000000 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

曹操閣下の食卓

戦略シミュレーション(2)

   (3) 指導者・人事・意思決定システム

 諸君が初めて新社会人として企業に就職すると、いろいろとまどうことがあろう。
 ひとつは「先輩」という存在である。
 同じ平社員でも、先輩社員は新入社員に対して「上司」にあたる。

 個人的な愚痴をいうようだが、私も中途入社を経験して、能力も才能もない年下の「先輩」と称する人物が、めったやたらに威張りくさり、傲慢に振舞うので閉口したものだ。
 同室の取締役が「仕事をしないヤツほど、他人の仕事を邪魔するようだな」と助け船を出して、目にあまる「先輩」の横暴を止めたこともあった。
 いわゆる「いじめ」だが、本人は全く悪いことをしている自覚がなかったから哀れである。
 直属上司は「先輩」を尊重しないと他の社員にも影響があるので強くは干渉できない。
 「○×さんはマイナス発想が強すぎるな」と横から皮肉を飛ばすくらいである。
 もともと彼とは同じ部でも所属課は違うので、座席位置を変えて、あまり顔をあわせないようにして落着したが、彼は私の一件で会社から「性格のゆがんだトラブル社員」と見なされ、昇進も止められ、閑職に回されたので、会社が「後輩いじめ」を容認しないことは明確に示された。

 「いじめ」は学校の中でもよくあることだ。
 しかし、学校の問題は数年で卒業が待っているし、自分の後輩もできる。
 しかし職場となると、そこで生活の資を得るわけだし、転職というのも重大な決断である。
 いい人生に結びつけばいいが、そこから完全に転落してしまう場合もある。
 今は、私は皆さんにこうして講義をおこなっている立場だが、あのまま同じ職場にとどまっていたら、私の人生はどうなっていたであろうかと、今でもふと考えることもある。

 とはいえ、企業経営者も「先輩」には新人指導の大切な役割を期待しつつ、業務や利益に関係のないことで、やたらと先輩風を吹かせて人間関係をギクシャクさせる古参社員には頭を痛めている。
 今日の「リストラ・ブーム」という背景には、幹部を悩ませる指揮命令系統の混乱が、この「先輩」という非公式な権威から出てくることに対応している。
 官庁の場合も、事務次官が新任されると同期の幹部は全員退職をする。
 すると官庁は事務次官が最も入省年次が古くなり、法律には一切書かれていない不文律の「先輩・後輩」の関係が事実上公然とキャリア官僚の序列と人間関係、そして意思決定システムに持ち込まれる。

 現在の東京都庁は、もちろん石原慎太郎都知事の強烈なリーダーシップで運営されているが、青島幸男知事の時代は清掃局出身の副知事が実質的な都庁の指導者になっていた。
 その副知事も重要な政策決定には、同じ清掃局出身の「先輩」、前副知事と前々副知事の事前了承をとってから、青島知事に持っていったというから全く噴飯ものなのである。
 この清掃局は美濃部都知事の時代から歴代の副知事を出し、知事部局からも独立した「職員王国」になっていた。
 私も関係した事件だが、この清掃局が計画して建設した不燃ゴミの「杉並中継所」という集積施設で、換気・排水システムの不具合から硫化水素ガスをまき散らす汚水が排水溝から付近の住宅地に流れた。
 清掃局は責任逃れのため、この事実を権力を使って必死に隠してきたが、この「中継所」の周辺では、「杉並病」といわれる奇病が発生し、深刻な社会問題となった。
 おりしも友人の山田宏・元衆議院議員が杉並区長に当選したばかりだったが、たまたま新聞で「杉並中継所」に関する環境調査概要を見たところ、どう考えてもデタラメな調査だということがわかった。
 しかも、「真夏の八月に北風が吹いた」から、風上の北方向では大気汚染のサンプル調査をしていない。
 閣下はさっそく杉並区役所に連絡を入れ、同日同時間帯の気象庁データ・杉並区教育研修所の風向計の記録が「南南西の風」だという事実をつかんだ。
 考えてみれば当たり前の話だ。
 つまり、「風上と風下を逆転」させて、大気汚染調査をしていたのである。
 「山田さん、区民のために戦ってください」
 すべての資料を区長室に持ち込んで、閣下は清掃局の欺瞞と隠ぺい工作の実態を暴露したのだ。
 この「杉並病」をめぐる杉並区長と清掃局のバトルを経て、善意に耐えかねた内部告発もあり、石原都知事は最終決断した。
 清掃事業を特別区に移管することで、東京都清掃局の組織は完全に解体され、事務職員は知事部局の生活環境局の部課に格下げ編入された。
 一つの権力機関が八つ裂きどころか、23分割されたわけだ。
 おかげで杉並区では夏季の早朝収集が始まったので、猛暑の昼間過ぎまで生ゴミが放置されて街路に悪臭をまき散らすことはなくなった。
 これが善政というものだ。

 年功序列によって課長待遇ぐらいになっているが、経営組織としては功績よりも実力で評価すると、
 「若手三人分の給与を享受する資格があるのか。この人に早期退職をしてもらって、その代わりに働く若手三人を採用する方が会社として好都合だ」と経営者が考える時、業績が好調であってもリストラは起こりうる時代になっている。
 しかし、それも建前の理由で、実は中高年の部長や課長がコンピューターに不慣れなのに、リテラシー研修にもついてこない場合、「IT乗り遅れ組」という烙印を押されてしまう。
 それがリテラシー推進担当取締役より「先輩」である場合、問題は複雑になる。
 リストラで求職をする人々が、ほとんど手書きで求職票に応募している実態も深刻である。
 リストラで被害にあったという人々が集まって、ある居酒屋を開店したが、狭い店に二十数人の中高年の男性店員がいて、一人も女性がいない。
 それだけ人がいるのに、お客が注文を出してもボンヤリして何もできないでいる店員と、座ってながめているだけの店員もいる有様。
 簡単な料理の手伝いなど、「やったことがない」と拒否。
 つり銭も平気で間違える。
 笑ってごまかし、謝罪らしい態度もみせない。
 一ヶ月もたたずに経営は危機に陥り、ここでも結局リストラが実行された。
 居酒屋の仕事を甘くみていたのと、リストラ組がそれぞれが抱えていた「本当のリストラの理由」を無視していたからである。

 年功序列は幻想だった。
 リテラシーを拒否する「先輩」は経営指導側にとって、大変な「抵抗勢力」になってしまったのである。
 「先輩」は過去の既得権益に安住しているので、自分の存在がそんなに損害や障害になっているとは思いもしない。
 「先輩」がリストラで辞めたら、若手の意見が通りやすくなり、会社が明るくなったという話を聞くと、「リストラとは何ぞや」ということになろう。
 企業にとっては早期退職制度で優秀な人材が逃亡してしまったら失敗である。
 しかし、そんな簡単に逃げ出してしまう人材は、会社の組織に忠誠心が薄いわけだから信頼できないし、高い地位などはもともと任せられないという判断もある。
 社外で自立しても、本当に優秀な元社員は会社と友好的な関係を保ち続けるという自信があれば、リストラの蛮刀はどこにでも聖域なく振り下ろされるであろう。

 経営コンサルタントという立場はおもしろいもので、社内では平社員だが、一歩外に出ると仕事はすべて顧客企業のトップや経営幹部との相談や交渉ばかりである。
 そこでいろいろな企業の実態を拝見することになるが、社長・部長・課長・係長という組織の肩書きはだいたい同じだが一つとして同じ形態はない。
 課長や係長の肩書きはやめようということで、ディレクターやマネージャーという肩書きにした会社もあるが、外資系企業では課長級がバイス・プレジデント(副社長)を称して、ディレクターといえば常務取締役になるから、おかしな横文字の逆転現象になる。
 一つの会社といっても一様ではない。
 ほとんどが「上司」や「先輩」の人間性が実際の職場の空気をつくっていく。
 女性キャリアも、そこで大きな苦労が待っている。
 いい上司にめぐりあった女性キャリアは本当に実力を発揮できるが、ひどい場合には仲間はずれやセクハラにあって、自分の仕事の邪魔どころか妨害まで受けることもある。
 「自分の才能を活かせない」と思ったら、トラブルになる前に、男女を問わずいい上司の職場に鞍がえすることも一案だ。
 就職の時、新人研修の時に出会う人事部の先輩たちと「関係を切らないこと」がささやかなヒントになるだろう。

 孫武の場合、外交から策謀まで、国家戦略の全般を担当する伍子胥が呉王の側近だったので、孫武の首はつながったのである。
 銀雀山竹簡には、「呉王は孫武を首切り事件の後、六日間幽閉した」という未発見の歴史記述も含まれていた。
 《史記・呉太伯世家》によると、その後にも呉王と孫武の意見が食い違った場合、やはり伍子壻が呉王を説得して、孫武の立案を採用している。

 このような人間模様は、経営トップの世界でも起きている。
 ある企業では、創業者一族の存在がほとんど立憲君主制のようになっていて、それで安定しているし、別な企業では創業者の一族から経営権を奪い取った番頭格の取締役グループが結局のところ会社を倒産させた実例もある。
 実態としては、社員の働きぶりも知らないで、鼻水をたらして役員室で育ち、そのまま鼻くそをほじって社長になった暴君ネロのような経営者も実在する。
 ツムラやフジ・サンケイのような有名企業でもトラブルの噂が絶えない若い二世や婿養子が周囲に「大丈夫か」とハラハラ心配されつつ経営トップになり、業績悪化に陥る前に取締役会の反乱でしぶしぶ辞職する一幕もあった。
 それでも役員クラスの番頭さんが実質的に会社組織を仕切っているので、社長と社員の接触が極端に少ない場合は、それがそのまま通用していることがあるのである。
 中国のラストエンペラーではないが、「経営者」という存在が実際に機能不全である場合、それを代行するのが秘書室である。
 秘書室に有能かつ抑制ある人物がいれば、それはそれでそれなりに会社組織は維持されるし、顧客の信用も損なわれず、労使関係の信頼も崩れない。
 コクド・西武鉄道のように「会社ぐるみ」の不祥事で、最高経営者の言行が社会の直接的な批判にさらされない限りは。

 いずれにしても、われわれは指導者・人事・意思決定システムの問題を建前にとらわれず、ありのままに把握することが必要である。
 日本国憲法に定められた「国権の最高機関」そのものからして、実態はあやしげなものなのだから。


   (4) 財政・ロジスティクスの戦略モデル

 変化の激しい今日ほど、「専門家」という名目があやしげに聞こえる時代はないであろう。
 「この人は金融の専門家ですよ」と紹介されても、それが百年以上前の西欧金融制度の「専門家」であるとしたら、おいそれと現実の金融政策の課題を議論することは躊躇してしまう。
 元銀行の経験者といっても、インターネット取引も知らない「過去の専門家」というのも、平気で「大学教授だ」なんて言っているのだから、学生たちは不幸の極みだろう。
 以前、金融関係で学識経験者が委員長をつとめた審査委員会が、銀行への公的資金投入をめぐって、国会の答弁において、事実関係の記憶違いはもとより、初歩的な専門用語を取り違えたりして、ひどい醜態をさらしたことがあった。
 これで「学識経験者とは何ぞや」という大きな疑問が政界でも真剣に取り沙汰されるようになったのだ。
 学会でも「何じゃこりゃ」という内容の発表が出されたりする。
 役所のペーパーのように、資料をあちこちから引っ張ってきて、何かを語らしめようとするのだが、結論は何の意味もないものだったりする。
 「そりゃ研究ではない。ましてや学問でもない。昔の白書のコピーみたいなものじゃないですか。学問や研究はキチッとした方法論に基づいてやるものだ。その方法論を置き忘れて、何を語ろうとするのか」と、閣下は激昂して批判しているのである。

 官僚組織が政治家に、「専門家に任せなさい」という論法で主張するのは、「行政の専門家は官僚だ」という自負があったからである。
 しかしながら、その行政機構そのものが国民の厳しい批判と検証にさらされ、「行政の専門家」のインチキ臭い実態が暴露されてしまうと、こんな理屈は実際に時代錯誤なのである。
 「官僚」というのは、各業界のプロにまさる知識や技術の専門家などではなくて、明らかな隠蔽工作や背任横領を「合法的・公的」の仮装行列でごまかすことに長けた「行政テクニックの専門家」なのである。
 雇用福祉財団や簡易保険の「保養施設」、社会保険庁の「研修施設」などというのは、どこかに見つからないように一つか二つ存在するとすれば、笑い話にもなろう。
 ところが、全国に何百億円もかけた豪華施設が散らばっているのが現実であり、それがみんな赤字経営で、基金や公金を赤字補填にタレ流している状態であるから、こんな「日本全国・仮装行列」を「公的な目的があります」などと官僚が言い出すと、灰皿を投げたくなるのが本当のところだ。
 血税の使いみちをごまかす「虚偽報告の専門家」とか、「水増し請求の専門家」を重宝がって、「余人をもって代えがたい」と言わしめた人々が構成する組織など、そもそも根底から腐りきっていたのである。

 これまで各省の「積み上げ方式」で決定されていた予算編成に《財政諮問会議》という予算バスケット決定機関をつけたのは、あまり注目されていないが、国家財政システムの上では非常に大きな改革であった。  
 これによって、小泉内閣は初年度国家予算の3兆円減額を指令し、その内容として前年度予算の5兆円の削減、2兆円の政策的増額を内定した。
 「官僚の皆さん、どんなに数字を積み上げても、政府の金はこれだけしか出せませんよ。バスケットの大きさは5兆円の削減です。2兆円のバスケットは内閣が振り分けを決定します」と宣告したのである。
 不要不急の公共事業を見直し、経常費支出も合理化して慢性的な赤字体質から脱却するという財政戦略が、ここにはじめて実行されたのである。
 
 古代においても財政は計画的に支出するよりも、戦略的に積極的な運用をすることによって、生きた金になるという思想があった。
 これは具体的な貨幣経済以前の話であるが、孔子の母国の「魯(山東省曲阜市)」で、孔子生誕より八十年以上前に、農業恐慌が発生した時にも、
 「国防関係の公共事業を起こして、飢饉で損害を出した人々に平等に臨時の働き口を用意しよう」という政策が実行されている。
 《左氏春秋・僖公21年(紀元前六三九年)》魯の大臣は、
 「干害で凶作の年には、国内の都市・辺境各地に分布する防衛施設の補修改築をしたり、食料を倹約してムダがないように注意し、田畑が荒れないように耕作に努めて、物資を公平に配分するように奨励する。これらが干害対策の基本である」と述べている。
 積極的な公共投資と経済の公平化はニューディール政策の基本であった。
 また孔子と同じ時代の晏嬰という「斉」の大臣は、飢饉の時に国家の倉庫をひらいて民衆を救済したいと願い出たが、主君の景公はそれを許さないばかりか、「路寝之台」という豪華な離宮建設を命令した。
 そこで晏嬰は貧しい人々を集めて建設現場で労働させ、
 「その労働時間をゆるやかにして、工期も急がせることなく、しかも賃金は普通よりもたくさん支払った」という。
 それで三年後に離宮は完成したが、民衆の生活経済も復興し、非常な好景気になったと記録されている。

 《管子・兵法篇》には
 「挙兵の日、而して境内は貧しく、戦いは必ずしも勝たず、勝てばすなわち死ぬもの多し。地を得て、而して国をやぶる。この四者は用兵の禍なるものなり(軍隊を挙兵する日になって、国内が経済的に窮乏しており、戦争をしても必ずしも勝利が得られず、勝っても多くの死傷者が出て、領土を広げても国家は経済破綻してしまう。この四つの問題は戦争をすることの禍害である)」とある。
 そこで《管子・七法篇》には「天の時を失わず、地の利をもらさざれば、その数の多少、その要は必ず計数に出ず。ゆえに凡そ攻伐の道を為すや、計を先ず必ず定め、然る後に兵を出す。計が未だ定まらざるに、而して兵を出さば、すなわち戦って、而しておのずから毀せん(天が与えた戦いのチャンスを見逃すことなく、また地形の利点を埋没させずにおくならば、その数値的な規模や、その範囲内で展開できる戦略パターンはシミュレーション計算で必ず予測ができる。したがって、これは戦争する以前の原則であるが、こうした予測可能なシミュレーション計算を事前に検討し、十分な準備をして出撃すべきである。もし、こうした戦略研究の計算と準備をせずに戦争を始めたら、あらかじめ予測できたであろうトラブルにも全く対処する手段がなく、戦争する以前に組織は内部から壊滅する危機にさらされるであろう)」と断言している。

 すなわち戦略というものは、古代においても単に戦場における戦闘の勝利ばかりではなく、戦争経済の運営、戦争準備の蓄積、戦争費用の調達など、非常事態における国家財政の運用も重要な検討項目であった。
 したがって補給手段の展開、ロジスティクスに具体策がない戦術や作戦は自殺行為であるといえる。
 これは平時の財政運営でも同じである。戦争前の窮乏を見れば、わが国が軍事的な意味ばかりでなく、財政をふくめた国家戦略そのものを百年以上、持ち得なかったという事実は明白である。
 ところで投資回収の採算性のない事業は民間ではおこなわれないから、公共性を重視して、どうしても必要な事業は、やむをえず公共事業としておこなうのであるが、公共事業が投資回収の採算性が問われないままに、民間でも可能な事業に進出し、しかも大きな負債を抱えて失敗をしている実例を見かけるのは、このロジスティクスの発想がないのである。
 巨大な劇場や体育館を建てたはいいが、その維持経費について全く考慮していないところに問題が発生している。
 これは補給路の維持手段も考えずに中国大陸の奥深くにまで戦線を拡大しながら、日米戦争まで始めて南洋諸島で多くの兵士を餓死させた場当たりの戦争指導と非常によく似ている。
 われわれは戦後、「日本はアメリカに科学で負けた」という発想で挽回をはかろうとしてきたが、実際には戦略構想をふくめて科学的な発想と思考方法が貧困であったから、科学技術も持ち腐れになったし、組織においても人事においても敗退しなければならない理由だけは豊富だった。

 組織において人事で生産性をあげるには、
 「やる気のある人間に仕事を任せる」ということが最も大切であるが、それだけでは具体性がない。
 「実現可能な構想を合理的に発想できる人物」に現場の作戦を任せると同時に、冷静にロジスティクスを担当する会計経理担当、あるいは法人監査役に、「それは財務上できない」という拒否権(VETO)を加えることが必要である。
 「やる気人間」と「できる人間」だけでチームを組むことは、結局は財務の混乱や大きな損害のリスクになってハネ返ってくる場合が多い。
 現在の日本の官僚組織では、この経理部門の発言力が最も力が弱く、不正経理の内部監査もできない。
 会計検査院は、すべての国家組織の業務監査を実施するには、あまりにも人員が少なく、経理情報も把握不可能になっている。
 そのために「水増し請求」の専門家が猛威を奮ったのである。

 このように政策のオプションが当事者だけに握られてしまい、状況の変化からも切り離されている場合、それは定型の事務処理であり、戦略展開は全く不可能である。
 したがって、戦略構想の立場でなすべきことは、このような枠組みと壁を破壊することである。
 例えば整備新幹線の場合、どうシミュレーション計算しても投資回収の採算性が取れないことはわかりきっているのに、地元の「やる気」と建設賛成派の「できる公約」で話が進んでしまっているが、これもロジスティクスの発想が欠けているのである。
 整備新幹線を建設するよりも、すでに整備されている空港を在来線でつなぐ方法が、お金もかからないし、産業投資の誘致にも効果的だということがわからないまま、「新幹線さえ来たならば」というバラ色の図式だけが先走りしているのである。
 原子力施設にしても、沖縄の基地のように国家予算が地方自治体を補助する「見返り事業」をセットにして開発を進めようとするから、地元にも「推進派」が出てくるのであって、原子力発電の採算性には「見返り事業補助金」は含まれていない。
 原子力以外の発電所における「見返り事業」の公的資金投入額との差額は、厳密に発電効率の一部として計算すべきであるし、放射性廃棄物の永続的な保管費用も採算ベースとして計算をしなければならないはずである。
 私はこの「見返り予算」という悪しき補助金制度は財政基本法制定によって、全面的に禁止すべきであると考える。

 一つの建物を建てるにしても、デザインや間取りによっては空調設備に多額の経費がかかったりしながら、利用者には不便な構造になってしまい、建築設計者の自己満足と依頼主の地方自治体の無責任体制だけが露出するケースが多くなった。
 東京有楽町の東京国際フォーラムや同じく両国の江戸東京博物館、無用の現代芸術のオブジェが目立つ都営大江戸線の各駅などはその典型である。

 日本で最高級だと評価が高いホテル・オークラとかニュー・オータニ、帝国ホテルに行くと、正面玄関のすぐ脇にクロークがあり、フロントまで歩く距離はごくわずかである。
 ところが宮崎シーガイアに行くと、エントランスからフロント・デスクにたどりつくまで、巨大な空間を宿泊客たちは長々と歩かされる。
 その空間は「贅沢の演出だ」という企画・設計側の勝手きわまる思い込みが、大きな失敗の原因なのだ。
 同じ状況は西新宿のオペラシティにもあり、支配人就任を依頼された老経営者は、まず奥の奥に鎮座していたチケット売り場を入り口近くに移動させた。
 損害を出したり、ムダなことをするのが美徳になった国家は、退廃の極みであるといわなければならない。



   (5) 戦場の選択と戦術シミュレーション

 現在トルコ領のアナトリア高原に、テルメソスという小さな都市国家の廃墟がある。
 ここは温泉を意味するギリシャ語テルモスThermosの名前の通りに、温泉と温泉の神を祝祭する神殿を中心に栄えた城塞都市であった。
 ペルシャ帝国の領土になってからは歴史の中に消え去ってしまうところであったが、アレクサンドロス大王がガウガメラの決戦の途上に立ち寄ったことから、世界の戦史に特筆されることになった。
 地形の上で兵糧攻めは楽だったが、これから長い遠征が待っているマケドニア軍にとって攻城包囲戦のリスクは小さくなかった。
 アレクサンドロス大王はテルメソスを見るなり、
 「ここは陥落させても利益にならないし、戦うだけ損害になる」と判断し、直ちに講和の使者を派遣して全軍を撤退させ、まっすぐガウガメラの戦場に向かった。
 ここでアレクサンドロス軍は、ペルシャ(現在のイラン)から出征してきたダレイオス大王の親衛隊と衝突し、圧勝したのである。
 この機転のある決断によって、「アレクサンドロスの運命は変わった」といわれる所以である。
 もしテルメソスでマケドニア軍が損害を出し、そこから動けなくなって張りついている間に、背後にペルシャの大軍が現れたら、アレクサンドロス大王の東方征服はなかったのである。

 馬王堆帛書《老子・乙本》には、このような判断を《不争之徳》と説明する。
 勝利を急いで味方の兵士を疲弊させたり、やたらと小競り合いを起こして損害を増やすのは得策ではない。
 むしろ決戦を避けて、敵軍の思わぬところを迂回して、敵軍のいないところを占拠する。
 老子の説では《争わないこと》によって、こうして逆に敵国を消耗させ、戦力を弱めて勝利することができるというのである。

 不思議なことだが、アレクサンドロス大王も、この老子の説と同じ戦術を使って、ペルシャ帝国を徹底的に撹乱することになった。
 ガウガメラやイッソスの戦いは、迎撃する側のペルシャ軍が国都のペルセポリスから弓兵隊を率いて長距離にわたって行軍し、疲弊していたところにマケドニア軍が装甲の厚い重装歩兵部隊で突っ込むという図式がくりかえされた。
 ペルシャ軍が誇った弓兵隊は古代アッシリア帝国の時代からオリエント文明の主戦力であり、帝王直属の親衛隊として非常に権威をもっていた。
 それだけにマケドニアの重装歩兵に矢がたやすくハネ返されて、当然のことながら戦術方法を現実にあわせて急いで変更しなければならない必要性が生じた時に、自分たちの存在とプライドをかけ、あらゆる手段を用いて抵抗を試みたであろう。
 こうしてペルシャ帝国は戦意を喪失して沈黙し、小アジア・アナトリア高原の戦いは終わり、アレクサンドロス大王は背後をかえりみずにシリア・エジプトの征服に向かったのである。

 アレクサンドロス大王より半世紀ほど前、ペルシャ帝国の内部の王権争いで、ギリシャの重装歩兵部隊を外人傭兵として配下にしたキューロス大王がいた。
 その簡潔かつ詳細な戦歴記録をのこした傭兵部隊長が、哲学者ソクラテスの直弟子、クセノフォーンである。
 この時にペルシャ伝統の弓兵戦術が時代遅れになっていたことはペルシャ帝国でも十分理解されていたはずであったが、ギリシャ人たちは圧倒的な勝利によってキューロス大王に厚遇されたにもかかわらず、用済みになるとお払い箱になって帰国した。
 つまりペルシャ帝国は、ブルボン王朝とよく似ていたのである。

 しかし、マケドニア王国もその後に130年以上も重装歩兵戦術を変えることがなかった。
 フィリポス5世の軍勢がローマ軍と対決したが、ローマ軍の重装備兵はマケドニア兵よりも軽快に動いた。
 そしてローマ軍はマケドニアの兵士を引き倒したり、装甲の薄い背後にまわり、二人がかりで急所を狙った。
 その結果、八千人の歩兵が死亡し、五千人が捕虜となって、ギリシャ全土はローマ植民地となった。

 モンテスキューが賢明に指摘したように、
 「ローマ軍が最強の軍隊であった秘密は、敵軍から学習することが驚くほど早かった」からである。
 彼らはカルタゴと戦って、初めて海戦を体験したが、半年後には武器を満載した戦艦隊を出撃させている。

 《孫子兵法》はアレクサンドロス大王の遠征よりも百年ほど時代がさかのぼるが、《九変篇》の中にも「争ってはならない城塞」という表現で、テルメソスのような要害にこだわって、戦力を消耗することを厳禁している。
 これは銀雀山竹簡に《四変篇》という内容で解説されている。
 すなわち《四変》とは、

(1) 通ってはならない通路
(2) 攻撃してはならない敵軍
(3) 攻略してはならない城砦
(4) 争奪してはならない地点

 この中で、「攻略してはならない城砦」とは何か。
 孫武は次のように明確に解説する。

「わが軍の戦力を調べ、城砦を陥落させることができるかを判断する前に注意すべきことは、その城砦を陥落させたところで前進基地とするわけにはいかず、その城砦を後方の補給基地にしても、敵軍が総攻撃してきたら、守りきることができないような場合です。もし、このような役に立たない城砦のために、わが軍の限られた戦力をムダに消耗して、侵攻作戦の前進が困難になったり、せっかく城砦を武装解除しても、敵軍がやってきたら、また寝返ってしまうような場合、戦いに勝ったと思っても勝ったことにはならず、城砦を陥落させても陥落していないことになり、敵軍を足止めすることもできません。このような城砦は、いかに陥落が容易であっても攻め取ってはなりません」

 アレクサンドロス大王がテルメソスの攻略を中止したことによって、ガウガメラで敵軍を待ち受ける余裕ができたのだが、その偉大な判断には《孫子兵法》と同じロジックが働いていたのである。
 これに対して、われわれが苦い教訓としなければならないのは、《ある地点を争奪するのにも、争奪してはならない地点がある》ということだ。

 帝国海軍はミッドウェー海戦で主要な航空母艦を喪失したが、航空戦隊の大艦隊を支援する航空燃料輸送専用タンカーなどまで犠牲にしてしまったことで、それ以後の戦術展開に大きな制約を受けることになった。
 こうして海軍航空部隊は南洋諸島に点在する小さな飛行場から小さな戦闘班を組んで出撃し、装甲のぶ厚いアメリカ戦闘機の大集団とドッグ・ファイトをすることになった。
 また、これらの戦闘配置を整備するために、連合艦隊司令長官山本五十六大将が現地視察に回ることになり、アメリカの空母から発進した艦載戦闘機によって、戦闘機の援護もない長官機はいともたやすく撃墜されてしまったのである。
 ちなみに山本長官が機乗していた大型機種は装甲が非常に薄く、少しでも機銃掃射が命中するといとも簡単に発火炎上するため、アメリカの戦闘機パイロットが「葉巻=CIGGER」とアダ名していた欠陥機種であった。
 それ以後の日本陸海軍の主戦場は、フィリピン南方の「レイテ島」に移るが、これこそ太平洋戦争で最も帝国陸海軍の戦略欠如を最も露呈した戦いの一つであった。
 詳しくは、私の文学の師匠だった大岡昇平さんの遺作《レイテ戦記》を参照していただきたいが、今日になって「レイテ島」が戦跡以外に何の地理的な利点があるのか、私には全く発見できない。
 フィリピン本土を守るために、その前にあるレイテ島が戦場になったのであるが、レイテ島の攻略と奪回を何度もくりかえすうちに、日本の陸海軍は補給線を断絶され、現地部隊は置き去りにされ、結局なすすべもなく、フィリピンを明け渡すことになった。
 もし帝国陸海軍がレイテ島で戦うことなく、これをアメリカ軍に明け渡し、野球の「打たせて捕る」の方法で、バターン半島とコレヒドール要塞に同じ兵力と戦力を集中投入して戦っていたら、原爆の完成前に相当な結果を出していたであろう。
 孫武は次のように述べる。

 「山地・谷地・湖沼・河畔が自然の《死地》を形成する地形で、安全に出入りできる通路もないのに、先を争う一心で互いに奪い合って衝突し、やむをえず、そこが戦場になってしまう場合があります。このような地点は、奪っても何の利益もなく、そこを守ろうにも、ゲリラ攻撃を受けたらひとたまりもなく再び奪われ、危険で兵力を消耗するばかりです。したがって、このような地点は争奪してはなりません」

 また孫武は、本篇の《行軍篇》でも具体的に「蒋・黄・荊」という淮水流域の城砦都市の名を列挙して、「このような難所の障害のある地形に踏み込んで攻略してはならない」と説明している。
 この三つは従来、水草の名前だと誤読されていたが、銀雀山竹簡の用例と金文の用例で、「井侯=?侯=荊侯」とあることから、現在の安徽省淮南市にあたる古代の《荊》であることがわかった。
 実際の歴史においても、《左氏春秋・昭公31年(紀元前511年)》、呉王の軍勢はいわゆる「飛び石攻撃法」を用いて、これらの「蒋城・黄城・荊城」の攻略を避け、六城・濳城・弦城を相次いで急襲し、敵軍が全勢力をあげてやってくる前に、何度もギリギリで素早く引き上げるという時間差攻撃をうち、敵軍を疲弊消耗させる戦術をとっている。
 この時の戦術については、《左氏春秋・昭公30年(紀元前512年)》で伍子胥が述べている。

 「もし、わが軍が三軍を編成して、あちこちに出没すれば、こちらが一軍を出すだけで、敵軍は全兵力を総動員して打ちかかってくる。敵軍が来たら、こちらはすぐに引き上げる。敵軍が追撃をあきらめて撤退したら、また別のところに進出する。すると敵軍は強行軍つづきで疲弊し、往来するだけで戦力を消耗する。こちらが敵の手薄なところを狙って攻撃すれば、そのたびに敵軍は救援のために各地を走り回ることになり、これを何度もくりかえしていけば、まともな戦い方はできなくなる。このようにして敵軍の気勢を無力にしてから、全軍を挙げて総攻撃すれば、きっと大勝利することができるであろう」

 ちなみに、この戦術方法は、毛択東が八路軍で実践させたゲリラ戦法にも応用されていて、日本陸軍は物量の上でも圧倒的に劣勢な共産ゲリラ軍に相当な打撃を受けている。
 この実例からしても「日本はアメリカに物量で負けた」というのは全くの幻想であり、日本は物量を計画的に生産準備する戦略もなく、自分たちの戦力を十分に活用する戦略も欠如していたのが実態なのである。

 また「戦場の選択」をTPOの選択としてとらえ直すと、「争ってはならない場所(Places)」の他にも次のことが考えられると思う。

(5) 争ってはならない時日(Time)
(6) 争奪してはならない状況(Occasions)

 周知のように、小泉純一郎内閣総理大臣は就任後の8月13日に靖国神社に参拝を行なった。
 ただし、その参拝は神道式ではなく、憲法の政教分離の原則に配慮して、一礼のみにて行なったものである。
 したがって、土井たか子衆議院議員が、首相よりも「憲法上は偉い」衆議院議長の時に、キリスト教会に通って、明白なる宗教儀式に参加して、「一礼のみ」を逸脱する宗教的な所作、たとえば他の信者とともに十字を切ったり、ヴェールをつけ、ロザリオを握りしめ、讃美歌を合唱していた場合、
 「重大な憲法違反を侵したことになるのではないか」という素朴な疑問も生じてくる。
 論争が信教の自由という本題を超え、中国と韓国の二ヶ国が激しく非難する中、はたして8月15日に参拝を強行することがベストであったか。
 また明治維新・戊辰戦争のために創建された靖国神社の歴史から見ても、8月15日に内閣総理大臣が参拝することがベストなのか。
 ここでもシミュレーションを展開してみるとよい。
 ちなみに戦後、GHQが靖国神社を廃絶しようとした時、
 「どのような国家も固有の方法によって戦死者の霊を祭礼する権利がある」と弁護したのはローマ法王庁であった。
 そしてカトリック教会は靖国神社問題だけでなく、政治や思想の問題にカトリック団体が関係して、信者の自由意思を束縛することを厳しく禁じているのである。



ban_kanzaki

next


© Rakuten Group, Inc.
X