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2006/05/17(水)13:19

ドイツ偏愛

今日の出来事(231)

ドイツが好きだ。 別にドイツに憧れがあるとかドイツ文学に傾倒しているとかいったことは一切ないのだが、なんとなくドイツは自分の性に合うような気がするのだ。 イギリスには何ヶ月か住んだことがあるが、どちらかといえば好きな国ではない。天気が悪くてゴミゴミしていて、イギリス人にも親しみが感じられず、あんまり良い印象がない。音楽をはじめとするイギリス文化には親しみを持っているが、イギリスに住みたいとは思わない。 フランスも何度か旅行したことがあるが、やはりどちらかといえば好きな国ではない。人も街も外見はチャーミングだし、芸術だとか現代思想などをはじめとするフランス文化には敬意を抱いているが、自分の性に合う感じがしないし、自分がフランスに受け入れられるとも思えない。 スペインも一度だけ旅行したことがあり、決して嫌いな国ではないのだが、やはり自分の性に合う感じがしない。あのラテンのノリは決して自分が逆立ちしても同化できる文化だとは思えない。スペイン語を喋る自分も、自分らしい感じがしない。 しいて言えばイタリアはヨーロッパの中では好きな国だ。何が好きかというと、何をさておきイタリア女が好きだ。信用のならないイメージのあるイタリア男やジプシーどもにどんなにウンザリさせられても、働き者でチャーミングなイタリア女性たちに親切にされるだけで「イタリアっていい国だなあ」といつも思ってしまう(笑)。 ドイツに比較的似ているはずのオランダも、自分に合う感じがぜんぜんしない。外観なんかはドイツにソックリなのだが、アムステルダムなどを歩いていても落ち着かない。ドイツと違って「何でもあり」のあの開放的で退廃的な感じは、ドイツのお堅くて前向きな感じとは逆の性質のものである。 ドイツが好きなのは、うまく説明できないのだが、ドイツにいるととにかく不思議と落ち着くのだ。それは「自分の前世はドイツ人だったのではないか」とさえ思わせるくらいである(笑)。 ぼくはドイツ語はほとんど話せないのだが、ドイツをブラブラしていても不思議と違和感を感じないし、レストランのメニュや標識などの字が読めなくともなんとなく解かった感じがする。ドイツ人が喋っているのを聞いていても、まるで英語を聞いているような錯覚さえ覚える。 たとえば、ぼくはイギリス語が喋れるが、イギリスに居てもなぜかいつも落ち着いた感じがしない。フランス語はカタコトが話せるが、旅していてリラックスした記憶がない。いずれの国に居ても居心地の悪さがあるのだ。これがドイツの場合、ない。 あと、ドイツ人と接していても、イギリス人やフランス人の多くと接している時のような妙なコンプレックスや猜疑心を感じることがない。それは、京都人や大阪人とぼくが接するときの緊張感に対し、九州人に接するときの安堵感に通じるものがある。 理由はなんとなく分かる。まず、ドイツのダサさや純朴さや律儀さが東北で生まれ育った自分にしっくりくる、ということがある。言い換えれば、ドイツ人とは「価値観が似ている」気がするのだ。 建物や街のつくりとか、ファッションや機械、交通等の制度など、何をとってもいちいち洗練されていないのだけれども質実剛健で実直にできている。ドイツは何から何までシャレや遊びが少なく、ひたすら生真面目なのである。まさに「東北人の世界観」に近い。 もちろんドイツにもドイツなりのジョークのセンスはあるのだが、昨日の日記の屋外広告が示すように、ギャグの切り口は徹底してベタである。これも自分のギャグセンスに近いものを感じる。 「ドイツ人らしさ」はその体型にも表れている。街を歩く女性なんかを見ていてもモデル体型の人は滅多におらず、大多数は農婦のような重心の低い頑丈そうな体型をしている。これもまさにぼくの好みである。 ぼくは若い頃フランス語やイタリア語をかじって放棄した経緯があるのだが、ドイツ語ならスラスラと自分の魂に浸透していくような気がしている。いい加減40歳になるのだが、ちょっと真面目に勉強してみようか…などと気まぐれに考えている。

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