☆大戦略の概念☆大戦略の概念《逸周書・大武篇》には次のように記されている。 「赦其衆、遂其咎、撫其心、助其嚢、武之間也(其の衆をゆるし、其のとがめを遂し、其の心を撫し、其の袋を助く。武の間なり)」 これはどういうことか。 敵方の民衆を離反させ、こちらに寝返らせるには、こうすべきだというのだ。 「これまでの敵味方の争いの経緯を問わず、すぺてに恩赦を与える。しかし、戦争犯罪や謀反の首謀者などは徹底的に捜索する。民衆にはいたわりの心を伝えて福祉政策を施し、租税を徴収せず逆に食糧配給をする。これが戦争目的で敵国の民衆を寝返らせる方法である」と。 既勝人、挙旗以号令、 命吏禁掠、 無取侵暴、 爵位不謙、 田宅不虧、 各寧其親、 民服如化、武之撫也、 敵国を打ち破って降伏させたら、まず旗をあげて全軍を召集し、次のように号令する。 警吏を任命して、兵士が勝手に民衆から略奪行為をしないように禁止事項を守らせる。 兵士一人たりとも強盗や暴行でトラブルを起こさないように組織秩序を厳正に維持する。 敵国の官僚組織や制度は変更せず、降伏した高官役人たちの地位も身分も保証する。 国境や土地の境界も変更せず、領地を削ったりすることもしない。 そして、全ての官吏や民衆が戦争以前と同じような暮らしができるように可能なかぎりの配慮をほどこす。 そうすれば民衆は、王者がかわって前の王朝が滅んでも、新しい王の命令に素直に従い、占領同化政策にもほとんどリスクやコストがかからない。 これが戦争目的を果たし、敵国を併合して、民衆を同化させる方法である。 餌敵以分、而照其儲、 以伐輔徳、追時之権、武之尚也、 百章感服、偃兵興徳、 夷厥険阻、以毀其伏、 四方畏服、奄有天下、武之定也、 敵対勢力にも莫大な利益を示して、勢力全体の分割や分裂に誘導して、寝返りによる利益の大きさを見せつける。 このようにして寝返る諸侯や民衆に勢いをつけさせ、時を追って敵対勢力の分裂と弱小化をすすめる。 これが戦争の勝算を大きく高める戦術である。 人間として反することのできない社会的秩序の原則にしたがって国家の政令を発表し、民衆を感服させる。 兵力を休ませ、国民の統治に武器を使わず、反抗的な者には逆に恩恵を与える。 しかし、軍事的な反抗拠点となるような険阻な城砦は破壊し、隠れている敵対者や対抗勢力は徹底的にたたきつぶす。 それによって遠方の諸国もその統治と武力の手際よさに畏服し、武力をすべての問題解決手段に用いなくても天下を支配する権力を手にすることができる。 これが戦争の最終目的である。 ________________ このように大戦略というのは、勝ち負けを決するようなレベルの戦略オプションではない。 戦いに勝った後の状況をどのようにするか。 あるいは決定的な戦いに負けたとしても、どこで休戦をするか、どこで戦争を終わらせて、次のステージに展開するか。 それによって地域の安全保障や経済的な安定の枠組みをどのように作り上げていくか。 戦いが四年や五年を費やすとしても、さて十年後にはどのような形勢に持ち込むために戦いを続けていくのか。 あるいは表面的な平和が続いていても、指導層は常に危機の予兆に配慮し、この平和状態を崩壊させるような要因に緊急対処する布石の準備をしなければならない。 このように、戦いの時は戦争後の形勢を予測して体制構想に着手し、平和な時には危険な兆候や壊滅状態のプロセスを予測してダメ押しの布石を置いておく。 これが大戦略の概念である。 現代の大戦略と、古代の周晋思想の《大武》の理念が一致しているのは偶然ではない。 枕、寝間着、布団、食器。生活用品の大半は同じものだ。 大戦略も同じように、人間社会に必要必須な理念なのだ。 政治学の始祖マキャベリは、1517年に執筆した《ローマ政略論 Discorsi sopra la primia deca di Tito Livio ティトゥス・リヴィウスのローマ史の最初の十章における論考》で次のように述べている。 「政策上の配慮による場合でも、また野心にかりたてられた場合にしても、戦争を行おうとする目的は征服することである。また征服したその土地を確保して繁栄に導き、征服地も本国とともに貧しくならないように手をうつことである。したがって、征服するにも、支配をするにも、浪費をつつしんで、万事公共の福祉を第一とするように考えなければならない」 (Discorsi, Libri II-6 日本語訳『世界の名著・マキャベリ・政略論』pp.377-8 中央公論社 昭和41年) 経済学を学ぶと、今日の国際金融秩序を形成するIMF(国際通貨基金)体制は1944年7月、アメリカ・ニューハンプシャー州ブレトンウッズで財務長官モーゲンソーが連合国に呼びかけて開催されたブレトンウッズ会議協定によって設立されたものだと教えられる。 しかし、この会議が曲者なのである。 当時は第二次世界大戦中でノルマンディー上陸作戦から一ヵ月後、サイパン島が陥落して日本全土が空襲の危機にさらされていた。 もちろん日本はIMFの設立には参画していないし、韓国はまだ日本帝国と併合状態にあった。 先年、韓国が金融危機に陥って、IMF体制に批判を強めたのは、 「設立会議の席も与えられなかった国際機関の強制干渉や決定」への反発が根底にあるのであろう。 しかし、このブレトンウッズ会議は戦時下の秘密会議で、一国の代表が出席したところで、各代表はアメリカ側が提出した議決ファイルを本国に持ち帰るだけの筋書が事前にできあがっていたのである。 イギリス代表は経済学者のジョン・メイナード・ケインズ、いわゆるケインズ経済政策の元祖であった。 この会議は、その帰国直後に自宅近くの牧場の道端で散歩中に急死するケインズにとっても生涯最後の大仕事であったはずである。 ところが、彼が提案したヨーロッパ方式の国際通貨銀行制度の提案は拒否され、アメリカの連邦通貨準備基金を単純に拡張しただけのIMF制度が誕生したのである。 それは戦後のドル中心の西側諸国の国際経済体制を形成する基盤であった。 しかしながら当時、連合軍はパリの攻略も果たしていなかったのである。米ソ首脳が直接対話するヤルタ会談は翌年の2月である。 アメリカは、すでに戦後の世界経済体制にソ連が参加しないことに見切りをつけ、イギリスをはじめヨーロッパ諸国にアメリカが支配的な地位を占める国際経済システムに服属することを半ば強制したのであった。 あのニューディール政策の立役者として、ワシントンでルーズベルト政権の主要閣僚に拍手で迎えられるかと思いきや、寂しいブレトンウッズの山荘の秘密会議に閉じ込められたケインズの屈辱はいかばかりであったであろうか。 帰国した直後に、失意のケインズが心臓発作に倒れたというのも、この会議の冷酷さを物語っている。 私は学生時代に、グレイハウンド・バスの一ヶ月クーポンを利用して、アメリカ全土を旅して回った時、やはり気になっていたBrettonWoodsに立ち寄った。 ![]() そこはホワイト・マウンテン・リゾートという看板が掲げてある専用スキー場付きのスイス・シャレー風の長期滞在型保養施設であった。 調べてみると、今ではホームページも出している。 http://www.brettonwoods.com/ 私が行ったのは夏だったから、スイスのサンモリッツやジュネーブのホテルを思い出したものである。 外側は大宮殿のようだが、中の造りはあっさりしていて簡素であった。 ここの地で戦後の経済体制の大枠が決定されていた時、私の父は海軍兵学校の予備校であった海城中学の受験のために疎開先から東京に帰京して空襲にあい、自宅は全焼してしまったが、家族は無事であった。 まさに日本は孤立無援の状態であった。 そんなことが私の心に去来した。 部屋は長期滞在用にゆったりとしていて、一晩でも好意的に泊めてくれた。 AMEXのゴールドカードが効いたのかもしれない。 ケインズが泊まった部屋も見せてもらった。 けれども料理だけは、ひどくまずかった。 「日本の観光客に紹介してくれ」と年配のマネージャーが笑顔で言うので、その場で手紙を書いてNHKとTBSの番組編成部にホテルのパンフレットを送った。 その後、NHKが取材にきたようである。 そのとき、私もそう考えたし、アメリカ駐在の外交官もよく来るというから、同じことを考えるのであろうが、 「二度と日本は世界から孤立してはならない」と痛感したのである。 そして、ブレトンウッズのような全世界の歴史的方向を決定する会議には名誉ある地位を占め、相当な発言力を持たねばならない。 そのための政策研究、そのための政治家の人材、そのための国家戦略が必要なのだと。 私が《大戦略 Grand Strategy》の研究を決意したのは、この時からであった。 ![]() ![]() |