土用鰻季語探訪―土用鰻 松田ひろむ石(いわ)麻呂に我物申す夏痩せに良しというものぞ鰻(むなぎ)取り召せ 大伴 家持 あまりにも有名な歌です。この歌のおかげで千年を超えて、うなぎ屋が繁盛することになりました。もっともそのころは蒲焼はありません。丸焼きあるいは煮物ではないかと思われます。万葉の時代には醤油そのものがありません。調味料は塩と味噌だけでした。 室町時代になって、宇治の鰻(うなぎ)の丸焼きをぶつきりにして串に刺し、醤油や山椒味噌を付けて食べました。これが「宇治丸」と呼ばれ評判となりました。その形が蒲の穂に似ているところから「蒲焼」の名が生まれました。 ほととぎす勢田は鰻の自慢かな 許六 庖丁で鰻よりつゝ夕すゞみ 一茶 浪黒き鰻十荷や放生会 召波 例句でも分かるように江戸期の歳時記は、夏の鰻を取り上げていません。もっぱら、落ち鰻の「うなぎ簗」を秋の季語としています。 季語としての土用鰻や鰻そのものは昭和八年の改造社『俳諧歳時記』になってからです。新しい季語といえます。 鰻の語源は諸説ありますが、古くは「むなぎ」から「む」は「身」を意味し、「なぎ」は「長し」の「なが」からとする説が有力です。この説では、「あなご」の「なご」とも語根が共通します。食べごろになると胸が黄色になるから「胸黄」という説もありますが俗説のようです。 山芋変じて鰻となる・鰻変じて山芋となる 昔から鰻は山芋が変わったものとの言い伝えがあります。どちらも、長くてぬるぬるしている。強壮として用いられるなどの共通点があります。ほかの魚と違って卵が見つからないなど鰻は不思議な魚でした。鰻の生態が分かり始めたのは近年のことなのです。 橘南谿『東遊記』には、 近江の人の語りしは、「長浜にて、山の芋を掘来たり料理しけるに、中に釣針のありしことあり。其掘りし所、昔は湖水の傍なりし所といえば、此薯蕷(やまいも)はうなぎの変じたる事疑いなし」といえり。其物語りし人も貞実の人なりしが、いかがありしや。(「平凡社東洋文庫」) とあります。この話には多分の真実があります。 鰻は極めて移動の巧みな魚で、降雨の際など、湿った草原を平然と進んでゆく。養鰻池の周囲には逆向した柵を設けなければ、鰻は容易に逃走する。されば山芋の掘った跡などに思ひもかけぬ鰻が潜伏して人を驚かすこと稀ではない。(改造社『俳諧歳時記』) 鰻にもならぬ野老(とろろ)の味を知れ 高木 蒼梧 高木蒼梧(一八八八~一九七〇)は、愛知県に生まれ長く大和市下鶴間に住んだ俳人・俳文学者、本名は錠吉、通称は譲。『万朝報』『東京朝日新聞』記者。『石楠』『木太刀』等に俳句を発表、冬葉・乙字・亜浪らと交友がありました。沼波瓊音・伊藤松宇・幸田露伴等の感化で、俳諧研究『連歌俳諧研究』『俳句研究』を執筆。多くの著作がありますが、昭和三十五年(一九六〇)『俳諧人名辞典』(明治書院)により文部大臣賞を受賞しました。これを祝して親交のあった江の島神社宮司相原直八郎が江ノ島岩屋通りに昭和三十六年(一九六一)に句碑を建てました。「夏富士や晩籟〔風の音〕 神を鎮しむる」(蒼梧山人)とあります。 鰻の不思議 土用丑の日で知られている鰻は、夏痩せの防止策として昔から知られています。かつては土用の丑の日にあわせ夏が旬とされていました。高級料理のイメージもあります。しかし現在では養殖、輸入が増えて、高級なイメージも変化してきています。寿司のように大衆化と高級化が分化するのではないかという予感がします。 ウナギ(鰻、英eel,unagi) 鰻は、ウナギ目の魚類。世界中に十八種くらいが生息するといわれ、全長は数十センチメートル~一メートル。 ウナギの平たく透明な幼生は、レプトケファルス(葉形幼生)と呼ばれます。 ウナギはヘビに似た細長い体形をしていて、切り立った絶壁でも這い登ることができることから、「鰻上り」という比喩が生まれました。鰻は、いったん河をのぼり始めると、どんな障害があっても、それを超えて、ただ前進するのです。カニ、エビ、貝、小魚などの動物性のエサを食べながら、少し湿気と小さな流れさえあれば、どんどんのぼります。とても登れそうにない断崖でも、登っては落ちの連続を繰り返しついには成功します。揚子江では河口から二〇〇〇kmもある上流の四川省までのぼり、ナイアガラ瀑布さえものぼりつめ、エリー湖に達するといいます。 種類 日本で食用にされるのは、アンギラ・ジャポニカ(Anguilla Japonica)という種です。関西ではマムシ(蝮とは関係なく、鰻飯の『まんめし』が『まむし』と訛り、それが材料のウナギに転用されたもの)。ヨーロッパウナギと呼ばれるのはアンギラ・アンギラ(Anguilla Anguilla)種です。 漁法・養殖 日本の鰻養殖は、江戸時代に東京深川で始まり、のちに浜名湖へ移りました。現在は鹿児島県がもっとも多く、次いで愛知県、宮崎県、静岡県、高知県の順となっています。 日本全体の活鰻は二〇〇三年度で二万五千トン養殖されているといわれています。輸入品は台湾が二十年以上の歴史を持っていますが、現在は中国が主流です。台湾の活鰻は二〇〇三年度で約四万トン、中国は約十万トンと言われています。国内天然ものは、全体の一%もありません。 種類は、日本と台湾は、アンギラ・ジャポニカのみで、中国はアンギラ・ジャポニカとアンギラ・アンギラが四対六くらいです。養殖方法としては、台湾と中国南部の広東省は、池を掘っただけの露地養殖。日本と中国の福建省はハウス養殖。ハウス養殖は、ボイラーをたいて水温を常に約三〇℃に保っています。中国では原料のシラスウナギが減少しているため、ヨーロッパからシラスを輸入して日本向けに加工しています。私たちは知らないうちに太平洋のニホンウナギと大西洋のヨーロッパウナギを食べているのです。 一九九八年の消費量は、六五年の七倍。日本は世界一のウナギ消費国です。日本では、蒲焼が一般的ですが、ヨーロッパではワイン煮や燻製、中国では煮込みなどにも調理されます。 鰻の養殖―シラスウナギにあと一歩 現在の養殖技術では、ウナギはまだ卵からシラスウナギまで育てることができません。ウナギの人工孵化は一九七三年に北海道大学において初めて成功しました。 二〇〇三年、養殖研究所は、餌の改良などで、卵から体長約三〇ミリのレプトケファルス(仔魚)まで成長させることに成功しました。シラスウナギまで育てる試みは、三十五年前から行なわれていましたが、大きな進展はなかったのです。天然のレプトケファルスがシラスウナギに変態する大きさの半分にまでこぎつけたのは初めてで、今後の成長に大きな期待が高まっています。 鰻の生態―マリアナ諸島西側で誕生 海流に乗って日本へ 一、誕生 マリアナ諸島西側の海山で生まれた卵は、海流の中で拡散します。卵はレプトケファルスになって、ゆっくりと海流を漂いながら、北赤道海流に乗って西へ漂流します。体長15mm程度になると、日周鉛直移動(夜になると上に上がってくる。)を始めます。日周鉛直移動で、夜間、表層付近に浮上して、貿易風の影響を受け、徐々に黒潮に乗り換えます。 二、変態 黒潮に入り二~三週間でシラスウナギに変態し、黒潮を降りて日本海沿岸の河口に向かいます。六〇ミリまで成長したレプトケファルスは、シラスウナギになると五五ミリにまで引き締まります。産卵場のマリアナ海溝を旅立って四~七か月後に河口に到着します。養殖の鰻は、この遡上するシラスを捕獲します。 三、成長 河川や湖で五~十二年過ごし、体長が四〇センチから一メートルになった鰻は、秋の増水時に川を下り、外洋へ出発します。これを落ち鰻といいます。落ち鰻は餌を食べないため釣ることができません。網や簗で捕獲することになります。 四、謎の旅程 鰻は餌を食べず、はるか離れた産卵場までたどり着きます。経路や泳ぐ深さなどは不明で、産卵に向けて外洋を泳ぐ鰻はこれまで一匹も見つかっていません。 小笠原海流に乗って西マリアナ海嶺に沿って南下し、海山で新月の日に産卵するのではないかといわれています。産卵は四~十一月ごろ。七月ごろがピークです。一回の産卵で百万~五百万個を産みます。 鰻の栄養素 鰻には、視力の働きに関係するビタミンAや、倦怠感・疲労感に効果があるビタミンB1などが含まれています。ビタミンAは、大人の一日分の必要量を一匹でまかなえます。 脳の働きの活性化をうながすといわれるDHAや、動脈硬化を抑える効果があるといわれるEPAも豊富です。 土用の丑の日とは 「土用」というのは、旧暦で、立春・立夏・立秋・立冬の前の十八日間をいいます。ですから四季に土用はありますが、「土用の丑」といえば夏ということになっています。(季語では冬の「寒土用」などもあります。 一般的に言われているのは、平賀源内が、あまりはやらないウナギ屋に頼まれて、「本日、土用の丑の日」という看板を書いて張り出したら当たった。似たような内容で、大田蜀山人が「ウナギを食べたら病気にならない。」という内容の狂歌を作って宣伝したという説もあります。 実作鑑賞 この竹瓮(たっぺ)鰻の入る筈なりし 後藤比奈夫 竹瓮とは細い竹を編んで一方を閉じ、一方の口から魚を捕るものです。鰻のいそうな場所を狙って何日か沈め放置しておきます。しかし、鰻は捕れなかったのです。空しい竹瓮なのです。竹瓮は季語としては冬ですが、ここでは鰻漁として夏としておきます。筌(うけ)ともいいます。「なり」はここでは断定の助動詞に回想の「し」で、入るはずだったのになあと、空の竹瓮を見ながらのつぶやきです。 鰻の日なりし見知らぬ出前持 後藤 夜半 比奈夫の父の夜半の句。いつものうなぎ屋なのに見知らない出前持がやってきたのです。鰻の日だけの出前持なのでしょう。ここにも助動詞の「なり」「し」が使われています。眼前の景に回想の「し」は使えないはずですが、ここでは改めて「そうなんだ今日は「鰻の日」(土用の丑の日)なんだなあ」と再確認しているのです。この場合は眼前のことであっても、瞬時の回想といっていいのでしょう。誤用とはいえません。 実作の鰻 鰻(夏) 「しらす・めそ・くろこ」は稚魚ですが実作はありません。 うなぎ笊ころがしてある雨月かな 安住 敦 うなぎひしめく水音朝のラジオより 豊田 晃 傷つきし鰻の無念絡むだけ 関本 夜畔 鰻生かしいる食堂へ子とはいる 光宗 篁 産み月の娘に天然の鰻買ふ 土井 朝子 持ちたくて必ず落とす鰻かな 竹本仁王山 僧となる鰻も滅入る大暑かな 筑紫 磐井 田鰻の首持ち上げし落とし水 西谷 剛周 土間暗く鰻に水を流しおく 森田 智子 放生の鰻は桶の円に沿ふ 大橋 敦子 うなぎ鳴くをんなが嗚咽もらすかに 熊谷 愛子 鰻池・鰻田・鰻舟(夏) 簀の鰻がんじがらみに育ちをり 中 裕 鰻池に藁ういてゐる朝ぐもり 桂 信子 竜巻に野蒜飛ぶなり鰻池 水原秋桜子 鰻田に及べる遠き霜くすべ 能村登四郎 湖の霧に現れ鰻舟 今川 青風 鰻釣 夜の目にも鰻のかたち釣れて来る 青葉三角草 鰻捕り 深草にぽつちりと灯や鰻捕り 田村 木国 あかつきの湯町を帰る鰻捕り 飯田 龍太 畦の子ら声つつぬけに鰻捕る 向井いさむ 鰻掻 鰻鎌を使う漁法。鰻鉤、鰻掻ともいい、全国各地で使われています。漁法は一人乗りの舟で、鰻鎌を真直に水中に下し、鉤の先を前方の泥中に約一mぐらいを走らせ、鰻をひっかけるもので千掻き一回といわれるくらい難しいものです。 芦間より夕日を見遣る鰻掻 佐野 美智 鰻掻き去りたるあとのいなびかり 水原秋櫻子 鰻掻くや顔ひろやかに水の面 飯田 蛇笏 腰の辺に浮く丸桶や鰻掻 竹下 竹人 蘭亭の細き田川に鰻掻く 関森 勝夫 鰻突く 竿先についた銛で鰻を突くもので、河川か入江に、一人乗りの川船で、箱眼鏡を使って川底をのぞき、鰻を突いて獲る漁法です。 夜の鰻突くとておろす蔓梯子 藤原 如水 鰻突く人あり湖の日の落ちて 鳥越 三狼 鰻の日 和のグルメの代表といえば、寿司、蕎麦、うなぎでしょう。それぞれに薀蓄が多いものです。ウナギの調理については、昔から「割(さ)き三年、串打ち三年、焼き一生」と言われています。それはウナギの持つ旨味成分を逃さないためには、調理にスピードが要求されることも大きな理由の一つです。あのヌルヌルした体をつかまえるだけでも大変です。ウナギの割き方と調理方法には東西の違いがあります。関西では腹開きにして、素焼きしてからタレを付けて焼きます。関東では背開きにして、素焼きの後、蒸してからタレを付けて焼きます。割き方については、江戸時代に関東では「切腹」を嫌って、背開きにしたという説がありますが、この切腹説はすべての魚を背開きにしないと説得力がありません。関東でも鱧は腹開きです。これは蒸す(関東)、蒸さない(関西)の違いとも関係しているように思えます。関東の蒲焼はふっくら、関西はぱりぱりしています。 蒲焼のほかに、たれを使わない白焼き、ひつまぶし(蒲焼を一センチ幅ほどの短冊に刻んで、おひつの中に入れたご飯の上にまぶした名古屋の名物料理)などもあります。 うなぎの日うなぎの文字が町泳ぐ 斉藤すず子 鰻屋 鰻は高いという印象があります。それだけに貴重品だったのでしょう。鰻料理といっても所詮は鰻づくし、それだけにかえって拘りが多いものです。名店と呼ばれる店も数多くあります。鰻の質、蒸しや焼き具合、ご飯、たれとの調和、それぞれです。客の顔を見てから焼くといって三十分以上も待たせる店がほとんどです。スローフードの代表といえるでしょう。天然ものの鰻ということになれば、一人五千円から一万円ぐらいは覚悟する必要があります。一般庶民には縁が遠いものでした。しかし、このような鰻食文化も、養殖と輸入物の増加で激変する予感がします。 うなぎ屋のうの字延びきる暑さかな 川合 正男 うなぎ屋の「うの字」が長い、延びるは類想です。「うなぎ屋のうの字のながき小春かな」(倉田春名)もあります。 うなぎ屋の離れ座敷や傘雨の忌 酒井 武 鰻割く ひつそりと鰻裂きをり稲の花 岸本 尚毅 まないたの疵曼陀羅や鰻割く 百合山羽公 鰻より穴子を裂くは滑らざる 尾崎 木星 鰻裂くを一心に見ていぶかしむ 細見 綾子 鰻裂く情け容赦もなかりけり 渡辺 笑子 荒涼と荒川鰻裂いて貰ふ 細見 綾子 少年の汗もかかずに鰻裂く 岸本 尚毅 人の歩の遅速路傍に鰻裂かれ 渡辺 倫太 鰻焼く 三島の宿雨に鰻をやく匂ひ 杉本 寛 川風や鰻を焼いて三代目 大木かず子 杖のごとき永良部鰻の黒焼よ 高木 良多 鰻食う 浅草の鰻をたべて暑かりし 臼田 亞浪 いのち今日うなぎ肝たべ虔めり 籏 こと うなぎ荒食う棒にとりつく暁の色 赤尾 兜子 うなぎ焼くにほひの風の長廊下 きくちつねこ うなぎ食ふことを思へり雲白く 稲垣 晩童 *鰻食うカラーの固さもてあます 皆川 盤水 鰻食ひあくまでも二兎追ふ話 川村 紫陽 鰻食ふための行列ひん曲る 尾関 乱舌 鰻食ふ会社勤めを諾ひつ 清水 基吉 鰻食ふ役者を捨てし鼻赤く 下田 稔 鰻食ふ藍ひといろに山迫り 廣瀬 直人 牡丹をかたはらにして鰻食ふ 和田耕三郎 我もまた朽チテシ止マム鰻くらう 清水 哲男 百円鰻の飯をせせりて停年以後 瀧 春一 平成の茂吉顔して鰻食ふ 細梅 数生 命けふ鰻肝食べ虔めり 籏 こと 羅のそもそも鰻嫌ひなる 藤田あけ烏 白地着て鰻を食べにゆく日あり 後藤比奈夫 宗右衛門町の裏見て鰻食ふ 浦野 芳南 土用丑 ひと切れの鰻啖へり土用丑 石塚 友二 土用鰻 一気に書く土用うなぎの墨太く 吉田北舟子 まだ逃げるつもりの土用鰻かな 伊藤伊那男 やりすごす土用鰻といふものも 石塚 友二 ルンペンの土用鰻香風まかせ 平畑 静塔 家長われ土用鰻の折提げて 山崎ひさを 黍青く生簀に土用鰻あり 滝 春一 魚籠のまま土用鰻の到来す 亀井 糸游 暁の灯に土用鰻の荷をつくる 中野貴美子 遣り過す土用鰻といふものも 石塚 友二 店長の売り声もして土用鰻 中沢 菊絵 土用丑と鰻酒したたか昼暑し 青木 月斗 土用鰻三百貫も売る覚悟 (同人)蘆笛 土用うなぎ家族ぐるみの夜となれり 中島宗々子 土用鰻うの字大きく紺暖簾 蕪木 啓子 土用鰻焼いて古利根けぶらせり 瀧 春一 *土用鰻息子を呼んで食はせけり 草間 時彦 *土用鰻店ぢゆう水を流しをり 阿波野青畝 藪から棒に土用鰻丼はこばれて 横溝 養三 蒲焼(「鰻重」の句は一句だけ。「鰻丼」の句はありません。「蒲焼」にしても例句でも分かるように季語として定着しているとはいえません。西鶴忌は旧暦八月十日=秋) 軽井沢に東京の香や下谷鰻重 田中 冬二 丑の日の輸入蒲焼患者食 大輪 昌 蒲焼の串の焦げめや西鶴忌 龍岡 晋 細雲客は蒲焼好みけり 村山 古郷 全館冷房紙の薄さの蒲焼に 沢木 欣一 秋の季語 鰻簗 秋の落鰻・下り鰻を獲る漁法のひとつ。暗夜に使い降雨、出水時などでは多量に獲れる漁法です。 古くからの季語で『初学抄』(寛永十八)、『鼻紙袋』(延宝五)以下に八月として所出。『通俗志』(享保元)『靨』(安永六)以下に兼三秋。『小づち』(明和七)『ぬくめ種』(嘉永二)には七月となっています(『図説大歳時記』)。その『図説大歳時記』(角川書店)ではなぜか秋と夏の両方に出ていますが、明らかに「秋」です。 鰻簗木曾の夜汽車の照らし過ぐ 大野 林火 鰻簗黄いろき泡がしがらみに 本田 一杉 鰻簗かけて里川にごしけり 下田 童観 落鰻・下り鰻 「落ちる」「下る」といえば、常識的に言えば哀れですが鰻に関しては逆です。いよいよ産卵場に向かう晴の儀式が始まるのです。鮭の「ほっちゃれ」や鮎の「落ち鮎」は産卵後ですので、文字通り哀れです。 砂川やありあり見ゆる落鰻 籾山 梓月 虫絶えて簗に雨降る落鰻 水原秋桜子 簗まろぶ胡桃の中の落鰻 水原秋桜子 魚籠のぞく夕日明りに落鰻 秋元不死男 落鰻瀬音に追はれ安からず 鈴木 左右 落鰻落ちゆく芦の無尽蔵 石田 勝彦 周防灘青し鰻の落ちそめて 大島 民郎 宮川の簗にかゝりし落鰻 竹内 一芝 川甚の古き暖簾や落鰻 多田 香澄 簗の簀の光琳波に落鰻 新村 寒花 土用鰻劉(りゅう)寒吉の歌と待つ 八木林之助 (前略)作者は、しかるべき店で注文し、料理が運ばれてくるのを待っている。箸袋にか、あるいは店内に飾られている色紙にか、劉寒吉の歌が書かれているのだから、店のある場所は九州の鰻の名産地・柳川だろう。天然鰻で昔から有名なのは、利根川産の「下総くだり」、手賀沼産の「沼くだり」、そして柳川産の「あお」と言われる。(中略)現在の柳川では年間五〇万匹以上の鰻が食べられるため、河畔に鰻の供養碑が建てられており、その碑に刻まれているのが九州の著名作家・劉寒吉直筆の次の歌だ。 「筑後路の旅を思えば水の里や柳川うなぎのことに恋しき」。供養の意味などどこにもない歌だし、なぜ供養のための碑に刻まれたのかは不可解だけれど、とりあえず他に適当な柳川の鰻を詠んだ歌がなかったので、これにしちゃったのだろう。むしろ句にある店のように、鰻の宣伝に使うほうが正しい使い方だ(笑)。こんな歌を読んで待っていると、どんなに美味い料理が出てくるのかと期待に胸が弾む。ちゃんとした店になればなるほど、出てくるまでに時間がかかるので、なおさらに歌の食欲助長効果は抜群と言わざるを得ない。ちょっとわくわくするような気分で待っている感じが、よく出ている。今日も柳川のどこかの店では、こんなふうにして待つ人がいるのだろう。『合本俳句歳時記』(角川書店)所載。(WEB「増殖する俳句歳時記」清水哲男) 清水哲男の名文に関わらず、劉寒吉の短歌は単なる柳川讃歌で面白くも何ともありません。以下劉寒吉の略歴を紹介しておきます。 劉寒吉(明治三十九年九月十八日~昭和六十一年四月二十日) 本名、浜田陸一。福岡県生まれ。小倉商業卒。 第三回九州文学賞(昭和十八年)「山河の賊」、第十七回芥川賞候補(昭和十八年)「翁」、第十八回直木賞候補「 十時大尉」(『文藝讀物』昭和十八年十月号)、第三十三回直木賞候補「風雪」(『九州文學』昭和三十年三、四月号) ジャンル別一覧
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