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曹操閣下の食卓

☆善い戦略とは何か

☆善い戦略とは何か



 昔、受験生仲間でよく言われた冗談がある。
 「医者になるなら、歯医者だ。誤診をしても命に別状はないからな。それに町の開業医で金持ちになるには歯医者が一番だ。何しろ学校がお客を決めてまとめて送ってくれるから営業の手間もいらないよ」
 まったくひどい話であるが、これは悪い話ではない。
 ずるい話だが、世の中には役得というものがあるし、それはボランティアの仕事にもいえることだ。
 それでは、この話のように、みんなが歯医者になりたがるのかというと、そういうわけではない。

 野口英世のように難病の克服のために細菌学に進む人もいるし、誤診のリスクの大きい外科医・内科医の志望者も決して減りつづけているわけではない。
 町の開業医で成功することが一つのゴールだと考えるのもいいが、医学の進歩に功績をのこすような学術的な仕事をしたいという考え方もある。
 地域医療に携わり、多くの人々の役に立つ仕事をしたいという考え方もあろう。
 そこに人間の面白さがある。
 一様でない人生の価値観がそれぞれに光り輝くのだ。
 大きな病院もよし、小さな町の開業医もよし。
 成功の形はちがっても、それぞれが善しと信じる道を歩むことが自由であり、正しい選択である。
 その自由が、いろいろな方向から社会を支えるのである。
 私は医者にはなろうとは思わなかったが、エドムンド・フッサールの哲学で《現象の診断》という概念に出会ってから、社会現象の診断と分析によってのみ、政治理念と政策の改善ができると確信した。
 それで、生命倫理問題といっしょに少し医学の方法論をかじったことがある。
 このことが後になって、『孫子兵法』の理念的解釈に役立つ黄帝思想の研究に大いに役立った。
 そして、戦略シミュレーション理論と、外科手術のサージェリー・シミュレーションのシステム・ダイナミックス統合を、最近になって特許申請したところでもある。

 そこで善い戦略とは何か、を考えることは
 「善い医療とは何か」という問いに答えることと同じだと考えた。
 ともに生命を左右する重大問題になりうる価値観の選択である。
 まず自分の信念において結論を出す。
 次に、結果によっては、社会の審判を受けるかもしれない。
 したがって、自己の信念は結果を予測し、社会の審判に耐えられないようなものであってはならない。
 多くの医者や経営者が、社会の審判を受け、自分の意見を述べたときに、その常識や良識を疑われる結果になり、告発や断罪も受ける結果になっているのは、こうした配慮が欠けていたのであろう。

 私の考える「善い戦略」は次のような格律を条件とする。

   (1) 最小の損害コストで最大の利益を出す。

   (2) 魅力的な指導者と人材など、ベストの役者をそろえる。

   (3) 利害を個人で独占させない。

   (4) 敵をつくらず、敵も味方にする。

   (5) 目的が達成されたら掃除をして撤退する。


 「最小のコストで最大の利益を出す」ということは確かに善いものである。
 経営の成功は、すべてこの問題にかかっている。
 楽しい学生の合同コンパ一つでも割りカンが三千円以下だったら、参加者は「ああ、よかった」と思うであろう。
 逆に「ごめん、一人一万円で」と言われたら、「おい、そんなに飲んだのか」と他の人を見回したい気持ちになるではないか。

 どのような事業でもよいが、コストを度外視して事業を進めると、すべてにおいてコストが膨張し、コストを削減しようとすると、事業全体を見直さなくてはならない。
 原子力発電所は非常にエネルギーのコスト・パフォーマンスはいいのであろうが、100年以上も同じ施設を利用するわけにはいかないだろう。
 それに、建設立地・改築などに反対する住民の声も、いちいち聞かなくてはならない。
 東海村のように、国家予算で見返りに公共サービス施設がどんどんと建設され、周辺の開発に巨額の公共事業が投入されるケースを見ると、100円分の原子力発電をするのに、コストは1円以下だと納得しても、国費全体からすると120円はかけているなという印象はぬぐえない。
 廃墟になった原子力施設を解体して、廃棄する方法も未だ明確にされたことがない。
 建設地の募集だけはコマーシャルでやっているな。
 閣下が提案するとしたら、ムルロワ環礁のような無人島がいいが、火山性の地震がないことを保証することは難しい。
 廃坑になった海底炭鉱を利用して、坑道ごと地下深く埋没させれば、あんなコストはいらないわけだ。
 洗浄用のスポンジとか、再処理した放射性廃棄物などを青森県六ヶ所村の地下に貯蔵するだけで、また莫大なコストがかかっている。
 そこでもまた見返り予算と、おみやげ公共事業のセットだ。
 これもまた、少なくとも住民が生活する地方自治体に迷惑施設を権力機構の圧力で上から押しつけようとするからである。
 どうして「無人島」ではダメなのか。

 「国家がこれだけ莫大な予算をつけて、迷惑施設の受け入れを求めているのだから、これを利用しない手はない」
 おいしいバラマキ話だけを注目して、利権の美味に期待する筋は、このような公共事業を安く無人の地に持っていかれることに我慢がならないのだろう。

 ますますコストは膨らみ、コスト・パフォーマンスの不合理は明らかになっていくであろう。

 しかし、どこでやめるか。
 だれがやめるか。
 その代償をだれが支払うか。
 原子力発電所と、見返り予算・おみやげ事業で潤ってきた特定地域が、ハシゴをはずされたようにさびれ切ったら、また地元の人々は納得できないであろう。

 このようにコストを度外視して事業を進めるには、コストの発生を隠匿し、他の部分につけかえるという古い方法が使われる。
 反対にいえば、コスト・パフォーマンスを意識した事業展開をおこなうには、それを定期的に組織の内外に情報公開することが必要である。
 住民に対する説明会一つをとってみても、タダでやれるものではない。
 そうしたコストが発電事業一つ一つにかかるとして電気料金にどのような形で反映されるのか。
 すべてが隠蔽なく明示され、わかりやすくイメージされるならば、撤退の決断をしなければならないのは、電力会社の経営者と国家であると私は断言する。

 これは原子力発電事業だけのことではない。
 過疎地の指定を受けた町や村は、年間一人当たり三千万円の公費を使っているという試算がある。
 首都圏の都市部では五十万円以下である。
 それで公共事業を一切やめて、一人当たり五百万円を過疎地住民年金として支払えば、それだけでも過疎地の公共支出は6分の1になるのである。
 百万円の生活補助年金で我慢してもらえば、予算は30分の1になるのだ。
 過疎地の自然破壊をすすめる公共事業で地域が潤ったとしても、数十年のうちに住民の大半が追い払われたり、高齢で死に絶えてしまうような状況では
 「何のために」という疑問を払拭することは不可能である。

 地域社会というものは生き物であり、オーガニックな現存在(dasein)である。
 一頭の乳牛に成長の過程で、たくさんのホルモン剤をつかって、どんどん牛乳を出すようにしても、実際にはうまくいかないことがわかってきた。
 日本は湿気が多い。
 アメリカの乾燥した大陸気候とはまったく違う。
 薬をやりすぎると臓器が肥大してしまったり、感染病に敏感になって、他の牛まで殺してしまう。
 もちろんホルモン剤は高価で、感染病をくいとめるために獣医の医療費もかかる。
 人間に副作用も懸念される抗生物質も投与され、残留化学物質は牛乳や食肉に混じって、われわれの食卓にまでやってきている。

 最後に牛乳が増えた分の利益と差し引いてみたら、どうなるか。
 大規模酪農とちがって、日本の小規模な酪農経営では、このような方法はうまくいかないことがわかってきている。
 ある酪農家の話では、「もう一頭の牛を増やせば、同じ損益計算になった」ということだった。
 いや同じ計算だろうか。
 酪農家は負け惜しみで「損はしていない」とウソを言っていたのではないか。
 感染症で死んだ牛たちは?
 ホルモン剤で臓器が膨らんだ乳牛の牛乳は本当に安全なのか。
 要するにコストとリスクを計算しないで、ドンブリ勘定でこんな結果をまねいたわけである。
 「結果的に損失は出していません」
 今日も年金問題、農道建設問題、林業特別会計、雇用保険問題、あらゆるところで官僚機構は「損はしていない」と自信ありげに答弁をしている。
 こんな官僚の責任逃れの答弁は、もう聞き飽きた。
 日本の政治経済のほとんどが、あのような薬品漬けの乳牛たちの運命と同じ状況にあること。
 このことを深刻に考えざるを得なかったのである。

 もう日本の奇病として常識化したスギ花粉症の対策に300億円の予算がついた。
 これをどう評価するか。
 ある週刊誌は、花粉を出すスギを全て切り払っても300億円以下になることは間違いないから、スギ花粉症の発生が少なくなるまで、スギ林を減少させろと主張する。
 一見すると大変な暴論のようだが、私はこのような意見は貴重だと思う。
 確かにスギ林一辺倒に人工植林を続けてきた日本の山林事業は国有林の原生林を伐採しながら、ものすごいスピードで日本の生態系を破壊してきたのである。
 夏季のダムの渇水状況を見ても、その上流で保水力をもった原生林の山の水源が少なくなり、植林がはじまった急斜面では地面の保水性が枯渇しているから、水源地帯の水量が不足し、地すべりの土砂がダムの底でヘドロとなり、うまく山地に根付かないで急斜面を倒れ落ちた木は流木となり、山林は全く荒廃していっているのである。
 これはホルモン剤づけになった乳牛と同じ運命に、日本の山林の環境が追い込まれているとはいえないか。
 スギ花粉症は、あるいは荒廃しつつある日本の自然が、自分たちの苦痛を伝えるメッセージとして人間に苦痛を与えているかもしれないのだ。
 これは感傷的すぎるかもしれないが、このままではすまされない。
 スギ花粉症の特効薬が発明されでもしたら、われわれは日本の山林の生態系など、また忘れてしまって考えることもしなくなるであろう。

 私はこのサイトで、オランダのプロバイオ化学の専門家に
「プロバイオ酪農システムを提案しよう。ここから、今から世界を変える酪農革命になるぞ」と刺激したのだが。
 日本の政治経済は、「カンフル注射」の財政学からはじまり、「麻薬中毒的な赤字公債乱発」の政治学、そして「覚せい剤中毒的な公金浪費」の経済学などを勉強し、それぞれに大きな痛手と頓挫を経験した。
 今こそ、プロバイオ・ポリティクスで政治や政策、行政プロセスそのものを再検討すべき時にきているのかもしれない。

 次に「愛され、信頼される指導者」のこと。
 魅力的な人物が表立った指導者になるべきで、あまり魅力的といえない人物は参謀役とか、表立たない役割を引き受けることの大切さを説明しよう。

 魅力的な人物というのは、一つのオーラを持っている。
 誰とでもすぐ仲間意識を持てる。
 しかし、道化役ではない。
 言葉に信頼性があり、気の弱い人や迷っている人に安心感を与える。
 ひねくれた人たちも包み込む度量がある。
 こういう人物を指導者として担ぎ上げると、その組織や集団は格が上がるのである。

 組織や集団が遅滞なく運営されるには、組織の制度もさることながら、人心の掌握が最も基本となる。
 つまり、指導者の人事こそ、組織の運命を決定する最大の問題である。
 したがって、組織を改革するには指導者を更迭することが必要であり、よりよい組織をのぞむならば魅力的な指導者を担ぎ上げ、一方ではその指導者に不断の研鑚を要請することになる。
 指導者がスキャンダルになるようなワナの領域に足を踏み入れてしまうほど堕落していたら、どんなにカリスマがあっても「堕ちた偶像」になるであろう。
 ハンサムで有名だった俳優が、ドロドロの女性関係を暴露されて、人相も犯罪者のように変わり、人気も急降下して廃業に追い込まれるということがある。
 人間的な魅力というのは、一つの才能である。
 別にハンサムでなくても、美人でなくても、魅力的な好人物は存在する。

 その一方で、いつも「不景気顔をしている人物」も存在する。
 私など、その種の類であるから、よもや政治家として出馬しようという考えは毛頭ない。
 自分の顔と名前が地域全体にポスターで張り巡らされるなど、とんでもないことである。
 当選しても、落選しても、この「ポスター」というプレッシャーは大きい。
 あんなに顔と名前を売ってしまうと、その地域で下手に悪いことはできないと思うのだが、それでも汚職や破廉恥なスキャンダルが絶えないのは、なぜか。
 自分の選挙区と国会のある東京の永田町が離れすぎているから、選挙区では注目され、都会では大多数の議員の中に埋没して、その落差に神経が麻痺してしまうこともあるのであろう。
 大田区の出身なのに、六本木の路上で泥酔して変態行為に及び、外国人女性の「出会い酒場」でつぶれていた「一日一善」の衆議院議員は、東京都議会議員のときから、泥酔するたびに、この調子だったということだ。

 こうしたことに多少なりとも疑問を感じるのであれば、自分から目立つことを望まず、渋い脇役を志願すべきである。
 主役も脇役も、損もあれば得もある。
 アメリカの大統領制度などは、指導者のトップダウンが象徴的だが、私が沖縄サミットや普天間基地返還問題の経緯で実見した感想からすれば、補佐官や顧問といった脇役の人々が通常の仕事の流れでは大きな発言権を持っていて、少し流れが怪しくなると大統領に直接進言することができる。
 そこで「この交渉ポイントは自分に任せてほしい」と末尾につけると、そこに大統領の略式(非公式な)サインが入ってくる。
 これが通常の大統領命令なのである。
 ここで脇役は全権を与えられ、大統領の代理として流れを整理する。
 こうなると大使も有力議員も何も口出しはできない。
 天皇のお墨付きの命令が出たようなもので、国務省の役人は黙って命令に従う。
 これは大変合理的な方法である。

 「脇役をうまく使う」という経営を、私は「分身経営」と呼んでいる。
 あちこちの部署に勝手な動きをする「小ボス」を抱え、部署ごとに不正経理の病巣があるような分裂組織が「大企業病」だとすると、分身経営はその反対である。
 経理は全て一括管理する。
 不正は罰則で禁じる。
 あらゆる部署のリーダーは経営者の「分身」となって行動する。
 いつでも何でも報告し、連絡し、相談する「報・連・相」でつながっているのが、すなわち「分身」の脇役たちである。
 このような経営組織は、リーダーに全ての情報が集中し、トップの考えが末端まで瞬時に伝わり、最終決断がスピーディーに行われるので、企業の競争という観点では最も強い。

 これは経営学で「事業部制経営」と呼ばれる方法を、その最も重要な神経系統だけ摘出した、いわば神髄である。
 中国などで事業部制経営を説明する場合、私はこの分身経営によって
 「商品をつくる前に人をつくれ。組織をつくる前に自分の分身を作れ」と経営者たちに語りかけている。
 分身経営という神髄を持たない事業部制は、まるでブリキの兵隊のようなもので、並んでいるだけで立ち腐れるものなのである。
 だからこそ優秀な脇役がどこの組織にも必要だし、脇役を使命として自分から志願する人材が求められると思う。

 さて大義名分を失った組織のみじめさは、われわれは最近、あちこちで見かけるので説明するまでもない。
 『易経』には「大義とは、利益の公正な配分である」と明確に書かれている。
 これは永久の真理であろう。
 利益の配分に不正があると、文字通りの「不平」と「不満」が生じる。
 その反発の感情は、立場が弱く、発言力のないものほど強い。
 強く出るのは少数の幹部。
 だからこそ、経営の大義、経営理念は経営者の立場を守るのである。
 これが人間普遍の真実ではないか。
 「利益を個人に独占させない」
 これが大衆の支持を受ける最善の方法である。

 「大衆の支持」というのは、組織の人々の支持だけでなく、消費者・顧客の支持でもあることを忘れてはならない。
 どうして消費者や顧客までが支持をしてくれるのか。
 「顧客の満足を追求する」という理念に経営資源を集中すれば、「満足」の確率は上がることはわかるだろう。
 「ここまでやってくれるのか」
 「こんなものが、こんな価格で」
 顧客の満足・感動はそんなに多種多様なものではない。
 そこにヒット商品の共通したポイントがあるわけだ。

 大義名分とは、人々が納得して、個々の不平や不満をひっこめるような公正な目的であり、その結果において、公正な配分が実現するという「予定の調和」、いいかえれば
 「時間貸しの理想」なのである。

 ウルトラマンや正義の味方は、いい仕事をしたら胸をはってシュワッと飛び去ってしまう。
 これでは何も利益があがらないというわけだが、利益や恩恵は別の意外なところから出てくるのである。
 特に公務員や組織人の場合、自分個人の利益を追求する必要はないのであるから、本来はリベートなどを要求する手間もいらないはずだ。
 そんなものにこだわっていたら、前には進まないし、仕事は終わらないのである。
 しかし、個人の利益を追求し、安全に受け取れるリベートの仕組みがないと、前に進もうとしない役人たちは、決して仕事を終わらせることはない。
 延々と仕事のフリを続けて、個人の利益を追及しようとする。
 これが「お役所仕事」の実態なのだ。

 諸君が職場で不当な扱いを受けたら、どうするか。
 もし自分が最大の功労者であるにもかかわらず、他人が利益を独占し、自分が最も不利を受けたと判断した場合は、不満をあらわにしたりせず、抗議もせず、他人を攻撃せず、さっさと仕事をやめてしまうべきだ。
 それによって最も打撃を受けるのは自分ではないことが確かならば、断固として仕事を拒否するのである。
 ヒット商品を作ることができるのは、仕事を成功にみちびくのは、社長でも重役でもない。
 社員の才能のみが、その無限の可能性を持っているのである。
 最大の功労者が動きを停止してしまえば、功労もないのに、不当な利益を独占していた人々が、最も打撃を受ける結果になる。
 社長はイスから崩れ落ちる。
 笑ってやりたまえ。
 ただし、それは30才前後になって、自分のキャリアが安定して、才能も実績も認められてからにすべきだな。
 社会人かけ出しの若い者が「いじめられた」といって職場に出てこないといって、誰も惜しむ人もいないし、怒られるか、笑われるだけだよ。


 時間の使い方のコツであるが、私の経験からいっても、あるいは政治の舞台でも、最も排除すべき時間は「待ち」の時間である。
 時間を有効かつ合理的に使いたいと思ったら、余裕のある時間を増やし、待ち時間を減らす工夫をすべきである。
 企業買収・合併の経営戦略が、「生産施設・組織人材・市場シェア」を拡大する「時間節約の方法」といわれるのは、ここに理由がある。
 敵対的買収は、経営陣の反撃、労働者たちの反発、成長株の毀損、防衛コストの増大になるわけだから、まず経営陣に大きな失点がないかぎり成功しない。

 そこで「戦いはしない戦略」が必要になるが、それは「戦いを避ける」ということではない。
 戦いを避けるのならば、「相手の言いなりに降伏する」というのであって、戦略理論なんかは不要じゃないか。
 相手が「戦いを避けるように仕向ける」のが、「戦いをしない戦略」というのだ。
 ここを間違えたら、閣下は大いに困るぞ。

 「ボリシェビキ(多数派)」というロシア語は、ウラジミル・イリイッチ・レーニンの戦略論に由来する。
 彼は適切にも、その概念をこう説明した。

 「当面の敵を最小に、当面の味方を最大に」

 つまり「体制派を分裂させ、革命派に合流させよう」と王制派の裏切り工作を正面から提案したのである。
 これがボリシェビキ戦略である。

 『孫子兵法』は2500年以上前に
 「敵を味方にすれば、戦力比は倍増する」という理論を立てた。
 簡単な算数である。
 2対2で敵と味方が対立している。
 そのうち敵の半分が味方になると、どうか。
   2-1対2+1 = 1対3
 一挙に三倍に戦力が増大し、態勢は逆転する。
 これが「敵をつくらず、敵も味方にする戦略」の要諦である。

 一番、わかりやすい実例は、関が原の戦いで石田三成を裏切った小早川軍と、積極的な参戦を見送った島津軍、内通して傍観した毛利軍であろう。
 明治初年に、プロシアから戦略教育のために招聘されたメッケル少佐は、関が原の軍陣配置を見て、「これは徳川軍の負けだ」と断言した。
 学生たちは「いえ、徳川が勝ちました」といった。
 すると、メッケルは「それは政略だ。大将に人徳がなく、裏切りが出たのだろう」と即座に応答したという。

 この数理に基づく戦術を、孫武の呉軍も歴史上の事件で実際に使っている。
 楚の軍勢に占領された地域・女鳩を、呉が攻めようとした。 
 すると、領主の女鳩氏は密使を送り、「呉に内通したい」と知らせてきた。
 女鳩族は、その古い名前が示すように、紀元前2000年前、黄帝の以前の帝王・女カ氏(炎帝)の諸侯であり、水利権などを確保して封建諸侯の時代を生き延びたと考えられる。
 日本の戦国時代にも、鎌倉以来の封建諸侯と、織田・豊臣・徳川の家臣団の諸侯がごちゃまぜになっていたであろう。
 そこに女鳩の誇りと意地があった。
 そこで呉も密使を送り、この「三倍逆転の数理」を解説して
 「勝利は確実だ」と納得させた上で、
 「最初は本気で呉に攻めかかれ。楚軍は見物して動かないだろう。呉は退却し、君たちを待つ。それから一緒になって油断した楚軍に攻めかかるのだ」と策謀を伝えた。

 女鳩の軍勢は本当に呉軍を猛攻し、戦線を突破した。
 呉軍もうまく退却した。
 すると予想通りに、楚軍は「自分たちが出るまでもない。戦いは現地の女鳩にまかせよう」と動かなかった。
 それを見た女鳩の領主は、
 「楚がわれわれを先に裏切ったのだ。このたびは呉に組するのみ」と呉軍に合流し、楚軍の陣地に反転攻撃をかけた。
 それを合図に、楚軍の側面から、呉軍の本隊が本格的に奇襲をかけた。
 この戦いで、楚軍は歴史的な大敗を喫して、東部方面軍が壊滅する打撃を受けた。
 またこの一戦によって、呉の領土は一度に5倍に増えたのである。

 これと同じ戦術を使ったのが、尼子経久の死後、出雲の月山富田城で毛利元就が大敗した戦いである。
 これは稀代の軍略家でもあった経久の生前の計略だったとされている。
 この時は毛利の友族だった吉川氏が突然寝返り、富田城に入ったかと思うと、尼子の城兵とともに押し出して、油断していた毛利軍を包囲殲滅した。
 毛利元就自身は顔を見知っている吉川の兵たちに追い立てられて、ようやく数人の家老とともに命からがら逃亡した。
 だから同じ戦術を、徳川家康が関ケ原の戦いに使おうとした時、すでに元主役の吉川氏は断絶し、毛利元就の次男・広家が継承していたが、この戦術で東軍の家康が勝利することはわかっていたはずである。
 吉川広家は兄の子・毛利輝元の軍陣の前に立ちはだかり、家康と内通して、西軍主力ともいうべき毛利軍を一歩も動かさなかった。
 「圧倒的な敵勢力は、内部分裂で戦力を落とさせよ」というのも、『孫子兵法』の格律である。
 戦国時代末期には、閣下のような軍略家は、わが日本には数多くいたということだ。

善い戦略は、最期には善き撤退という締めくくりを持たねばならない。

 映画《The Executive Action》でも、最初の話題で
 「撃ってから混乱にまぎれて逃げる」という実行犯の脱出方法が決定された。
 もし実行犯が逮捕されたら、陰謀の存在がつかみ出されて、それによって暗殺を計画した私設謀略機関の存在も浮かび上がってくる。
 これを阻止するために、犯人を早く検挙したい警察にオズワルドという身代わりのスケープ・ゴートを食わせ、実行犯たちには大統領警備隊(シークレット・サービス)の記章を配布して、安全に逃亡させる。
 《JFK》のギャリソン検事の尋問では暗殺の現場で警察官が近くにいた人々を検問したところ、シークレット・サービスの記章を提示した人物が多数存在したことを証言している。
 しかし、後に大統領府が確認したところ、当直のシークレット・サービスは非番で、ダラスの現場に配置されたシークレット・サービスの人員は一人もいないはずだし、そのような配置命令もないという。
 これはトランボの想定が正しい。
 犯人グループはやはり、現場から脱出する方法を綿密に打ち合わせ、手順通りに実行に移したのである。

 ベトナム戦争は、キッシンジャー博士の超人的な外交努力で撤退へと持ち込まれたのであるが、この戦争はもともと徹底する計画がなかったために深入りしてしまった紛争(Conflict)であった。
 私がフロリダ州の州都タラハッシーに行ったら、そこに州軍の出征戦死者を追悼する国旗掲揚台があり、
 「Korean Conflict and Vietnam Conflict」と刻まれていた。
 不思議に思って、
 「戦争(War)じゃないのか」とたずねると、知り合いは顔を真っ赤にして
 「政治家はWarという。しかし、フロリダ人にとってはConflictなのだ。フロリダとは関係のないところで、フロリダ人の血が流されたことをわれわれは追悼しているのだ」と厳しく言ったものだ。

 しかしベトナム戦争をはじめた米軍統合参謀本部の人々は、沖縄から駐留軍を撤収することを今でもまったく考えていないように、ベトナムから完全に撤退することを想定してもいなかったのであろう。
 そこにケネディ大統領が
 「近くのキューバでもうまくいかないのに、どうして遠くのベトナムがうまくやれるのか」と撤兵計画を指示したものだから感情的に反発したことはよくわかる。

 とはいえ、ベトナム・コンフリクトは失敗に終わったのである。
 《JFK》のストーン監督が言いたかったのは、もしケネディ暗殺がなかったら、ベトナム戦争はなく、むしろアメリカ軍は南ベトナムから平和的に撤兵し、北ベトナムと友好関係も持ちえただろうということである。

 すべての戦略は撤退で終わる。
 終わって、家に帰るのである。
 忘れ物をしてはいけない。
 迷惑をかけた人々にはお詫びをしなければならない。
 そして、気がついたら、まわりを掃除していくことである。
 そのことを考えたら、最後の最後の掃除まで、最初の段階で目配りをした撤退戦術を戦略オプションの一つとして当然用意しなければならない。
 この撤退戦術を誤ったとき、アメリカのPKF(国連平和維持軍)は国連の記章をつけていたにもかかわらず、レバノンやソマリアで大打撃を受けることになった。
 善い戦略は、善き撤退をもって終わる。
 これは礼に始まり、礼に終わる日本武道の試合の心得の如しである。
 撤退に失敗すると、全てが失敗した印象を与えがちである。

 名誉ある撤退の姿をどのように設定するか。
 うまい引き際のタイミングをどのように見分けるか。
 最初から撤退を準備しておけば、引き際のタイミングは得られるであろうが、状況の変化で行き当たりばったりで撤退すると、どうやっても名誉ある撤退の形にはならない。

 『孫子兵法』は言う。
 「最大の防御は撤退である」

 これは「逃げるが勝ち」といっているのではない。
 しかし、「攻撃は最大の防御なり」という考え方は完全な錯誤であることは銀雀山竹簡で明確になったのだ。



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