トマト 200608トマト 松田ひろむトマト このところ、おいしいトマトを食べることが私のささやかな願望です。それは父の一周期に高知に帰郷して、金曜市で売られていたトマトを食べたときからです。そのトマトを食べたとたんに、おいしい、青い香り、熟した深い味わいなどなど。幼いときに食べたトマトの記憶が鮮やかに蘇りました。そんなトマトが、いまはなくなりました。 なぜでしょうか。品種が変わったのか、露地栽培でなくなったのか、完熟させていないのか、肥料のせいなのか。それから後、これというトマトに再会していません。 トマト(tomato、学名Lycopersicum esculentum Mill.)は、ナス科トマト属の植物。 一年生植物で、その果実は食用となります。原産地は南アメリカのペルーやエクアドルなどを中心としたアンデス山脈周辺の高原地帯であると考えられています。 さんさんと降り注ぐ太陽、カラリとした気候、昼夜の温度差、そして水はけのよい土壌。こうした環境のなかで生まれたトマトは八~九種類あるといわれています。いずれも現在のミニトマトに近い形で、たくさんの小さな実をつけたチェリータイプトマトです。トマトの原種は緑色をしていました。 この野生のトマトは、人間や鳥によってメキシコに運ばれ、栽培され食用になったと考えられています。中でも「ピンピネリフォリウム」は、糖度が高く、熟すと真っ赤になる野生のトマト。これらを人間や鳥、獣が食べその種が発芽し、再び実を結ぶ。そうして少しずつ分布を広げていき、やがてメキシコで食用として栽培されるようになったのです。 形態 日本ではピンク系トマト(‘桃太郎系)が生食用として広く人気を博し、赤系トマトはもっぱら加工用とされました。しかし近年になって赤系トマトには、抗酸化作用を持つとされる成分リコピンが多量に含まれていることがわかっています。 他に、実が極めて小ぶりで凹凸の少ないミニトマトがあります。 農林水産省の品種登録データベースによれば、一〇〇種を超えるトマトが登録されています。 分類 本来のトマトは二mを超える大型のもの、ミニトマトは品種改良により一m二〇cm程にしたもの、プチトマトはさらに 矮化(わいか)させて三〇cm程にしか育たなくしたもの。 歴史 日本には江戸時代の寛文年間頃に長崎に伝わったものが最初とされています、当時は観賞用で、「唐柿」と呼ばれていました。日本で食用として利用されるようになったのは明治以降で、さらに日本人の味覚にあった品種の育成が盛んになったのは昭和に入ってからです。 ヨーロッパへはコロンブスが十六世紀、南米から持ち帰ったのが最初とされます。 イタリアでは食用とされましたが、ほぼ同時期に伝わったスペインやイギリスなどでは観賞用とされました。 ヨーロッパで一般的に食用とされたのは十八世紀の終わりです。アメリカ(USA)ではヨーロッパで一般的になった後も食用としては認知されませんでした。それはナス科の植物に有毒なものが多かったためといわれています。隣のメキシコで最初にトマトが栽培されたというのに、不思議なことです。 しかし現在ではアメリカは中国(二六%)に次ぐ生産国となっています。以下トルコ・イタリア・インド・エジプト・スペインの順で日本は二十三位です。 県別でいえば平成十四年産のトマトの作付面積はミニトマトも含めて一三、三〇〇ha、収穫量七八四、五〇〇tです。県別で作付面積が大きいのは、熊本県、茨城県、千葉県、北海道、福島県、愛知県の順で、夏は北海道や青森県、福島県などの冷涼な地域、冬は熊本県、愛知県、福岡県などの温かい地域で生産されて出荷されます。産地リレーといいます。(WEB「野菜情報」より) 利用 トマトを用いた料理は数多くありますが、よく知られているものにメキシコ料理のサルサソース、イタリア料理の各種ピザ、パスタ用ソース、インドのカレーの一部、ヨーロッパのシチューの一部などがあります。 このように広く利用されていることの理由としては、トマトには「うまみ成分」である「グルタミン酸」「アスパラギン酸」の宝庫で、「グルタミン酸」と「アスパラギン酸」が四対一の割合で含まれるとき、最もトマトらしい味になるといわれています。またトマト の酸味も料理を引き立てます。トマトの加工食品として、トマトジュース、トマトケチャップ、トマトソース、トマトピュレー、などがあります。 総務省の平成十二年の家計調査によれば一世帯当たりの年間購入量(重量ベース)では、トマトは生鮮野菜類中の五位です。これは一般消費者家庭でダイコン、馬鈴薯、キャベツ、タマネギに次いでトマトです。出荷量、収穫量ベースで見てもトマトはこれらの野菜に次いで五位を占めています。(平成十三年野菜生産出荷統計) 栄養 他の多の野菜類と同様に、トマトはビタミンCを多く含みます。 また、リコピンは一九九五年にがん予防の効果が指摘されて以来、注目を集めるようになりました。 栽培 トマトは連作障害を起こしやすいので、過去三~四年はトマト、ジャガイモなど、ナス科の野菜を栽培していない畑を選ぶ必要があります。現在は工業的な水耕栽培もあります。実を青いまま収穫して後に熟成させる後熟(追熟)も行われます。 美味しんぼ(第七巻)「大地の赤」 「美味しんぼ」は「ビッグコミックスピリッツ」で連載されている漫画で、グルメブームのきっかけともなりましたが、食文化に関する色々な問題を提起し食の正しいあり方を考える作品です。 東西新聞の山岡士郎と栗田ゆう子は同社創立百周年記念事業の「究極のメニュー」づくりに取り組むことになりました。しかしライバルの帝都新聞も「至高のメニュー」という企画を、美食倶楽部を主催する海原雄山の力を借りて立ち上げました。山岡士郎は海原雄山の息子で親子対立の事情がありました。ここから「究極」対「至高」の親子料理対決が繰り返されることになります。その第七巻は「トマト」がテーマです。 海原雄山は、昔通りの有機農法で露地栽培したもの。枝で充分で熟したものがいいといいます。それに対して、山岡は「有機農法もいろいろ問題がある。飼料に含まれる農薬など有機農法なら何でもいいとはいえないといいます。 そして山岡は、掛川市のビニールハウスに案内します。雄山はハウス栽培のトマトなど食えるかと激怒します。そのハウスは「上の方の温度は高いのにトマトの近くはひんやりして」います。今日は外気が高いので「トマトは自分にちょうど良い温度になるように回りの温度を調節するのです」と農家の人はいいます。 トマトを試食した雄山は一口食べて絶句します。「これが本当の完熟トマトだ」。雄山は「よほど特殊な栽培の仕方をしているんだな。肥料をたっぷりやって」と質問します。 「その逆です。この土は山から掘り出してきたばかりのやせた土です」「では高価な特別な肥料を与えているのだな」「いいえ。水の中に化学肥料を混ぜて、少しずつやるだけです」「私達の緑健農法はトマトを原産地のアンデス山地の気候に戻してやるのです。アンデスは寒冷の地で雨が少ない。ですからできる限り水をやりません。ハウスにするのも雨を防ぐためです。そうやって育てるとトマトの根には毛根という細い根が無数に四方八方に広がります。植物は根がすべてなのです。トマトの枝や葉に産毛が生えています。その産毛が空気中の水分を吸収するのです」 「トマトを原産地の環境に戻してやると美味しいトマトになるのです。一般のトマトの三〇倍のビタミンCが含まれていて収穫も多いのです。」といいます。トマト対決は山岡の勝利となりました。 このトマト対決で気になるのは、太陽―日光の役割が欠如していることです。トマトには日照時間が大きな要素になります。こうして作られた「おいしい」トマトは、皮が硬くなるといわれています。 トマトは通年栽培となり、季語の季節感が薄れているといわれるものの代表となりました。 茄子胡瓜トマトも売られ冬至とは 岡本まち子 季語としてのトマト 蕃茄(あかなす)、赤茄子、唐柿(とうがき)。 初出は『新修歳時記』(明治四十二年)に季語のみ。『明治新題句集』(明治四十三年)に はしたなく食ふ蕃茄のしずくかな 蕃茄の南蛮臭き嫌ひけり 四沢 があり、これが最初と思われます。トマトには独特の青臭い匂いがありました。 『俳諧歳時記』(昭和八年)には例句として一句のみです。 吹井にトマト投げこみ冷やしけり 艸加(同人) 翌、昭和九年の虚子編『新歳時記』には、二句。 蕃茄やや色づき初めしいびつかな 橙黄子 月ありて光るトマトを盗みけり 泣童 実作のトマト 以下、トマトの実作はまだまだ少ないものです。 蕃茄(あかなす・トマト) 白昼のむら雲四方に蕃茄熟る 飯田 蛇笏 而して蕃茄の酸味口にあり 嶋田 青峰 蕃茄のそろへる臀の露けしや 青木 敏彦 たちいでて青き蕃茄をも*がれけり 松村 蒼石 妻も濡る青き蕃茄の俄雨 山口 誓子 真ッ昼間蕃茄畑にふとかなし 川口 重美 赤茄子 編年史ならば赤茄子地に震はむ 橋口 等 恋愛のふとをかしきは赤茄子 増田まさみ 丸噛る女もよきか赤茄子 筑紫 磐井 トマト 一片のトマト冷たきランチかな 野村 喜舟 尖りたる屋根の昃りやトマト畑 富安 風生 縁側にも*ぎしトマトとモスキトン 星野 立子 (「モスキトン」は商標、虫刺されの塗り薬と思われます。) トマトも*ぐ背が抗ひてゐたりけり 加藤 楸邨 千万の宝にたぐひ初トマト 杉田 久女 ―熟れる 虹たつやとりどり熟れしトマト園 石田 波郷 あかあかと熟れてトマトの見捨てられ 山田 まや カーニバルすみたるトマト熟れにけり 久保田万太郎 トマト熟る陽の温もりのまゝ喰みぬ 森岡 恵女 トマト熟れ伊賀の山脈明らかに 大田たけを ひとときに熟るゝトマトや小さきまで 相馬 黄枝 温室にトマト熟れたる朧かな 岸本 尚毅 完熟のトマトを夕日よりはづす 南 うみを 熟れすぎのトマトは強き日の匂ひ 大星 雄三 人買ひの道はトマトを熟れさすよ 井上ひろ子 *太陽を孕みしトマトかくも熟れ 篠原 鳳作 ―もぐ トマトも*ぐ一畝買ひの畑に来て 山岸 治子 トマトも*ぐ巨獣の如き機械かな 吉良比呂武 トマトも*ぐ手より地の涯まで夕焼 齋藤 愼爾 トマトも*ぐ手を濡らしたりひた濡らす 篠田悌二郎 も*ぎたてのトマトに残る日のぬくみ 伊藤芙美子 もぎたてのトマトをふたつ朝の膳 藤島 咲子 井戸水にめぐまれ住んでトマトもぐ 伊東 月草 初もぎの喜色のトマト卓にあり 仲澤 昭 朝露に濡れて熟れたるトマトも*ぐ 和泉 直行 ―食べる・噛む・かじる トマト好きならずともこのトマトはも 今井千鶴子 トマト食す哀しいほどに自由なり 鮫島 康子 トマト食ふ朝夕つづけて一年中 上林 暁 トマト食ふ妊りし唇ためらはず 榛原アイ子 トマト噛むや沖の没日が火の車 川口 重美 荒川の源流にしてトマト食ふ 八木林之介 灼け土にしづくたりつつトマト食ぶ 篠原 鳳作 現実は多分トマトの丸かじり 櫂 未知子 ―煮る 夜が暑し何でトマトを煮て食はす 有働 亨 海夕焼トマトを伊太利亜風に煮て 中戸川朝人 ―塩 (砂糖とトマトという取り合わせの句はありません。) 沖縄の塩振るトマト終戦日 小高 沙羅 笑ふこと減りてトマトに塩を振る 櫂 未知子 政変やトマトに塩をふる男 皆吉 司 ―青い 青トマトすくすく伸びし童女の背 相馬 遷子 青トマト囓りて充たずまだ戦後 河野 南畦 二つ三つふぐり下りに青トマト 石塚 友二 古書街に日は昇りけり青トマト 斉藤 夏風 帰省子にトマトの青も門辺なる 岸 風三楼 トマト濡れ高草山よ青けぶり 菊川 貞夫 ―黄色 初盆のふたりの吾子に黄のトマト 田村 了咲 ―赤い トマト赤し耳も淋しき高原に 対馬 康子 梅雨冷えのサラダのトマト赤きかな 久保田万太郎 二階より駈け来よ赤きトマト在り 角川 源義 水戸つぽが食ぶや血の濃くなるトマト 岡田 久慧 ―その他 トマト新鮮リヤカー部隊脊振から 鮫島 康子 トマト苗伸びし練馬区畑ばかり 村山 古郷 トマト耀り海への道の真昼なる 中島 斌雄 下駄やトマト漂ふ海の親しさよ 津田 清子 起きし子と朝の挨拶トマト切る 高橋 笛美 漁師駆けトマトしばらく波の花 対馬 康子 好きといふ露のトマトをもてなされ 川端 茅舎 子の為に朝餉夕餉のトマト汁 星野 立子 持ち重る茄子やトマトや水見舞 星野 立子 誌を了へて南部の路地に瓜トマト 斉藤 夏風 時国家厨の笊にトマトあり 南部 富子 水溢れ胡瓜トマトも溢れ来る 蓬田紀枝子 草むしりトマトの苗のしをれけり 滝井 孝作 草むらにトマト散らばる野分かな 岸本 尚毅 朝市や追荷のトマト露とどめ 前田 鶴子 朝日匂ふ卓へ濡れ手で出すトマト 金子 篤子 庭先にトマト実らせ白き椅子 長谷川吉雄 桃トマト小冷蔵庫なれど冷ゆ 日野 草城 難民やトマトあふれるほどに売り 対馬 康子 物売の驟雨に濡れしトマト買ふ 宮津 澪子 噴霧機にトマトの匂ひはね返る 河津 春兆 遊女の昼流るでもなきトマトの帯 八木三日女 葉を巻いてトマト病みをり梅雨の庭 松本たかし 冷蔵庫に冷えゆく愛のトマトかな 寺山 修司 港灣こゝに腐れトマトと泳ぐ子供 金子 兜太 金子兜太「造型俳句」の時代の作品です。この句は切れの場所をはっきりさせる必要があります。「港灣こゝに」とここで切らないといけません。腐ったトマトが浮いている、そんななかで泳ぎ遊んでいる子供。 作者は腐ったトマトで現実のありようを「造型」しているのです。それがその時代の港湾を汚し空を汚す重工業の時代でした。それをじっと子供の視点で見据えているのです。 「もまれ漂う湾口の莚夜の造船」(金子兜太句集)も似た「造型」といえるでしょう。 ジャンル別一覧
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