フィリピン獣医時代フィリピン獣医時代 日本において、獣医の技術を一応一通り身に付けた俺は。 やっぱり、トロピカルエリアでの仕事に魅力を感じていた。 やっぱりアフリカに戻りたいよぉっとずっと思っていた。 そんな時に、フィリピンで酪農のプロジェクトを始めるから、ちょっと参加しないか?みたいなお誘いがあったんだ。 獣医療には、大きく分けるとまず、臨床と、基礎分野がある。 臨床というのは、一般の人から見てもよくわかる動物病院のお医者さんが代表例だ。そして獣医ならばやはり臨床で働きたいと思うのが普通じゃないのかな。 基礎分野は、『日本獣医時代』でちょろっと紹介した、俺の同期みたいな事をやっているやつを指す。そう研究分野が主かもしれない。 もちろんどちらも重要だ。 そして更に臨床獣医にもいろいろと種類がある。 ひとつは小動物臨床。 これは、いわば町の動物病院の獣医さんだ。イヌやネコなどのペット動物の診療をしてくれる。 ペットといっても侮ってはいけない。 昨今、いろいろな病気があり、更にペット寿命も延びてきたため、小動物臨床獣医もかなり高度な技術を要求されるんだ。それはそれは大変だ。 そう、日本で俺はこの小動物臨床獣医に当てはまる。 そして大動物臨床と言うのがある。 あまり都会じゃポピュラーではないけれど。 北海道などの酪農地帯に行くと、この分野の獣医のニーズは大きい。 つまりはペットとは違い産業動物の獣医だ。 この分野も決して侮れない。 産業動物は、いわば食料だ。 人間に安全な食糧を供給するために、必要不可欠な存在なのだ。 以前BSEがらみで、獣医さんが自殺してしまったという事件があったけど。 その獣医さんは俺の知り合いの知り合いだった。まぁ直接は知らないんだけど。 あの事件、別に獣医が悪いわけじゃない。 でも責任感が強かったんだ。その獣医さんは。 だから獣医ならば、あの事件に少なからずみんな心を痛めたはずだ。 さて、話は少しそれちゃったけど。 俺は元原始人だったけど。 今では、小動物臨床の技術はとりあえず身に付けている。ぎりぎりで。 そして、実は大動物臨床の技術も身に付けているんだな。 更に人工授精もできるんだ。 人工授精というのはいわば『種付け』。本来は獣医の仕事じゃないんだけれども、獣医はその技術を有している。 大動物の技術は、そのほとんどがタンザニア獣医時代に培われたものだ。 確かに原始的な技術だけど。大動物分野に関しては、アフリカでも日本でもそんなに大きな差はない。 まして、アフリカのほうがいろいろな伝染病の宝庫だから。 ある意味知識は豊富に養われたのかもしれない。 そして、物資の不足する状況下で。 いかに任務をこなすか。そういった特殊能力は抜群なんだ。 という事で、フィリピンプロジェクト参加のお声がかかった。 参加する事に、俺はあまり悩まなかった。 本当は、アフリカに行きたかったけど。 それよりも、自分がどこまでできるかを試してみたかったって言うのが本音かもしれない。 更なる本音は、日本を脱出したかったからかも。 当時付き合っていた彼女がいたんだけど。 このプロジェクト参加がきっかけで別れる事になった。 彼女は俺に日本に定住する事を望んでいたんだ。 おとなしく、日本で獣医をしていれば。 まぁ、そこそこな暮らしはできるはずだ。 そして彼女と結婚して。 平和で幸せな家庭を築けていたはすなんだ。 人生で何度か大きな選択を迫られる場面ってのがどんな人でも何回かはありますよね。 そのうちの一回がこの時だった。 今考えると・・。 う~ん、う~~~~ん・・・。 失敗しちゃったかなぁぁ・・・? でも俺はフィリピンへ行く事を選んだ。 大体今悔いても、既にアフターカーニバル&フェスティバルなんだ。 まぁ、いまさらしょうがないさぁ。 くすん。 フィリピンは、かつて日本が太平洋戦争中に侵略した国としてとっても有名だ。 フィリピンに行く前に、いろいろと聞かされたっけな。 かつて日本軍は、フィリピン人に対して散々な事をしたから。 日本人の事をあまり好意的に思っていない人が多いよと。 しかも、それはお年寄りに多いよと。 だから、いろいろと戦時中の悲惨な話を聞かされるよと。 フィリピン在住の日本人の方からもこういった話を聞いたんだ。 そして、俺のじいちゃんの兄貴は、フィリピンで戦死したらしい。 まぁ俺が生まれるずっとずっと前の話なんで、俺にとってあまり現実味を感じないんだけど。 ところが。 フィリピンに行って。 そんな戦争中の悲惨な話は全く聞かされなかった。 まず、俺のフィリピンでの上司。 彼のご先祖はスペイン人だ。 そうフィリピンは、非常に複雑な侵略の歴史のある国。 まずイスラムに侵略され。 スペインの植民地と化し。 アメリカに売り渡され。 そして日本に占領された。 俺の上司のご先祖はスペイン統治時代の方らしい。いわばメスティーソ(混血)だ。 そして彼のパパは、かつてのフィリピン副大統領。 今のフィリピン大統領はアロヨさんだけど、そのパパが大統領だった時代の副大統領だ。 去年老衰で亡くなられちゃったけど、めっちゃ偉かったんだよ。 ↑ じいちゃんと俺のボスと、仲の良かった乳処理工場のマネージャー そんなかつての侵略者の血を受け継ぐ俺の上司は、日本の悪口なんかちっとも言わなかった。いやっ言えなかったのかもしれない。 まぁ、とってもいい上司だった。 そして、俺の仕事柄。 農家を相手にしなければいけない。 フィリピンの農業事情は。 若い年頃の連中は、みんなそんな泥臭い仕事を嫌がって町に行ってしまう。 日本とおんなじだね。 日本じゃ「三ちゃん農業」ってな言葉があったらしい。 何でも大黒柱のとうちゃんは出稼ぎに出てじいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんで農業してたからだそうだ。 でもここフィリピンじゃ、ばあちゃん、かあちゃんすら農業を嫌がる。快適な都会ぐらしの方がいいんだそうだ。 だから思いっきりじいちゃん農業だ。 そんなわけで、俺はフィリピンで暮らしてた時、残念ながら若い姉ちゃんと知り合う機会は全くなかった。 まあジャングルで若い姉ちゃんと知り合う方がなんか恐いけど。 ほかの友人はみんな都会で仕事をしていた。だからフィリピンの都会に住んでいる日本人の多くは、やっぱりきれいなフィリピン人の彼女や彼氏を作ってよろしくやってた。 当時俺はそんな暮らしにめちゃくちゃあこがれていたけど、今思うとジャングルぐらしで良かったなーって思う。 フィリピン滞在中に、他の日本人からよく言われた。 『町に住めば快適に暮らせるし、パブやカラオケだって行きたい放題なのに、何でジャングルにこもってるのか?』 だってジャングルだよ。 確かに若くてきれいな姉ちゃんなんかそこにはいないけど、もっと俺を魅了するものがそこにはたくさんあるんだ。 という事で、俺の仕事相手は、じじいばかりだ。 しかも、ちょうど戦争を知っているお年頃のじい様ばかりだ。 フィリピン赴任当初。 うわぁ、戦争中のお説教が待ってるのかぁ。 といささかうつだったけど。 ところが、そんなじいちゃんたちは俺に決して戦争中の悲惨な話しはしなかった。 よくよく考えれば当然かもしれないけれど。 彼らから見て孫のような俺に対して、そんな戦争中の悲惨話を普通するかな? 例えば、日本のじい様連中が、俺らと同年代のアメリカ人を見つけて『お前のじじいに原爆を落とされたぞっ』なんて事は絶対に言わないはずだ。 そんなことを言うのは、こちらでも変わり者か、もしくはお金がらみの問題なんだ。 じいちゃんたちは、俺よりも先に死ぬ存在だ。 でもね、ここフィリピンだとそんなじいちゃんたちだけきつい仕事に熱心なんだ。 日本なんかじゃ、もう引退して、ゲートボールにはげんだり、盆栽いじくっているお年頃なんだよ。 そんなじじいどもが、がんばって乳牛を増やそうって言う無謀なプロジェクトに協力してくれたんだ。 若者はみんなそんなジャングル暮らしを嫌って町でホワイトカラーの仕事につく。 だって街に出れば、こんな風にコンピューターに触れるからね。 女の人なんか特にやっぱりジャングル暮らしを嫌う。 街に出ればエアコン聞いた環境で涼しい顔して机で仕事できるからね。 そう、俺のプロジェクトにじじいの存在は不可欠だった。 彼らなしでは、俺は何もできなかっただろう。 写真は、俺が居候していたところのじいちゃん。 もうすぐ70歳だ。 70歳だよ。日本じゃそろそろおしめをするお年頃か? 彼の奥さん(ばあ様)は、セブの都会で暮らしている。 ばあちゃんは、俺に会うたびによく言う。 『じいじは、後数年したらもう足腰立たなくなる。だからセブに連れて帰りたい。こんな山で暮らすのはいやだ。』 実はセブの大都会に、けっこうでかい家を持っているんだ。 ばあちゃんは、ジャングル暮らしが大嫌い。セブの都会で暮らしたいんだ。 でもこのじいちゃんは、一人ミンダナオの山奥にこもって、酪農をやろうと奮闘していたんだ。 フィリピンじゃ、クリスマスは命の次に大事にするようなお国柄。 ところが、そんなクリスマスも一人山にこもって、酪農を続けている。 そんなじじいをほっとけるかい?普通。 だから、俺はそんなじじいのところへ居候していた。 居候って言っても、飯を作ったりいろいろと世話をしていたけど。 かる~い老人介護かな? いやいやっ俺のほうこそ世話になりっぱなしだった。 彼がすごいのは、インターネットを使いこなす事。 今俺はロンドンに滞在しているけど。 彼から時々メールが来る。 そして、今度またウシの子が生まれたなんてメールが来る。 とっても嬉しい。 そして俺もメールで、あの農地は今度こういった草を植えるといいよ、とか。 乳房炎には気をつけてとか。 いまだにメールのやり取りが続いている。 う~ん、タンザニアは俺の第2のふるさとなんだけど。 フィリピン、ミンダナオも第3のふるさとになってしまった。 このじいちゃんには、娘が3人いるんだけど。 みんなもう嫁いでしまって、この農場を引き受けてくれる人がいないと良く俺にぼやいていた。 俺はフィリピンでの任期が終わったら、大学院に行って学位をとろうかと考えていたんだけど。 俺がフィリピンを去る2日前に。 じいちゃんはしみじみと言った。 『学位とったら、ここに戻ってこないか?お前にだったら、この土地を任せられる。』 もう、目頭が熱くなるようなことを言ってくれた。 いろいろと法律の問題があるから、外国人はフィリピンの農地を購入する事はできないんだけど。 それでも、いろいろと可能な方法はあるんだ。 フィリピンで暮らすのもいいかもしれない。 でも、今はまだだめだ。 俺はまだやらなければならないことがあるから。 だから、じいちゃん。 それまで長生きしてくれよ。 ジャンル別一覧
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