ブログ05

2007/10/28(日)21:13

公務員やっていない方々は日本国民ではありません(1)

神の摂理(622)

 サタン宇宙神ルーシェルは、地獄にいる。人類の悪業を全て背負っている、処罰し返し続けているから。だから、絶対に、ルーシェルの上の地位はやれない。やった分だけ、地獄の業を背負わされてしまうから。しかし、真実は、ルーシェルは善の塊である。悪を裁き返し続けているのだから。悪の上の地位をやっているのだから。だから、ルーシェルは絶対に背負うだけ。自分を背負わせる事は大損害。ヒーローにされてしまうと。  ようやく、釈迦も妻の授業をやるようになったそうです。妻=ルーシェルの下の地位と。ルーシェルに報告し続ける人生と。  勿論、世の中には、夫の上の地位をやっている悪妻もいるのだ。そういう悪妻は、サタン=その父諸共、あの世に行ってしまうだけと。悪業の塊になってね。そういう現実があったと。  普通は、妻は夫の下の地位をやっているのです。だから、妻に報告し続けると。妻の人生をやり続けると。  女の子は、母の上の地位をやっている。だから、妻に報告した人生の地位は、女の子に報告されていく。だから、女の子は地位を楽しめると。そして、やがて、楽しんだ分の現実支払いをしなければならなくなると。だから、手頃な男の子を背負って、自分の魅力を創る。自分の母親をやってくれている女子に、男の子は惹かれる。そして、堕ちてしまうと。現実支払いをさせられてしまうと。自分の女は、自分の下の地位。上の地位ではない。だから、セックスをしてしまったら、立場が逆転すると。ひたすら、妻の下の地位をやるしかなくなると。こういう授業が人生の授業と。  ソープ嬢というのは、滅茶苦茶、母親をやっている授業と。非童貞の方々は、自分中心の現実の地位を楽しみ続けて、自分の女達の上の地位になってしまうと、次は、その母親の地位にまで上がってしまうと。母親、即ち、ソープ嬢の地位を遣っていると。ソープ嬢に担任されてしまうと。世の中、タダの地位は何処にも無いのです。皆、誰かの人生の地位と。地位の楽しみ、皆、セックスと私は感じる。人生の地位だと感じる。これが真実と。  地位を楽しんだ分は、全部ヒーローをやらされる現実支払いになると。ヒーロー、即ち、ルーシェルと。とんでもはっぷんと。何しろ、英国女王の父の地位までやらされたのだ。どんどん、どんどん、大きくされていってしまったと。地位の現実支払いは、上の地位にされていく事であると。御給料だけの地位しかやっていなかったのですが。何にも副担任やらなかったのですが。それでも、そこまでやらされてしまったと。  だから、御給料も妻に報告するようになると。財布を握られてしまうようになると。そこまで行かされてしまうと。だから、自分中心の現実利益=自分の妻の地位を遣ってはいけないのです。要するに、楽しんではいけないのだ、生きる事は。生きる事は働く事であるのだ。存在するという事は、働き続けるという事なのだ。自分の存在費用を払い続けるという事なのだ。  まだまだまだオウム真理教の副担任にされていると。即ち、私の上の地位をやっている方々は皆、オウム真理教の副担任と。犯罪者と。全く冗談ではない現状と。自分中心の現実の地位を楽しむと、彼らがやった犯罪行為の責任を取らされてしまうと。あの汚らしい麻原彰晃の生き様が上の生き様だったという事です。見かけで判断してはいけないと。障害者の下の地位、まだ、全くやれていないと。障害者の副担任の地位、遣うわけにはいかないと。やがて、返済を完了して、障害者の下の地位にまで上がれるようになると。  皇室のさらに上の地位の方々が障害者であったと。 -引用開始- 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 提案:このページのノートに、このページに関する提案があります。 提案の要約:死刑に関する世間の反応に関する記載について 麻原彰晃 本名:松本智津夫 出生 1955年3月2日 熊本県八代郡金剛村 ステージ 尊師 神聖法皇 教団での役職 代表 麻原彰晃(あさはら しょうこう、1955年3月2日 - )とは、宗教団体オウム真理教(現:アーレフ)の元代表で教祖(1996年6月19日以降は、教団内部での地位は開祖。同団体は宗教団体アーレフに改組され、アーレフに於いての公式呼称は「旧団体代表」とされた)である。本名は松本智津夫(まつもと ちづお)。 著書では「真理の御魂 最聖 麻原彰晃尊師」名義を用いていた。宗教団体オウム真理教の信者からは尊師、もしくは本来ヒンドゥー教の導師を指すグルと呼ばれ、崇拝の対象となっていた(宗教団体アーレフでは、尊師・グルの呼称の使用及び、写真・イラスト・その他その肖像を表わしたものを団体施設の祭壇及び個人所有の祭壇に備え付けを禁じた)。教団は日本支配を画策しており、その憲法草案の中では神聖法皇と呼称されていた。 目次 1 経歴 2 逮捕後の経過 3 起訴された罪状 4 入学拒否問題 5 書籍 6 エピソード 7 脚注 8 関連項目 9 外部リンク 経歴 麻原こと松本智津夫は、1955年3月2日熊本県八代郡金剛村(現・八代市)の畳職人の家庭に生まれた。 週刊文春2000年新年合併号によれば、「松本の祖父は熊本県出身の警官で、戦前に朝鮮半島に渡り、その地で警察署長を務めた後、終戦後、熊本に引き揚げた」との記事が掲載された。週刊現代1995年5月27日号「麻原オウム真理教と統一協会を結ぶ点と線」記事中で、「父親は、在日朝鮮人である」と栗本慎一郎が主張しているが、オウム真理教大辞典(東京キララ社)の『麻原彰晃』の項によれば「本人による『在日』発言があるという『噂』があったため、『在日説』が浮上したが、これはデマである」と栗本発言を否定している。また、高山文彦は『麻原彰晃の誕生』で、「松本家は朝鮮半島の出自ではなく、朝鮮から引き揚げてきた日本人」との、親族の言葉を紹介している。 視覚障害者(隻眼)であるために、6歳から20歳までを寄宿制の熊本県立盲学校で過ごし、鍼灸術を学ぶ(智津夫の実兄の証言によると、この視覚障害は水俣病による被害の結果だったという[1]。ただし智津夫は水俣病患者としての公的認定を受けていない)。同校を卒業後、東京大学文科1類受験を目指し、1977年4月代々木ゼミナール渋谷校(現在は無い)に入学したが、受験に失敗する。 1976年7月、知人を殴打し、傷害罪で罰金刑を受ける。1977年頃から仙道やヨガの修行を始める。 1978年、代々木ゼミナール渋谷校で知り合った妻、松本知子と結婚し、千葉県船橋市で鍼灸院「松本鍼灸院」を開業。のちに「亜細亜堂」と名前を改め診察室兼漢方薬局の経営に転じたが、1980年に保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求される。その後、新興宗教団体阿含宗に入信する。 1981年、健康薬品販売店「BMA薬局」を開局したものの、1982年に無許可の医薬品を製造販売したため薬事法違反で逮捕され、20万円の罰金刑を受ける。 1984年、東京都渋谷区にヨガ道場「オウムの会」を結成し、株式会社オウムを設立。松本は「麻原彰晃」と名乗り始める。 1986年、ヒマラヤで最終解脱と称す。同年、「オウムの会」を「オウム神仙の会」と改称。1987年、さらに「オウム神仙の会」を「オウム真理教」に改称する。空中浮遊などのショー的なアピールで徐々に信者を獲得していく。 1990年2月の衆議院議員選挙では、真理党代表として、東京4区から出馬したが落選。 1995年5月16日に山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)のオウム真理教の教団施設で地下鉄サリン事件・松本サリン事件など、オウム真理教が関係したとされる一連の事件の首謀者として逮捕された。 最終的には13事件で殺人罪など7つの罪に問われる。1996年4月24日に東京地方裁判所で初公判が行われたが、12,292人という、日本の刑事裁判史上最も多い傍聴希望者が東京地裁前に殺到した(この数字は2007年現在でも破られていない)。弁護側は「事件は村井元幹部を中心とした、弟子たちの暴走によるもので、松本自身は一切指示をしていない」と無罪を主張した。しかし2004年2月27日、東京地裁は「救済の名の下に日本を支配して、自らその王になることを空想し、それを現実化する過程で一連の事件を起こした」と認定し、死刑判決を言い渡した。 2006年9月15日、最高裁判所は特別抗告を棄却し、1審通り松本への死刑判決が確定した。 逮捕後の経過 1996年4月24日、1審の初公判(阿部文洋裁判長)。公判では突如英語を話したり、居眠りをしたりなどの異常な行動が目立ち、しばしば裁判長から注意や退廷命令を受ける。起訴案件の罪状認否に関しては留保した。日本テレビでは麻原被告から松本被告へと呼称を変更した。それを皮切りに、1ヶ月以内に他の民放全局、殆どの新聞社も麻原から松本と本名で報道されるようになった。 1997年4月、保留していた罪状認否について、起訴された17事件のうち16事件で無罪を主張(1事件は保留)。その後、検察側は長期裁判を避けるため被害者がいない薬物密造など4事件の起訴を取下げ、案件を13事件に絞り込む。 2003年4月、1審の論告求刑公判で死刑を求刑され、松本は「わが国の犯罪史上最も凶悪な犯罪者」と指弾された。同年10月31日、弁護側が「一連の事件は弟子たちの暴走であり被告は無罪」旨の最終弁論を行い結審。2004年2月27日、一連の事件に対して東京地方裁判所(小川正持裁判長)は求刑通り死刑の判決を言渡した。これに対し弁護側は東京高等裁判所に即日控訴した。

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