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“開き直り型”と“同情そそり型” 火事と喧嘩が江戸の華なら、不倫と離婚はワイドショーの華。ワイドショーの歴史をどぎつく彩った不倫をめぐる名言を集めてみよう。 不倫が発覚した際の芸能人・文化人の反応は、およそ2つに大別できる。1つは、「なんでアタシの個人的な不倫のことを全国民にあやまんなきゃなんないわけェ?」(ごもっとも)的な“開き直り型”。 もう1つは、「奥様にもうしわけないことをしました」的な“同情そそり型”である。 最近は“開き直り型”が増えてきているようだが、それが主婦層の反発を買うのはいまも昔も同じである。 不倫をした女性タレントは、大半の主婦にとって“自分の夫をたぶらかし、家庭の平和を脅かす可能性のある不特定多数のオンナ”の象徴なのだ。 “開き直り型”でまず頭に浮かぶのは、女優の樋口可南子が、糸井重里との不倫(のちに結婚)発覚の際に放った、この名言だ。 「妻子ある人を愛したんじゃありません。愛した人にたまたま妻子があっただけよ」 ううむ、深い。 かつて、新東宝映画の社長であった大蔵貢が、「自分の会社の女優を2号にしている」というマスコミの批判にこたえ、「女優を2号にしたのではない。2号を女優にしたんだ」と、とんでもない開き直りをして映画史に名を残したが、樋口のこの名言は、大蔵の迷言に対する女優の側からの巧まざる反撃にもなっている。 ちなみにこの不倫、2人がホテルから出てきた現場を記者につかまって“発覚”したのだが、その際、樋口がかくもクールな対応をしたのにひきかえ、糸井はあわてふためき、愛車ルノーのエンジンをかけるときも手が震えてキーがうまくさしこめないありさまだったという。 “開き直り型”の名言として樋口のそれと双璧をなすのが、「魔性の女」葉月里緒菜が真田広之と不倫した際に放った、次のような堂々の「不倫宣言」であった。 「私が家庭をこわしたんじゃない。つきあい始めたときには家庭はこわれていた」 この不倫宣言から、彼女は女性誌やワイドショーのバッシング報道に巻き込まれていくのだが、その渦中にあっても、「離婚して出会ったらよかったんですか?」などという率直な発言をくり返し、注目を集めた。 私は個人的には葉月里緒菜よりも手塚理美のほうがタイプであるし、「手塚を捨てて葉月に走るとはなんともったいない」と思うのだが、それはさておき、葉月里緒菜の発言には一理も二理もある。 要するに彼女は、「不倫の恋も恋は恋。大人同士なのだから、恋に被害者も加害者もない」と言っているのだ。そのとおりである。 もっとすごい開き直りもある。 「私を斬るなら、返り血を浴びたりせず上手にやってほしい」 女優の藤間紫が、夫(6世藤間勘十郎)から「不貞」を理由に離婚調停を申し立てられた際に言った言葉である。 日舞の名門の家元夫人らしいセリフではあるけれど、自己陶酔がちょっと鼻につく。 続いて、“同情そそり型”の名言。 井上ひさし元夫人の西舘好子は、自らの不倫が原因となった井上との離婚に際し、記者会見でこの有名なセリフを吐いた。 「自分に正直に生きたい」 このセリフはちょっとした流行語のようになり、『朝日新聞』の家庭欄で、この言葉をめぐって投書者同士の「論争」が巻き起こるなどという余波も生じた。 評論家の呉智英は、著書『バカにつける薬』(双葉文庫)の中でこのセリフを評して、「(不倫をして社会的規範を破っておきながら)なお自分は、『正直』という社会的規範と親和関係を保ちたいと思うところに、この女の鈍感さと自堕落さがよく表れている」と斬って捨てている。 つまり呉は、西舘のセリフに「私は『貞操』という道徳にもとる行為をしたが、それは『正直』というもう1つの道徳に忠実であったがゆえのことである」という自己正当化を見て取り、それを卑しいと言うのだ。 が、そこまで言うのも酷だという気がする。 女性だけが「姦通罪」に問われた明治時代と比べれば隔世の感があるとはいえ、不倫をした場合には女性に対する風当たりのほうがいまなお強いのだから、この程度の自己正当化は無理からぬところではないか。 タレントの石田純一は自らの不倫発覚に際して「不倫は文化だ」とのたまったそうだが、それはやはり、男だからこそほざけるセリフであろう。 不倫を美化する「言葉のマジック」 不倫を表現する新語というのが、時たま世に現れる。 たとえば、渡辺淳一の不倫小説『失楽園』がベストセラーになった97年には、「失楽園する」が不倫を意味した。 もっと昔には、不倫のことを「よろめき」と呼んだりした(こちらは、三島由紀夫の不倫小説『美徳のよろめき』から生まれた流行語)。 近年、世界で最も有名な不倫といえば、クリントン米大統領とモニカ・ルインスキーさんの、全米を揺るがせた不倫スキャンダルであろう。 クリントンは不倫を認める釈明会見で、二人の関係を「不適切な関係」とだけ表現した。 「肉体関係」とも「不倫」とも言わずに、である。 日本のオヤジたちの中には、この言葉を部下のOL相手のセクハラ・ジョークに使った連中が、きっとたくさんいるだろうな。 「○○ちゃん、オレと『不適切な関係』しない?」 というふうに・・・・。 では、生身の女性の名セリフのなかに、不倫を表現する新語がなかったかといえば、これがちゃんとあった。 たとえば、女優・石原真理子(のちに真理絵と改名)が歌手の玉置浩二との不倫に際して記者会見で言った、この名セリフ。 「恋をしています。小学生のときのような無防備な恋」 「不倫」というとものすごく悪いことのような気がしてしまうが(いや、もちろんものすごく悪いことですよ)、「無防備な恋」と表現されると、“社会の非難を恐れず思いを貫くピュアな恋”に思えてくる。 これぞ言葉のマジックである。 「いまね、部長と“無防備な恋”してるの。ウフフ・・・・」 てな感じで流行しなかったのが不思議なくらいだ。 同タイプのものとして、女優の斎藤由貴が故・尾崎豊との不倫に際して言った言葉がある。斎藤は尾崎との関係を、こう表現したのだ。 「同志みたいな感じです」 同じ目的に向かって戦う「同志」――こう表現されると、「不倫」という言葉から受ける不潔なイメージがすっかり削ぎ落とされて、いっそ清冽な印象すら受ける(笑)。 いや、お見事である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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