亀山築城の小部屋

2012/12/27(木)15:14

NHK大河ドラマ「平清盛」から源氏と平氏の関係に関する考察

つぶやき(39)

NHK大河ドラマ「平清盛」から  源氏と平氏の関係に関する考察 NHK大河ドラマ「平清盛」が終わってしまいましたね。 今回は最初から最後まで兵庫県知事の横槍が入り、ドラマ以外に他事でも楽しめました。 しかし、あの当時の平安京はドラマ映像そのままに荒れ果てていましたし、武士集団も途中から甲冑などが豪華になりますが、最初はみすぼらしいあの様な出で立ちでした。 今回のドラマを観ていて感じた事を書き記したいと思います。 このドラマの中で、どうして源氏の武士達が 「たかが平氏なんぞに!」 と云う意味の言葉を言い続けたのか、そしてライバル心を燃え上がらせて居たのかを、作者の方は充分に説明が無かったように思っていました。 そして・・・・先日、嫁ハンと一緒に「平清盛」を観ている時に、何気なく 「源(みなもと)と名乗って居る、この武士団が全て同じ一族だと思って居るの?」 と聞いてみました。 「同じ一族じゃ無いの?」 と・・・・。 源氏(げんじ、みなもとうじ)とは、「源」を氏・本姓とする氏族を指します。 ここまでは嫁ハンの思っている内容と大差有りません。 さて、源氏の始まりは・・・第52代嵯峨天皇が生まれた子ら(皇子、王子)に、源姓を与えた事から始まりました。 つまり皇族が、皇族の身分を廃されて、天皇の臣下の籍に降りる「臣籍降下」の時に与えられる姓の一つが「源」になります。 他にも「平=平氏」、「藤原=藤原氏」、「橘=橘氏」の代表的な姓が、臣籍降下の時に賜られます。 ところで、この姓を賜れるのにはルールが有り、「一世王、二世王が源、三世以降が平」と云う規則で与えられていたようです。 つまり天皇の子や孫は「源」、天皇の孫以降の代は「平」の姓が賜る事から、「源氏」より「平氏」が格下と云う認識が生まれました。 そこで、上記の源氏の武士達の言葉、 「たかが平氏なんぞに!」 と云う台詞が聞こえる訳になります。 ところで歴史的に観ると、源氏は21の天皇の血筋から別れ、21流派の「源氏」が存在しています。 中でも一番格式の高い「源氏」は、第62代村上天皇を祖とする「村上源氏」です。 武門として有名なのは、第56代清和天皇を祖とする「清和源氏」になります。 それでは源頼朝(清和源氏)の系譜を。 第56代清和天皇 清和天皇 → 貞純親王 → 経基王=源経基 → 源満仲 → 三男・源頼信=河内源氏 →  → 源頼義 → 源義家 → 源義忠 → 源為義 → 源義朝 → 源頼朝 この様に清和天皇の経基王が「源頼朝」のご先祖様になります。 それでは「平清盛(高望王流桓武平氏)」は? ドラマでは第72代白河天皇の子とされていますが・・・。 第50代桓武天皇 桓武天皇 → 葛原親王 → 高見王 → 高望王子=平高望 → 国香 → 国香の孫の維衡 → 伊勢平氏 → 平清盛 となります。 上記のように「清和源氏」は清和天皇の孫が源姓を与えられ、「高望王流桓武平氏」は桓武天皇の曾孫に平姓を与えられた事になります。 この様な構図から、源平合戦が起こる切っ掛けになったのかも知れませんね? 蛇足ながら、私も「源氏」の出です。 我が一族は、第59代宇多天皇を祖とする「宇多源氏」です。 この讃岐の国は「宇多源氏」にゆかりの多い土地で、丸亀藩主の山崎氏、京極氏も同じ宇多源氏の流派になります。 日露戦争の時に陸軍善通寺師団長だった「乃木希典」大将も、讃岐とは縁が有りませんが「杉田玄白」、「間宮林蔵」も同じ「宇多源氏」の出になります。 そして私がよく話題にする「菅原道真」は、讃岐の国司として赴任しただけでなく、宇多天皇に付き従い朝廷内を改革する先鋒として活躍していました。 しかし、宇多天皇が上皇になった途端、公卿達はあらぬ事から「菅原道真」を太宰府に左遷してしまいます。それを察知した宇多上皇が御所に駆け付けたのですが、時既に遅く宇多上皇は「菅原道真」を守る事が出来なかったと伝わっています。 ついでに・・・。 NHK大河ドラマ「平清盛」の話しに戻って。 執権北条氏は高望王流桓武平氏の流派で、平清盛と同じ血筋になります。 考えてみると最終的に源平合戦に勝ったのは、源氏の「源頼朝」ではなくて、後に鎌倉幕府を手にする高望王流桓武平氏である「北条執権」なのかも知れません。 ごく一部だけからでも、今回のNHK大河ドラマ「平清盛」見方が変わると思いますが、如何だったでしょうか?

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