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アウグストゥス
アウグストゥス 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 帝政の始まり 執政官のアウグストゥス 共和制への回帰 紀元前27年1月13日、突如オクタウィアヌスは元老院で、全特権を返上し共和制への復帰を宣言する演説を行った。元老院は驚喜したが、実際にはこのとき放棄した特権とは三頭政治権などの内戦時の非常大権であった。これらはすでに有名無実化しているものばかりであり、首都ローマおよびイタリア、つまり本国を直接支配する執政官職は放棄しなかった。しかしそれに気付く者もなく驚喜する元老院はまた、平和が回復するまで属州の防衛も依頼する。これに対しオクタウィアヌスは比較的安全な地域と軍団駐屯の必要のある国境地域とに分け、前者を元老院が総督を選出できる元老院属州、後者を軍団総司令官であるオクタウィアヌス自身が総督兼軍団指揮官の任命権を持つ皇帝属州とする逆提案で返す。厄介な地域はオクタウィアヌスが引き受けてくれる分、公職キャリアの終着点とも言える属州総督を大過なくこなせるということで元老院は更に驚喜した。そしてその骨が折れる軍団指揮と属州統治を行うためにプロコンスル命令権(インペリウム・プロコンスラレ)を元老院から取り付けて、正式な法的根拠とした。この結果、ローマ全軍の一元管理が可能となり、オクタウィアヌスは名実共に「インペラトル」となった。 「ローマ皇帝」の誕生 共和制復帰宣言からわずか3日後の1月16日、かつてユリウス・カエサルの副官であったルキウス・ムナティウス・プランクスが、オクタウィアヌスにアウグストゥス(尊厳者)の称号を贈ることを提案し、元老院は満場一致で国の全権を掌握するよう懇請した。オクタウィアヌスは数度にわたり辞退した上でこれを承諾し、この日以降正式にインペラトル・カエサル・アウグストゥス (Imperator Caesar Augustus) と名乗るようになった。慎重なアウグストゥスことオクタウィアヌスは、すでに政敵がいないにもかかわらず、一度権力を返還し、元老院によって再び譲渡されるという形式をとったのである。これにより共和制は、元老院議員達には気付かれないうちに(オクタウィアヌスが巧妙に偽装しつつ)終焉し、ローマは帝政へと移行した。初代ローマ皇帝アウグストゥスの誕生である。なお、アウグストゥスに始まる帝政ローマの前期の政治体制は、後期帝政(ドミナートゥス)と区別して「元首政」と呼ばれている。 アウグストゥスの創始した帝政(元首政)はカエサルのような非常大権の獲得といったイレギュラーなものではなく、あくまでも従来から存在するレギュラーな公職、つまり執政官職とプロコンスル職を兼任するといったものであった。すなわち、臨時職として位置づけられすでに廃止されていた独裁官の官職を復活させるような直接的な事はせず、また共和制の枠を超える新たな地位を創設することも行わなかったのである。アウグストゥス自身、「私は権威において万人に勝ろうと、権力の点では同僚であった政務官よりすぐれた何かを持つことはない」(『神君アウグストゥスの業績録』34)と述べている。しかし、この執政官職やプロコンスル職の兼任こそがローマ帝国全土を支配する政治的・軍事的根拠となり、あわせて「アウグストゥス」の尊称授与といった権威が備わったため、この紀元前27年の取り決めこそアウグストゥスにとってローマ皇帝権力が確立する「第一段階」となったのである。このようなことから、紀元前27年にアウグストゥスが初代ローマ皇帝に就任したと後世いわれるようになった。 紀元前27年秋から紀元前24年にかけて西方の再編に着手、紀元前23年にローマに帰還した。同年、連続して就任していた執政官を辞任する代わりに、1年限りの護民官職権を付与され、以後、例年更新されることになった。アウグストゥスはこの護民官職権のうち身体不可侵権については既に保持していたが、法案に対する拒否権等、残余の権限がこのとき与えられたのである。さらに、プロコンスル命令権が上級プロコンスル命令権(インペリウム・プロコンスラレ・マイウス)に強化されたため、元老院属州でも権限施行が可能となり、この結果、皇帝権力はより強固なものとなった。これが皇帝権力確立の「第二段階」である。 表面上はともかく実質的には、アウグストゥスは終始唯一のローマの統治者であり続けた。そして彼の後継者達もアウグストゥスの称号を名乗り続ける事により、帝政は既成事実化していく。アウグストゥスは、インペラトルやカエサルなどとともにローマ皇帝を示す称号の一つになっていった。 紀元前22年からは東方の再編に着手。紀元前19年に帰還し執政官命令権(インペリウム・コンスラレ)を得た。紀元前18年には、ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法、ユリウス正式婚姻法を制定し秩序の安定化と道徳の確立を試みた。なお、紀元前12年にアグリッパ、紀元前8年にマエケナスと相次いで長らくの腹心が死去した。 晩年と後継者問題 紀元2年、元老院より国家の父 (pater patriae) の称号が贈られた。 アウグストゥスは権威を確立し、権力が磐石になると後継者問題に取り組んだ。その際、アウグストゥスは自分の血筋にこだわっていたとされ、妻リウィアの前夫との子という血のつながりはないが近い位置にあり、能力的には卓越していたティベリウスが「最後の保険」的な扱いをされ続けた末に、「正統な後継者」ゲルマニクスの中継ぎとして後を継ぐことになる。当初、姉オクタウィアの息子マルケッルスに目をつけ、前妻との間にもうけた一人娘のユリアを嫁がせた。しかし、紀元前23年に彼が死亡すると、ユリアを腹心アグリッパと再婚させた。この結婚は多くの孫をアウグストゥスにもたらした。そのうちガイウス・カエサル、ルキウス・カエサルの2人を養子とし後継者候補とした。しかし、この2人も夭折した。紀元4年、ガイウス・カエサルが没したため、同年6月27日に、ユリアとアグリッパの末子アグリッパ・ポストゥムスと、ティベリウスを養子とした。同時にティベリウスに甥ゲルマニクス(アウグストゥスと血が繋がる)を養子とさせ、ティベリウスの次まで定めさせた。後に、アグリッパ・ポストゥムスは粗野で放蕩な性格から追放され、軍事・政治ともに実績があるティベリウスが明確に後継者とされた。それでも死亡の直前にアグリッパ・ポストゥムスを極秘訪問したという。 胃腸を患ったアウグストゥスは、紀元14年8月19日、ポンペイ近郊のノラの町で76歳で死去した。最期の日、友人に「私がこの人生の喜劇で自分の役を最後までうまく演じたとは思わないか」に尋ね、「この芝居がお気に召したのなら、どうか拍手喝采を」との喜劇の口上を付け加えたといわれている。遺灰はローマ市内のアウグストゥス廟に葬られ、神格化された後にカレンダーに Augustus (= August) 、つまり8月と記された。そして暗殺されたユリウス・カエサルつまり Julius (= July) には7月が神格化されカレンダーに記されたことは有名な話である。カレンダーに記されている1月から8月までの名前は全て神として古代に崇められた人物の名である。 業績 アウグストゥスを刻印した硬貨 何よりもパクス・ロマーナを実現したことが最大の功績である。 カエサルが構想しながらも、暗殺によって中断を強いられた数々の計画を実行していった。 政治 ローマ皇帝を頂点とする統治体制を樹立。アウグストゥスはローマ帝国における様々な官職や権限を一身に集めることで中央集権体制を確立した。 歴代ローマ皇帝の中で最長の在位年数を誇った(紀元前27年から紀元14年までの41年間)。 内政の充実に努め、平和な時代がつづいた。 紀元前23年から、ガイウス・マエケナスに命じ通貨制度改革に着手。1アウレウス金貨=25デナリウス銀貨=100セステルティウス銅貨。これらはその後300年にわたり、ローマ帝国の基軸通貨となる。 ローマ市の整備。「煉瓦の市街であった首都ローマを受けついで、大理石の市街を残した」と自ら記した通り、首都の中心部から周辺部に至るまで整備を行った。当時、人口が100万人に達していた首都ローマを14の行政区に分け、防犯・防火対策を充実させる。「永遠の都ローマ」というフレーズも彼の時代に誕生したものである。 版図を拡大し帝国の領土は地中海を中心に、西はイベリア半島、東はシリア、南はエジプト・チュニジアに及んだ。北部国境は当初エルベ川とドナウ川を想定していたが、9年のトイトブルク森の戦いでアルミニウスらゲルマン人から手痛い打撃を受けたために挫折を強いられ、後継者ティベリウスの時代にライン川とドナウ川が国境と定まる。ゲルマニア侵攻が彼の唯一の失敗とも言われる。 植民都市の建設。 地方総督の整備。財源確保のために税の徴収権を自分の派遣する官僚に一任した。 世界初の年金制度。国家の平安に貢献した兵士の退役後の生活をサポートした。 軍事 「市民=戦士」という伝統の復活。 アウグストゥスはローマの伝統であった対外拡張政策を止め、防衛体制の整備に努めた。 一方で、国境線画定のために多くの征服事業を行い、実際にはグナエウス・ポンペイウスやユリウス・カエサルを凌ぐ広大な領土を獲得した。アウグストゥスの時代にエジプト(アエギュプトゥス)、モエシア、ガラティア、カンタブリア、アストリア、アルプス、ラエティア、ノリクム、ユダヤ、パンノニア等が新たにローマ領に組み入れられ、アエギュプトゥス総督ガイウス・アエリウス・ガッルスの軍がアラビア半島のイエメンにまで兵を進めた。 軍の再編成。内戦終結後、50万を数えた兵士を20万に減らし、30万人は帰郷や入植をさせた。最終的に28個軍団16万8千人にまで規模を整備縮小した。 ローマ史上初となる常備軍を編成し、国境に沿って軍団を配置した。辺境で長い兵役を勤める彼らに報いるために、史上初めてとなる軍隊の退職金制度を始めた。 正規軍(ローマ市民権を持つ軍団兵)を支援するためにローマ市民権を持たない属州民によって構成される補助兵(アウクシリア)制度をシステム化した。彼らの『退職金』はローマ市民権(世襲)だったようである。軍団兵に少し劣る数の補助兵が軍団兵と共に国境の守備についた。 皇帝を護衛する親衛隊プラエトリアニを創設し、ローマ市内に3個大隊、ローマ市周辺に6個大隊を分散配置した。 文化 大帝国となったローマの首都を比類なき都にするため、芸術に心血を注いでいった。 友人であるガイウス・マエケナスを通じてウェルギリウス、ホラティウス、セクストゥス・プロペルティウスなどを庇護し、彼の時代にラテン文学は全盛期を迎えた。庇護を受けていなかった作家・詩人としてはティトゥス・リウィウスやオウィディウスなどがいる。 アウグストゥスは「私は煉瓦の街を受けついで大理石の街を残した」と言っている。アウグストゥスは大胆にギリシャ様式を取り入れた大理石の芸術を次々と生み出していった。ローマ帝国の最高の芸術の水準は、アウグストゥスによって花開いた。この時代の主な建築に戦争の終結を記念して作られた平和の祭壇アラ・パキスがある。 以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。以上、天命界の全ての超神霊様に、御報告致しました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.06.04 20:20:24
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