☆ケネディ暗殺事件
☆ケネディ暗殺事件と戦略問題
戦略問題の善悪を論じるために、最も有名で衝撃的な事件をケース・スタディとして取り上げたい。
映画《JFK》は、複雑なテーマをよく噛み砕いて観客に理解させようとしている。
興味深いところは、主役のギャリソン検事を善意の人物として描き、時代の状況下で悩みながら、真実を追及する展開でプロットを進行させていることである。
彼は最初、まったく国家の組織の一員であり、アメリカ政府の内部に陰謀が存在することを信じなかった。
CIAのマイアミ支局の動きとマングース作戦についての情報があっても、彼はそれが何を意味するのかわからなかったし、深く知ろうともしなかった。
しかし、ケネディ大統領の暗殺犯とされたオズワルドがこのマングース作戦と関係しており、ギャリソン検事の地元ルイジアナ州ニューオリンズの街頭でキュ-バのカストロ支援委員会のビラを配っていたことも理解していた。
そこで彼の目の前でオズワルドに関係した無名の証人たちが次々に暗殺され、ようやく彼は目覚めた。
政治的圧力の脅迫の手は、ついに幼い自分の子どもたちにまで及んだ。
そこで彼は言う。
「国民にウソをつく政府を守りたいか。そんな危険な国を信じられるか。真実もいえない。」
「このケネディ暗殺で、最も得をした二人、元大統領ジョンソンと新任のニクソンにオズワルドとルビーの資料を請求するのです。オズワルドのソ連での活動メモもね。これは破棄されたが・・・。これらの資料は国民の物です。税金が使われた。」
「ある作家の言葉です。愛国者は自分の国を政府から守らなければならない。」
彼の過激な言葉は、最初は政府に対する過激な批判攻撃と誤解された。
しかし、法廷にさまざまな証拠が提出され、ケネディ大統領暗殺が複数犯の犯行であり、暗殺者とされたオズワルドは犯人として計画的に偽装された真実が暴露される。
この部分の描写は非常に丁寧であり、実際の裁判記録に基づいている場面である。
したがって、大統領の暗殺を実行し、オズワルドをカミユの小説のようにスケープ・ゴートに引きずり出し、関連する証人たちを口封じに殺害した強大な権力内部の存在が、暗殺の前後の状況証拠から浮かび上がってくる。
これは衝撃的な内容である。
しかし、ありえない話ではない。
アメリカ政府の謀略機関は、実際にこのような要人暗殺やクーデターをいくつも海外で計画し、実現してきた。
ケネディ大統領も就任直後にCIAがキューバの侵攻作戦を用意していて、それを抑制することができなかった。
しかし、すべてが腐敗しきったキューバ亡命軍は、61年4月17日、上陸したピッグズ湾でカストロ軍に包囲され、陣地の確保もできないで逃げ出してしまった。
CIAの計画では、反革命派の亡命軍が湾内の一角で陣地をつくり、数時間ぐらいは持ちこたえ、そこで反カストロ政権の樹立を宣言して、米軍に正式の軍事支援要請をするという筋書きであった。
CIAの要請で、すでに米空軍の戦略爆撃機が上空で多数待機し、結局はキューバ領空を侵犯するという文字通りのフライングまでやっていた。
それが何と、筒抜けの情報もれのために、じっくりと待ち構えていたカストロ軍が、たやすく亡命軍を水際で追っ払ってしまったからたまらない。
このまま、大義名分もなく米軍が亡命軍とともにキューバに侵攻すれば、それこそ真珠湾攻撃のようなことをアメリカ政府がやりだす結果になる。
そこで事態を注視していたケネディは即座に決断し、ペンタゴンに作戦中止を命令した。
大統領命令により、キューバ領海ギリギリで待機していたアメリカの戦艦とヘリ空母が突然帰航に転じたので、亡命軍と再侵攻を相談していたCIAは仰天した。
残っていたのは亡命軍の上陸用舟艇など、小さな船団ばかりで、カストロ革命軍指揮下の戦闘機数機が飛来すればひとたまりもない。
こうしてピッグズ湾事件は終結し、ケネディ大統領はCIA長官のアレン・ダレスを更迭した。
ダレスは第二次世界大戦でCIAの母体となったOSS(機密情報機構)のリーダーとしてスイスのジュネーブで活動していた。
ナチス・ドイツ降伏の前に海軍と外務省の特使が極秘にダレスと接触して対日講和を打診したが、ルーズベルトが死去し、原爆実験が成功するという状況の変化で突然御破算になった。
元国連大使・加瀬俊一氏は当時、駐ジュネーブ日本大使館代理公使であり、元日本銀行総裁の前川秀雄氏は日銀ジュネーブ支店長代理で、ダレスと交際があった。
この関係が朝鮮戦争の間、対日講和・日米安保を策定する段階で、何度も来日した国務省次官補ダレスと吉田茂首相をつなぐ架け橋になった。
こうしてダレスはアイゼンハワー政権では国務長官になり、続いてCIA長官に就任することになったが、実質的にCIAの創立者と考えてもよいであろう。
キューバ侵攻は、民主党のケネディ大統領に、共和党員のダレスCIA長官の留任を認めさせるためにも必要な策略として強行されたのである。
が、その失敗の結果、カストロは5月1日にソ連と同盟して、キューバを社会主義国として再建する宣言を行い、アメリカはカリブ海に反米勢力の根城を抱え込むことになった。
ダレスの首が飛んだので、多くのCIA幹部がケネディ個人に対して反抗的になったことは想像に難くない。
また、ダレスは職業外交官の出身であり、OSSのスタッフは陸海軍参謀部の情報将校ラインを統括していたから、ダレスの権威は国務省と国防省にまたがっていたのである。
1961年というのは興味深い年である。
5月16日には韓国で元日本陸軍将校出身の朴正煕中将が反共クーデターを起こしている。
日本では学生時代の江田五月衆議院議員などの学生グループが反安保運動で国会議事堂に乱入して逮捕される事件を起こしていた。
機動隊との衝突で死亡した樺美智子の追悼集会には、やはり学生時代の愛知元外相や榊原元財務官などが参列していた。
そういう時代である。
ダレスが将軍だとすれば、ケネディを中尉以下にしか見ていなかったCIA高官たちは大統領の命令を完全にサボタージュしていた。
そこでダレスの更迭後、ケネディは大統領命令で平和時のCIAの特殊工作任務を統合参謀本部議長の指揮監督下に置いた。
つまり、CIAはペンタゴンの下請けに格下げになった。
現在のイラク戦争や、タリバン対策方針の分裂などにもに見られるように、今日まで続くDIAとCIAの対立がここから生まれたのである。
また、ケネディ大統領は南ベトナム政府の腐敗と国民に対する弾圧に配慮して、ゴ・ジンジエム大統領とその一派を排除する軍事クーデターに賛成し、その後の軍事政権の擁立を容認して支援した。
ただし、これは《JFK》でも指摘されているとおり、CIAではなく、全て国防省ペンタゴンの指揮で実行されたことは明らかである。
しかし、ケネディはせっかく権限を与えたペンタゴンを味方につけることもできなかった。
それは米ソ間でベルリン封鎖とキューバ危機が起きた結果、その後の米ソ対話の進展でホットラインも開設され、ケネディが大規模な軍縮にのりだしたからである。
大統領であり、元帥であり、英雄でもあるアイゼンハワーを圧倒した「軍産複合体」と正面から敵対し、その膨張を押さえ込もうとしたのである。
キューバはソ連のミサイルで武装され、ピッグズ湾事件のような反カストロ軍の上陸作戦は永久に不可能になった。
こうしてケネディはいったんペンタゴンにあずけたキューバ侵攻謀略・マングース作戦の中止を指令し、関係者はみな失業することになった。
ここでCIAのエージェントをしていたキューバ人の一部が、後に73年にニクソン再選委員会に関係して、その手先としてウォーターゲート事件を引き起こしている。
そこで《JFK》は、マングース作戦中止の余波として、ケネディ暗殺が計画されたというギャリソン検事の主張をそのまま出している。
「アメリカの謀略機関に蓄積された驚くべきノウハウが、ケネディ大統領暗殺の周辺に張り巡らされていた。つまり、世界でアメリカがやってきた謀略の手段を、アメリカ国内のクーデターに使ったのだ」
しかし、実際のCIAやDIAの人々は、そうした見方を今でも厳しく否定する。
「アメリカの外でいろいろなことをやってきたことは認めるが、アメリカ国内の民主主義に反することはやっていないはずだ。それは政府機関として《掟》として確立している」というのである。
そこで私はたずねた。
「それではCIAや軍情報部関係のOBはどうなのか。ケネディに首を切られたダレスの側近がペンタゴンやCIAに影響力をもち、暗殺集団も抱える私設の謀略組織を持って行動していたら」と重ねて水を向けると、恐い顔をして「I have no idea about such」という。
ケネディ暗殺は現代アメリカ人にとっても重い十字架なのだ。
今、アメリカ情報機関の第一線で働く彼らは、60年代生まれでケネディの生前は学校にもあがっていなかった。
彼らに責任はないとしても、ケネディ自身によって野に放たれた「私設謀略組織」という一種の戦略情報ヤクザは、現在でもいろいろな形で健在なのである。
アメリカの情報機関、特に第二次世界大戦・朝鮮戦争を重ねて巨大に膨張した政府の軍事産業と政府の外郭団体は、アメリカ政府そのものを内部から圧迫していた。
こうした私設謀略機関の存在を想定して、ケネディ暗殺を解析しようとしたのが、ドルトン・トランボ原作・脚本の映画《ダラスの熱い日・The Executive Action》である。
これも非常に完成度の高い映画作品で、ビデオで何度も見直しても飽きない。
トランボはハリウッドで社会派の脚本家として活躍していたが、朝鮮戦争後の50年代にアメリカで吹き荒れた《赤狩り》の中で、左翼・反米思想主義者として告発された悲惨な実経験がある人物である。
ベトナム戦争の体験にこだわるオリバー・ストーン監督とはちがって、彼はアメリカの民主主義体制に不当な権力をほしいままにする扇動ファシストが存在することを肌身で感じた。
マリリン・モンローの夫・エリア・カザン監督がマッカーシー上院議員の非米活動委員会に告白リストを提出し、彼は人民裁判方式で断罪され、社会的信用を傷つけられた。
それがもとでトランボの著作はカーター政権まで発禁処分が解除されず、彼は経済的にも危機に陥った。
そんな窮迫の中で、トランボが懸命に書き綴っていたのが、このケネディ暗殺の陰謀の真相に迫る《The Executive Action》だったのである。
発禁処分が解除されると、彼は映画化を希望したが、旧知の幹部がいた名門映画制作会社はみな配給を拒否した。
問題作となり、社会問題となることを懸念したのである。
ところが、かつての仕事仲間だった名俳優ロバート・ライアンがトランボに協力を申し出た。
この時、ライアンは悪性のガンで死期を宣告された状態であった。
彼が演じた陰謀の総帥は、まさに真に迫る演技である。
準主役のバート・ランカスターはライアンの親友であった。こうして自主配給で低予算で完成した映画であったが、興行的にも成功はしなかった。
しかし、アメリカの闇の部分を描いたセミ・ドキュメンタリーとしては、ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンの《大統領の陰謀》よりも非常に緻密で、しかも示唆に富んでいる。
陰謀を語り始めるのは、元将軍と大学教授、元CIA高官とFBI幹部OB、それから政界通の大物ロビイストと石油富豪である。
大学教授が断言する。
「ケネディ大統領一家はアメリカを世襲の王国にしてしまうだろう。ケネディ大統領が2期、次に弟のロバートが2期、三男のエドワードが2期を支配して、息子たちの世代に譲っていく。」
孤立無援だったケネディは弟のロバート・ケネディを司法長官に任命してFBIのフーバー長官に当たらせた。
フーバーはケネディの過去の女性スキャンダルすべてを握っており、協力姿勢を見せつつ、独立自尊の姿勢を崩さなかった。
近年までケネディ関係のスキャンダルのファイルが完全に隠蔽されていたのは、フーバーの権力を物語るものだとも言えるし、それを材料に大統領の権力を脅かした暗闘と確執の爪痕だともいえる。
しかし、このことが同族支配の「世襲制の兆候」とされたのは不幸なことだ。
今は共和党のブッシュ一族がアメリカ政界に世襲を持ち込んだからである。
父親のブッシュは元空軍の爆撃手であり、東京大空襲にも参戦し、情報畑に転属してキッシンジャーが任命した初代の北京連絡事務所長になり、CIA長官を歴任してからレーガン候補の対抗馬として共和党の大統領候補の予備選を戦った。
そこで有力者が相談して、レーガン大統領の副大統領となり、その後継者に指名されて大統領に当選したという経緯がある。
そして息子のブッシュが大統領選挙の開票騒動にまきこまれたのは、実弟が州知事をしているフロリダ州であった。
明らかに共和党内部に「世襲」に反発する勢力があったのだ。
暗殺はしないが、社会的信用を傷つけ、その発言を封じ込めるという社会的な抹殺の手段は日本でもよく行われることで、これは善用もされるし、もちろん悪用もされているかもしれない。
さて最初の時点で、暗殺の方法、暗殺のためのプロジェクトが決められ、実行犯グループは大統領専属警備隊(シークレット・サービス)の記章を用いて現場から逃走し、身代わりの容疑者になるスケープ・ゴートも用意して、あちこちに風聞情報をバラまいておき、地元警察に逮捕させる。
暗殺はオープン・カーでパレード中を襲撃し、動く標的を三方向から三丁の銃で射撃する。
これらは原則通りだ。
成功の確率は100%に近い。
同じ方法で射撃訓練をしている暗殺チームがあれば、そのまま使える。
特殊な訓練や大がかりな仕掛けはいらない。
「パレードは日程や道順がはっきりしている。撃った後に混乱にまぎれて脱出するには絶好」というわけで、暗殺の手順は最初の段階に決定している。
これも戦略オプションの要諦である。
オズワルドの名前は、当時のコンピューターの条件検索で選び出された。
幼い時に父が死亡し、母親と放浪して生活する中で、海軍基地の町ジャクソンビルに流れつき、そこで兵士を志願した。
海軍でレーダー機器の操作を学び、厚木基地に勤務経験があり、そこで除隊した。
それからソ連に亡命し、薬剤師の女性とも結婚してから、突然アメリカに帰国した。
その後、ニューオリンズで勝手にキューバ支援委員会の代表を名のり、街頭でビラを配ったりして関係者を信用させ、まんまとソ連経由でキューバに渡航しようとしていた。
海軍情報部やCIAの秘密エージェントであることは間違いなかったが、組織に定着した人間ではなく下働きの鉄砲玉として、FBIやマフィアとも交際していた。
このような人物が大きな犯罪に関係した場合、すべての情報機関が相互に対して疑心暗鬼となり、それぞれが握っている断片的な情報を完全に抹消し、オズワルドの実態が暴露されないように躍起になることは明らかである。
海軍もCIAも事件後の動きは早かった。
ケネディの遺体はワシントンに送られる前に海軍基地内で検死解剖され、その詳細は極秘とされた。
公開された結果は3発の銃痕の確認にとどまり、これがオズワルド単独犯行説の重要な論拠となった。
オズワルドと海軍・海兵隊の関係は厚木基地で終了しており、それ以降の問題は抹殺したかったのである。
クーデター劇の別の主役、リンドン・ジョンソンは何も知らず、日本訪問の途中に事件を知った。
ところが政府専用機の中に常備されているはずの暗号コードが機内から紛失していた。
また、ワシントンでは議会とホワイトハウスの電話回線が暗殺事件前後から不通になり、無線通話以外には交信ができなくなった。
これはCIAの所管であった。
今日でも集中豪雨的に電話が殺到すると回線がパンクして不通状態になるが、このときはオペレーターの回線まで不通になっていたのであるから、陰謀工作の痕跡は明白であった。
ジャック・ルビーはシカゴ出身のマフィアの小ボスで、ニューオリンズでオズワルドと関係を持ち、オズワルドがキューバに渡航することを知って、カストロ周辺との内通やマフィアがキューバに残してきたホテルやカジノの利権の復活を働きかけていた。
一方で司法長官のロバート・ケネディはマフィア対策に国民の関心を集め、ルビーの親分にあたるゴッドファーザーのジアンカーニを上院公聴会に召喚し、テレビカメラの前でさらしものにしていた。
このようにオズワルドを格好のスケープ・ゴートに仕立てることで、ケネディ暗殺は決定的なものになった。これは戦略の勝利である。
しかし、アメリカの歴史の汚点と敗北であったともいえる。
《The Executive Action》では、マフィアとの関係はむしろ全くといっていいほど、ほとんど出てこない。
ハリウッドのビジネスにはマフィアが深く入り込んでおり、フランク・シナトラとマフィアの関係は公然と映画《ゴッドファーザー》の中で描写された。
トランボの著作が無言で意識的にマフィアを避けていたといえば厳しすぎるかもしれないが、その欠けた部分を補強したのが《JFK》だった。
われわれは戦略問題の方法論を、悪にも、善にも使うことができると私は再三再四述べてきたが、その理由が納得していただけたであろうか。
私の言えることは、人間として後味の悪い仕事を引き受けるよりは仕事そのものを否定して、さっさと身を退いてしまうことがよろしいということだ。
スキャンダルを起こした企業も、社員にこんな悪いことはさせられないという一線があれば、全てを否定して、まともな商売を細々とも続けることができたであろう。
善の戦略は社会を改善する。人間の社会を明るくする。そして人類の幸福を増進する。
悪の戦略は、その逆である。
なぜ「悪の戦略」がタブーなのか、もうこれ以上は語らない。
戦略そのものの善悪の判断は、もはや諸君にまかせよう。
