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おいでやす。郡山ハルジ ウェブサイト。

ヒッチハイクで北欧へ(1992)その1

Road

いつも、夏にはいろいろなことがあった。
毎年夏になると、たいていどこかに遠出をしたものだ。そのなかでも自分にとって比較的大きな冒険だったのは、高校2年生の時に北海道を自転車で3週間掛けて1周した時のことと、大学3年の時に1ヶ月掛けてインド北部とネパールを旅した時、そしてこれから記す、米国東海岸-西欧-北欧の1ヶ月強のヒッチハイクの旅である。

【空白の3ヶ月―旅立ち】
その夏は、ビル・クリントンが米国大統領選挙に勝利する1992年、私が米国に留学して1年半が経過した頃のことであった。
5月に春学期を修了した私は、8月下旬に始まる秋学期までの期間をサマースクール(米国大学の夏期集中講座)の受講に充てる予定であった。しかし、実際に科目の履修登録に赴いて判明したのは、夏期に開講される科目の多くには厳しい受講者数制限があり、また受講の優先権は「卒業を間近に控えた学生」に与えられる、という事実であった。もともと私の専攻であった美術系の専門科目は夏期に開講される数がごく限られており、おまけに留学生である上、卒業まで1年余りを残していた私は、受講を予定していたすべての科目の受講者リストからいとも簡単に漏れてしまったのであった。かくして、私は夏の約3ヶ月余りのヒマを持て余すことになったのである。

もともと日本に帰国する気持ちが少しもなかった私は、当初は地元ノースキャロライナのシャーロット市内の日本食レストランにアルバイトの口でも探して、夏のあいだ小遣いでも稼ごうかと考えていた。夏休みの最初の数週間、私は市内に数件しかない日本食レストランや、大学の知人の紹介先などにコンタクトを取り、アルバイトで雇ってもらえるよう交渉を続けてみた。しかしあいにく手応えはどこも今ひとつであった。一方で私は、一旦受講者リストから漏れた科目のキャンセルによる欠員を当てにして、開講の日が迫るまで待ってもみたが、こちらもいつまで待っても欠員が回ってくる見込みは乏しかった。

結果的に、私は大学そばのアパートで実に2ヶ月近く、無為の日々を過ごし続けた。留学生の友人はもとより、アメリカ人学生の友人も少なかった私はその期間、毎日昼近くに目覚め、PBS(アメリカの教育テレビ)の子供向け番組や主婦向けの下らない娯楽番組を延々何時間も見、それに飽きると大学の図書館を訪れ、英和辞書がなくとも読めるような少年向けの書籍やアート関係の書籍を読み、夜は夜でやはりテレビを見たり読書をしたりマスターベーションして夜更かしするような生活を続けた。

そしてそんなある日、突然私は放浪の衝動に駆られたのである。
それは7月のある日、特に何のきっかけもなしに起こった。ただ、本当に突然「ノルウェイに行こう。」と思い立った。ついでに、「イギリスにも寄ろう」と思った。
実は当時、私が思いを寄せていた大学の女友達Kが、彼女の父親の出身国であるノルウェイに夏の間短期留学していた。一方イギリスには、その年にイギリス人女性と結婚した日本の大学時代の友人でバンド仲間だったYが、日本の勤め先を辞めて奥さんと一緒に渡英していた。よし、これらの友人達に会いに行こう、と思ったのである。

当時の私の所持金は、1000ドル程度であった。もともと夏期講座の受講料になるはずだった貯金を無為の日々のために浪費した上、事情を話して日本の親に臨時仕送りを依頼する度胸もなかったため(親に話せば『すぐ帰国してアルバイトせよ』との話になることは火を見るよりも明白だったので)、手元には秋学期までの時期の生存を何とか確保するだけの金しか残っていなかったのである。
したがって、この旅の移動手段の選択肢はひとつしかなかった。ヒッチハイクである。
思い立ったその日から数日、私は大学の図書館に通って旅行ガイドブックや地図をコピーし、移動ルートや所要日数を考えるとともに、通過する国の習慣や特色、そして簡単なあいさつやフレーズなどを勉強した。

【NYまでのヒッチハイク-宗教ネーちゃんの「移動する部屋」】
そして旅立ちの日の午前、私は「IS 95N to New York(国道95北上方面、ニューヨークまで)」とマーカーでスチロール・ボードにカラフルに記したサインを作成し、バックパックを背負って大学のインターナショナル・スチューデント・オフィスにあいさつに訪れた。私の企図を伝えると、オフィスのディレクターやスタッフらは「Crazy.(そんな無茶な)」「You can’t be serious.(冗談だろう)」との反応を示したが、私が本気であることを理解すると、「米国内の法律では、ハイウェイでのヒッチハイクが禁止されていること」「近年は下火になっているものの、ヒッチハイクがらみの殺人が存在すること」を教えられ、真顔で「気をつけなさい。」を繰り返された。ごもっともである。
私は礼を言い、大学のキャンパスから1マイルほど離れたハイウェイに向かって歩き始めた。実はその時私は「うまくいけば今日の晩にはニューヨークに着くかな。」などと安易なことを考えていた。

しかしその日の午後9時、私はまだノースキャロライナの州内に居た。約9時間の行程で目的地まで近づいたその距離はせいぜい200マイル弱。シャーロット―ニューヨーク間の総距離の4分の1程度であろうか。特に日が暮れた後は、ハイウェイの道端で親指を挙げている得体の知れない人間をピックアップする愚かな人間はいないことに私が気付くまでには、実際に夜の道端に立ってから数時間を要した。思えば、私は当時肩まで届くロングヘアーで、性別はおろか人種も不明な容貌をしていた。決してヒッチハイクに有利な条件ではない。しばらくハイウェイへの入り口で粘った揚句、その晩は諦めて最寄のモーテルに泊まった。その代金40ドル。後になって思えば、モーテルに泊まるなどという贅沢を考え付く余裕があるのはその日が最後であった。

翌朝モーテルを出てハイウェイを北に向かって歩き始めた私は、幸運にも『これから宗教のキャンプに向かうところ』だという「宗教フリーク」のお姉さんの、まるで所持品をすべて詰め込んだ「移動する部屋」のような車に拾われボルティモアまでリフトしてもらった。さらにボルティモア近郊では『今デラウエアの海岸でのキャンプを終えて自宅に帰るところ』だというゲイのカップル風の2人連れの兄ちゃんにニューヨーク市内まで載せてもらい、奇跡的にもその日の深夜にマンハッタンに到着した。

その日からの数日間、私はニューヨーク市内でこれ以上安いところはないという一泊10ドル程度のボロ宿のドミトリーに宿泊し、「ヨーロッパまでの絶対的最安値の航空券」を扱うことで知られていた某エアヒッチとよばれる旅行代理店を訪れ、アムステルダムまでの往復の航空券を約160ドルで入手した。さらに、ニューヨーク市中央図書館でヨーロッパのロードマップをコピーしまくり、渡欧後のルートを検討した。そして、当時クレジットカードを持っていなかった私は、ヨーロッパ滞在中の旅費として、ニューヨークの空港(たぶん、ラグアルディア空港だったと思うが)を経つ前に、当時の貯金のほとんどであった約800ドルを引き落とした。どういう計算をしたのか記憶にないのだが、金額から想像するに、1日2~30ドルあれば十分であろう、という判断をしたに違いない。

【オランダとドイツのヒッチハイク-あやしい「イギリス」人】
果たして、私は首尾よくアムステルダムまで到着した。そこで何泊したかは記憶にない。ただ、ツーリスト・インフォメーションで紹介された、欧米各国からのヒッピーたちが100人単位でたむろしている、病院か修道院か何かを改造したような大規模な安ドミトリーに何泊かしたことを覚えている。そのドミトリーについて印象に残っているのは、そこに宿泊していたアジア人が自分だけだったこと、ドラッグを堂々と販売し、トリップするための「特別の部屋」があることに驚いたこと、そして、テレビの置いてあるラウンジで私の隣の座っていたカナダ出身の美人のお姉ちゃんが、私の話し掛けに対して空返事しかしてくれないことにがっかりしていると、実はそのお姉ちゃんは隣に座っていた別のお姉ちゃんに「女医である自分のレズビアンのガールフレンド」との話を露骨かつ熱っぽく語っていたのを耳にし、これまた驚いたこと、などである。そう言えば、その時ラウンジのテレビが映していたのは欧州版のMTVか何かで、「ザ・スミス」のモリッシーが身をクネクネさせて歌っている姿と、ニューオーダー及びスミスのメンバーが組んでやっていた「エレクトロニックス」だか何だかいうバンドのボーカリストの腺病質的な女々しい歌声と実年齢より10歳は若い外見とがふと頭に思い浮かぶ。

さて、現在はどうか知らないが、当時オランダやドイツのような国では、ハイウェイの入り口の傍らなどにヒッチハイカー用の「ピックアップ・スポット」が設けられていた。ニューヨークからアムステルダムに着いて何日か経ったその日の朝、私は複数のヒッチハイカーが順序良く並んで「リフト」を待つその「スポット」に立っていた。そして、どういう経緯だったかは記憶にないが、私は「イギリス人」を自称しつつもとてもネイティブ・スピーカーとは思えないような訛りのあるあやしい中年男の車に、「精神病院の看護士」をしているという英語のヘタなドイツ人の若者と一緒に乗せてもらっていた。このドイツ人の男と一緒に同乗することになった理由は、二人とも目的方向が「ドイツ北部」だっだことであろう。このあやしい自称イギリス人ドライバーは、私にはネイティブとしか思えない完璧なドイツ語で私の同行者と意思疎通したが、何故かあくまで自分の「イギリス人」としてのアイデンティティを主張し、私にはもちろん、二人に同時に話し掛ける時には英語で話した。彼の車に乗せてもらっている何時間かのあいだに、彼はどこからか「たばこのようなもの」を取り出し、火をつけて私たちに勧めた。当時ライト・スモーカーであった私は、ドイツ人の男がそれを吸った後でそれを吸引した。ドイツ人の男は、吸引後間もなく、ドイツ語で何事かを笑い始めた。何を笑っているのかよく分からなかったが、私もそれを吸引してしばらく経つと事情を理解した。つまり、タバコのようなものはどうやらマリファナであったのである。

その後、ドイツ国境に近い田舎町で、平日の昼間っから女性がショーウィンドウに下着姿で立って客待ちをしている売春宿の向かいにあった中華料理屋で我々は昼食を取り、その自称イギリス人ドライバーのおごりかと思いきや彼の昼食分までの代金を請求された私とそのドイツ男は、その日の午後ドイツに入国してまもなく、辺鄙な場所の道端に降ろされた。

そこから何台の自動車を乗り継いだのか記憶にないが、多分その日の晩はオルデンバーグかブレーメンあたりの町のユースホステルに泊まり、さらにその翌日には北海に通ずる大都市ハンブルグまでたどり着いた。
ヒッチハイカー用のピックアップ・スポットを設けるお国柄だけあって、ドイツでのヒッチハイクは比較的容易で、道端で1時間以上リフトを待ちつづけるようなことはなかったように思う。おまけに、ハンブルグからデンマーク方面に向けてリフトを待っていた時にピックアップしてくれた青年などは、見ず知らずの薄汚れたアジア人の私を、彼と彼の「トライアスロン選手」のガールフレンドが同棲するアパートに昼食に招待してくれた上、食事が済むとデンマーク国境方面への交通の便が良さそうな場所まで送迎してくれたりした。そう言えば、ドイツの教育システムでは、ドイツ人は中学や高校時代のような10代前半~半ばのうちから「大学」を目指すか「職業人」を目指すかを選択させられ、マジョリティは彼自身のように後者を選択するのだということを、たどたどしい英語で教えてくれたのは、この男だった。

【デンマーク...はじめての野宿】
その後デンマーク国境を越える道のりで私をピックアップしてくれた青年はたしかデンマーク人だった。それまでリフトしてくれたドイツ人たちと異なり、この男が流暢な英語を話す事実に驚いたことを覚えている。また、ドイツからデンマークへの入国審査が実に簡単で、単に車の中からパスポートを提示するだけで済む事実にも驚いた。

当初私は、ノルウェイまでの最短ルートを求め、ユトランド半島を北上し半島の最北端からスウェーデンへフェリーで渡るつもりであったが、この男との会話に熱中してしまったためであろうか、彼の進行方向に合わせ、童話のアンデルセンの生誕地として有名なフュン島のオーデンセから首都コペンハーゲンのあるシェラン島を経由する遠回りのルートを選択することになった。

さて、デンマーク入りしてこの青年の車から降ろされて間もなく私が思い知らされたのは、北欧におけるヒッチハイクが容易ではないことであった。降車してから次の車が停車してくれるまでの間、炎天下での2~3時間待ちはふつうであった。
あれはたしかユトランド半島からフュン島へ向かう最中であったか、その日私はフォルクスワーゲンのビートルのようなタイプの丸っちい自動車を運転する「レコードショップのマネージャー」をしているというヒップなデンマーク人のお姉ちゃんに拾ってもらった。拾われて、車中の話がはずんだまでは良かったが、彼女が私を降ろしてくれた場所が良くなかった。そこは見渡す限り麦畑の広がるような人里離れた辺鄙な場所であった。降ろされた時は午後4時頃だったであろうか、私はまずハイウェイの上でヒッチハイクを始めた。デンマーク人の前述の気質の上に交通量が少ないことが祟って、1~2時間経っても停まってくれる車は無かった。私は諦めて、最寄の普通道からハイウェイへの入り口まで移動し、ヒッチハイクを再開した。さらに1~2時間リフトを待ったが停まる車はなく、そのうち雲行きが怪しくなり始めたかと思いきや、いつの間にか雨が降り出し、そしてはじめは小降りだったその雨はすぐに土砂降りになった。雨宿りができるような人工物も樹木も周囲にはなかった。私は全身が完全にびしょ濡れになりつつも、通過する車のドライバーに停まってくれるよう親指を立てて哀願の笑顔を振り向け続けた。何台かの自動車が通過し、そのうちドライバーの何人かとは目が合ったが、びしょ濡れの私の姿を見ると、みな申し訳なさそうな憐れみに満ちた表情としぐさを示して走り去って行った。

その晩、私はその旅を始めてから初めて野宿をすることになった。
計4~5時間くらいリフトを待ったであろうか、あたりが暗くなり始めた時に私は自動車を当てにするのを諦め、びしょ濡れのまま、重いバックパックを背にハイウェイの道端をとぼとぼ歩き始めた。自分がどの辺にいるのか見当がつかなかったが、とにかくオーデンセの方向に向かって歩けるだけ歩こうと思った。何キロメートル歩いたであろうか。とにかく、2~3時間は経過していたので、その何もない道を10数キロメートルは歩いたに違いない。それは白夜に近い北欧の薄暗闇の最中だったので、きっと時刻は午後10時か11時頃だったと思う。向かう方向の彼方に、巨大な橋が浮かんで見えた。それは、ユトランド半島からフュン島へ掛かる橋であった。この橋が何百メートルか、あるいは何キロメートルに及ぶ長さの橋だったかは記憶にない。私は外灯に照らされたその橋を疲れ切った脚で渡りながら、妙に高揚した気分でいた。思えば、疲労と空腹の極限で生じた一種の「ランナーズ・ハイ」のような状態にあったのだと思う。橋の上からやまびこを試すような声を上げたりしつつ、私はもうろうとしかけた頭で北欧の暗い海峡を眺めやった。そして、橋の向こう側に見えてきたのが、ドライバー用の休憩所であった。

その晩私は休憩所の自動販売機のスナックか何かを腹に収めると、公衆トイレで顔を洗い、木製のベンチに体を横たえた。長い時間歩いているうちに、ずぶ濡れだったはずの衣服はいつの間にか体温で乾いていた。異国のどことも知れない辺鄙な地の休憩所に、ひとり無防備な姿で横たわることの不安を感じる間もなく、私は眠りに落ちた。

【マクドナルドは高級品?―北欧の物価にお手上げ】
翌朝、休憩所周辺からオーデンセに向けて私にリフトをくれたのは品の良い老夫婦であった。その老夫婦が目的地まで乗せてくれたか、さらに何台かの車を乗り継いだかは記憶にないが、私はその日のうちにオーデンセに到着した。宿泊したのはユースホステルであったと思う。その日スーパーマーケットで買い物をした時、私はついに自分が紛れもなく北欧圏に入ったことを痛感した。ヨーロッパの中でも南欧に比べ物価の高い印象のあったオランダやドイツと比較しても、デンマークの物価は圧倒的に高かったのである。
24時間も滞在しなかったであろうオーデンセを後にし、コペンハーゲンに到着した時も、その物価の高さにはショックを受けた。例えば、アメリカに居た時はジャンクフードの代名詞であったはずのマクドナルドに入ると、ハンバーガーの価格はアメリカの倍もするのであった。アメリカであればそれだけの金でレストランでまともな食事ができることを思うと、金のないヒッチハイカーの私にとっては北欧ではマクドナルドでさえ高嶺の花となり、たかがハンバーガーにも手が出せないありさまなのであった。

コペンハーゲンは本来であれば数日間滞在するだけの見所がある都市であったのだろうが、物価の高さに降参したのであろう、ユースホステルのたぐいにたぶん2泊程度しか滞在しなかったと思う。覚えているのは、そのホステルはモダンなデザインの市民体育センターのような作りの建物の中にあり、宿泊者の中に私以外の東洋人は見掛けなかったことだ。交通機関を使う金さえ惜しかったので、街の中を徒歩で散策した記憶はあるが、やはり入館料のことを考えると美術館などを訪れるような余裕はなかったはずである。

コペンハーゲンを発つ時か、コペンハーゲンに入る時だったかのどちらかの時にリフトを提供してくれた青年のことは、今でもよく覚えている。彼はデンマークに留学中のオーストリア人の青年で、黄色いルノーかフィアットか何かを運転していた。彼は「北欧の言語」を専攻しているそうで、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェイ語の3つの言語は面白い関係にあることを教えてくれた。例えば、スウェーデン人が喋るのをデンマーク人やノルウェイ人は理解するが、逆にノルウェイ人が喋る言葉をスウェーデン人は理解できないとか、そんな話を彼がしていたのが記憶に残っている。

コペンハーゲンを発った後私が向かったのは、スウェーデンに最も近い街、ヘルシンゲルだった。ここまで来ると、対岸にはたしかにスウェーデンが見えた。この街は、国境の町の例外に漏れず、「物価と関税と為替レートの落差」を利用してハメを外しに来るスウェーデン人の落とす金によって経済が成り立っているらしく、ちょっと退廃した雰囲気があった。話によると、特に週末などにスウェーデン人が大挙フェリーで押し寄せ、自国の半額近い安値の酒をしこたま飲んだり免税店で買い込んで、またフェリーで対岸に帰って行くとのことであった。

【スウェーデンの不良少女とNintendo】
正確には覚えていないが、フェリーに乗っていた時間は短かった。私はフェリーを降りると簡単なスウェーデンへの入国審査と若干の両替を済ました。この対岸の町は、海岸線からすぐそばがまるで崖のように急な勾配になっており、ハイウェイはその上にあるらしかった。
車をつかまえるのは、デンマークよりはスウェーデンの方が多少は容易だったように思う。ふつうのビジネスマンのような中年や、大学の先生か何かをしている初老の紳士などがリフトを提供してくれたのを覚えている。デンマーク同様、みな流暢な英語を話していた。それでも、ある片田舎で私を同乗させてくれたオーバーオールを穿いたオヤジは、たぶん農夫だったのだろうが、これっぽっちも英語を話さなかった。しかし、私は彼の言葉の端々に捉えられるドイツ語やフランス語とほぼ共通のスウェーデン語の単語と、彼のジェスチャーから、彼が私に訴えかけていることは何となく分かった。『この夏はのぉー、天気が良過ぎて雨が降らん。毎日晴れ、晴れ、晴れ…これの連続じゃ。おかげで作物が干からびてしまって、この夏の天候は我々農夫にはたまったもんじゃないよ。』

スウェーデンに入国したその日のうちに、私はスウェーデン第二の都市、ヨェーテボリまで辿り着いた。当初予定したルートでユトランド半島の最北端からフェリーに乗っていれば、私はこの街からスウェーデンに入国するはずだった、そんな港の町でもある。到着したのが午後7時頃だったので、宿を探すにもツーリストセンターは既に閉まっていた。私は暗くなるまで街を散策し、ついでに安宿をも当たってみたが、物価を考慮してほどなく野宿を決めた。まず、暗くなると鉄道駅構内のベンチで時間をつぶし、最後の列車がなくなって駅舎が閉鎖されたら、今度はそばのバス停のベンチに移動し、早朝の駅舎の再開を待つことにした。

たぶん午後11時かそこらのことだったと思うが、私がバス停のベンチでボーっとしていると、そこから10数メートル離れた暗がりに、不良ティーンエイジャーが数人たむろしているのに気付いた。ほどなくその不良どもはベンチにたたずむ東洋人に興味を示し、こちらに近づいてきた。うちひとりの少年が、タバコの火を借りるか何かのそぶりで私にスウェーデン語で話しかけてきたが、私が彼の言語を理解しないことを悟ると、ブロークンな英語にスイッチして話し始めた。たぶん、どこから来たのか、とかどこに行くのか、とかここで何をしているのか、とかいった単純な内容のことを聞かれ、私はそれにフレンドリーに答えたと思う。すると、その不良の群れの中から、さらにひとりの少女が近づいてきた。私の隣に掛けると、やはりブロークンな英語で何やら話し始めた。近くで見ると、いかにもズベ公らしい化粧をした、明らかに当時の私より10歳くらい若そうなまだ10代半ばの少女であることは一目両全であった。しかしこの少女は、たぶん日本人が珍しかったのだろう、やたらとべたべた私に触り、しまいには私の耳に口をつけて何事か熱くささやき始めた。私は、仲間の不良少年たちの手前あまり露骨なアクションは避けて欲しかったが、それでも悪い気はしなかった。やがて、彼女は不良野郎どもとスウェーデン語で何か話し始めた。彼女が私に宿を提供しようということを提案しているらしいこと、私に近づかずに依然暗がりの方にいる野郎どもの中には明らかに私に好意的でなさそうな様子を示している者がいるらしいことが何となく感じ取れた。私は心の片隅で、虫のいいことに彼女と一晩を共にするような機会を漠然と想像していたが、あいにく不良どもは私に構うのを止めてどこかに移動することを決めたようであった。結局そのケバい化粧の少女は、名残惜しそうな一瞥を投げかけながら、野郎どもとともに暗がりの向こうへと去って行った。

翌日のヨェーテボリからノルウェイに向かう道程のヒッチハイクはかなり順調だったと思う。まず、ヨェーテボリを発って間もなく、ハイウェイの休憩所に駐車して休憩している長距離トレーラーを発見した(たしか、オイルトラックか何かだったと思う)。私はトラックのドア窓から声を掛け、顔を出した眼鏡を掛けた初老の運転手のオヤジに英語でヒッチハイクのリフトを請うた。彼は少しどうするか考えたようだったが、結局リフトをOKしてくれた。このオヤジは、私がヒッチハイクを始めて初めて会ったノルウェイ人であった。道すがら話したところ彼は「元船乗り」だそうで、腕にそれらしき色あせた刺青を見せていた。彼は船乗り時代に「日本にも行ったことがある」と言い、日本の港町の名前をいくつか挙げていた。彼は比較的達者な英語を話したが、私の発言に対し相槌を打つのに、彼の出身国であるノルウェイ語で「ヤー、ヤー(イエス、イエス)」を連発していたのが印象に残っている。

進行方向左手に時々北海が臨まれるノルウェイ国境までのハイウェイの道のりで印象に残っていることのひとつのは、人里離れたある辺鄙な場所でハイウェイ沿いに突然出現した、妙に見馴れた「Nintendo(任天堂)」の巨大看板を掲げた大工場のことである。まさかこんなところにまで日本企業が進出しているということにあらためて驚かされるとともに、スウェーデンの子供たちがこの工場で作られたファミコンで「スーパーマリオブラザース」や「ドンキーコング」などをプレイしている姿や、日本の食料品店はおろか日本食レストランでさえ絶対に存在しないようなこんな北欧のど田舎に駐在して生活を営む日本人家庭があることを想像し、またそんな場所を人知れず今しも通過しつつある日本人である自分自身のことを思い、複雑な気持ちになった。

【いよいよノルウェーへ!「What are you doing here?」】
スウェーデンとノルウェイの国境は、「深い谷」であった。その深い谷には橋が掛けられ、その橋の向こうがノルウェイなのであった。その国境のこちら側とあちら側には展望台のようなところの付いた休憩所があったのを覚えている。何十、あるいは何百メートルあったか知れないが谷底まではかなりの深さがあり、またそのあたりはなかなかの景観であったように思う。

どんな人物の運転する自動車に乗せられていたか覚えていないが、国境の谷を越えたこちら側は、谷を挟んだだけなのに確かに別世界だった。車窓から見るノルウェイの森は、陳腐な言葉ではあるが実に「神秘的」であった。例えば、ハイウェイ沿いの森の深い木々の間からたまに覗かれる池や湖は、微妙な青緑色と静寂をたたえ、まるで妖精がすぐにでも現れそうな、そんな異世界の雰囲気があるのだった。こう言ってそれが伝わるかどうか分からないが、その湖を見た時の感覚は、当時より10年近い昔に訪れた北海道の摩周湖を見た時の感覚によく似ていた。それは、言わば「ここには神(あるいは精霊)がいる」という感覚である。私はそんな風景を眺めながら、「ノルウェイ」を実感していた。

たしか国境を越えたその日のうちに、私はノルウェイの首都オスロに入るやや手前でヒッチハイクした車から降ろされた。
彼方に見えるオスロのダウンタウンを眺めやると、私は突然、爆発的な感慨と高揚感に襲われた。それは、今見えている街のどこかに、女友達のKが存在することを想像した時に沸き起こったのだと思う。不思議なことに、その瞬間まではまったく自覚がなかったのだが、私をしてノースキャロライナからここまでの何千キロもの道のりを何週間か掛けて動かしたものは、Kへの思いにほかならなかったことにその時あらためて気付かされたのだった。私は、歩道のない車道の路肩をオスロ方面に歩きながら、通過する車の排気ガスを浴びつつ英語で何か感動のセリフを叫んでいたと思う。そして、オスロが見渡せる陸橋の欄干に掛けられた、ガード用の埃まみれのプレクシグラスの表面に、人差し指で、きっと誰にも読まれることもなかろう「K, I am here!(K、着いたぞ!)」とのひと言を記した。

私はそこからダウンタウンまでの何キロメートルかの距離を徒歩かヒッチハイクで移動し、ツーリスト・インフォメーションで紹介されたユースホステルにチェックインした。

翌朝私は、まだノースキャロライナで無為の日々を過ごしていた時にKから送られてきた絵ハガキの住所を頼りに、彼女が短期留学していた大学のキャンパスを訪れた。
オスロは、言わば地形的には神戸やサンフランシスコのようなところで、海岸線を離れるとすぐ急な勾配になっており、人々の多くはその「山の手」に住んでいた。市民の脚は、ちょうどサンフランシスコのような「ストリートカー(市電の一種)」であった。その勾配をほぼ上りきったところにあるそのキャンパスに私が到着した時分はたぶん昼食時で、カフェテリアには学生たちがたむろしていた。その中には明らかに留学生らしき連中もいる。私はその中から、アメリカ人らしき英語を喋っている女の子を探し出し、声を掛けた。「アメリカから来てる女の子で、Kって知ってるかな。友達なんだけど。」
すると彼女は、「知ってる、知ってる。だけど今日はフィールドトリップ(研修の遠足)か何かで、一日外出してると思うけど。」
私は、とりあえずKに置手紙を残す目的で、彼女にKが滞在している寮に案内してもらい、ドアに「ハルジ(仮名)参上」とか何とか記したメモを挟んでその日はキャンパスを後にした。

その晩、私はKの寮に電話を掛け、彼女を呼び出した。電話口の向こうで彼女が開口一番に言ったセリフを今でも覚えている。「What are you doing here?(何んであなたここにいるの?)」
私は、きみに会うためにここまで何週間もヒッチハイクをつないで来たのだということと、以前そのうちきみに会いに行くかも知れないことを話した記憶があることを告げた。彼女は、電話口の向こうで、たぶん呆れていた。

【オスロでの日々-すれっからしのアメリカ娘たち】
翌日私は彼女の寮を訪れた。Kは、父親がノルウェイ系の2世であることから、ほぼ毎年のようにノルウェイを訪れ、親戚に会ったりしているようであった。彼女のファーストネームであるKというのも、ノルウェイの女性名である。彼女はこの夏、その大学でノルウェイ語やノルウェイ文化を学びながら、オスロでの生活を満喫しているようであった。
彼女の隣の部屋には2名のアメリカ人学生が彼女のように夏期短期留学していた。他方の名前は忘れたが、ふたりのうちのもう片方の名前も彼女同様Kといった。実は私がカフェテリアでつかまえたアメリカ人の女の子が『知ってる』と言っていたのは、この隣人のKの方だったのであった。

程なくして彼女の部屋に現れたこの2人の隣人は、イリノイかどこかの中西部出身の長身のブロンドと、ニューヨーク出身の小柄な女の子で、どちらもK同様ノルウェイ系であった。しかしKと違うのは、二人とも母方がノルウェイ人であることと、いかにも甘やかされて育ったすれっからしなところだった。紹介されて間もないうちから、彼女たちは比較的露骨にセックスの話をし出したのを覚えている。それと、小柄な方は私の年齢を聞いて、当時26歳になったばかりの私に「You are an old man.(あんたはもうオッサンだね)」とのたまったのも記憶に残っている。長身のブロンドの方は、何かにつけ「とっととアメリカに帰りたい」を連発し、ベッドが堅いことと背骨の痛みを愚痴った。あとでKが教えてくれたのだが、何しろこの女の子はアメリカにいた時にボーイフレンドと妙な姿勢でセックスをして以来、背骨を痛めてしまったらしい。話を聞いたところ、この二人はどちらもアメリカにボーイフレンドがいるらしいが、夜な夜なバーやクラブで引っ掛けた地元の野郎を部屋に連れ込んでいるようであった。小柄の方がこの地元の男たちに関していかにも嫌悪感を露わにして言っていた。「わたし、包茎は本当にダメ。生理的にダメ。」北欧では割礼の習慣がないので、誰しも男性器には包皮が被っていることを私は何かで聞いて知っていたが、彼女たちが少なくとも包茎が確認できるようなことをしているらしいことはよく分かった。
Kはこの2人と一緒によく夜間外出するようなので、私は彼女に、地元の男と遊んだりしないのか尋ねたが、答えはノーであった。

ちなみに当時、まだ私とKはセックスをしたことはなかった。彼女は私と同じアート専攻で、毎学期必ず何かしら同じクラスを受講していたことから、お互い親しかった。私は放課後によく彼女のアパートを訪れていた。部屋をしょっちゅう訪れるとなると、なりゆきで「じゃれる」ような機会は何度かあったので、セックスをしたことはなくとも、あんなことやこんなことをしたことはあった。だから、彼女がどの程度「すれて」いるかは何となく判っていたし、「地元の男を寮に連れ込んだりしない」であろうことは、実は問わずとも分かっていた。

オスロ滞在中のその日から2~3日、Kの都合さえ付けば私は彼女と過ごした。
名前は忘れたが、ある有名な市内の公園を散歩したり、ヨットハーバーを訪れたり、バイキングの船を陳列した博物館を訪れたり、大学構内を散策したり。彼女がオスロを愛していること、自分の一部であるノルウェイのアイデンティティを誇りに思っていることがその言葉の端々から伺えた。彼女は言っていた。「このストリートカーに乗る時は、こうやって回数券を自分で機械に差し込んで刻印するの。だから、運賃の支払いを確認する車掌は乗っていない。乗客の良心を信用しているお国柄でないと成り立たないシステムよね。アメリカではとても考えられないけど。」

【気まずい一夜】
ある晩、私は洗濯物を持参して彼女の寮を訪れた。寮の安価なコインランドリーを使わせてもらうためである。実はその日、私は彼女にはそのことを告げずに既にユースホステルをチェックアウトしていた。オスロでは最安のそのホステルは夏場は非常に混み合うため、ドミトリーに入りきれない宿泊者は体育館の板張りの床に何十人も雑魚寝するような状態であり、連泊できる日数にも制限があったのである。洗濯が済んだ時、私はKにそのことを話した。すると彼女は、私がそのことをもっと早く打ち明けなかったことを詰り、自分の部屋に泊まっていくように勧めてくれた。

私は、泊まっていくよう彼女が勧めてくれることを期待していなかったとは言わないが、少なくともその晩に起こったことは、決してはじめから計画していたことではない。

その晩、夜が更けると、Kはパジャマに着替え、灯りを消すとちょっと恥ずかしそうに「Good night!」と言ってベッドに潜り込んだ。私は彼女のベッドの下の床に敷いてもらった毛布に包まって、「Good night.」と応えた。

数多くの初心な若い男女が経験したことがあるであろう、緊張に満ちた沈黙がしばらく続いた。お互いが眠りに就いていないことは明らかであった。
私は沈黙を破って静かに言った。「K, …I want to sleep in your bed.(K、キミのベッドに寝たいんだけど)」

しかし、私はたぶんそのセリフを冷静に発音し過ぎた。
彼女は、分かった、と言い、ベッドを出て自分が床に横になると、私にベッドに寝るよう指示した。そう、彼女は私のひと言を、自分が堅い床の上でなくベッドで寝たいので君が床で寝て欲しい、と解釈したのである。
私は、この予想しない事態に言い訳するきっかけを失い、指示されたとおりに彼女のベッドに横になった。

またしばらく、前よりさらに気まずい沈黙が続いた。私はしばらくどうすべきか考えた上で、沈黙を破って言った。「K, I had a second thought. …I want you to sleep in bed. I am going back to sleep on the floor.(やっぱり僕が床に寝るよ。)」
それに対して彼女が何を言ったか記憶にないが、かくして彼女はまたベッドに戻り、私は床の上で毛布を被った。

さらに沈黙が続いた。ふたりは、ほぼ間違いなく、その時点ではもはやすっかり覚醒していた。
私は、彼女が目覚めていることを確信して、気まずさにどもりがちになりながらも、思い切って小さな声で言った。「K, I meant that I want to sleep with you.(K、違うんだ。君と一緒に寝たいんだ。)」

その発言に対して彼女が押し殺しがちな声で言ったセリフを、実は私は覚えていない。彼女はたぶん、「冗談でしょ。」とか「いい加減にして。」とか「何を言っているの、おだまり。」といった意味のことを、イライラを露わにして感情的な口調で言ったと思う。
もはや取り繕う手段はなかった。
私はすべてを諦め、おそらく自らの不手際なアプローチに対する自己嫌悪に苛まれながら、その晩はそのまま大人しく眠りに着いた。

私は翌朝、たぶんKよりも早く目覚めた。そして目覚めた時、もうオスロを後にしようと決めていた。身支度をしてKが目覚めるのを待ち、Kがベッドから起きると、彼女に礼を言い、オスロを発つことにしたこと、これからまたヒッチハイクでオランダに引き返し、そこから予定どおりイギリスの友人夫婦に会いに行くことを告げた。私たちふたりはベッドの前に向かい合って見つめ合い、そしてどちらからともなくお互いを抱きしめ合った。Kは私に、「Be careful.(くれぐれも気を付けてね。)」を繰り返した。私は分かったといい、名残を惜しみながらも、おそらくは振り返ることもなく、彼女の部屋を後にした(その後アメリカに戻って知ったのだが、Kは次の学期、大学には戻って来なかった)。

その日の気持ちを私は思い起こすことができない。不思議と打ちひしがれた気分にはならなかったことは覚えている。きっと、むしろ振っ切れた気持ちでいたと思う。
ひとつ言えることは、目的と手段はまったく別のものであり、その意味で私はKに対し目的と手段を混同していた。つまり、ある企業に就職するのが目的であれば、入社試験に合格し面接でいかに自分が有用であるかをアピールするのがその手段である。その企業に「就職したい。」と告げるのは目的の表明であっても決して手段ではない。あるいは、誰かに対し怒りを感じている時、殴り掛かるとか掴み掛かるのがその表現だとすれば、「私はあなたを殴りたい。」と相手に告げることは決して効果的な表現ではない。それにも拘わらず、私にしてみれば、怒りを自覚し口に出来たことである程度満足だったのであろう。

(その2につづく)

(試験勉強中のK↓)
Kari


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