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  ハーイ 上福井 です

  ハーイ 上福井 です

白髭神社

 

    白髭神社(しらひげじんじゃ)


  白髭1   し3   し2   白髭4 
 

  し5   白髭3  白髭2   し6


 祭神 大田命(おおたのみこと)
     猿田彦命(さるたひことのみこと)の末裔されているが、同一人物とする説もある。道開きの神として交通安全、
     海路・国土の守護や五穀豊穣、商売繁盛、厄除け祈願等に信仰が厚い。祭礼の時神輿の先頭を切っていく、赤ら
     顔で、鼻の高い猿面の神が猿田彦命である。
 社地 上福井白髭 面積 314坪
          現境内面積127.2坪
 祭日 7月24日 夜祭り
     現在は7月24日に近い土曜日
 棟札 「棟札 元文元丙辰天 奉建立白鬚大明神社」 
     元文元年は1736年
 本殿  建立 元文元年(1736年)
 石段  上部 15段
     下部 16段 平成14年7月新設
 鳥居  明治40年(1907年)
     日露戦勝記念
 灯籠  安政4年(1857年)
 狛犬  一対 大正12年4月(1929年)
 手摺  本殿北側 平成15年7月新設
 末社  稲荷神社
 区保存文書 白髭神社境内譲興申請書 昭和23年

 平成16年祭りの様子
  7月24日(日)
  境内清掃 7月17日   白寿会
  のぼり建て7月18日   7.8.9.10班
  やぐら組み立て    担当班
  食事準備       6年保護者
  子供食事
  夜店         八竹会
  スーパーボールすくい 農事組合 白寿会
  やぐら巡行 子供太鼓 子供 担当班
  本殿練り込み
  ビンゴゲーム
  後片付け
  後宴
  
  

○「舞鶴ふるさとのやしろ」より、舞鶴にある白髭神社の紹介をします。
 吉坂白髭神社  祭神は猿田彦命とされている。しかし、滋賀県高島町の白髭神社をはじめ、全国各地にある白髭神社で
         は、猿田彦のほか、朝鮮からの渡来神、高麗(こま)の祖神とするところもある。「志楽」という地名発
         音も外来語めいており、渡来神ではないかとの説をなす人もある。
 八戸地白鬚神社 祭神は大田命と書かれている。また祭神は「大田命」で猿田彦命の別名とする説もある。
 長之室白髭神社 祭神は猿田彦命とされている。
 鎌倉白髭神社  祭神は猿田彦命とされている。



○全国に鎮座する白髭神社とその関係神社と史料を紹介して上福井の白髭神社を考え合わせていただきたいと思います。

○猿田彦神社
住所:伊勢市宇治蒲田。
祭神:猿田彦大神(さるたひこ)
   大田命(おおた)
本殿:平入、南向
神紋:五瓜梅鉢ごかうめばち
場所:内宮と月読宮の中間,国道23号交差点北西角。
由緒,伝承:
猿田彦大神は瓊瓊杵尊の道案内、大田尊は倭姫の道案内をしたと伝わる神。
倭姫命が諸国巡歴の折、猿田彦大神の御裔(みすえ)大田命が迎え、大神以来守護して来た五十鈴の川上の霊域を献上し伊勢の神宮を創建。大神と大田命の子孫は宇治土公(うぢのつちきみ・うじとこ)といい以来、玉串大内人云う特殊な職掌に任ぜられ代々奉仕続けている。
猿田彦大神は、佐田大神・千勝大神・白髭大神・道祖神・さいの神・庚申さま、などと呼ばれ全国津々浦々に祀られている。

○聖天院 高麗若光の墓 埼玉県日高市
 7世紀の後半、朝鮮半島では新羅の力が強くなり、百済と高句麗をあいついで滅ぼしましたので、この時期、日本に渡来する百済・高句麗の人々が激増します。その中には、高句麗の王族の 高麗若光(こまの・じゃっこう)という人がいました。若光は、武蔵国の高麗郡(こまぐん・現在の埼玉県日高市の一帯)に移住し、この地の渡来人のリーダーとして活躍しました。聖天院は真言宗の寺だが本尊に歓喜天を祀っており、歓喜天の別名聖天さまがそのまま通り名となっている。
 716年、大和朝廷は高麗人1799名を高麗郷に移住させて高麗郡を設置した。この時の高麗人の首長が若光王(じゃっこおう)で、農業、酪農、紡績など、朝鮮の技術を中心になって駆使し、高麗の地を拓いていった。聖天院はこの若光たちの冥福を祈って750年、勝楽上人によって創建された寺である。ちなみに本尊である歓喜天は勝楽が高句麗から持ってきたものと言われ、秘仏となっている。
聖天院を出て、少し行くとあるのが高麗神社。若光王が創建した神社で、若光王の没後はその徳をたたえて、若光王の霊も祀られたという。また、若光王は「白ひげ様」と呼ばれていたことから、別名 白髭神社とも呼ばれている。

○高麗神社(こまじんじゃ)
埼玉県日高市大字新堀833
高麗王若光
猿田彦命(さるたひこのみこと)
竹内宿禰(たけのうちのすくね
出世開運
霊亀2年(716)に当地に移住した中国東部・高句麗国の渡来人で、武蔵野開発に尽力した高麗郡司の高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)が高麗郡総鎮守として猿田彦命と竹内宿禰を祭祀し、白髭(しらひげ)明神としたのが創祀といわれ、武蔵国内にある55社の白髭神社・白髭明神の総社であることから高麗総社ともいわれたという。
当社を参拝した政治家(水野錬太郎・若槻禮次郎・浜口雄幸・斎藤実・鳩山一郎氏)が首相になったことから、出世開運の神として信仰され、近年では、政・官・財界を始め、各界の参拝が相次ぎ、法曹界では最高裁判所長官(石田和外氏)、検事総長(吉永祐介・北島敬介氏)に就任するなど、霊験あらたかと伝えられている。
また「大般若経羅密多経」と、社殿奥の、代々当社の宮司を務めた高麗家の住宅は、国の重要文化財に指定されている。
例祭(10/19)には獅子舞奉納(市指定民俗文化財)が行われる。
桜祭(4月第2日曜)、菊花祭(11/3)。

○白髭神社 東京隅田川
もともと、朝鮮渡来の神を祭った神社ですが、今では、祭神は「猿田彦(さるたひこ)の神」とされています。
猿田彦は、天孫降臨の神話の中で、天孫・瓊瓊杵(ににぎ)の道案内をした神です。
そのため、猿田彦は、旅行の道中安全や、また、客を店に案内してくれるということで、商売繁盛にご利益がある神として信仰されました。
白髭神社は、各地にありますが、総本社は、滋賀県高島町にある白髭神社です。比良山麓の琵琶湖岸にある美しい神社で、朱色の鳥居は、湖の中に立っています。
墨田区の白髭神社も、慈恵大師という人が、平安時代の951年に近江の総本社から勧請したと伝えられています。
 しかし、古代から、この一帯には、多くの渡来人が住んでいましたので、平安時代以前から、白髭の神をはじめとする渡来の神々が祭られていたのではないでしょうか?
 「白髭」というのは「新羅(しらぎ)」からの転訛とも言われます。また、高句麗から渡来して武蔵国高麗(こま)郡に住んだ 高麗若光(こまのじゃっこう) が、晩年、白い長い髭を垂れていたので白髭様と言われていたことに関係するという説もあります。
 また、「猿田彦」という神名も、渡来系の神である 「佐田(さだ)の大神」 に由来するとも言われています。
「渡来人」とか、「渡来の文化」というと、その中心地として、北部九州や出雲や畿内を思い浮かべがちですが、関東にも渡来の文化が濃厚に及んでいます。
 有名な群馬県の「多胡(たご)碑」や 辛科(からしな)神社 、埼玉県の高麗(こま)神社など、渡来の史跡は関東平野一円にあります。
 古代における朝鮮半島からの人々の渡来が、いかに大規模なものであったかが、よくわかります。

○白髭神社(しらひげじんじゃ)
住 所 滋賀県高島郡高島町鵜川215
御祭神 猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
御神徳 健康長寿
 「白髭さん」とか「明神さん」ともよばれ、長生きの神様として人々に親しまれている白髭神社は、垂仁天皇の時代に創建されたといわれている。近江最古の神社で湖の中に鳥居があり近畿の厳島神社ともいわれており、湖中に建つ朱塗りの大鳥居が有名。豊臣秀頼によって慶長8年(1603)年に再興された本殿は桃山建築の美が感じられる建物で、重要文化財に指定されている。また、近世の社殿配置を残す神社としても貴重。

○白髭神社 四日市泊村
祭神は猿田彦神です。拝殿の右に末社がありますが、祭神は建御名方神、建速須佐之男神、大物主神、火之迦具土神、菅原道真、大山津見神です。末社の近くに神泉池という小さな池があります。
 この白髭神社の前身は泊村字沖田にあった諏訪社ですが、慶長年間(1596-1615)、泊村の庄屋であった吉村家の祖先が琵琶湖の白髭神社を勧請してきて字古里に白髭神社を創建しました。明治39(1906)年に字御田の須佐、事比羅、秋葉社、字前田の天満社、字川原の山神社を白髭神社に合祀して現在に至っています。
 
○白髭神社 塩山市三日市場佛師原前
普通神社は南向きあるいは東向きに鎮座しているが、此処の白髭神社は西を正面に鎮座している。なぜ西向きに鎮座しているのか、理由は定かではないが、珍しいものだと思われる。祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)・天宇受売命(あめのうずめのみこと)。
 後冷泉天皇の天喜二(1054)年に、源義家・義光が奥州の夷賊安部頼時(あべのよりとき)とその子貞任(さだとう)の謀反を征伐に向かい、この地を通ろうとしたが闇夜だった。その時鈴を鳴らして道案内をしてくれた神様がいた。明るくなってから見るとその所の松の木に白水干(しろすいかん:神主さんが着ている白い服)が掛けてあるのが見えた。「これはきっと猿田彦命のお導き違いない」と霊感を感じ、この水干の掛かっていた松の木の所に「新羅三郎義光」を祀ったのが白髭神社の起こりと云う。(伝説である)  近年、神社が西向きであることから注目され、「日本の中の朝鮮文化」論で、金達寿、和歌森太郎といった史学者によって「白髭神社」の実体は、古代の新羅系渡来人集団が彼らの祖先を日本的な神様として奉祭した新羅明神の転訛したものであり、現在この神社のあるところは古代の渡来人の集落のあった地域であろうと説かれている。

○白髭神社 金沢市
白髭神社は素盞鳴命を祀る。木ノ新保六番丁五十三番地(現在の本町2丁目18-8)に在り。貞亨二年上記の由来書によれば、永長中、本社を加賀石川郡安江村の地内に建立したるにて、社地の廣さ方五十間にして、一村の産土神たり。別當を持明院といふ。
眞言宗にして、社内に居住せり。故に白髭持明院とも呼びなせはせり。後少らく中絶しかど、寛永中、社殿坊舎を再興したるに、明暦元年藩主前田利常は泉野に於て社地を給へり。然れど氏子は社頭を離れ難き旨を申立て、其事止みたれど、萬治二年、社地を公用に収められ、代地を津田勘兵衛上ヶ地に給はりて移轉せり。これ今の處にして、寛保元年尚地子地を請込みたりといふ。
 明治維新の初、神佛混淆を廃せられ、別當持明院を復飾せしめたれど、肯ぜざりしかば、明治二年其神勤を停止し、社僧の名義を廃し、社地と寺地との境界を定めたるに、社地大に狭くなりぬ。本社は明治五年十一月、村社に列せられたり。 (稿本金沢市史より)

○白髭神社 三浦市
この社は、小網代湾が昔から避難港として全国に知られていた関係上、航海安全大漁満足の神として古くから崇拝されていました。昔一人の漁夫が網にかかった御神体を海中から引き揚げ、お祀りしたもので現在の社殿は三浦道寸公が改築したものと伝えられております。御神体は中筒男命、別命白髭明神、南極星の化身といわれ長寿を授ける神とされております。本殿の前にある石はカンカン石と呼ばれ、昔の石錨で海上安全のために昔の船頭が社におさめたものであります。

○白髭神社(日向神社) 伊勢原市
住所:伊勢原市日向1670。
祭神:高麗王若光、熊野権現
本殿:流れ平入、西南向。 
場所:小田急伊勢原北口から日向薬師行き終点下車すぐ。
由緒・伝承:社伝によれば新羅と百済に攻め滅ぼされた高句麗の王族若光は日本に亡命し、東国開発の勅命を受け大磯に上陸、その後この日向に落ち着いたと言われる。
大磯の高来神社前から相模川河口にかけての海岸は古くから唐浜と言われている。高麗王はこの日向の後(716か)、武蔵国(現:埼玉県日高市)の高麗神社付近へ移る、高麗郷の聖天院・勝楽寺には朝鮮様式の素朴な若光の墓がある。霊亀1年(715)日向山に来た行基が薬師三尊像を彫るに良材がなく困っていた所、若光は香木を与え日向薬師開山に協力した。薬師の守護神として若光を祭ると供に熊野権現を勧請し、参道入口に神社を創建したのが始まりという。

○薬王寺 白髭神社 古賀市
祭神は猿田彦命(サルタヒコノミコト)
大雀天皇(オオサザキノスメラミコト--仁徳天皇のこと)
武内宿禰(タケシウチノスクネ)とされています。
猿田彦命はどんな神様ですか?猿田彦命は 古事記に出てきますが
邇邇芸命(ににぎのみこと-皇室の先祖)が高天原から天降られるとき ご案内したのが地上の神の猿田彦命です。道祖神あるいは庚申さま(道案内の神さま)として路傍の石仏として、古賀にもあちこちあります。その鼻は天狗のように高く、男根を象徴しています。

○白鬚神社 国東の石造仁王~大田村
大田村の白髭神社は、和銅3年(710)から1300年続くとされているどぶろく祭りで知られている。10月17日、18日、濁酒(どぶろく)が参拝客に振舞われる。九州地方では大田村だけが、国税庁よりどぶろくの製造を許可されているという。
白髭神社の仁王は以前たずねたことがあるが、光線状態が悪くてうまく撮影できなかった。今回はトップライトだったが何とか撮影ができた。堂々としていて美しい彫りの仁王像だ。

○白髭神社 栃木県小山市
昔、神社の前で白髪・白髭の老人が臼を彫っていた。すると悪者に追われた美しい姫が助けを求め、老人はとっさに臼をひっくり返しその中に姫をかくまった-。助けられたには、木花開耶姫命。「臼打」という地名が残る。伝説にもなった「白髭神社」。喜沢分岐点のアンダ-をくぐって桑中通りの1本南側、広くなった市道13号線沿い「日本たばこ」のすぐ先にある。清水は拝殿の前の岩の下からこんこんと湧き、敷きつめた玉砂利が透き通ってよく見える。ここから「室の八島」のように池がめぐり、鯉が遊ぶ。この森はドライバ-の隠れた休憩場所となっている。

○猿田彦命とは
 天孫降臨に際して道案内の役目を果たした天狗面の神様
 猿田彦命は、身長すこぶる高く、顔赤くして鼻高く、眼は大きくその輝くさまはほおづきのごとくであったという。
 天孫瓊瓊杵尊が豊葦原中国に降臨したとき、天之八衢(道が多方面にわかれているところ)で、上は高天原を照らし、下は豊葦原中国を照らしいる、たいへん威勢のいい神が立っていた。瓊瓊杵尊に従っていた天之宇受売命が行って、なぜに天降りの邪魔をするのかと尋ねると、その威勢のいい神は「私はもともとこの国土の神で、名は猿田彦命と申す者である。ここにいるのは、天神の御子が天降ると聞いので、ご先導せんとここまで出迎えに来たのである」と答えたので、瓊瓊杵尊は猿田彦命を案内役に降臨したのである。このとき、天宇受売命が始めて猿田彦命に接したときは、乳房を露出し、かなり扇情的の姿態で相対したとされている。
 天狗の面のような猿田彦命と、おかめのような愛嬌たっぷりの天宇受売命はまことに対象的である。これが縁でのちに猿田彦命と結婚した。子孫は代々芸道の家系とされている。
 さて、猿田彦命が国土である伊勢国阿耶訶にいるとき、海岸で漁をしているうちに、比良夫貝に手を挟まれて海中にひきこまれて溺死した。そのとき海の底に沈んでいるときの名を底度久御魂、海水がぶくぶくと泡だったときの名を都夫多都御魂と称した。    

○庚申塔(こうしんとう)道ばたの信仰
 「猿田彦」の文字 「猿田彦大神」 「猿田彦命」などで、「猿田彦大神」を刻んだものが代表的。猿田彦は天孫降臨の際に道を先導したことから、やがて、旅の安全祈願の対象となり、道ばたに立てられるようになった。
 庚申塔には三猿が欠かせないものになっていますが、もとはまったく別のものでした。三猿は古代インドで生まれ、東南アジア・中国に広まり、やがて日本に入って、鎌倉時代以降には絵画や彫刻の題材になったとのことです。三猿が庚申信仰や庚申塔に結びつくのはあとのことです。そもそも室町時代に、山王(日吉神社)信仰と庚申信仰の対象として共に北斗七星があったところから両者が結びついたとする説があります。
やがて室町時代の末期に山王の使者(化神とも)である猿が庚申信仰に取り入れたというのです。したがって、初期の庚申塔にあらわれた猿は三猿ではなく、一匹や二匹で、目・耳・口をふさいだものではなかったそうです。
そして江戸時代、17世紀中ごろに庚申塔に三猿が現れました。庚申の夜に天の神(天帝)に悪事を告げるといわれる三尸(さんし)との兼ね合いで「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿が結びついたというものです。

○庚申さんって、何?
 庚申っていったい何なのでしょうか。これは、現在使っている暦(こよみ)の一種で、平成14年は「午年」(うまどし)等と年賀状にイラストを使っていますが、庚申も、少し複雑ですが、これと同じようなものです。

干支(えと)
 庚申の「庚」(こう)は「十干」(じっかん)の第7番目の「かのえ」を表し、「申」(しん)は十二支(じゅうにし)の申(さる)なんだそうです。二つを組合わせて「庚申」(干支・えと)。

仏教との融合
 中国から伝わった、この庚申信仰の礼拝の対象として「青面金剛」(せいめんこんごう)の像や「庚申」と言う文字が刻まれています。もともと、青面金剛は帝釈天の使いで、仏教に関係あるものですが、何時の間にか、庚申信仰と仏教が融合して、庚申信仰の対象になったものらしい。
 庚申の御利益と青面金剛の御利益が似ていると言う事で、取り入れられたのではないかと言われています。
 庚申信仰は、平安時代に中国から伝わり、江戸時代には特に、「庚申待(祭)」が大変盛んだったそうです。特に「庚申待」(こうしんまち)と言う「庚申祭」は、中国の道教の教えからきたものだそうです。「庚申講」「庚申待」については、次の項で説明します。

日本古来の道祖神と融合
 しかし、庚申信仰が、昔から日本の道のあちこちに祭っていた「道祖神」(どうそしん)とか「猿田彦命」「荒神信仰」等のお祭の仕方が、庚申祭の形式を取り入れ、「庚申待」と同じような形式をとるようになってきました。道祖神・猿田彦は道案内の神だけでなく、村への「疫病・怨霊の侵入を守ってもらう」神としての役目が第一であったようです。実は「庚申」もまた、村を守る役目も加えられてきたものと考えられます。

○庚申待 Kosin-mati
 別名、庚申祭・庚申会(え)
寝てはいけない、徹夜の祭り
 「庚申待」とは「庚申祭」の事です。庚申の日(庚申祭)の夜、佛家では帝釈天(たいしゃくてん)及び、「青面金剛」を祭ります。それに対して、神道の家では「猿田彦」を祭ったそうです。面白いのは、この庚申祭は「徹夜する祭」です。
 一晩中寝ないで、徹夜する祭と言うから驚きます。これは、中国の道教の「守庚申」に当たるもので、もし、庚申祭に寝てしまうと、人間の身体の中にいると言われている「三尸」sansi(三匹の虫)が身体から出ていって、生活の中でおかしている、どんな小さな罪でも、上帝に告げてしまうと言われて来ました。そのため、この日は、一晩中、寝ないでいたそうです。また、この三尸が人間の寿命を短くすると考えていたようです。

○三 尸 sansi
 人間の腹の中にいる三匹の虫のこと。人間のおかす、どんな小さな過失も知り、庚申待の夜、睡眠中に昇天し、その罪悪を告げてしまうと言う厄介な虫。三尸虫とも言います。
『庚申講』・・庚申を信仰している仲間たちのこと
『庚申塚』・・・路傍などに庚申(青面金剛)を祭っている塚。三猿を刻んだ石塔。

○日本の暦や方位・時刻表示に影響
 平成14年は「干支」で言うと、『平成14壬午年』(みずのえうまの年)と言う事になります。江戸時代の文書等によく書かれています。(享保九甲辰年という書き方)。
 また、「丙午年」(ひのえうまの年)と言うのも、「庚申年」と同じ言い方です。下の表のように、甲・乙・丙等の「十干」(じっかん)と「十二支」を順序良く組み合わせ、60個の組み合わせ(干支・えと)が出来るように工夫しています。(順列組合せでいくと120通りになりますが60個になるように工夫している。)ですから、「庚申年」は60年に一度やってきます。暦を調べて次の事が判明しました。

十干  甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸 *  *
十二支 子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥

「十干」(じっかん)と「十二支」の組み合わせで「干支」(えと)が決まる
 先ず、「甲と子」「乙丑」組み合わせから出発し、順に組み合わせていき、60組出来ると、また、「甲と子」に戻る仕組みになっています。
甲子(01番目)・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉
甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未(20番目)
・・・・癸亥(60番目)・甲子・・・・・「庚申」は57番目に出てきます。
 と言うように組み合わせているようです。甲から数えて、7番目に「庚」が出てきます。庚申の年は昭和55年(1980年)でした。その前は、大正9年(0920年)です。

「庚申講」の人たちは1年の暦にも、日ごとに、これを当てはめて「庚申日」にはお祭をしていました。60日毎の祭です。

○方位と組み合わせて「鬼門」の考えが生まれた。
 また、これらを「方位」に組み込んで、北=子、南=午、東=卯、西=酉と設定して、24方位を決めています。そのうち、丑寅の方向(北東)を『表鬼門』とし、未申の方向(南西)を『裏鬼門』としています。日出藩主、木下延俊が日出城を築城した時、城の表鬼門に「鬼門櫓」そして、裏鬼門には「人柱」をたてたそうです。暦と我々の生活とは密接な関係があったようです。江戸時代には、12支と数字を使って「時」を表していました。

○中国の「庚申」と神話の「猿田彦命」
 古い、昔の道の追分や村境に立てられている、「猿田彦命」(さるたひこのみこと)は「道案内の神様」「旅の安全の神様」です。日本神話の中に、天尊降臨の折、先頭に立って道案内した神。身の丈7尺、精悍な顔立ちのため、日本書紀には「俳優の神」「ちまたの神」と記され、伊勢国五十鈴川の上流に鎮座します。中世からは「庚申の日」にこの神を祀り、「道祖神」と結び付けられました。猿田彦も庚申も猿(申)どうしですから、融合しやすかったと考えられます。

○道祖神、鞘の神、興玉神
 道祖神(どうそじん)は道路の悪霊を防いで、通行する人の守護する神様です。これと、似たものに「鞘神」(さやのかみ)があります。鞘は刀の刀身の錆の発生を防ぐ役目があります。同じように、疫病・怨霊が入ってこないように、村に人間の錆(疫病)を防ぐ神としたものです。「さやの神」がやがて「さいの神」(幸の神)に変わっていったものもあります。道祖神はこれらの神とも融合しました。別名「くなどの神」「たむけの神」とも呼ばれています。








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