☆もう一つの『孫子兵法』☆もう一つの『孫子の兵法』人間は小さな存在である。 だから大きなことや長期的なことについては判断を誤りやすい。 特に民主主義体制では、多くの人々の関心は現実の問題どころか、ほとんどの場合、過去の問題における遺失利益が一般の課題となりやすい。 今、地球環境がたいへんな勢いで崩壊しているとしても、ホワイトハウスの前庭の花壇が壊れたら、必要な対策はどちらがすみやかに出るであろうか。 このように大きな問題の是非を取り上げるためには、その力学的な構造とか、図形の相似関係のような縮小化したモデルを使うのは自然なことである。 墨子も「餅は餅屋に」という小さなモデルを使って、現実の社会構造の矛盾を取り上げたし、現代のわれわれにとっても、これは大きなチャレンジである。 古代にピラミッドや巨大古墳を建設した時にも、きちんとした測量図・設計図や縮小化したモデルがあって、それらをもとにして集団組織を編成し、作業を分業化して分担させ、作業の手順などを決めて仕事にとりかかっていたのである。 われわれが学ぼうとするシミュレーション・モデルも、モデルの一種としての役割は同じで、十分理解が可能な数量的関係や時系列的な推移を予測するものである。 建築物のようなステディ・モデルと違うのは、研究対象が気象の推移のように動態的なダイナミックスであることだ。 絶対勝利が間違いないという評判のサッカー試合でも、司令塔のような主力選手が、相手に挑発されてレッド・カードで退場してしまうと、いったいどれだけ戦力が落ちてしまうだろうか。 何しろ阪神大震災の時は、当時の県知事が公用車を待っていて、自衛隊の救援出動要請が半日以上も遅れたり、神戸市長も所在が不明で、とりかえしのつかない事態に陥ったのである。 そのようなことは普通、モデルとしては想定できない。 訓練では、もう作業着に着替えているからな。あんな「これからやりましょう儀式予定」で何の緊急訓練になるのかね。 しかしながら、想定もつかない被害が広がることは容易かつ確実に断定することができる。(前兵庫県知事本人と、その周囲の人々は除く) 前漢時代の銀雀山竹簡によって再発見された≪孫ビン兵法≫という古代文献は、戦国時代の山東省・河南省の地域で活躍した人物で、呉の孫子(孫武)の孫、孫ビン(「ビン」は「月+賓」、脚を切断する刑罰。以下は「賓」で書く)の言行録である。 その内容の一部は、司馬遷の≪史記・孫子呉起列伝≫にも引用されているので、参照していただきたい。 ここで孫賓が理論として展開するのは、まさに数量的なシミュレーションによる判断方法である。 ある時、孫賓のパトロンで、「斉」という国の大貴族が、自分の持ち馬で御君主と競馬をすることになった。 そのルールは、1対1の競争を三頭で三回連続し、勝ち数の多い方を勝者とする。 そこで孫賓は相手の三頭と、パトロンの持ち馬を比較検討し、双方には上・中・下の違いがあることを見極め、相手が上等の馬を出してきたら、下等な馬を出して、わざと負け、相手が中等の馬を出してくると、上等の馬を出して勝ち、相手が下等な馬を出してくると、中等の馬を出して勝ち、合計で2対1の勝利を決めた。 柔道・剣道の団体戦みたいなものだな。 すなわち、三頭の馬を(X,Y,Z)とすると、 X>Y>Z ⇒ (X1,X2)>(Y1,Y2)>(Z1,Z2) (1) X1>Z2 (2) Y1<X2 (3) Z1<Y2 このようなことはプロ野球の三連戦で、先発ピッチャーを誰にするかという判断予測などで、現在でも使われている簡単な「ゲームの理論」であるが、そのようなことを二千三百年前にはもうすでに実践的な知識として使っていたのである。 すなわち、戦いの勝ち負けは「時の運」ではなく、自軍と敵軍の戦力を詳細に比較し、特定の時・場所・状況(TPO)において、自軍の比較優位を造り出せるか、出せないかという問題である。 かくして孫賓は断言する。 「勝利は算術によって演繹される」と。 これは彼の祖父である孫武の≪孫子兵法≫にもくりかえし述べられているところである。 このことで大貴族は「勝った理由は孫賓の計略です」と君主に彼を推薦し、すぐに孫賓は君主に策謀を直接提言できる「斉」の参謀本部総長の地位に就任したのである。 孫賓が「斉」で参謀総長になってからのこと。 当時、河北省邯鄲市にあった「趙」という国が、南の河南省開封市の「魏」に攻められ、山東省の「斉」に密使で救援を要請するという事件があった。 孫賓は「魏」をはさんで遠く距離が離れている「趙」にわざわざ援軍を送るよりも、「斉」と国境を接している「魏」に侵攻するという絶妙な戦略をとった。 これが「魏を討って趙を援ける(討魏援趙)」というトライアングル・クロス・オプション戦略である。(これと全く同じ戦略法を、二百年ほど後に、古代ローマ共和政の最後のガリア総督ガイアス・ジュリアス・シーザーが、現在のオランダ・ベルギー地域を征服するガリア戦争でも用いている。) すると「趙」に侵攻していた「魏」の軍勢は、君主の緊急命令で「趙」から撤退し、「魏」に帰還して「斉」の軍勢を迎撃することになった。 これで戦争全体の主導権は孫賓の思い通りになったわけである。 次に孫賓は、昼夜兼行の強行軍で帰還してくる「魏」の軍勢が、さらにひどく疲弊するような計略をとった。 すなわち、最初には教科書通りの五人組の小隊編成であった自軍の部隊編成を、次第に六人、七人、八人、十人と構成人員を増やしていった。 孫賓の部下たちはその意味理由が全く分からなかったが、小隊の編成は食事のカマドの単位でもあったので、五人組の小隊が十人組になると、カマドの数は半減した。 追撃してきた「趙」の将軍は、カマドの数の減少を見たスパイの報告を鵜呑みにして、「斉」の遠征軍に多数の逃亡兵が出ていると判断し、最終的には敵軍は半減以下になっていると決めつけ、自分の軍団の兵士たちが疲労で脱落するのもかまわずに、さらに強行軍で進撃させた。 「斉」の軍勢は一気に首都の開封を攻略することもできたが、そうすると後になってから帰還軍に退路を絶たれる危険性があった。 孫賓の祖父、孫武は実際にそのようにして敗退し、消息不明になった経緯があったのである。 そこで、開封より手前の馬陵で、疲労を重ねた帰還軍を待ち構えていた。 この時、『史記』には、孫賓が自軍の行軍速度と、「魏」の帰還軍の行軍速度と予測日数を比較検討し、先に馬陵を決戦地としたと明記されている。 馬陵は、両側を低い丘陵にはさまれた狭間の地形に、首都に通じる街道が通っている場所であった。 しかし、ここは「馬陵」という名が示すように馬車が低い丘陵を越える幹線道路があるだけで、特別な地形があるわけでもない。 多くの人々が険阻な地形を考えて、実際に現地に行ってみると、以外に特徴もない景色なので、「馬陵の戦いは別なところでおこなわれた」と珍説を出したものだ。 しかし、それは事実ではない。 「馬陵」の地形の平凡さに、指導者の油断を誘発するものがあったのだ。 「魏」の将軍にとっては、「馬陵」は通過地点にすぎないものであって、だからこそ奇襲作戦が成功率を高めることができたのである。 孫賓は、ここに大木を切り倒して、街道を遮断し、両側の丘陵に全軍を配置して、息を殺して夜を待たせた。 敵の帰還軍は孫賓の予測した通りに、その深夜に馬陵に到着し、道路を塞いでいた樹木を取り除くために灯明をつけた。 そこで待ち構えていた「斉」の軍勢はそれを合図に射撃を開始、たちどころに「魏」の帰還軍を殲滅した。道をふさいだ樹木の一つには、「敵将はここで死ぬ」と予言めいたのろいの言葉が刻んであった。 おそらく孫賓は敵将の性癖や部下たちの群集心理を読み抜いた上で、このような確信犯的な呪術まがいの行為が、味方にも敵側にも大きな心理的効果があることまで計算しつくしていたのである。 おじいさんの孫武が仕かけた呉楚戦争ほどの規模ではないにせよ、孫賓の「馬陵の戦い」は、「魏」の一方的な撤退で、「趙」の邯鄲包囲を結果的に終結させた。 「斉」にとっては、馬陵で「魏」を叩いたことは、「趙」を併合した「魏」の超大国化を防止したことになる。 「斉」の軍はさっそく撤退し、「魏」の首都攻撃まではいかなかった。 それは『孫子兵法』の禁忌を忠実に守っているのである。 しかし、このことが撤退後にスキャンダルになり、孫賓の主人の大将軍が刑罰を受けているので、孫賓の「戦後」はわからない。祖父のように。 これが今から二千三百年前のシミュレーション戦略法であった。 このようにわれわれ人類の知識の体系は一方的に拡大していくものではなく、基本的なものはほとんど古代にもあったのである。 そして、現在でも合理的な説明ができる数理科学的な手法に接近していたからこそ成功のパターンを獲得することができたのである。 数理科学もふまえないで、歴史の物知りのように自分勝手に「戦略」などという物書きは、本当の戦略理論は何も知らない。何もわかっちゃいない。 その事実証明こそ、孫子兵法そのものなのである。 だから、「数理科学の知識も素養もなく、昔話ばあさんのように孫子兵法を語るイカサマ連中はみんな白河夜船だ。役立たずのやつらだ。駄弁をやめよ」と閣下はいつも激怒しておるのだよ。 ![]() ![]() ジャンル別一覧
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