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曹操閣下の食卓

☆ヨーロッパ・ゼロ年

☆ヨーロッパ・ゼロ年☆ポンペイウスの内戦




 シーザーはアレシアの戦いまでを記述した《ガリア戦記》を公表した後、最後の組織的な反乱となったウクセロドゥヌム攻城戦を、
 「城内の井戸を地下から掘り抜いて渇水させる」という徹底した戦術で屈服させた。
 これも巧みな戦術であった。
 旧約聖書の青年ダビデも、そのようにしてエルサレムを奇襲攻略したのだ。

 ガリア戦争のおおよその終結後、最大の問題となったのは、ガリア平定後にシーザーとその関係者たちが完全に独占した巨万の資源と利権である。
 この部分はシーザー自身ではなく、彼の部将だったアウルス・ヒルティウスの補遺にもおおよそ示唆されている。

 ガリア戦争の遂行に少なからぬ貢献をしたポンペイウス軍閥の人々は、ガリアを何もない野蛮の地だと考えていて、どうしてシーザーが蛮族の反乱の平定にこれほど腐心をしているのか、最後の最後まで理解ができなかった。
 しかし、シーザーの技術幕僚だったヒスパニア人のバルブスが、現在は世界遺産に指定された城砦都市のカルカソンヌ付近にガリア人の金鉱山が温存されていることを発見した報告に接した時は、彼らも耳を疑ったに違いない。
 また、現在のフランス西部アキテーヌ盆地には古い銅鉱山があり、シーザーはこれをクラッススの次男プブリウス・クラッススに平定させることで、その巨大な利権を預けた形になった。
 が、クラッスス一族がシリアでパルティア王朝の軍勢にもろともに撃破・殲滅され、相続者がいなくなってしまうと、当然のように利権はブーメランのようにシーザーに落ちてきた。

 この二つの秘められた豪華な果実は、しかし制限があった。
 これらの金属鉱山の資源を実際に管理しているのは、確かにガリア総督シーザーの軍団であり、軍閥である。
 しかし、それらは軍事的に奪取されたのみで、まだ奴隷労働者集団やローマ人の技術指導組織を入れて、実際に貨幣製造の材料となるインゴットの生産施設を建設し、その操業を開始する段階に進むことはできなかった。
 それにルッカ会談の時点では、まだポンペイウスにはこの利権問題は何も伝わっていなかった。
 クラッススだけは、息子からアキテーヌの銅鉱山について、しっかりと情報が入っていたことであろう。
 したがって、シーザーがガリア総督として考えなければならなかったのは、これらの成果をローマに正確に報告して、その支配権を確認すること、
 すなわち、
 「ガリア戦争の権益を、全て総督シーザーの処分にゆだねる」という新たな元老院決議が必要であって、そのため腹心のアントニウスなどが執政官に就任させる必要性があったのである。
 シーザーは場合によってはガリア総督を辞職して、みずから執政官選挙に再出馬し、逆に腹心のサルディニア総督をガリア総督に横すべりする選択もあったに違いない。
 その時、シーザーには、ローマ全市と全市民を賜金と享楽でことごとく買収するほどの財力が集中したはずである。

 ルッカ会談の以前に、シーザーが手持ちで確保できたのは、森林伐採による木材の売却益と、当時のガリア全土で始まった開墾事業の税収の一部にすぎないものであった。
 この時点はわずかなものであったが、年を追うごとに利益は増大していた。
 そこにフランスの金属鉱山の利権が加わったのだから、ローマ政界は激震したのである。
 ローマ市民を熱狂させたガリア戦争の連戦連勝の成果だけでも、シーザーは大変な軍事的権威と財力を保持して、ローマの中央政界に専制的な権力の座を築くことは明白であった。


 しかし、その情報を耳にしたローマ元老院はハッキリ二つに分裂した。
 特にシーザーと敵対していた共和政保守派の人々は、自分たちが報復されることを恐れ、必死の思いでシーザーの目論見を阻止しようとした。

 彼らは老ポンペイウスを執政官にかつぎ出して、シーザーの手先と対抗させた。
 ポンペイウスはもうローマの政界から引退しかけていたが、同じ元老院の議席の周囲で、政敵たちがやかましくシーザーの野望と陰謀の証拠や根拠の数々を並べ立てると、さすがに賛同せざるをえなかった。

 最も彼にとって衝撃だったのは、シーザー本人から、
 「金鉱山の開発を私に任せてほしい」という最初の丁重な根回し相談の手紙を高位の使者が届けてきた時であろう。
 このときにポンペイウスは
 「シーザーにだまされた。何もかも」と憤激したにちがいない。

 そこで保守派の執政官マルクス・コルネリウス・マルケルスは、彼の感情の激昂に乗じて、巧妙な一計を案じた。
 かつてルッカ会談でシーザーがポンペイウスに要請して編成された増強部隊の二個軍団の指揮権を、「シーザーからポンペイウスに移転する決議案」を元老院に提出したのである。

 ポンペイウスもこの決議を承諾した。
 この二個軍団は、それぞれナルボ・ガリアと北イタリアで編成されたもので、特にナルボ軍団は例の金鉱山の近くに駐留し、地域的にもポンペイウスの腹心が軍閥を握っていたヒスパニア属領に接続していた。
 つまり元老院保守派は、シーザーが発見した金鉱山の利権を、あべこべにポンペイウスに付与することで、両者が真っ向正面からぶつかり対立するように仕向けたのである。

 この知らせにシーザーは激怒した。

 彼の説明では、これらの金鉱資源はガリア総督が私益で独占するのではなく、引き続きガリア地方の鎮定と、シーザーも数度レヌスRenus川(現在のラインRhein川)を渡河して侵攻作戦を展開したゲルマニア地方(現在のドイツ西部)での戦争行動の準備基金であり、国家的な危機に備えるためのものであった。
 現実にガリア人は貴金属を好み、青銅で長剣を鍛造していた。

 つまり、シーザーの構想では、ガリア総督は、同時にブリタンニア総督であり、ゲルマニア総督でもあったのである。
 これらを分割するには、さらなる駐在軍団の増強と、各地域に各総督の駐在拠点が必要であり、そのようなことは全く不可能であった。
 もちろん、旧将ポンペイウスもそのことは十分に承知していたはずだ。
 これらをローマの経済力と技術力によって安定的に供給することで、ガリア人の貴族社会を安定させ、ローマの権威に同化させる政策を打ち立てるには、確かにガリアの地下資源の独占が必要であった。
 しかしながら、それを認めてしまうと、シーザーは相手をゲルマニア人やブリタニア人ではなく、ローマ元老院保守派に対して刃向かうかもしれない。
 後に明らかとなるが、熱狂的なシーザー崇拝者だったマルクス・アントニヌスの性格的な粗暴さと不品行も、謹厳な保守派には切実な脅威であった。

 結果的にポンペイウスは、シーザーの言葉を信じることができなかった。
 そして、彼にとってもライバルだった、かつての政敵たちの策謀にのって、逆に金鉱資源の権益をシーザーから取り上げてしまったのだ。
 アキテーヌの銅鉱山の処分については決定を保留した。
 このことから、ポンペイウスもシーザーを怒らせて、ガリアの反乱鎮圧を邪魔するようなことだけは避けたかったのだろう。
 しかし、ポンペイウスは、やはり私益に鉱山を操業経営して利用するわけにもいかず、鉱物資源の開発は休止させたままであった。
 これらの鉱山が開発されたのは、おそらくアウグストゥスの治世になってからのことだ。
 金鉱山といったって、金塊や砂金が埋蔵金みたいに埋まっているわけではなかったのである。
 ポンペイウス自身の特殊な利益への渇望があるわけでもなく、ただ元老院の保守派の言いなりになり、弾除けの道具にされたのである。
 嗚呼、ポンペイウス老いたり。
 このような激しい利権の衝突と、政治的な膠着状態の中で、シーザーとポンペイウスの市民戦争(De Bello Civili = The Civil War)は、運命的に勃発したのである。


 NHKの歴史ドラマ《聖徳太子》をみた人は、物部一族と蘇我一族の決戦で、物部軍が「退却戦術」をとったことを記憶しているであろう。
 これは史実である。
 当時の物部氏族の本拠地は渋川・若江・日下など生駒山麓、現在の東大阪市に集中していた。
 蘇我の軍勢がその地域に足を踏み入れたとたん激しい迎撃が待っていた。

 物部軍はもともと自分たちの勢力圏に堅固な防衛拠点を建設していたので、蘇我軍はおいそれと突入できなかったのである。
 特に現在の大阪市街は「河内潟湖」という河口湖であり、竹内街道から渋川・日下に通じる八尾は湿地帯で、蘇我軍の主力だった騎馬部隊の突撃戦術は使えない。
 賢明な蘇我馬子は、すぐに基本戦略を転換した。

 そこで蘇我軍はいったん退却し、物部軍側の進出を促した。
 決戦場は地勢的に考えても、大阪夏の陣と同じ四天王寺付近であったと思われる。
 つまり、四天王寺の創建伝説は正しいもので、この地が最大の決戦地であり、多くの物部の人々の血が流され、死体が埋められた場所なのである。
 ここは大阪・夏の陣でも徳川家康の本陣になり、真田幸村の騎馬軍団が奇襲突撃したところである。
 戦いやすい場所に退却して、物部軍のムリな進出を誘ったのだ。
 物部軍から見れば、退却した蘇我は弱った敗残兵であり、しかも「背水の陣」である。
 物部守屋は「チャンスだ」と思ったにちがいない。
 蘇我軍は支配勢力圏の竹内街道から進出し、このルートを補給路にしていた。
 物部氏族は一気にこの補給路を断絶して、四天王寺付近を強襲包囲しようとした。
 四天王寺付近の蘇我軍を放置しておくと包囲持久戦となり、住民の非戦闘員を多数抱えていた物部側に不利になるからだ。
 つまり、物部守屋は結果的に軍を二手に分けたのである。必然的に。

 もう一つ、私が想定しているのは、現在の天王寺公園内の巨大古墳、茶臼山の存在である。
 これは物部氏族の中で、相当な活躍をした人物、特に物部尾輿大連のように大阪の各地に逸話伝承が残る人物の墳墓だったのではあるまいか。
 これは想像に過ぎないが、物部が蘇我を生駒山系の難所、特に磯長谷付近でゲリラ攻撃せずに、わざわざ本拠地まで誘い込んだところに、物部守屋の油断があったと思われる。
 逆に守屋は、本拠地で蘇我を叩けば、大和の方向に蘇我の残兵は退却するから、まさに磯長谷の付近で包囲殲滅できると考えたのであろう。

 NHKのドラマでは、ここで聖徳太子と新羅人の弓の名手が物部守屋を遠矢で狙撃したことになっているが、これはもちろんフィクションである。
 史実では、さらに蘇我軍も退却戦術をとり、物部軍を本拠地の渋川・八尾から引き離し、リバーシ(オセロ・ゲーム)方式で逆転包囲作戦に持ち込んだのである。
 もちろん馬子は、最初から本拠地の強襲より、自分たちが退却して有利な地勢に誘導し、物部軍を分けさせてから決戦する戦略を持っていたかも知れない。
 カメが甲羅を脱ぎ捨てるように防衛陣地を放棄して、うかうかと蘇我の勢力圏に進出してきたから、さしもの武勇を誇る物部の軍勢も、たちまち竹内街道の東からあふれ出てくる蘇我石川氏・河内大伴族の援軍部隊に背後と側面を包囲されて打倒されたのである。
 この戦術は、日本書紀にも示唆しかされていない。
 蘇我軍には、最初は皇室の親衛隊・大伴軍団は参加していなかった。
 しかし、物部滅亡後に、大伴氏は摂津の物部旧領の配分を受けているのである。
 このことから、最初は大伴軍団が中立であることにして、物部守屋を油断させ、最終段階になって、蘇我の陣営に迫った物部軍の背後に、大伴の兵が大挙してあらわれ、奇襲をかけた、そうした奇計が読めるのである。
 この退却戦術は、《孫子兵法》にくり返し説明されている。
 もし蘇我氏族や帰化人の司馬(須磨)氏族の人々が古写本を持ち込んでいたとしたら、これが日本の「兵法事始め」ということになるであろう。

 ジュリアス・シーザーがポンペイウス戦争で使用した大退却戦術は、アドリア海に面したギリシャ・ペロポネソス半島の西端のデュラキウムから、反対側のエーゲ海のマケドニアに抜けるものであった。
 シーザーは《市民戦争注解 De Commentarii de Bello Civili》に最も流暢に、この迅速な退却戦術の実行を詳細にわたり記述している。
 それまでシーザーの軍団はデュラキウムで、ポンペイウスと保守派の人々が篭城する城砦を完全に包囲していたが、ポンペイウスは城内に糧食もたっぷりとあったので、全く戦おうとしなかった。
 むしろ海路からシーザーの糧食補給路を断絶した。
 包囲は半年間に及んだが、シーザー軍団の困窮と疲弊は明らかであった。
 しかしガリア戦争をシーザーの旗下で戦い抜いた軍団将兵の士気は衰えなかった。
 ポンペイウスの兵士たちが、
 「貴様らには今晩たべるパンもなかろうよ」と大笑いすると、
 シーザー軍の兵士たちは大いに笑い返して、
 「これを食べてみろ。食べられるか」とたくさんのパンを投げつけた。
 その大きさは、普通のローマ兵士に支給されるパンの半分もなく、しかも谷間の草や根菜を練りこんだ緑色をしていた。

 実は戦闘経験のない新兵が多かったポンペイウス軍は、このパンを見るだけでシーザー軍団の士気の高さに非常な衝撃を受けたのである。
 彼ら兵士は一人で数十人のガリア人を打倒し、突き殺してきた歴戦の猛者ばかりであった。
 同じローマ軍の兵士たち同士なので、
 「おまえたちはそこまでやるのか」という気持ちであろう。
 報告を受けたポンペイウス自身も緑色のパンを見て大きなショックを受け、
 「他の兵士に、このパンを見せるな」と厳命したという。
 シーザーの部将としてガリアやゲルマニアで戦ってきた将軍ラビエヌスは、
 「これでは勝てない。ここで下手にシーザーを強襲したら、味方の損害も多いし、ただでさえ政治家たちの対立が多い陣地がパニックになる」と考えた。
 それでますます守備を堅くして、動こうとしなかった。

 シーザーは冬前を迎えて、海上封鎖のために糧食補給が不可能になっていた。
 ポンペイウスとラビエヌスは、シーザー軍団が孤立して、困窮のために降参するか、ギリギリ戦力が低下したところで決戦するチャンスを待っていたのである。
 そのことに気づいたシーザーは、みずから、
 「戦略が間違っていた」と判断し、ガリア戦争で何度も訓練・経験した極秘命令で軍団に撤退準備を整えさせた。
 そして命令一下、西方のマケドニアの穀倉地帯に向かって、まさにグッド・タイミングで突然退却した。
 退却というよりも、前触れもない転進戦術にあわてたポンペイウス軍の追撃は全く失敗した。

 こうしてマケドニア進駐、補給が枯渇して身軽になっていたシーザー軍団は収穫を終えたばかりのマケドニア地方の租税の蓄積をまたたくまに全て手に入れてしまったのである。
 さらにシーザー軍団が南に進出すれば、エーゲ海方面のローマ海軍の最強艦隊がシーザーの配下につき、たちまちアドリア海沿岸は封鎖される。
 アドリア海のポンペイウス艦隊は、それに匹敵する兵力はなく、自分の配下のヒスパニア艦隊の応援も間にあわない。
 デュラキウムの小さな城で鳩首協議をしていたポンペイウスは事態の逆転を読めば読むほどシーザーの勢力がこれ以上大きくならないうちに、デュラキウムを放棄して、マケドニア平原に進出する決戦の選択に迫られた。
 だまってデュラキウムに座していたら、無能な政治家たちの無駄な議論ばかりで、立場が悪くなれば平気で他人を裏切る人々と死ぬまで行動をともにせざるをえない。
 と言っても、逆にシーザーとの対戦を避け、ローマやイスパニアに移動すれば、
 「ポンペイウスは逃げた」ということになる。
 シーザーが退却戦術をとったとき、事情を知らないローマや各地の植民市民の多くの人々が
 「シーザーはもう終わりだ」と考えたとプルタルコスは記述している。
 こうした耳にも聞こえる世論は、ポンペイウスが別の地域に展開することを許さなかった。
 もし私がポンペイウスの参謀であったならば、無理難題をふっかける政治家たちを強引にエジプトなどに追放し、直ちにローマにもどって、イタリア全土を制圧した上で、マケドニアにいるシーザーと対等に交渉し、和解することを勧めたであろう。

 しかし歴史は無情である。
 ポンペイウスは老いていたし、幕僚たちも戦場から遠ざかりすぎていた。
 唯一頼りになる猛将ラビエヌスは、秩序もままならない新兵たちの軍団に手を焼いて、すっかり意気阻喪していた。
 シーザーは、このときのポンペイウス陣営の戦略会議の内容を、戦後になってつぶさに調査し、その上で次のように痛烈な批判を加えている。

 「postremo omnes aut de honoribus suis, aut de praemiis pecuniae, aut de persequendis inimicis agebant. nec quibus rationibus superare possent; sed quemadmodum vti victoria deberent, cogitabant. 
 要するに彼らの全てが、自分自身の出世欲や金銭上の利欲、あるいは過去の政敵に対する遺恨の報復ばかりを主張しあい、どんな作戦で勝利を手にするかという議論ではなく、いかに勝利を自分たちの我田引水に利用するかと考えあっていたのである。」 (C.B.C. Libri III-83)
 

 シーザーとポンペイウスの軍勢がマケドニア平原のファルサロスで衝突し、決戦になると、その報せを聞いたごく少数の人々が
 「シーザーが勝つ」と予測した。
 プルタルコスの記述では、あるギリシャの人が神殿で祈りの最中にファルサロスで戦いが始まったという話を聞き、
 「シーザーよ、あなたの勝利だ」と頭の月桂冠を脱いだ。
 日が落ちるころ、シーザー大勝利が伝えられると、その人は再び月桂冠を頭にのせ、祈りの儀式を終えたという。


 プルタルコス(プルターク)は、その人物の予言に、実体験として衝撃を受け、それを一種の霊感や超能力の一種だと考えたのである。
 彼の失われた著作の一つが、このような信頼できる「予言」の歴史エピソードを収集したものであることは興味深い。
 つまり、ブルタルコスは戦略理論の基本がわかっていないで、いろいろな歴史記録に注釈や批評を加えていたのである。
 が、戦略法研究をしているわれわれにもう細かい説明は不要であろう。

 ここで改めて退却戦術の原理を解説しよう。

 AとBの軍事組織が、ある地点で衝突したとする。
 これを略式化し、「X」を衝突地点、つまり戦場として、
 「・・・→AXB←・・・」と表現する。
 
 A軍とB軍が行軍数日分の距離で離れているとする。
 戦場「x」は、AとBの地点の中間にある場所である。
 「・・・→A________X________B←・・・」

 そこでB軍の司令官が、突然全軍を退却させたとしよう。
 すると、A軍の司令官は、逃げたB軍を追撃しようとする。
 中間地点に想定された戦場「X」は、幻の(x)として表現した。
 B軍も退却陣地「(B)・・・・・・・→B」まで退却したことになる。

 「・・・→A_______(x)_______(B)・・・・・・・→B」

 そうすると、A軍はB軍を追いかけるために、B軍の数倍以上の追撃行軍をしなければならないのだ。
 略式化すると、
 「→A___________________(B)」プラス「(B)・・・・・・・→B」で、

 「→A___________________(B)・・・・・・・→B」

 B軍の退却戦術で、A軍は戦線の拡大、戦争被害の深刻化を覚悟しなければならない。
 それを早く阻止するには、早くB軍の陣地に追いつき、たどりつき、B軍の攻撃戦闘能力を奪い、武装を解除しなければならない。
 そしてB軍よりも数倍の距離を行軍して、兵士の疲労とともに士気が弱まることを懸念しなければならない。
 ではどこが戦場「X」となるのか。

 「→A_______________________________→XB」

 つまり「X」は、作戦主導権のあるB軍が有利な地理を勘案して決めるものだ。
 B軍が待ちかまえている場所こそ戦場になる可能性がある。
 逆にいえば、B軍が「ここを戦場にしよう」と決めたとすると、行軍中のA軍を街道で奇襲することも可能なのだ。

 「(A)________________________→A→X←B」

 「(A)→A」と「(B)→B」は距離ばかりでなく、戦う前の軍団の疲弊の増加、秩序の混乱などもA軍は多大であり、B軍は自主的にコントロールしているのだ。
 つまり、B軍がサッと鮮やかに退却すれば、A軍はB軍の数倍の距離を数倍のスピードを上げないと、B軍に追いつかないことになる。

 これは圧倒的多数の軍隊を、たやすく減退・倒壊させる秘術として、『孫子兵法』に書かれていることである。
 このA軍が長距離行軍の末に、やがて戦場「X」に到着する。
 A軍は完全に疲弊しており、B軍は戦術を凝らして待ちかまえている。

 それでファルサロス平原が戦場として選ばれたのである。

 ポンペイウスがファルサロス平原まで長々と遠征してきて、戦場に到着して、水の出ない丘陵を陣営としたことも失敗であった。
 なぜか。
 ファルサロス平原は、そこにシーザーが全軍を布陣させ、待ち構えていたからこそ、戦場になったのである。
 この決戦の場所も、シーザーが地形の目利きを発揮して、「ここで戦おう」と選んだのである。

 それでは、ポンペイウスがわざわざ水のない丘陵を陣地にしてしまったのはなぜか。
 それもシーザーが
 「ポンペイウスならば、ここに本陣をかまえるだろう」と予測し、そこに追い込むような縄張りと、誘い込むようなしかけ、たとえばギリシャ軍の旧陣地の遺構を偽装しておけばいいわけである。
 
 ただしシーザーは、戦線が再びデュラキウムの防衛戦のように膠着状態になることを恐れて、再び退却作戦でポンペイウス軍を挑発し、陣地から飛び出させようとしたほどである。
 それほどポンペイウスとの決戦に緊張していたのだ。
 が、結局は水不足のために、ポンペイウス軍から陣営を出て、自分たちで山を降りてきた。
 つまり、攻撃部隊と陣営の守備隊にポンペイウス軍は二分されていたのである。
 これもポンペイウスの手落ちであった。

 シーザーは抜かりなくポンペイウスの戦術や戦略を研究しつくしていた。
 そして、さらにポンペイウスが「アッ」と驚くような新たな戦術の仕掛を出してくることを極端に恐れていた。
 ポンペイウスはシーザーにとって恩人であり、恩師でもあったからである。 

 これに対して、シーザーは最強の第十軍団と第九軍団を第一列にして、第二列・第三列と大隊の構成を増やしていた。
 しかも第三列は敵から見えないように伏兵として配置し、敵軍の騎兵部隊の突撃が予測されると、シーザーは第四列まで編成して、騎兵の背後から襲撃させるように
 「軍旗が上がるまで戦闘しないで隠れていろ」と命令しておいた。
 これもガリア戦争で、シーザーがよく使った軍団(Legion)単位、大隊(Cohorus)単位の伏兵戦術である。

 第一列・第二列が正面攻撃をかけると、あらかじめシーザーが予測したようにポンペイウスは圧倒的な騎兵部隊で第二列の側面から後方に包囲殲滅にかかった。
 これはヒスパニア・セルトリウス戦争でもよく使われた戦術で、ポンペイウス軍団の「御家芸」ともいうべき戦術であった。
 この戦術は統制のある組織のない東方の異民族の反乱や、動きが鈍く、背中が露出しているギリシャの重装歩兵部隊には確かに有効であった。
 しかし、ローマ人の部将セルトリウスに訓練されたヒスパニア人の軍団を、ポンペイウスが数倍の軍団を投入して、九年の歳月を遠征につかったのである。
 このような戦い方で、本当にシーザー軍団を屈服できると思ったのだろうか。

 騎馬部隊が背後にまわると、シーザーは幸運に感謝したであろう。
 そこで旗があがり、作戦の第二段階になった。
 隠れていた予備の第四列が、長鑓で騎兵部隊の側面から突入した。
 多くの馬たちが絶命の悲鳴をあげると、ポンペイウス騎兵隊はそれ以上の前進は不可能になった。
 恐怖でパニックになった馬たちが騎兵の手綱ではさばき切れなくなったのである。
 集団で突撃した騎兵部隊は、こうなると立往生になる。
 これも騎馬民族のガリア人たち、ゲルマニア人たちと五年以上にわたって西ヨーロッパ平原で戦い続けてきたシーザー軍団ならではの歩兵戦術であり、歴戦と行軍と苦難の中を走り抜けてきた最強の歩兵部隊が肉体を楯にして身につけた戦い方であった。

 これに対して、ポンペイウスは騎兵突撃にすべてをかけていた。
 シーザー軍の一角を崩せば、そこに第二陣、第三陣と騎馬部隊で波状攻撃し、軍団の攻撃力を奪うつもりであった。
 「同じローマ人なのだから、徹底した殺し合いをすることはない。一部を崩せば、シーザー以外は降伏するだろう」
 老いたポンペイウスは若いころからうちつづく内戦で、同じローマ市民が故郷のイタリアを遠く離れ、お互いに戦って傷つき倒れることに感傷的になっていた。
 それが一点突破の騎兵戦術にあらわれたのである。

 しかし、結果は逆になった。
 騎兵の崩壊でポンペイウス軍の一角が崩れると、すかさずシーザーは「伏兵の第三列」に、チューバを鳴らして突撃を命じた。
 
 もともと水の不足で疲弊していたポンペイウス軍は、隠れていた第三列の参戦にビックリ仰天した。
 そして驚きの声は、すぐに悲鳴に変わった。
 第一列・第二列と同じぐらいの軍旗が攻め寄せて、シーザーの軍勢が突然倍増したように思われたからである。
 突撃の順番を並んで待っていた騎兵隊は、前から横から歩兵集団が長鑓で突進してきたので、もう逃げ出すしか生きる道はなかった。

 ポンペイウスの歩兵軍団は何をしていたのか。
 ただ命令を待って、動かないでいたのである。
 戦闘経験のない軍団の将校たちは、シーザー軍団の古強者たちの敏捷な突撃で、騎兵隊の隊列があっけなく次々に撃破される光景を見て、恐怖に駆られた。
 その場に救援に進撃して、あの歴戦の軍団と正面衝突する勇気は出なかった。
 シーザーの記述でも、歩兵部隊が衝突して、長時間も白兵戦をしたということはない。
 あらゆる意味で、ポンペイウスは必然的、運命な「敗北」に突き進んだのである。
 地元のギリシャ人にとっては、シーザーがファルサロスを戦場として選び、そこにポンペイウスを誘い込んだと聞いたとたん、「これはシーザーのほうが勝つ」とわかったほどなのである。
 こうして戦いに負けると、水のない山上の陣営に帰ることはできないことは、ポンペイウス本人がよく知っていた。
 陣地に立てこもっても、水もないから食料も食えない。
 戦線が崩壊をはじめると、
 「後方を激励する」といって、ポンペイウス自身が真っ先に敵前逃亡をしたという。
 これは老いて卑怯になったと簡単に批判もできる。
 また、ポンペイウスが戦場にがんばりつづけていると、殺戮が拡大しても敗走できないことを配慮したともとれる。

 残った兵士たちはさらに包囲されて水不足に苦しめられ、指揮官の不在に気力も尽き果て、翌朝には全軍が降伏した。
 ポンペイウスは将軍懸章を脱ぎ捨て、海岸まで逃げ落ち、穀物船一隻を占領して船出したが、どこの港も寄港や上陸を認められず、それからシリア沿岸を側近たちと放浪することになった。

 最後にはエジプトをめざしたが、ついにその地で暗殺されることになった。
 殺されたポンペイウスの遺体には、すでに数年前に先に産褥で亡くなった妻であり、シーザーの娘であったユリアがつけていた形見、ユリウス・カエサル家の指輪が光っていたという。

 これは余談であるが、もしもポンペイウスがエジプトに行かなければ、シーザーとクレオパトラは出会うことがなかった。
 クレオパトラとシーザーが結婚しなければ、シーザーは暗殺されただろうか。
 歴史の転換は、歴史の主役の個人の幸福や不幸をものともせずに進んでいく。

 ファルサロスの決戦。
 ここで古代ローマ共和政は地中海文明の覇権国から、西ヨーロッパ文明の建設に大きく方向転換した。
 突きつめれば、西欧文明の起源は、この戦いにあったのである。

 そして、シーザーが開拓したガリア・ゲルマニア・ブリタンニアの植民地の利益独占が、ローマ帝国と、ローマ皇帝の莫大な財産をつくりあげたのだ。
 これも大きな歴史の小さな歯車の一つだったのである。



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