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鴎座俳句会&松田ひろむの広場

鴎座俳句会&松田ひろむの広場

評論「高屋窓秋の光と影」

高屋窓秋の光と影
若くして名声を得た俳句作家は、幸福なのだろうか。新興俳句の旗手のひとりとして知られている高屋窓秋も若くして名声を得た。
高屋窓秋は一九一〇年(明治四十三年)二月十四日に名古屋市東区七間町に、父庸彦(つねひこ)、母くにの長男として生れる。父庸彦は陸軍軍人。窓秋に名古屋の記憶はないという。
一家はまもなく東京に移住。一九一六年東京渋谷広尾町の臨川小学校に入学、高千穂中学校に進学。関東大震災を経て父の転勤により熊本市に移り、私立九州学院中学に転校している。
ここで窓秋は俳句に出会った。
 一九三〇年(昭和五年)窓秋は「馬酔木」発行所を訪い正式に秋櫻子の門下生となっている。窓秋は一九三一年(昭和六年)法政大学文学部に進み、「馬酔木」発行所に出入して編集などを手伝っている。一九三六年(昭和十一年)に卒業。この年に処女句集『白い花野』を出版している。
窓秋の光彩
初期の高屋窓秋の一句と言えば一九三二年(昭和七年)二十二歳のときの作品、
  頭の中で白い夏野となってゐる
であろう。同じく
ちるさくら海あをければ海へちる
も、色彩感が鮮明で、これも著名だが、白い夏野の衝撃には比較すべきもない。夏野は青野という言葉があるように青のイメージである。そこに「頭のなかに白い夏野」と持ってきたその衝撃と、海の青とさくら。まさしく「白鳥はかなしからずや海の青空の青にも染まずただよふ」(正宗白鳥)ではないが、「海青ければ」では、その色彩感は常識を出ない。
窓秋自身、後年一九九六年に
 白鳥はかなしからんに黒鳥も
の句があって、正宗白鳥の詩は十分に意識されていたのだろう。ところが「白い夏野」は、そうしたいっさいの常識を超えて、頭のなかに「白」が大きく広がって行くのである。
「白い夏野」の一句前には同じく白を使った、
我思ふ白い青空ト落葉ふる
があるが、わざわざ「白い青空」と色を重ねる必要はなかろう。白い青空では頭が混乱する。白い空か青空である。「我思ふ」も無駄な言葉。しかしこの一句があって「我思ふ」ではなくて「頭のなかで」が生まれ、「白い青空」が「白い夏野」となったのであろう。
 この句の「頭のなかで」は「づ」と読むべきか「あたま」と読むべきか、議論の分かれるところである。それについては窓秋の「百句自註」(『高屋窓秋全句集』ぬ書房)がある。「普通、五・七・五に則って読めば“ヅ”であるが、作者のぼくの中では“アタマ”としていた。」という。ここには五七五定型音から離れようという窓秋の指向が見える。
 さて窓秋に「白い夏野」に匹敵する革命的な色彩感の句があるのだろうか。
句集では、色彩感の句といえば
白い靄に朝のミルクを売りにくる
  南風や青き草みる事務の卓
  月かげの海にさしいりなほ碧く
と来て
ちるさくら海あをければ海へちる
がある。その後には
 朝の庭黄いろき花になつの色
 山の蛾の青蛾は翅を休めたる
美き翅に青蛾のいのち清らなる
青蛾眼は妖しけれども心うつ
小さき日に青蛾は顫ひ地におちぬ
などなど、いま考えれば連作風の凡々の句が並ぶ。なお、ここにある青蛾は不明。中国には「紅粉青蛾」つまり紅、白粉と青く引いた眉。美人の上手な化粧という。蛾は、蛾の触覚のようにすんなりと曲線を描く眉「蛾眉」のことというが、それとは関係がなさそうだ。単に青い蛾かも知れないが、それに該当する種は不明。もっとも「百句自註」(前出)では「住居の周辺には木も多く、色彩もとりどりに、蛾の種類が豊富であった。」と素朴である。
  山鳩よみればまはりに雪がふる
も、句集『白い夏野』の冒頭近くにあって驚かされる。この句は「山鳩よ」とやわらかく打ち出して「みればまはりに雪がふる」と小さな山鳩からそれをつつむ白い場景へと広げて印象深い。
石田波郷はいう。「新興俳句界の若い希望として窓秋の句は驚異的に迎えられた。」「秋櫻子がこの句(白い夏野)を認めて『馬酔木』雑詠の上位に置いたのは不思議にも見えるが、若い時代の情熱が秋櫻子をも動かしたとみればよいのである。『馬酔木』の中で窓秋ただ一人がほんとうに新しかったのである。」「この句の『白い夏野』は現実の夏野ではない。抽象風景である。」「『白』を詠もうとしているのだ。写生俳句とは全く別である。」と。(朝日文庫『富沢赤黄男・高屋窓秋・渡邊白泉集』解説・三橋敏雄)
宇多喜代子は、この句(白い夏野)は、水原秋櫻子の「馬酔木」に発した新興俳句の先駆的一句として、また高屋窓秋の史的な位置づけをなした一句として、誕生以来いまに至るまでを立ち続けている。私自身、表現に変革をもたらしたこのような一句を持った俳人こそを歴史に残る俳人と呼ぶのだろうと思っている。」(『高屋窓秋俳句集成』栞)という。
 波郷は「写生俳句とは全く別である」という。確かに「白い夏野」についていえばそれは肯定できる。しかし前述の「山鳩」も写生と見ても肯けるし、青蛾ではさらに現実の青蛾を見ての連作と思える。これは写生俳句の延長といえる。
しかし窓秋の俳句はどれも評価が高い。中村裕は次のように書いている。
ちるさくら海あをければ海へちる
特攻隊を扱った映画のオープニングタイトルに、作者の許可も得ず使用されたという曰くのついた作品だが、それだけ発表当時、評判になった。しかしこのようなかたちで人口に膾炙するのは、かならずしも作者の望んだ事態ではなかったろう。彼も当時の右傾化する時流を冷ややかに眺めていた俳人たちの一人だったからである。
それにしてもこの句が実現している普遍的な抒情性は比類がない。その秘密はたとえば接続助詞「ば」の働きにある。海が赤や黒だったら桜は散らないのか、といった散文的理解を軽々と越えてしまうことで、詩的にしか実現しない色彩世界をありありと読者の脳裏に出現させるのである。新興俳句を代表する作品の一つ。(http://www.nikkoku.net/ezine/yomoyama/shiorigusa_24/index.html)
散る桜が、特攻隊の散華と重なるのは、その後の現実があったからである。これは山口誓子の「海に出て木枯帰るところなし」も同じ解釈がされたが俗解というべきであろう。
秋櫻子の「馬酔木」の第一期同人(一九三三年)として華々しく俳壇に登場し、編集部にも参加(一九三一年)した窓秋だが、その二年後の一九三五年には「馬酔木を脱退」。「俳句から離れる」(自筆年譜)とある。いったいこの間に、なにがあったのだろうか。宮内庁侍医寮御用係となった秋櫻子への配慮ともいわれている。窓秋と入れ違いに山口誓子が「馬酔木」に加わった。
後に「俳句観の違い」とも書いているが、窓秋は秋櫻子の提唱した連作に応じつつも、それを無季俳句までに広げている。無季俳句は秋櫻子の容れるところではなく、そのため「馬酔木」は新興俳句を準備したものの、新興俳句とは一線を画していた。窓秋はその一線を越えたのだった。
   おもひ求めて
 野に山に花咲く丘に日はめぐる
 雨風のはげしき街の夏景色
 月かげの海にさしいりなほ碧く
 雪つもる国にいきものうまれ死ぬ
  ―はるけし
 星月の昏き曠野をゆきまよふ
「馬酔木」一九三三年二月号第二席の連作であるが、春夏秋冬と来て最後の「星月」は無季である。
俳句から離れたはずの窓秋は、一九三六年龍星閣の澤田伊四郎の尽力で処女句集『白い夏野』を発刊した。吉岡禅寺洞は「俳壇に自刃した墓標」と書いたという。この『白い夏野』は俳壇に熱狂的に迎えられた。当時、窓秋に強く影響を受けた俳人には、渡邊白泉、富沢赤黄男、西東三鬼など、後には高柳重信がいる。
渡邊白泉は「句集『白い夏野』をのこして俳壇からさってしまった高屋窓秋氏は嘗て私の星であった。この病的なまでの繊細な俳句の作者を何れほど私は愛したことか。」と書いている。
しかし、窓秋は俳句に復帰したともいわないまま、翌一九三七年には、同じく龍星閣から書き下ろし句集『河』を出版している。この『河』はわずか四十句の連作の句集であった。
 河ほとり荒涼と飢ゆ日のながれ
 日空しくながれ流れて河死ねり
 母も死に子も死に河がながれてゐた
 嬰児抱き母の苦しさをさしあげる
 花を縫ひ柩はとほく遠くゆく
すべて無季、暗い一連である。「いま思いだしても、明るい世の中とは考えていなかった。ひそかに、日本脱出が、心に育っていた。」(「百句自註」)しかし、見方を変えれば、当時の社会への「批評をこめた一種の絶望感、厭世感が吐露されて」(三橋敏雄)いた。
「石橋辰之助は、この一連の作品をみて、こんなことを書くと捕まるぞといった。ぼくは十分に釈明できると抗弁したが、これも後に西東三鬼にいわせればとんでもないということであった。」(前出「百句自註」)
この間一九三七年八月、渡邊白泉の誘いに応じて同人誌「風」に第三号より参加、また一九三八年「京大俳句」に前年「馬酔木」を離れた石橋辰之助、杉林聖林子とともに参加。また「風」が同年四月第七号を持って終刊となり、「句と評論」改題の「広場」に合流したさいにはこれに参加。選句委員となっている。しかしこれらはわずか一年のことであった。(前出、三橋敏雄)俳句から離れたはずの窓秋だが、この間の完全復帰はなんだったのだろうか。
一九三八年に岩本芳と結婚。二十八歳だった。六月、満洲電信電話株式会社に就職。新妻を伴って渡満、新京(現・長春)の新京本社放送部勤務となった。
この満洲電電への就職には父の関与がうかがえる。窓秋は陸軍参謀本部の通信課長の経験のある少将の子息なのだった。なお、この件について父の関与(あくまで推定ではあるが)は、これまで、どの資料にも明らかにされていない。また、窓秋が父について語ることは「父は陸軍軍人、在世八十一年」と自筆年譜にあるだけである。
父高屋庸彦について調べてみると、陸士(陸軍士官学校)十七期、陸大(陸軍大学校)二十五期(大正二年)卒業、澎湖島要塞司令官(「日本陸軍将官総覧」新人物往来社)という超エリートであった。また著書に『数線陣地ノ攻防』(高屋庸彦講述・陸軍大学校将校集会所発行)があった。工兵中尉から最終的には陸軍少将となっている。一九六六年(昭和四十一年)ごろ死去か。「在世八十一年」の年譜より逆算。
その父庸彦は一九三〇年(昭和五年)から一九三三年(昭和八年)まで、参謀本部第七(通信)課長であった。こうした父について窓秋はまったく語らない。
窓秋は「京大俳句」「広場」ともに渡満を期に離れている。あわただしい渡満であった。
こうして高屋窓秋の短い青春は終わった。
満洲での窓秋は、ときどきの職場の俳句会で句を作る程度の俳人となった。しかし注目すべきは京大事件との関係である。
一九四〇年(昭和十五年)年譜には「(妻)芳が東京へ里帰りした折、京大俳句事件の片鱗にふれて帰る。窓秋自身も二度ほど日本憲兵の訪問を受け、「京大俳句」との関係を訊かれる。」とある。「聞かれる」ではなく、訊問の「訊かれる」である。
京大事件の「片鱗」とはなんであったのだろうか。俳句弾圧事件とも京大俳句事件とも呼ばれる弾圧は一九四〇年(昭和十五年)二月から始まった。妻の芳の里帰りの年であった。その第一次検挙は平畑静塔、井上白文地、中村三山、仁智栄坊、波止影夫、宮崎戎人、新木瑞夫、辻曾春だった。この俳句弾圧事件は京大俳句から新興俳句、プロレタリア俳句、地方の小俳誌にまで及ぶ。
この間、窓秋は満洲にひっそりと息を潜めていたのだった。
しかし敗戦間際の一九四四年(昭和十九年)には、満洲国政府弘報処の「要請」により「満洲俳句協会」の設立に参加、事務局長となり、機関紙「俳句満洲」の責任者となっている。「しかし一句も一文も発表することはなかった。」(自筆年譜)という。当局の走狗になることを窓秋は辛うじて拒んだというのである。なお、各種の年譜には「事務局長」とは記載されていないが、本人が後に「事務局長」と語っている。(出典後述)
敗戦後の一九四六年(昭和二十一年)窓秋は「ソ連軍憲兵の追及を受け、辛うじて逃れ、市中に潜伏する。ソ連軍撤退の後、国府軍と八路軍の攻防戦の中をくぐりぬけ、南満胡盧島より引揚げを開始。この間新京にて二月、次男暦穂が誕生。三月、長女鞠子が病死。八月、佐世保に上陸して東京に帰る。」(自筆年譜)
ここにある「ソ連軍憲兵の追及」とは新京放送部の要職にあったためであろう。同僚の仁智栄坊は、ソ連軍に捕まりシベリア抑留となっている。(一九四九年帰還)
窓秋も危いところであった。

窓秋の創作方法
窓秋自身はその作句方法について次のように書いている。「ぼくには物質や時間や空間を、視覚的な一瞬の姿にとどめることは苦手で、ぼくの言葉は、視覚への定着から、つねに離れよう離れようとする。できればそれに徹したい、とさえ思っている。絵画などが到底及ばないように。」(『高屋窓秋全句集』)
つまりは写生の否定である。これは「白い夏野」の方法でもあった。窓秋の創作方法は「白い夏野」から一貫しているとも、「白い夏野」のまま凍結しているとも言える。
これは連作についても同じで、「「連作」については現在、これを嫌うものが圧倒的に多い。しかしそれは短見ではないか。ぼくは比喩を用いることは好きではないが、例えばシューベルトの歌曲に「冬の旅」と題する一連の作品がある。もちろんミューラーの書いた詩がもとになっているのであるが、一曲一曲が完成度の高い名品であると同時に、二十四曲全体として一つの世界を醸成し、感銘がふかい。「交響曲」や「組曲」の名品にしても、同じことがいえる。絵画などの世界でも同様である。その大きな精神活動の持続を軽視することは許されない。」(「百句自註」)
確かに一句一句が名品で全体として一つの世界を醸成するについてはなんの異議もない。しかし、それは理想論に過ぎない。一句一句が名品で、全体として一つの世界を醸成するといえば、現在で言えば個人句集がそれに該当するだろう。それでも一句集に何句の名品があるのだろうか。言うは易く行うは難しなのである。
三橋敏雄は「窓秋のそれは、従来の写生主義による、いわゆる「花鳥諷詠」俳句とはまったく異なる言語空間の認識に基づく方法論の下に推進されている。」(前出)という。
こうした方法は渡邊白泉も「海黒くひとつ船ゆく影の凍み」にふれて「この句の発展する先には必ず恐ろしい地獄が窓秋氏を待ってゐたのに違いない」(前出)という。その地獄の始まりが『河』であり、戦後作品の「エスプリ」の消滅だった。
戦後の高屋窓秋
 一九四六年八月、満洲から生還した高屋窓秋は、新俳句人連盟の句会に出席し、その機関誌「俳句人」第二号にも作品を発表している。
しかし旧友の石橋辰之助などのすすめにも関わらず新俳句人連盟に参加することはなかった。その理由として考えられるのは当時の新俳句人連盟が取り組んでいた俳人の戦争責任追及、いわゆる「戦犯」問題ではなかろうか。満洲俳句協会事務局長、「俳句満洲」責任者は戦犯と追求されてもやむを得ない立場であった。
 窓秋は満洲時代について「暖流」誌上で相当詳しく語っている。
「昭和十八年の春だったか、内地で行われた言論統制の強化と雑誌の整理統合の後を受けて、満洲でもそれをやると云うことになった。」「その頃満洲には、ホトトギス系の「柳絮」(三木朱城)石楠系の「白楊」(金子麒麟草)新興俳誌ともいうべき「韃靼」(佐々木有風)という三つの俳句雑誌があって、これを新しく出来る協会の機関誌一つにまとめると云うので、その役割を果すために僕が引張り出された訳です。僕はちっとも知らなかったが何時の間にかそう云うお膳立が整っていた、つまり僕は満洲俳壇の何処にも関係がなかったし、また自分の勢力も持たなかったので、そこを見込まれたという訳でしょう。これが僕が満洲俳句協会の事務局長に就任した次第です。」
 「そのようにして、こゝに「俳句満洲」という満洲唯一の俳句雑誌が出来あがり、僕は責任者として編輯その他の面倒を見たわけですが、協会の責任者は三溝沙美という自由主義者であり、また僕は徹底的なサボタージュをやったので、戦時中の雑誌としてはすこぶるだらしないものを発行した。尤も満洲の言論統制は内地のように深酷ではなかったので、皆がそれぞれ常識的に振舞ったということに落着きましょう。しかし俳壇の戦犯追及をやることになれば、僕などは立場上当然容疑者であるべきで、それに対しては公衆の客観的な判定に従うより仕方がない。」(「暖流」昭和二十二年四月号、「俳壇談義(その四)」瀧春一、有馬登良夫、窓秋)
窓秋は三溝(さみぞ)沙美(さみ)について「自由主義者」としているが、三溝は後に詠進俳句会を組織して「詠進俳句集」を一九六八年から一九七三年まで発行している、その人である。自由主義者という概念からはほど遠い。また、窓秋はここでも父少将については一言も語っていない。
窓秋は一九四七年、現代俳句協会の創立に参加。また「暖流」に参加。「天狼」創刊同人など、いくつかの団体、結社に参加するものの、自身の俳句誌あるいは結社誌を持つわけでも、継続的に作品を発表するでもなく、業余俳人になってしまったといっては言いすぎだろうか。戦後の高屋窓秋は俳人窓秋ではなく、本名の高屋正國となってしまったといってもいいのだろう。
一九五一年(昭和二十六年)ラジオ東京(現・東京放送)入社。以後、一九七〇年(昭和四十五年)まで作品活動中止。一九六九年(昭和四十四年)東京放送退社。TBSブリタリカ役員就任。と順調に会社員としての生涯をまっとうしている。
戦後の俳人窓秋について、もう少し詳しく述べよう。
現代俳句協会の原始会員は、一九四七年(昭和二十二年)九月発足時は安住敦、有馬登良夫、井本農一、石田波郷、石塚友二、大野林火、加藤楸邨、神田秀夫、川島彷徨子、孝橋謙二、西東三鬼、志摩芳次郎、篠原梵、杉浦正一郎、高屋窓秋、瀧春一、富沢赤黄男、中島斌雄、永田耕衣、中村草田男、中村汀女、西島麦南、橋本多佳子、橋本夢道、日野草城、東京三(秋元不死男)、平原静塔、藤田初巳、松本たかし、三谷昭、八木絵馬、山口誓子、山本健吉、横山白虹、渡邊白泉の三十五名に、昭和二十三年一月に正式に参加した池内友次郎、栗林一石路、石橋辰之助の三十八名であった。現代俳句協会は山口誓子、中村草田男を上限とする中堅の俳人の集合体であり、「現代俳句の向上と俳人の生活擁護」をかかげた。中村汀女、池内友次郎を例外として非「ホトトギス」であった。
窓秋は一九四八年(昭和二十三年)一月創刊された「天狼」に同人として参加している。
一九四八年三月(昭和二十三年)、窓秋は有馬登良夫の勧めで「暖流」(瀧春一主宰)に加わっている。もちろん瀧春一とは「馬酔木」時代からの旧知のなかであった。五月号からは窓秋、登良夫は瀧春一とともに別格の同人欄に作品を発表している。しかし窓秋と登良夫の抜擢は「暖流」の内部の軋轢を生み、まもなく窓秋と登良夫は一年あまりで「暖流」を去っている。
一九八〇年の『西東三鬼読本』(角川書店)の年譜(鈴木六林男編)に、(三鬼は)「昭和二十二年十一月、用紙手配のため度々上京、高屋窓秋、有馬登良夫の協力を得る。」とある。その鈴木六林男はいう。
(西東三鬼は)ぼくらの「青天」もタダで譲ってくれというんです。「青天」を譲ってくれと言ってきた理由としては、戦後で用紙が不足していましたから、新規の雑誌を出すのは許可しない。ただし、発行実績のある雑誌のあとを継いでいくんだったらいいと、有馬登良夫や高屋窓秋などが知恵を貸してくれた。それもあかんようになりかかったので、通産省へ無理に頼み込んだ。」(二〇〇二年『証言・昭和の俳句(上)』角川書店)
さらには一九七九年(昭和五十四年)の松井利彦『昭和俳壇史』(明治書院)も、
「当時、俳誌の創刊は紙の統制上法律で禁じられていたので、鈴木六林男・島津亮らの同人誌「青天」を改題創刊することになった。三鬼は急いで書類を作り有馬登良夫・高屋窓秋らの協力をえて当局に提出した。
とある。いずれも有馬登良夫と高屋窓秋が、西東三鬼の「天狼」創刊のために通産省(当局)に働きかけていることが分かる。
 このころの窓秋は有馬登良夫と行動をともにしている。二人とも通産省に「口利き」が出来る立場だったのである。窓秋はその当時は「無職」だったにも関わらずである。
 創立時の現代俳句協会の雑誌「俳句藝術」の第一輯は一九四八年(昭和二十三年)七月十五日発行。編集委員は有馬登良夫、石塚友二、大野林火、加藤楸邨、西東三鬼、高屋窓秋、西島麦南。
 ここにしきりに登場する有馬登良夫とは何者であろうか。私はすっかり俳句史から消えた有馬登良夫を追って「有馬登良夫追跡」(二〇〇六年度現代俳句協会評論賞応募作品・未刊)を書いたので重複を避ける。ここでは戦後俳壇の「黒幕的存在」といっておこう。西の西東三鬼、東の有馬登良夫といえば分かりやすいだろう。
このように窓秋は戦後の俳壇の復活と同時にそのトップクラスに位置づけられたのであった。その後も新興俳句系あるいは前衛系の俳句誌には協力的であった。
 一九五八年「俳句評論」創刊同人。
 一九九一年「未定」同人。
高屋窓秋は次代の前衛俳句にも影響をおよぼしている。その関心の現れの一つが一九九二年七月に行われた窓秋への三十の質問である。質問者は中村重雅・高原耕治・夏石番矢。(正岡豊HP「天象俳句館」より)
そのなかからいくつかを引く。
一、あなたの最も好きな言葉は?―生きる
二、あなたの最も嫌いな言葉は?―さようなら 奴隷
八、俳句は趣味の領域を出ない、と明言する人達に一言―俳句という芸術の創造活動が趣味であればそれはそれでよいでしょう
九、俳句作品の最終的価値は誰が決定するのでしょうか―俳句を本当に愛し、俳句に偏見や固定観念を持たない人たち、大衆
一〇、俳句は一般読者を獲得出来ますか?―私は一般の人がよくわかってくれたという実感を持ってきました現在もそうです
十一、あなたの欠点は?―何もしないこと
十二、あなたの長所は?―意識にありません
十五、好きな画家は誰ですか? ―ミレー
十六、好きな歴史上の人物をあげてください―聖徳太子
十九、最も強烈な印象を与えた俳人は誰ですか? ―水原秋櫻子
二三、人類の最もすばらしい点は何ですか? ―文明 宇宙散歩
二四、日本語を愛しておられますか? その理由もお答え下さい―愛しています 日本語以外の言葉を知りませんから 日本語はコミニュケイションにおいて相当なものです
二五、現在、文学や芸術においてモダニズムは滅びたと思われますか? ―いつも時代の要求によって出てきたのがモダニズムですから、モダニズムはいつも出現してくるでしょう
二八、 いままで俳句を最もだめにしてきたのは誰ですか? ―俳句の指導者 トップ結社の主宰
二九、二十一世紀の俳句はどうなるでしょう?―まだよくわかりません 俳句だけが変わるということはないでしょう
三〇、これから俳句を志す人たちへの助言を―ありません
 これは窓秋の肉声を伝えるものとして貴重。親子以上に年の違う青年に対してのていねいな応答に誠実な窓秋の人柄が見える。この質問からいろいろなことが書けそうだが、第一印象としては、水原秋櫻子に影響を受けたダンディなモダニストの姿といってもいいだろうか。
 興味深いのは「二四、日本語を愛しておられますか?」に対して「愛しています 日本語以外の言葉を知りませんから」という。果たして窓秋は日本語以外の言葉を知らなかったのだろうか。満洲電電新京本社放送部勤務は七年に及ぶ。しかもこの間、ロシア語に堪能な仁智栄坊が同僚となっているのである。当時の新京は日本人、中国人(満洲人)、ロシア人が入り乱れる国際都市であったはずである。
子息の高屋暁穂はいう「(父は)「平和」を愛し、それを侵すものを決して認めなかった。」「権力に対する見方は厳しかった。ともかく、父には生涯権力に阿る気持など微塵もなかっただろうし、また出来もしなかっただろう。そしてとりわけ「自由」を大切にした。」(『高屋窓秋俳句集成』栞)子息自身がいっているように身贔屓ではあるが、理想の父親像がそこに見える。しかし窓秋の素顔は見えてこない。
戦後の窓秋の作品活動は旺盛ではなかった。
永い中断ののちに爆発的にまとまった句を発表。そしてまた休眠期にはいるのである。
それを年代別に見てみよう。
一九五三年句集『石の門』(酩酊社)八十七句。
以後十八年間休止。
一九七〇年「俳句研究」五月号に「ひかりの地」五十句。
一九七一年「俳句評論」一月号「鳥世界」三十句。
一九七一年「俳句評論」(二月発行号に「光陰」三十句。
一九七二年「俳句評論」三月発行号に「海と陸」十六句。
一九七二年「俳句評論」十二月発行号に「杵うた」十五句。
一九七四年「俳句研究」に「恍惚の原」十五句。
一九七五年「俳句評論」七月発行号に「作品」十句。
一九七六年(昭和五十一年)には『高屋窓秋全句集』が刊行されている。
以後六年間休止。
一九八三年「俳句研究」一月号に「久遠」十五句。
同年「俳句評論」三月発行号に「緑や愛」十五句。
同年「俳句研究」七月号に「緑星」十五句。
一九八四年「星月夜」一四〇句。
最晩年の句作再開は朝日文庫『高屋窓秋集』の企画が伝えられたとき「あまりにも句が少ない、ということで奮起したようである。」「それにしても、同年(昭和五十八年)および翌昭和五十九年に入ってからの書き下ろし作品の計二一四句の収穫は、よそ目には奇跡的というべきものであった。」(前出・三橋敏雄)
こうした中断について三橋敏雄は「外界の自然を対象とする俳句表現とは別の世界を自己の内部に打ち立てようとするかぎり、やむをえないことで、間断なく為出かす俳句を期待するのは無理というものであろう。」(前出)と好意的である。それにしては「よそ目には奇跡的」はやや冷たい。ではこの間、新しい俳句表現が打ち立てられたのだろうか。
窓秋は一九九九年(平成十一年)一月一日に八十八歳で死去。その年の「現代俳句」一月号の「時影」一〇句が絶句となった。
窓秋はほぼ二〇世紀とともに生きたのであった。その最初の句と最後の三句をあげる。
 星影を時影として生きてをり
 四面楚歌可愛ゆきものに森の蟹
 キラキラと月の花野が始まりぬ
非とは何人に間近く又遠く
残念ながら、どの句にもかつての窓秋の新鮮な詩情も輝きもない。見えて来るのは孤独感と絶望であろうか。
山本健吉は戦後の窓秋について、てきびしい。「(戦後の)時おりの作品にも、初期作品の流露感、エスプリは姿を没し、重くねばったものとなった。エスプリとはウィットであり、詩想の自由さであり、俳境の「軽み」であり、作品にともる生命の灯である。それは彼の青年期の作品に間違いなく現れていたものである。」(『高屋窓秋全句集』覚書)
宇多喜代子は晩年の作品について「地上の現実を見据えた俳人であることが顕著」とし、
泉の詩火薬の匂ひほのかにす
核の冬天知る地知る海ぞ知る
などの句をあげ「晩年の高屋窓秋はけっして抽象世界に入り込むことなく、またエリアにこだわることもなく、自分の生きてきた時代をきちんと見た句を数々残した。」(前出)と評価する。これはむしろ写実主義の立場からの窓秋再評価であろう。とすればそれは窓秋の目指したものとは異なるように思える。
 新興俳句運動とは小市民的急進主義の側面も持っていた。自由主義であり、反権力であり、反結社であり、季語否定であった。それは窓秋に一貫していた。
しかし、窓秋は自ら動いたことはなかった。最初の句集の出版も、第二句集も、戦後の句集もすべて同じである。現代俳句協会の創立会員や「暖流」への参加も有馬登良夫の勧めであり、「天狼」同人への参加は西東三鬼の慫慂によるものだった。
 自らは動かなくても周りがお膳立てをしてくれる。こんな幸せな俳人はいない。
しかし、それが窓秋の衒いであり限界であった。汚れ役を自ら買うことはなかった。ここに父陸軍少将の影を見ることは邪推であろうか。平和主義と軍国主義、反権力と権力、父と子のあまりにも大きい断絶、そのなかで窓秋は身を揉んでいたのではなかろうか。父庸彦も長命であった。なお父庸彦は少将五十八歳定年から一九四三年定年と推定。かろうじて敗戦後の戦犯から逃れたのではなかろうか。 
窓秋は『白い夏野』の俳人であり、それを越えようとして越えることが出来なかった悲劇の俳人であった。なぜならば、それを超える方法論を持っていなかったからである。窓秋の方法は渡邊白泉、富沢赤黄男、西東三鬼などに多様に受け継がれ発展させられた。しかし窓秋は『白い夏野』に留まっていた。
最晩年の作品から窓秋を象徴すると思える作品を挙げる。
黄泉路にて誕生石を拾ひけり
花の悲歌つひに国歌を奏でをり
 黄泉(死)と誕生、絶望のなかの希望。悲歌(エレジー)と国歌、相反する二つのものが、晩年の窓秋のテーマであり、また到達点であった。「つひに国歌を奏でをり」は「反権力」の窓秋の到達点としてはいかにも悲しすぎる。


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