観念的な悟りと現実的な悟りとの違い(6)
アージュニァー・チァクラの崩壊 初めて宇宙神素の光を知った数日後、わたしは一段と上の段階に上がった。この日を境に、アージュニァー・チァクラへの精神集中がなくとも、絶えず光の中にいられるようになった。そのためには、アージュニァー・チァクラの崩壊が必要だったらしい。 そのときわたしはシャヴァアーサナをしていた。気づくと寒さのために体をねじっている。これが頭が熱くて体が寒い状態か。わたしはあるヨーガ行者に言われたことを思い出した。体を真っすぐに直すと、クンダリニーが突き上げてきてアージュニァー・チァクラの所で止まった。 わたしはアージュニァー・チァクラに精神集中をしてみた。しばらくの間、わたしはアストラル体で劇を演じていた。それが終わると、わたしの周りで四人の小人がうるさく騒ぎ始めた。「うるさいなあ。集中できないじゃないか。」アストラル体にあるわたしの意識がそう思っている。「自分はここにいるんだ。」瞑想のときいつも出てくる意識が、肉体にくっついたままこう思っている。このときわたしは二つの意識を同時に持っていたわけである。ここで少し触れておくと、人間は四つの意識を持っているのだ。わたしがこのとき使っていた意識の他に、日常的な活動をしているときの意識と熟睡時の意識がある。 さて次の瞬間、ものすごい圧力がアージュニァー・チァクラにかかった。「目をやられるのではないか。脳をやられるのではないか。」そういう恐怖を感じるほど、強い圧力だった。しかしそれと同時に、「わたしはこれを――眉間に穴を開けられるのを、数百年の間待っていたんだ。耐えてみよう。」という思いもわき上がってきた。わたしはさらに精神集中を続けた。すると、ボーンという大きな爆発音とともに、わたしのアージュニァー・チァクラが崩壊したのである。このとき、わたしの“光のヨーガ”が完成した。すべては光でつくられる わたしはいつも光の世界にいるようになった。自分のアージュニァー・チァクラが光り輝き、炎のように見えた。 あるときは、瞑想中に空元素を見た。スカイブルーの光で構成され、形は一カ所が切れている円形である。ぐるぐると左回りに回転しながら、わたしのアージュニァー・チァクラに近づいてくる。近くまで来たとき、それが右側に何かを引っ張っているのがわかった。空元素はアージュニァー・チァクラに吸い込まれていった。そのとき、引っ張られてきたのが、心臓内のヴィジョンであったことを知った。心臓内のヴィジョンとは、コーザル体(原因体)と呼ばれる生の源のことである。これは心臓に存在しているのだ。 コーザル体は、六つの光球から成り立っている。それは、真我【しんが】、神素、我執、微細生気、微細根本自性、絶対者ブラフマンの六つである。真我は湖面に映るダイヤモンドのような光である。神素はライトブルー、我執は青緑、微細生気はバラ色、微細根本自性はミカン色である。そして、絶対者ブラフマンの光球は白である。コーザル体の説明は、光の色についてだけにしておこう。今回は、“光のヨーガ”に関連して少々触れてみただけなので、詳しいことは後の機会に譲りたいと思う。 ある日は、人の感情も光によって表わされることに気がついた。頭頂にあるブラフマ・ランドラを霊視すると、感情の状態によって、その中にある「意思球」と「イメージ球」の色が変化するのである。それは、自分の場合でも他人の場合でも同じである。例えば、情欲があるときは、その光球は赤黒くなって波打つのだ。 最終的には、全宇宙の構成物質の中で、一番高レベルのものが光であることを知る(全宇宙は、光、音のヴァイブレーション、粗雑物質でできている)。 そろそろ“三昧”の段階に修行すべき、五種類のヨーガについての説明を終わることにしよう。これらは皆、解脱のための重要なジャンプ台だ。そして、最後の瞬間に用いるのが残りの一つ“意識を移し変えるヨーガ”なのである。これについては、解脱の項で述べよう。なお、“バルドのヨーガ”“夢見のヨーガ”“幻身のヨーガ”“光のヨーガ”についてはとても奥が深く、とてもここですべてを書くことができなかった。そのことをお断りしておかねばならない。生死を超えるWednesday, September 27th, 20064.そして解脱へ――如実知見――真実の世界を知る “三昧”がクリアできると、“如実知見”の段階に入ることができる。だが、その前に“三昧”でわたしが到達した考えをお話ししよう。整理して書くと次のようになる。 1諸行は無常である。 全宇宙、全次元の万物は流転するものであり、決して元の形をとどめることはない。 2諸法は無我である。 もろもろの観念・社会通念は、真我(本当の自分)の所有物ではない。 3存在が悪業を積む。 人間も含めて生き物は、存在している(生きている)こと自体が悪業の源となってしまう。例えば、殺生や嘘が悪業に含まれる。 そして、「いっさいが苦である。」という結論を得た。これが“如実知見”である。“三昧”によってすべてを知ってしまうと、“如実知見”が生じるのである。皆さんもこの状態に至ると、必ずそれを感じるはずだ。遠離と離貪――心の解放 ところで、ここまで来たら、一時的にでも社会生活から離れた方がよいだろう。弟子や友人からも離れなければならない。なぜなら、このころになると見る世界、感じる世界が普通の人と違ってしまうからだ。考え方にも隔たりがあって、うまく合わせることなどできなくなるだろう。そういうことが積み重なると、精神的に異常を来す恐れがあるし、自分でも他人を避けるようになってくる。それだけでなく、この期間は自分を確立するためにも離れなければならない。今までの過程を通ることによって、全く違う自分になっているので、何の影響も受けないようにして確立しなければならないのである。これが“遠離”の段階である。わたしはこの時期、ヒマラヤ山中などで修行していた。だれにもわずらわされずに修行に没頭できたのは、後にも先にもこの時期だけである。なにしろ、日本にいては逃れられない電話さえないのだから。 さて、新しい自分を確立するためには“離貪”の行を進めなければならない。“離貪”の行としては、特殊な瞑想が有効である。その瞑想は、心、体、物質などのすべてをグルに差し出すというものである。解脱はニルヴァーナへのパスポート この行を終え、心が消滅し真我が何の影響も受けなくなると、いわゆる唯我独存の状態が訪れる。これが解脱なのだ。生きていながらにして、苦のない状態である。また、好きなときに肉体を捨てて、ニルヴァーナに入ることが可能になっている。ただ、ニルヴァーナに入ってしまうと、二度とこの世には帰れない(帰る必要がない)ので、その時期は慎重に選ばなくてはならない。 ニルヴァーナに入った後は、意識も体も不滅となる。つまり、四大苦といわれている生老病死が存在しない。しかも、真我は永久に歓喜状態である。ここに真の幸福があるのだ。 しかし、わたしは解脱はしたが、ニルヴァーナには入らないつもりだ。この世の生を終えても、また人間界に生まれ変わるつもりだ。何回でも何回でも生まれ変わって、すべての魂をニルヴァーナに送るのがわたしの使命なのだから。これが、わたしが前世において解脱してもニルヴァーナに入っていない理由である。 もしこのわたしが、この世の体を捨てたとする。何もしないでいると、自動的にニルヴァーナへ入ってしまう。これはわたしの本意ではない。そこで“意識を移し変えるヨーガ”が必要となる。これはいわば、自由に転生するための練習である。何もわたしだけとは限らない。大乗の仏陀(大救世主)に必要なヨーガである。大乗の仏陀は、何回も生まれ変わって人々を救済し続けているからだ。意識を移し変えるヨーガ――ポワ では、最後の修行となる“意識を移し変えるヨーガ”について述べよう。これは瞑想で三昧に入って意識を移し変えながら、あらゆる転生を体験して転生を知り尽くすのだ。これをやっておくと、死んだ瞬間に自分の望む世界に意識を移し変えることができるのである。わたしが死後の世界を熟知しているのも、このヨーガをやったからである。 それでは、次の章でクンダリニー覚醒などの具体的なテクニックを書くことにしよう。生死を超えるWednesday, September 27th, 2006第二章 実践テクニック四カ月楽々クンダリニー覚醒法1.アーサナがすべての基礎だ 第二章では、行法をご紹介する。いずれもクンダリニー覚醒を主眼としたものである。きちんと修行をすれば、初心者の場合でも、四カ月程度でクンダリニー覚醒にまでこぎ着くことができるだろう。 第一章でも述べたように、クンダリニー覚醒は、解脱への重要な第一歩である。それ以降は解脱者が直接相手にコピーしなければならないので、本書には書くことができない。その点をどうかご了承願いたい。もしこの段階に到達した人で、わたしからのコピーを希望する人はご連絡を――。 では、調気法や瞑想を行なうにあたって、必ずマスターしなければならない基本座法五種から始めよう。ヴァジラアーサナ(金剛座) これは、いわゆる正座である。膝頭【ひざがしら】をそろえ、背すじを伸ばす。肩の力を抜き、顎【あご】を引く。足の親指は、軽く触れ合うようにする。手は膝に置く。ヴィラアーサナ(英雄座) 最初に金剛座で座る。次に両脚を尻の両側にずらし、尻を床につける。両脚はつけておく。手は膝に置く。スワスティカアーサナ(吉祥座【きっしょうざ】)1両脚をそろえ、伸ばしたまま座る。2左脚を折り曲げ、踵【かかと】を右の太もものつけ根につける。足の裏は、太ももにつけておく。3手を使って、右脚を折り曲げ、踵を左もものつけ根につける。足先は、太ももと、ふくらはぎの間に入れる。左右の親指だけが見える状態がよい。4手は、自然な形で膝に置く。(つらくなったら、左右の足を組み替える。)