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曹操閣下の食卓

☆シーザーの大戦略(2)

☆シーザーの大戦略(2)☆民族主義とテロリズム



 『君主論』の著者、ニコロ・ディ・マキャベリは、《ローマ政略論》で次のように述べている。

「新しい宗派、つまり新しい宗教が伸びてくるばあい、まず最初にその新宗教がとりくまねばならないのは、自分たちの名声を確立するために、既存の宗教をぶちこわすことなのである。
 このばあい、新宗教の教祖がこれまでとちがった言語で語りかければ、古い宗教の破壊はわけないことなのである。
 この点については、古代の異教に対して、キリスト教がとりあげた方法を考えてみればわかる。
 キリスト教はそれまでの宗教の全制度、祭式をご破算にして、古代神学にまつわるありとあらゆる記憶を一掃してしまった。
 このように古代宗教の傑出した人々の事績に関する知識を根こそぎに消滅させることが可能であったのも、ラテン語を使用して、これによって新しい律法を書くようにしむけたからにほかならない。
 つまり、このように他の宗教の迫害を目的として、新しいことばを使って書くことができたら、それ以前の出来事についてはなんの記録もとどめないようになるにちがいない。
 聖グレゴリウスやそのほかのキリスト教界の大物たちがとりあげた方法を読めば、彼らがどれほど執拗に過去につながる記憶をぶちこわそうとしていたかがわかるであろう。
 つまり、詩人や歴史家の作品を火中に投じ、肖像画をこわし、過去の夢を追わせるようなものはなにものといえどもいっさいこれを破壊してはばからなかったのであった。
 このような旧物破棄が行なわれたことに加えて、新しい言語が使われはじめたら、またたくまにいっさいがっさい忘却のかなたに消しとんでしまったにちがいない。
 けれども、キリスト教が古代の異教に対して行なおうとした迫害というのは、その異教自身がそれ以前にあった別の異教に対して行なった迫害と同じものであったと考えられる。(中略)
 すでに述べておいたように、エトルスキ人は国力が栄え、宗教心にあつく、武勇にもすぐれていた。そして、かれら独特の風習や言語をもっていたのに、すべてがローマ人のまえに潰えさってしまった。
 したがって、私がこれまでにも論じたように彼らのなごりをとどめるのは、わずかにその名前だけなのである。」(Discorsi Libri II-5 『世界の名著・マキャベリ』pp.375-7)


 この論考はキリスト教に対する真っ向からの批判を含むもので、マキャベリの著書が死後に、当時のキリスト教会の圧倒的な権力によって「悪魔の書」として弾圧・発禁処分となった原因であった。
 しかし、古典の英知が提起する真実の問題はいつも新鮮である。

 シーザーの戦略を説明するのに、大きく話がそれないようにするが、
 古代ローマ時代の軍隊は、われわれが想像する以上に民主的な体制であった。
 ローマの軍隊は武器をもって政治に関与することを明確に禁じられ、外国の遠征から帰っても、市門の外で武装解除をしてから凱旋式を挙行する慣例になっていた。
 凱旋式は同時に軍隊の解散式でもあった。
 お祭りの御神輿をかつぐ「組」や、地元消防団のように、必要なときには召集されるが、当面の問題が片付いたら解散して自宅や故郷に帰っていくというのが常態であった。
 これはイタリア半島の諸都市の中でローマが率先して武装を解除し、他の都市国家もそれに見習うという「武器なき平和」の維持に役立つものであった。
 また、古代ローマの軍隊には軍団護民官Tribunus Militumという兵士互選の官職があり、いわば軍隊の中に命令系統の士官とは違って、兵士全員の待遇や合法的な要望を受け付ける公認の労働組合長がいた。

 シーザーも27歳で、スパルタクス反乱をきっかけに新規編成されたローマ市の防衛軍団で護民官と同位の軍団副官の選挙に出馬し、この官職を政界復帰の足がかりとし、公選されて着任している。
 前段に説明したように、古代ローマが正式に組織的な常備軍を持ったのは、シーザーの叔父ガイウス・マリウスの軍制改革以降である。
 これも北アフリカのマウリタニア(現在のチェニジア・リビア)で連続的に反乱を起こし続けたユグルタ戦争の後、長期的な平和維持機構として武装状態を維持する駐在軍団が当然のように求められたからである。

 シーザーの伯父の執政官ルキウス・ユリウス・カエサルは、それまでローマの周辺地域の出身者だけに限定していたローマ市民権を、イタリア全土の自由市民に付与する法律、ユリウス法を制定し、実施した。  
 シーザー自身も、ガリア戦争よりも十年前の30代にアッピウス国道管理官Curator Viarum Appiliumを勤め、このアッピウス国道につながるラティウム植民市を巡回してこの地域の市民権獲得運動を支援したことがある。
 またシーザーはイスパニア人出身のバルブスを側近として、技術参謀として重用し、ローマ市民権も自分で与えた。
 驚くべきことは、シーザーの死後、このバルブスがローマの最高位・執政官に就任したことである。
 現代のアメリカでもキッシンジャーのように外国語なまりの移民一世が政務官職に就任することは少ない。
 ガリア戦争の後、自分も独裁執政官としてローマに協力的な複数のガリア貴族にローマ市民権を付与している。
 古代ローマは今日のアメリカのように多民族的な人造国家であった。逆にいえば西ヨーロッパ諸国の殖民地(コロニーズ)の移住民たちが、それぞれの祖国から離脱し、団結して独立建国を果たしたアメリカは、多くの基本制度と国家の形態を、マキャベリやモンテスキューを経由して、古代ローマから模倣したのである。
 シーザーから数えて五代目、ガリア戦争から百年ぐらいにあたるクラウディウス皇帝は、ついにローマ本土に永年居住するガリア人に対して、ローマ市民権を与える布告を表明した。
 彼の元老院演説はタキトゥスの《年代記》(日本語訳 『タキトゥス年代記(下)』国原吉之助訳 岩波文庫 pp.36-37)にも引用され、フランス・プロヴァンスではほぼ同内容の銅版の布告文も出土している。
 これが一つのローマ帝国の偉大さの本質を物語っているであろう。

「スパルタやアテネの人々が、戦争に勝っても、最後には破滅したという理由は他でもない。
 彼らが征服した民族を、あくまで異国人として「わけへだて」をしていたからではないか。
 その点で、われらが建国者のロムルスは、たいそう賢明であった。
 数多くの民族を、敵として戦ったその日のうちに、もう同胞市民として遇したほどである。
 のみならず、外来者がわれわれの上に君臨したことすらある。
 解放奴隷の息子に官職を委託したこともある。
 これらは多くの人々が誤解しているように、最近の現象ではない。
 古い時代からたびたび起こっていたことである。」

 これが「ロムルスの理想」である。


 われわれは戦略という術語をつかうとき、「敵に勝つ」という目標を立てる。
 しかし、大戦略を立案するときは、こうした概念を捨て去り、「いかに敵を味方にするか」という視点を持たねばならない。
 昨日の敵が今日の味方になれるだろうかと心配する必要はない。
 「敵に勝つこと」は「敵を最小にすること」であるが、最小の敵はテロリズムを使う場合がある。
 われわれはそのことをよく学習したと思う。

 したがって、敵がテロリズムまで追い込まれる前に戦いをやめて、それからは敵との対話と、共存共栄の道を模索しなければならないことを知るべきである。
 われわれは人間が互いの争いにエネルギーを用いるより、互いの団結によって、より大きな力が発揮できることを知っている。
 この単純なモデルを応用する限り、「争いの戦略」は限定された期間の、ごく一部分の行動計画を規定するだけにすぎない。
 持続可能な共存共栄の大戦略において本当のリーダーシップを発揮し、主導権を維持することが、われわれの戦略研究の一つの決意であり、志なのである。

 「ロムルスの理想」を読んで、
 「これは帝国主義であり、他民族の同化政策だ」と批判的に感じた人はなかなか筋がいいな。

 「民族の同化政策」というと、戦前の大日本帝国が東北アジア諸国を侵略し、
 「同化政策を強要した」という暗い過去を思い浮かべる人々もいるであろう。
 今日はあえて、その問題に挑戦しよう。


 「民族同化」というと、沖縄やアイヌ民族に対して、独自性のある地域文化を隠蔽したり破壊して、日本社会の普通教育を強要したという意見もあるだろう。
 私も、こうした意見には大賛成である。
 しかしその場合、こうした過去の歴史に対して、現在は全く無関係な私自身が何か贖罪意識のために、声高く批判する人々から何か金品やら会費名目の寄付を請求されることは御免こうむりたい。
 他人を脅かしては、カネばかり要求する市民運動は名目はどうあれ、どこかあやしげである。

 学問として厳密に指摘したいのは、朝鮮半島南部の大韓民国においても全羅道と慶尚道の地域対立があり、高麗民族の中でも「同化政策とその反発」の関係が現在でも社会問題を引き起こしていることである。
 これは三国時代の新羅・百済の時代から尾をひいている現実である。
 韓国で地政学研究が非常に盛んなのは、北朝鮮問題とあわせて、その反面のあらわれであろう。
 日本を非難し、民族の団結を呼びかける時、朝鮮半島の人々は東西の地域対立も、南北の政府の対立も忘れることができるのである。
 しかし、中国で日本商品を売る店や日本人のビジネスマンや留学生に危害を加えるのは、戦争犯罪に対して犯罪行為で報復するというやり方だ。
 かつてナチス・ファシズムがユダヤ民族を排撃し、ユダヤ人の住居や商店を破壊したり、略奪した歴史的暴挙を再認識すべきであろう。
 世界はナチスやファシズムは何かをよく知っているが、中国の若い世代は文化大革命の大混乱も知らないのだ。
 過激な暴力的排外主義は、右翼的な民族主義、国家主義と結びついたとき、ナチズムにも、ファシズムにもたやすく暴走するのである。


 沖縄の琉球王国・那覇王朝が、その名前の通り宮古島から奄美大島・徳之島・トカラ列島まで、一つの小覇権王朝として、中国大陸に則った「同化政策」の典型的な強制を推進したことも歴史の事実である。  
 沖縄の人々に聞きたい。
 今日、鹿児島県の徳之島・奄美大島などを沖縄県に編入することは可能であろうか。
 外国人が事情も知らずに単なる地理学で考えたら、種子島も屋久島も沖縄県であっていいはずなのだ。
 沖縄本島においても、那覇王朝を立てる以前の尚氏族に対しては、北部地域に独立の気風を持った城(グスク)の首長がいて、これももちろん戦いと反乱を重ねながら「同化政策」を強制されていったのである。
 これが北部の基地問題にも少なからぬ影を落としている。
 背の高さと比較して人頭税を取り立てたという石の柱は、沖縄北部に対する那覇王権の苛斂誅求を物語っている。
 本州には土地税制はあったが、人口そのものに課税する人頭税は考え方そのものが存在しなかった。
 今日でも沖縄県庁は「ホワイト・ハウス」と異名を取るほど豪華な建物で、革新系の元知事の参議院議員は国会議員の中でも有数の資産家であるが、沖縄北部にはヤンバルクイナが生きのこっているほど素晴らしい自然がある。
 このように沖縄本島にも歴史的に厳然たる地域格差というものが実在するのだ。
 沖縄市民も、多くはこのことを考えに入れないし、知っていてわかっていても語りたがらない。
 その原因の一つには、わが国の本州中心の歴史教育ということがあって、これは四国、あるいは過去に異族の地とされた九州・東北・北海道についてもこれから改善をしなければならないが、沖縄そのものを知らないで、沖縄の問題を議論しても始まらない。
 全国的な地域史教育の見直しと身近な地域の問題から発想する地政学の必要性を痛感するものである。

 中国の歴史は、まさに「同化政策」の歴史である。
 「同化」の主役は、ある時期には漢民族が主導したが、別の時期には異民族が「同化」を漢族に強制した。
 満州族が支配した清王朝では漢民族も遊牧民の「弁髪」が強制され、昔の漢人のように髪をのばして冠をつけると、そのことが反乱の意思表示とされた。
 そこで清王朝末期の漢族の反乱を、冗談ではなく《長髪族の乱》と呼んだのである。
 最初に2300年前に中国を統一した始皇帝の秦王朝は、河南省以東の黄河流域の人々にとっては、遊牧系民族の血を引いた野蛮な新興国にすぎなかった。
 その最も誇り高い地域だった孔子の故郷の山東省も、孔子が敬愛した周公の時代には、やはり文字を持たない野蛮な習俗の土地だとされていた。
 孔子も自分が周礼を学んだ近隣の小国の君主、淡子をあえて「夷」と呼んでいる。
 孔子は宋公(安徽省)の分家の子孫で、その始祖は殷・商王朝につながる生まれだという自負があった。

 それでは中国文明の発祥はどこかと言えば、黄土高原の真ん中に黄帝陵・橋山があり、私も西安からヘリコプターでそこに行ったことがある。
 今日では、伊勢神宮のような地形に、観光地としてドライブイン食堂や旅館が立ち並ぶところだが、黄帝陵の周囲の緑地以外は黄色い地肌が露出した乾燥地であり、さらにその周囲は上海や北京とは別の国ではないかと思われるほど貧困な農村が点在している。
 ドライブインのレストランは、入り口に汚れた古い毛布で黄土・黄砂を防いでいる。
 街中は古い工場の廃墟がある。
 もちろん学校も少ないし、学校を知らない人も多いから、文盲率は非常に高い。
 丘陵地が赤剥げているのは、この地域に居住する人々が羊を飼う遊牧民だったからである。
 それでも黄帝陵の門前には、歴代の王侯貴族や文化人の「中華文明発祥之地」を賛嘆する碑文があふれかえっている。
 毛択東も延安時代に祈願文を執筆し、そのコピーのハンカチがみやげ物として売られている。

 こうしてみると、「同化政策」の全てが悪いのではなく、その歴史を今日になって全否定することは難しいのである。
 今日的な教訓として置き換えてみると、いい意味での地域の個性と、地域外と共通の経済や社会的な資源を共有するために必要な普通化政策とが共存して、はじめて地域と国家との文化的な共生が成立するのである。
 沖縄の人々が日本語教育を否定し、琉球語で独自の文化を発展させるのは大変なことであろうが、それでは聴衆のいない音楽家が勝手に演奏しつづけて疲れ果てるのと同じことだ。
 沖縄の文化の素晴らしさをヤマトンチュ(大和の衆)にも、そして世界の人々にも認めてもらうことが、沖縄の一つのアイデンティティになるのだ。
 沖縄の人々がこぞって内地人を批判したり、敵視することは、実に簡単なのだ。
 その理由はどこにでもころがっている。
 しかし、それを中国や韓国のようにやったら、どうなるか。
 観光客は来なくなる。
 沖縄産の品物は売れなくなる。
 むしろ内地に「沖縄でひどい目にあった」という悪名を広める。
 その結果は。
 今の沖縄県民の子どもたちは、ますます日本経済の繁栄から切り離され、那覇・首里の独善史観で教育されることになるであろう。
 それこそ「県民同化政策」であり、那覇政府の「小帝国主義」に他ならない。
 論理が飛躍して、沖縄を世界の中心にするとか、沖縄は鎖国してもやっていけるという身勝手な理屈を通せば、アフガニスタンのタリバン政権のような結末になるであろう。

 私の意見では、沖縄北部は那覇からも独立した精神を復興すべきである。
 それぞれの島も独自の民俗文化、自主自立の精神をもとにする誇り高い人材教育をめざすべきなのだ。
 それは文化や精神で民俗復興を志して、那覇に支配される以前の遺跡や伝承文化に注目することである。
 民俗学は英語でフォークロア、つまり「民衆の智恵」という。
 私は学者であるから、国際学術語であるギリシャ語の「デモス(大衆)」と「ソフィア(智恵)」を融合して、デモソフィーDemosophyを提唱している。
 これは地域の人々に自主自立の精神の尊さを教える学問だ。
 日本民俗学の精神は、柳田國男の難解な政治思想を背景にしているが、郷土史学を通じて、日本各地の住民たちの教養と自主精神を高めたいという遠大な構想があった。
 これが郷土史学・比較文化史学・民俗学の発展型・デモソフィー(衆知学)というわけだ。


 民主主義の社会制度における各地域の独立性は、そこに住んでいる人々の文化的な独立であって、他の地域の人々に対して暴力的な優越性を顕示しようとして、兵器で武装したり、攻撃をしかけるものではない。
 それは一般の社会に対して、ある程度の規模を持つ企業が、独自の企業文化ともいうべきアイデンティティを形成するのと、ほとんど変わらない。
 その地域に人間が住む理由とか魅力がなくなってしまったら、室町江戸時代の歴史記録上には人々の往来が盛んだった地域も、近代的な交通の流れから取り残され、いつのまにか住民のいない過疎地域になり、やがて廃村になって、コミュニティそのものが消滅してしまう。
 こんなことは、内地の山間地ではよくあることなのである。
 しかし現実の問題としては、日本のように住民投票まで進んでいる民主主義体制の国は全世界においても実に少数部分の地域に過ぎない。
 あの沖縄県庁も、私が産経新聞で「沖縄も県民投票を実施せよ」と提案するまでは何も手を打たなかったのである。

 私の著書《シーザーの大戦略》(1995年初版)から少し深く、現代の時事にかかわりのある史実について分析してみよう。
 それはシーザーのガリア戦争も末期、ガリア人の最後の大規模反乱の首謀者になったウェルキンゲトリクスとの決戦である。

 ウェルキンゲトリクスは、もともとローマとの対立を好まないアルウェルニ族の大貴族出身で、彼自身もガリア戦争初期にローマ軍団とともに騎兵部隊を率いて、ガリア各地を転戦していた。
 だから、将軍であり、総督のシーザーを直接に見たこともあったであろうし、部族の中でそれなりの名誉も資産もある立場であった。
 ところが彼はそれでは終わらなかった。
 シーザーが圧倒的な兵力でガリア全域を平定し、軍用道路を開通させ、ブリタニア(イギリス・ブリテン島)に遠征するところまでいくと、彼は「これ以上ついてはいけない」と感じて、ローマ軍の駐屯地から逃亡した。
 他のガリア貴族も少なからず動揺し、彼のように逃亡したり、ローマに背いてシーザーの恩義を裏切る心情に傾いた。

 その理由は、シーザーが、ガリア人の民族性・精神性のよりどころであるドルイーズ教の宗教施設と僧侶階級と決定的に対立したことである。
 正確には、無視したというべきかもしれない。


 ガリア人が巡礼の中心としたカルヌテス族の「聖地(現在のシャルトル)」に近い都市ケナブム(現在のオルレアン)は、それゆえにガリアの全域に通じる交通の要衝であった。
 シーザーはここにローマの徴税請負人や奴隷商人が拠点をつくることを許した。
 それもブリタニア征服の布石であった。
 現在のパド・カレー港でドーバー海峡を渡ろうとしていたシーザーはなるべく多くのローマ貨幣をガリアにばらまき、その貨幣を使うことを教えて、ローマから入り込んでくる商品を買わせることで、ガリア人の民族社会を、ローマ人の貨幣経済に完全に呑み込もうとしていた。
 ガリア戦争の当初には牧畜だけが主産業だったガリア人であったが、この最後の反乱の時期になると、貨幣の収入を得るためにローマ人たちの指導で奴隷農場による開墾も畑作も行われはじめていた。

 アトレバテス族の王族であり、ラテン語を理解する数少ないシーザーの貴重なガリア人の友人だったコンミウスも、おそらくこのころから二重スパイ役を演じはじめた。
 古くからローマと同盟を結んでいたアエドゥイ族の族長の弟ドゥムノリクスも駐屯地から逃亡しようとして殺害された。

 本人も「ローマ軍の脱走兵、おたずね者」であり、ガリア民族の有名人であるウェルキンゲトリクスの周囲には多数の脱走兵が集まり、ローマ人とその手先の商人たちを「聖地」の近くから追っ払う計画を立てた。
 彼らはローマの貨幣経済の浸透によって、伝統的なガリア民族のライフスタイルが変更され、素性も知れない金持ちにカネの権力で支配されたり、ローマ人に膝を屈してカネをもらったり、貴族の誇りを捨てて物乞いしたりする者たちの仲間にはなれなかった。
 やがて脱走兵集団の存在は、ガリア各地の支配階級内の不満分子のネットワークにも知られるところとなり、その伝令をガリア全域にカルヌテスの聖地の僧院で学んだ「同門の兄弟たち」のネットワークを張りめぐらせているドルイーズ教の僧侶たちがかって出た。

 それは足利学校の学問僧たちを甲府で焼き殺した織田信長が数ヵ月後に殺害され、後に徳川家康が関ケ原の出征前に足利学校の残党たちに大きな出版事業をまかせて味方につけたようなものである。
 「学閥」とはいわないが、今でも大学OBのネットワークはいろいろな意味で強固だ。
 ある大学などは、学長選挙や理事長選挙のたびに同窓会有力幹部との政治関係がウワサされる。
 「古代ガリアも、足利学校も、だいたい同じだな」と思うものだ。

 ここに反乱のフレーム・ワークが整った。
 シーザーとローマに降伏して忠誠を誓ったはずだったガリア諸部族のほとんどが内部に不満分子を抱え、ローマに敵対する意思を僧侶たちのネットワークに告白し、表明していた。

 ここまで書くと、われわれはイスラム教の聖地を含むサウジアラビアに駐留軍を置いたアメリカに反発し、アラブの大義を掲げてテロリズムの正当性を宣言したオサマ・ビン・ラディンの《アル・カイーダ》とその隠然たる国際的なネットワークを、皮肉な歴史の再現として意識せざるを得ない。
 その宗教的な背景やアメリカに対抗する動機付けまで含めて、驚くほど非常によく似ている。
 古代にウェルキンゲトリクスが実行したことも、ガリア各地に進出したローマ人と商人たちを暴徒を組織して襲撃し、殺害するという典型的な民族主義テロリズムであった。
 オサマ・ビン・ラディン自身は、ソ連軍のアフガン侵攻に対抗してCIAの厳しいコマンド部隊のトレーニングを受けた人物だし、《アル・カイーダ》はイギリスやドイツの情報機関が直接介入のスタンスを避け、間接的にアラブ社会に接触浸透をはかるため、わざわざ国費を入れて育成した組織であった。
 その結果責任もあって、イギリスのブレア首相は対米慎重派議員の多い労働党政権であるにもかかわらず、ブッシュ政権の強硬路線に消極的なイギリス軍部を叱咤して、アフガニスタン・イランの戦いに参加しなければならなかったのだ。
 これは同時多発テロの犯行グループを、ハンブルグで半ば監視しながら拘束できなかった上に、アメリカに逃亡した後に危機情報通告をできなかったドイツのシュレーダー首相も同じである。
 彼は社会民主党の党首でありながら、保守系野党や与党の《緑の党》の反対票をかろうじてのりきって派兵を決めた。
 しかし、ドイツは国内に多数のイスラム教徒(主にトルコ人)の外国人労働者(デア・ガスト・アルバイタ)を抱えており、第一次世界大戦前からイラクのバグダッドに古い利権がつながっていた。
 イラク戦争に参戦できず、支持もしなかったが、警察の組織コンサルタントを派遣協力して、友好関係は切らないようにしている。

 わが国でも急な事態の進展に防衛庁と自衛隊内部にも困惑を隠さない幹部がいたようである。
 しかし、これはやむをえないことである。
 日本もドイツも国連の安保理事会常任理事国の選出をひかえている。
 すべての常任理事国が賛成し、ニュージーランドやオーストラリアも参加するテロ対策に積極的なアクションを起こさなければならない。
 とりわけ日米同盟の枠内で地位協定の改定交渉も進めているタイミングでは、自衛隊がどこまで防衛力をもって国際安全保障に関われるかを実証しなければならなかったのである。
 日米安保もいやだ、
 国際安全保障とは全く無関係で大丈夫だ、
 自衛隊は廃止しろという人々の主張を実現するとすれば、自分の重いカラをいやがって、ナメクジになろうとするデンデン虫のようなものである。
 鎖国政策で世界から孤立して、日本資本主義経済が成り立つはずがない。


 しかし、ほとんど民主主義のない体制で、中央政府や主要な異民族や多数派によって「同化政策」が強制されることは、われわれ現代日本人には想像を絶する屈辱であろう。
 これこそ現代の問題なのである。
 ユーゴスラビアが民族主義で分裂したのも、全体の民主主義が崩壊し、暴力的な「民族自決主義」の美名を旗印にする複数の独裁者たちによって、極めて非人道的な方法によって独立運動が推進されたからである。
 このことをわれわれの問題として置き換えてみると、民族の対立や地域紛争にとって、最大の解決方法は民主主義制度と武装解除、治安維持であることが明白であるにもかかわらず、その民主主義制度そのものが決して理想的な体制ではなくて、政治家が腐敗したり、官僚が横暴をふるったりしていることに、私は焦燥感すら憶えるのである。

 このように先進国以外の視点から見ても、日本の民主主義体制は全く不名誉で、凡庸で責任感がない指導者たちばかりが登場するような、混乱したイメージがつきまとっていることである。
 石原慎太郎のような才人が東京都知事になったり、小泉内閣がリーダーシップを発揮して、官僚国家の改革に手をつけているのは一面では進歩的に評価できるが、このように有能な人物が中国に対して外交が不可能になっていることは、むしろアジア全体にとって不幸なことと言わねばならない。
 つまり、われわれ日本の民主主義体制がまだ未熟で混迷しているということは、
 「アジア全体にとっても、民主主義に対する不信の念を広め、非民主主義的な開発型独裁政権にも、存在理由(レゾンデトル)を合わせ鏡のように与える結果になっていたりしないか」
ということである。
 日本の自民党政権のような長期安定した一党政権が、政府の官僚機構と一体化すること、それが他国の教科書的な発展モデルとして学習されたり、批判されること、これは他国の問題ではないのである。
 われわれはこのような不合理なシステムを合理的体制に変革することによって、国際的なリーダーシップを確立しなければならない。

 日本企業の経営方法が世界市場の国際競争でも優秀だというイメージがあれば、そのような開発型独裁体制の枠内の人々も、日本企業に学ぶ気持ちはあったのである。
 今から十数年前のことだが、スハルト政権の有力な閣僚が講演で
 「日本は経済や企業は一流だが、政治は三流だ」と公然と発言していた。
 私自身も傍聴したことがある。
 十年後には民衆革命で崩壊するスハルト軍事政権であったが、リクルート事件で激震する日本の政治体制の実態よりは、インドネシアの政治体制がすぐれていると自負があったのであろう。
 苦い思い出である。
 もちろん、この人物は革命の嵐に巻き込まれ、彼自身は運命から突き放された。

 日本のリクルート事件などのスキャンダルが、インドネシアやミャンマーなど、アジア諸国の民主化を遅延させたとまではいわない。
 が、その間に政治的に弾圧を受けたり、生命を奪われた人々と、その家族の無念さを思うとき、私は一人の日本人として慙愧に耐えない。
 その意味で、私は今、インドネシア内乱で最も死傷者を出した東チモール共和国の政治経済建設に可能な限り政策面でのボランティア協力をしている。



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