたり、品物をつくらせたりはしないだろう。それは料理の素材や、品物の材料を台無しにしてムダにするのを惜しむからである。ところが同じ人が地位とか権力という話になると、特別な理由もなく、自分の息子やお気に入りの人物に肩入れしようとするのはどうしてだろうか。世の中の地位や権力は、料理や品物よりも価値のないものだと思っているのだろうか。世間のいわゆる学者先生たちも小さいことにこだわって、大きなことはわからないとみえる。世の中のことがうまく運ばない理由は結局ここにある。だから私はこの世の中がサカサマだと言いつづけるのである」と。
