☆序・破・急の哲学
☆序・破・急の哲学
日本の伝統芸能である≪能≫には、その開祖の一人である世阿弥の≪序・破・急≫という哲学思想が伝えられている。
これは舞台の上での歩き方なのであるが、「第一歩」という意味が示すように、能樂芸術の隅から隅までが、この≪序・破・急≫という思想で動かされているといっても過言ではない。
≪序≫はスッと足を半歩前に進めること。
能は舞台芸術であり、台本があり、役者の行動は伝統的な所作によって決められている。
片足を半歩だけ前に出すことも、≪序・Order≫すなわち所作の順番によって、あらかじめ決められている。
しかし、前足をトンと床に落とす≪破・Breaking≫のタイミングは、役者その人の呼吸と、間合いの取り方にかかっている。
芸術を知る人々は、特に音楽においてリズムや間合いの取り方によって、同じ音譜の曲が演奏者や指揮者の個性や考え方で大きく変化することを理解できるであろう。
したがって能役者の独自の解釈や、伝統を超越した自己表現を織り込む無限の可能性が、この間合いの取り方、≪破≫には内在している。
それで≪序についで序を破れ≫というのである。
≪破ること≫そのものが伝統の一つとして許されているのである。
役者の表現する芸術性や創造性は、まさに≪破≫の部分にあるといってもよいであろう。
したがって、この世阿弥の思想は能楽にはとどまらない。
ハプニングや偶然性で何かを表現するならば別だが、台本や音譜を再現するような芸術分野においては、まさに≪破≫の一瞬にこそ芸術の全てを決定する要素がこめられている。
フルトヴェングラーや青年時代のカラヤンがベートーヴェン交響曲を指揮している古い録音盤を聴くと、まるでワグナーのオペラを思わせる叩きつけるような「タッタカター」という鋭い音が全編の背骨になっているので、「これが本当のベートーヴェンか」と信じてしまうと、趣味は別として音楽の解釈上は危険な場合がある。
これは私もウィーンに出かけて初めて知ったことだが、ベートーヴェン本人が作曲に使ったのは古い型のピアノで、チェンバロに近い音だったから、そのリズムは「タンタラターン」と少し明るいものだった。
ところがカラヤンはヴィバルディもワグナー調でやってしまう。
もちろん、そこにカラヤンの芸術性があり、強烈な説得力と驚嘆すべき創造力があることは間違いない。
これに対して、片足を床に落として、身体の重心を移動して前進し、再び片足を出す姿勢になるのを≪急≫という。
意義としては、≪破≫のタイミングを受けて、もう次に片足を出せるような「変わり身」の態勢になるということだ。
英語でも≪急・Express≫は「PRESS・圧重」を「EX・外れる」というラテン語の組み合わせからできている。
したがって≪序・破・急≫は、能楽の一挙手一投足の合間の中で瞬時に回転しつづけているリサイクルリング・モービルであり、≪魂心の動力≫ともいうべきである。
もし≪破≫の間合いが大きすぎて、≪急≫の態勢がとりづらくなると、次の≪序≫にうつるタイミングを逸してしまって、ボタンのかけ違いのようになってしまう。
カラオケの初心者が、出だしから曲のリズムにのれないで、だんだん演奏と歌がかけ離れていくようなことになってしまう。
≪序≫でもある音譜上の音階もはずしてしまう。
これが「音痴」ということだ。
中には本当に聞くにたえないものがあるのは事実で、誰しも経験があることだと思う。
それに対してカラオケのうまい人ほど、音階やリズムを大切にして、譜面通りに忠実に歌うところから始めて、だんだん情感をこめた歌い方を身につけていく。
もちろんプロの歌手であれば、この≪破≫、つまりはコブシの回し方を心得ていて、サッと次のリズムにあわせていく≪急≫のコツを存分に使っている。
ここでも≪序・破・急≫という芸術の真理が生きている。
逆にいえば、この≪序・破・急≫というコツやツボを理解できないと、いったいどんなことになるかは、カラオケの歌い方一つにも結果は明白である。
これが国家戦略の問題ということになると、非常に巧みに多くの課題を処理していく方法論ということになるが、その緩急自在のコツとツポが全くなっていない場合には、その国民的な被害は、カラオケの音痴おじさんの迷惑ぶりとは比較にならないのである。
戦略論における≪パターンの超越≫という概念も、この≪序・破・急≫の哲学思想を応用することによって理解すべきだと私は考えている。
戦略において≪序≫とは戦略パターンであり、「定石」である。
しかし、パターンは必ず破られなくてはならない。
創造的に超越されなくてはならない。
あえて「創造的破壊」といわないのは、「破壊」がマイナス方向を強く意味する言葉だからである。
したがって、それは破壊される敵を前提としてつくり、結果としても破壊された敗者をつくり出してしまうことで、戦略方針を最初から色付けしてしまう危険性がある。
現在のように、持続・共存・共生といった思想を最善の戦略方針とする流れからすれば、「破壊」は何であれ、厳しく廃棄されるべき対立概念なのである。
そこで≪破≫は、≪パターンの超越・Excel≫と正しく理解することが必要になる。
周知のようにマイクロソフトの表計算ソフト≪EXCEL・エクセル≫は聴きなれた言葉なので覚えやすいが、これはラテン語の「CEL・枠」と「EX・外」から成り立っているので、「超越」という意味と同時に「型破り」という原義も持っている点、≪序・破・急≫の≪破≫のニュアンスには適当であろう。
ただし、この部分は戦略論においても、最も微妙な部分である。
歴史的な事実においても解釈が分かれる場合が多い。
例えば、1972年のニクソン訪中のきっかけになったのは、ピンポンのアジア太平洋大会の後に、アメリカ代表選手団が北京に招待されたことであるが、中国側はアメリカ人の作家である毛沢東の伝記作家エドガー・スノーやスメドレー女史を、その年の開国記念日の祝典に天安門の楼上まで招き入れていた。
また外相も兼務していた晩年の周恩来首相は同時期にスポーツ関係の担当にも自ら就任して、海外に出国する代表選手たちに接見するようになった。
その副コーチなどの実務担当には外交官出身者も指名されるようになった。
中国の唐家旋外相は、若いころには通訳として何度もスポーツ選手団とともに来日したが、本当の身分は不明だった。
田中角栄首相訪中で、初めて周恩来首相の直属秘書だったということが、ようやく日本の外交当局にも判明したのである。
このような北京のアプローチは、キッシンジャー回顧録によると、「あまりにもナイーブで理解しがたいものだった」として、アメリカ側から外交的に接近した事実はないとしているが、私が最近、中国で聴き取りをすると「ある外交官コーチが周恩来と代表選手が一緒に並んで写った写真を見せた。そこでアメリカのコーチは、帰国したら周恩来首相に直接会って報告するかと質問してきた。もちろん答えはYESだった。しかし、その食事の席はアメリカ側が予約をして会食したものだった」という答えだった。
相手と私は思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
これこそ、まさに外交である。
しかし、北京との外交交渉は外務省にあたる国務省ではなく、国家安全保障会議顧問のキッシンジャーと、後にCIA長官も歴任して大統領になるジョージ・ブッシュ(父)初代北京駐在代表のように、主にCIA(国家中央情報局)組織によって極秘に動かされていた。
このことでアメリカ側も、北京を北ベトナム政府と対立させて、双方に分裂させる方向に持っていけないかという可能性を必死に探索していたことは裏付けられたと思う。
したがって、ニクソンとキッシンジャーが「友好」として差し伸べた握手は、ベトナムをはじめ、「アジア諸国の分裂」を画策する常套戦術も秘めた握手であったのである。
そのことは、もちろん周恩来首相はよく承知していた。
それでもあえて踏み込まざるを得なかったのは、あの文化大革命の狂気の嵐の中にあった中国の近代化のため、先進国のアメリカと日本の正式な国交を自分の短い生命のある限り、実現しておこうとする捨て身の一念からであったと思われる。
それは最良の選択であった。
あの時期に田中角栄首相が決断した日中国交回復も、周恩来首相が交渉相手であり、しかも最高権威の毛沢東が健在であったからこそ実現したのである。
もし一人が欠けても不可能であった。
現在の改革開放政策路線も、周恩来が提唱した近代化戦略の一つとして始まったものである。
ベトナム政府も中国の離反に反発して、ベトナム戦争後に中越紛争を起こしたが、現在は中国の改革開放政策を模倣したドイモイ政策で市場経済の成長力による社会建設を進めている。
この≪パターンの超越≫が芸術の生命であるように、戦略理論においても、どこをどう超越するかは戦略理論を応用する本人の創造性に依存することになる。
目的はライバルに対して優位性を持ち、共通の土俵で有利な条件に持ち込むことである。
シドニー・オリンピックで女子マラソンの高橋尚子選手は、マラソン・コースに指定されたルートを10回も試走していた。
つまりオリンピック代表に選出される以前から試走を数回くりかえして、地理の高低や地形のポイント、道の曲がり方、自分の体調のバランスや変化にも体感的データをとっていたということだ。
しかも彼女と監督は当然ながら、他の日本代表選手たちにそんなことを教える必要もなかった。
試走はコーチと二人だけで普段着で行なわれたから、シドニーの市民もそのことに気がつかなかった。
この秘密が公表されたのはオリンピック直前だった。
しかし、「高橋の成功」が現実になった以上、今後はオリンピック開催地が決定したとたんに、各国で試走の戦術的研究が大規模に行なわれることは間違いない。
特に、その開催地となった国では国家的プロジェクトとして≪高橋モデル≫を戦術レベルで超越するような運動科学研究をはじめるであろう。
あるいは他国にはまったく別のルートを提示しておいて、開催直前になってからトラブルを理由にルートを大幅に変更してしまうということは起こりうることである。
ヒトラーのナチスドイツがベルリン・オリンピックでトラック競技以外のルートや実施方法を競技の直前まで秘密にしておいたことは有名で、ロサンゼルス・オリンピック馬術競技の金メダリスト・西竹一男爵がそのために落馬失格したことは関係者の記憶から消え去らない。
しかし、これはルール違反ではないし、違法でもない。ただ「ナチスドイツがやったこと」として記憶し、認識をしておくことは重要だ。
最近でも冬季オリンピックのスキー・ジャンプ競技で、開催国の民間団体がジャンプ台の風上に小型飛行船を飛ばして、自国選手に有利に風向きを操作し、特に強力なライバル選手の時には、ほとんど無風状態になったということもあった。
これはもちろん世界に同時中継された事実である。
「足が汚れても、スカートさえ美しければ」という戦術論は人間精神の堕落であるが、それに対して何も正論・正言を発しないとしたら、ただの負け犬である。
それは第一に、自分自身に負けているのである。
最初から無責任に「負け犬だっていいじゃないか」ということならば、戦術論はいらない。
しかし、「負け方にも、いろいろある。柔道の受け身のように、うまく負けられるならば」という柔軟な知恵が必要ならば、もちろん戦術も戦略も必要であることはいうまでもない。
どんなに負けても闘う心さえあれば、われわれの戦略学・戦略理論は有効である。
そこから《パターンの超越》は無限に生み出されるであろう。
≪パターンの超越≫ということでは、能楽と歌舞伎の間でも大きな違いがある。
例えば弁慶と源義経の流浪のエピソードを描く≪勧進帳≫というモチーフは、江戸時代に能楽でも歌舞伎でも取り上げられ、現在でも両方で演じられている。
能楽ではクライマックスに向けて、少しずつ動きを増やして「勧進帳」の読み上げまでいくが、歌舞伎では要所要所で役者が「見得を切る」ので、違いがよくわかりやすい。
この「見得」になると、伴奏の囃子や義太夫節はピタッと呼吸を合わせ、歌舞伎役者の手振り足踏みにチョチョーンと音を合わせる。
この一瞬だけは役者が演奏の指揮者にもなっているのである。
一方、能楽の場合には、謡方も笛鼓も能役者の動きを読み取って全員が一呼吸で動くことを理想としている。
したがって、ほとんどシテ方(主役)の能役者を演奏の指揮者としているといってよい。
どのような戦術の≪破り方≫をするかは、このように組織の内容にも関係してくることがある。
アメリカのペンシルヴェニア州カーライルにあるアメリカ戦略大学院(U.S.War College)で
「第二次世界大戦で最も成功した戦略は何か」という話題で、
「最も成功した作戦は日本軍のキスカ撤退だ。最も成功した戦術はアメリカのノルマンディー上陸作戦だった。しかしながら、最も成功した戦略はコミンテルン・テーゼじゃないか」という議論になった。
ノルマンディーについては説明を要しないであろうが、あれだけの大規模な上陸作戦がドイツ側に全く事前に察知されず、またドイツ側の反撃展開があれだけ遅延したということには多くのナゾがひしめいている。
アフリカ戦線・シチリア戦線でドイツ軍を撃破したパットン将軍がオトリになって、パド・カレー付近に出没していたので、最精鋭部隊の親衛隊師団がノルマンディー地方に迅速に移動できなかったという事実もあったであろう。その真相と事情をアイゼンハワーが知ったのは、ずっと後のベルリン陥落後であった。
親衛隊幹部も、仲の悪いドイツ国防軍の指令で出動することを拒否した。
ドイツ側が内輪モメでモタモタしている間に、連合軍は戦車部隊も上陸させることができたが、サン・ロー付近で血で地を洗う市街戦となり、多数の被害を出した。
最も被害が大きかったのは日系三千人以上が所属していた部隊で、生き残りはわずか三人だった。
その後、ドイツ軍の内部でパリ総監を中心とする高級参謀のグループがヒトラー暗殺のクーデターに失敗したので、このグループが連合国と秘密交渉して、ナチスを一掃して停戦に持ち込む計画があったことは明白になっている。
しかし、実際の詳細は歴史の闇に葬られたままだ。
機会があれば、英国やロシアなどは当時の極秘記録を保管していると思うので、検討したいと考えているが、「戦略学」の難しさもここにある。
「キスカ」というのは、アメリカのアラスカ州に含まれるアリューシャン列島の中の一つの島で、ミッドウェー作戦の時にアッツ島とともに日本軍に占領された無人島であった。
ミッドウェー作戦は無惨な失敗に終わったが、無人島とはいえアメリカの領土の一部を占領することは、国民の「戦意高揚」をはかる上で効果が大であるとされていた。
やがて戦争も末期になると、アメリカが本格的にアリューシャン奪回に動き始め、南方のガダルカナル島と北方のアッツ島はほとんど同じ時期に「玉砕」という全軍総員の集団自決に追い込まれた。
補給線のロジスティクスを全く考えない日本海軍の無謀な作戦は、アメリカ側をして「クレイジー」と笑わせるにすぎないものが多かったが、キスカ撤退ではアメリカ側に完全に傍受されていた暗号連絡は使用せずに、撤退作戦を立案した主任参謀が潜水艦でキスカに乗り込んで作戦指導にあたった。
彼を送り届けた潜水艦は帰路にアメリカの戦闘機部隊に発見されて撃沈された。
ところが、撤退作戦の本番はアリューシャン列島の深い濃霧の中で行なわれて、幸いにもアメリカ軍の空襲も受けなかった。
アメリカ軍は数週間後にキスカに上陸したが、残っていたのは犬二匹だけだった。
戦後になって、この「キスカ作戦」は、アメリカ側の死傷者もなかったことから、戦術的にも高く評価され、関係者、特に指揮官の木村昌福海軍少将はアメリカ海軍から普通は連合国向けに贈られる名誉勲章を授与された。
「コミンテルン」というのは、世界共産主義者同盟、すなわちコミュニスト・インターナショナルの略語で、ロシア語風に発音したものである。
創立者はレーニンで、ロシア革命によるソ連の成立直後に国際的な干渉戦争(日本のシベリア進駐など)があったので、マルクスの「万国の労働者よ、団結せよ」という言葉にしたがって組織されたものである。
代表的な実例をあげよう。
日本では「日華事変」という櫨構橋事件で、日本軍が演習中に一発の銃声が響いた。
軍内部では、どこから銃砲が発射されたかを調べ上げたが、その間にも銃弾が日本軍の陣地に打ち込まれた。
そこで演習実施をしぶしぶ承認していた国民党の陣営に抗議したが、双方は疑心暗鬼になり、最終的には日本軍が国民党軍を掃討して北京を占領し、華北一帯が戦場になった。
これは中国共産党の歴史では、若い劉少奇が率いる少数のゲリラ部隊が国民党軍の近くで発砲し、休戦状態にあった日本軍と国民党軍を再び激突させた功績として説明されている。
当時、蒋介石の国民党は、中国共産党の江西省の本拠地を包囲しつつあった。
上海に秘密機関を持っていたコミンテルンは「日本軍の軍事力で、国民党を華北で叩かせ、中国共産党は国民党と和解して危機を脱出すべし」という指示を出した。
そこで、この櫨構橋事件の後、国民党はやむなく共産党と「第二次国共合作」にふみきり、中国共産党は江西省井崗山から陝西省延安まで共産党の関係人員すべてを移動する《長征》にのり出す。
そして毛択東が最高指導者となったのは、この《長征》の途上、貴州省遵義の「遵義会議」でのことであった。
日本が中国大陸を侵略したのは事実だが、そこには中国共産党が組織として生き延びようとして打ち出した謀略も契機となっているのである。
先年、ディズニーが製作した映画《パール・ハーバー》が公開されたが、いわゆる「ダマシ撃ち」という形で、日本軍のパールハーバー奇襲が描かれることについては、アメリカ側にも「史実とは違う」という指摘が出された。
一方で、この非常の時にゴルフに行っていて、暗号の翻訳と文書のタイピングに時間をかけ、ついに最後通牒をパールハーバー攻撃の時間よりも出し遅れさせた責任者である駐米大使館一等書記官二人であるが、戦後になってからアメリカ軍の占領下で、外務官僚トップである事務次官に相次いで就任している。
最近の外務省の混乱も、この時代から遠因があるのである。
「敵を欺く前に味方を欺け」という言葉は古代ローマ時代からあるのだ。
老カトは元老院で、カルタゴの乾しイチジクを食べながら「カルタゴ滅ぼすべし(delenda est Carthago)!」と絶叫した。
老カトの証言と演説は大部分が作り話で、よく考えれば根拠が矛盾していたし、勝手な意図でローマ市民を煽動しようとする意図は明らかだった。
しかし、ローマ元老院は直ちに開戦を決議して第二次ポエニ戦争がはじまり、戦いの勝利とともに老カトは英雄の一人になり、平民の金融業の出身でありながら、その子孫は貴族と同格の光栄を享受したのである。
さて、パールハーバーの実態はといえば、参謀総長のマーシャル元帥が11月の時点で全軍の指揮官クラスに「もし日米開戦となる場合には、アメリカは日本の一撃で戦争が開始するように望む」という内容の具体的な通知を出している。現代の戦略論では「もしパール・ハーバーがなければ」という前提で、戦略研究することが前提となっている。
もし、あの時点で日本海軍が戦艦大和と武蔵など最新鋭の巨艦をパール・ハーバーに親善訪問させ、「アメリカとは戦争をしない」と宣言をしていたらどうなったか。いろいろなことで戦争を回避したり、スペインのフランコ政権のように最後まで第二次世界大戦の局外で中立を守ることは不可能ではなかった。
アジア植民地解放という目的も、わざわざ日本軍が出かけて現地の人々を搾取したり、横暴な支配をするより、現地の独立派の組織を国家的に支援することで、あらゆる成果をあげることはできた。
しかし日本がそうした基本的な戦略を検討できもしないで、一気に無謀な日米開戦に突進してしまったのには理由がある。
「ハル・ノート」という外交文書によって、当時の「大日本帝国政府」は威嚇され、いわば「ケンカを売られた」という状態であった。
当時の国務長官コーデル・ハルは、親日的で昭和天皇とも親しかったジョセフ・グルー大使の正式ルートでは、なかなか「日米開戦」という現実のプロセスが見えてこないことに内心不信感を持っていた。
一方で、日本がアメリカに対して本格的な戦争を準備し、外交交渉を引き延ばす作戦に出ていることは承知していた。
そこで日米両国の緊張緩和のため、フランス領のベトナム占領などを黙認する「現状維持」を条件とした和平交渉と、「すべての占領地からの撤退と満州国独占の放棄」を絶対条件とした一方的要求という、二つの「ハル・ノート」を用意した。
これは本国の召還要請に応じないで、和平交渉をつづけたいとするグルー大使などの親日派をも納得させつつ、同時に日本政府を刺激して開戦プロセスを促進したいという意図もあった。
ルーズベルトは、台湾海峡から大船団が南下しているという情報から「日本がフィリピン侵略を計画している」という謝った報告を受け、一時的に強硬な方針をとって「全面撤退」のハル・ノートを認めたが、それが間違いだとわかると、昭和天皇と直接のやりとりを希望し、特使の派遣で事を収拾しようとしていた。
ナチスとの開戦は、太平洋でドイツのUボートに商船が攻撃された場合でも踏み切ることができた。
ルーズベルトは幼少時代に自分の近所にジョン万次郎が滞在して、近くの学校に通ったことをよく覚えていた。
大統領に就任した直後には、万次郎の子孫の中浜家に特別親書を駐日大使館から伝達させ、日米友好の願いを示した。
ところで、この強硬な《ハル・ノート》を提案したジョン・ホワイトという国務次官補だが、戦後になってからソ連のスパイであることが暴露されて、自殺している人物である。
すなわち、日米開戦の舞台裏でも、ドイツに追いつめられたソ連を守るために、日本とアメリカを敵対させて、アメリカがドイツの背後を攻撃するように仕掛ける大規模な陰謀が実在し、そこにもコミンテルンのエージェントが介在していたことを示しているのである。
そこで理解してほしいのは、コミンテルンの陰謀が常に自己の勢力を防衛する最終的な手段として、複数の敵対勢力を闘争に持ち込む謀略を策定し、日華事変でも、日米開戦でも同じ《戦略パターン》を展開して、その両方とも大日本帝国は同じように相手の謀略に踊らされていたという決定的な現実である。
このような人々を世界の謀略から守るためには、どのようなことが必要なのか。
わが国で《戦略》を語るために、まず自問自答してほしいものである。
