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2024年03月06日
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テーマ:楽しい俳句(373)
カテゴリ:俳句


松田ひろむ名句のための俳辞苑

【かふぇー】カフェー

女給笑ひ皿鳴りコーヒー湯気立てゝ            高浜 虚子

眉描いて女給等貧しスヰートピー             富安 風生

春の夜の女給ら帰る裏口より               岸 風三楼

虚子の句はいかにもカフェーである。後の二句は貧しい「女給」。この三句の「女給」は現在のウェイトレスではない。これはカフェー(カフェではない)に勤めている女性である。カフェーは直訳すれば「喫茶店」で、現在では「カフェ」と呼ばれる。しかし「カフェー」の実態は日本で二〇世紀前半に流行した飲食店・風俗営業の一業態。古くは特殊喫茶、社交喫茶という言い方もあった。

現在では、カフェーという名の風俗営業は絶滅した。

ただし、小生が青春時代を過ごした長野県小諸市にはカフェーを冠した店があったが、内装はカフェー時代と同じままに背もたれの高いボックス席が多いものであった。もちろん、現在では女給はいない単なるレストランであったが、なにか異様な雰囲気であったことを覚えている。

カフェーの例句は検索してもまったく見つからなかった。大正から昭和初期に大流行したカフェーの句がないとは信じられない。やむなく冒頭には「女給」の句をあげた。

「カフェー・林芙美子」で検索すると青空文庫の「放浪記」がヒットした。

その「放浪記」を読みながら、なんとかカフェーの句を作ってみた。 
歯が痛い芙美子カフェーも梅雨つづき       松田ひろむ

 風鈴やカフェー勤めが地図遊び

梅雨の雷カフェーライオン墨書ビラ

 カフェーの名を冠した最初の店は一九一一年(明治四四年)三月、東京銀座京橋日吉町に開業したカフェー・プランタンとされる。経営者は洋画家平岡権八郎と松山省三で、命名は小山内薫による。これはパリのCafeをモデルに美術家や文学者の交際の場とすべく始まったもの。本場のCafeとは異なり女給を置いていた(パリのカフェの給仕はギャルソンと呼ばれる男性である)。

カフェー・プランタンなどはインテリ向けのハイカラな店で一般大衆は入りにくかったと言われる。カフェー・プランタンに続き、同年八月には美人女給を揃えたカフェー・ライオン、同じく十一月にはカフェーパウリスタが開業し、大正末には全国に普及した。

カフェー・ライオンCafé Lion

カフェー・プランタンと同じ一九一一年(明治四十四年)に開業し、銀座を代表するカフェーと言われた。築地精養軒の経営で規模が大きく、一般客にも入りやすかった。店名は、築地精養軒の経営者北村宇平がロンドンを訪れた際、ピカデリーサーカスのレストラン「ライオン (J. Lyons and Co) 」から贈られたもので、創始者のジョセフ・ライオン (Joseph Lyons) にちなむ。現在のビヤホール「銀座ライオン」にその名は継がれている。

尾張町交差点の角に開業した。三階建で新築され一階が酒場、二階が余興場であった。この場所は、一八八六年から一九〇九年まで毎日新聞社(横浜毎日新聞の後身)があり、のちにサッポロ銀座ビルを経て、現在の銀座プレイスにあたる。

 特筆すべき点は女給(ウェイトレス)がいたことで、美人女給が揃いの衣装(和服にエプロン)でサービスすることで知られたが、開店当初は女給が客席に同席することはなかった。ビールが一定量売れるとライオン像が吠える仕掛けが名物になっていた。また、グランドホテル(横浜)出身の名バーテンダー・浜田晶吾は「ライオンの宝」とも評された。

 一九二三年(大正十二年)九月一日の関東大震災後はバラックの平屋建で営業を再開し、後に本建築に建て替えた。しかし翌一九二四年には斜向かいにカフェー・タイガーが開業し、目立つ女給が引き抜かれるなどして次第に勢いを失った。(ウィキペディア)

風俗営業としてのカフェー

カフェーがもっぱら女給のサービスを売り物にするようになったのは関東大震災後と見られる。震災の翌年(一九二四年)、銀座に開業したカフェー・タイガーは女給の化粧や着物が派手で、客に体をすり寄せて会話するといったサービスで人気を博した。

 昭和に入り大阪の大型カフェ(ユニオン、赤玉など)が東京に進出してきたことにより「銀座は今や大阪エロの洪水」という状態で、女給は単なる給仕(ウェイトレス)というより、現在で言えばバー・クラブのホステスの役割を果たすことになった。

 ちなみに当時の女給は多くの場合は無給であり、もっぱら客が支払うチップが収入源だった。一九三三年には特殊飲食店営業取締規則により、カフェーは風俗営業として警察の管轄下に置かれることになった。

 昭和初期のエログロナンセンスの世相の中、夜の街を彩る存在としてカフェーは小説などの舞台にもなった。当時のカフェーを描いた小説として永井荷風「つゆのあとさき」、堀辰雄「不器用な天使」、窪川稲子「レストラン・洛陽」、広津和郎「女給」がある(広津の作品は菊池寛のカフェー通いを描いて評判になった)。また、谷崎潤一郎「痴人の愛」のナオミは、十五歳で浅草のカフェーに出ていた女という設定である。

林芙美子がカフェー勤めの経験を「放浪記」に書いたこともよく知られている。エッセイでは松崎天民「銀座」、安藤更生「銀座細見」などがカフェー風俗を活写している。

 大正後期から昭和初期にかけては、カフェーをテーマにした歌謡曲が流行し「カフェー歌謡」と呼ばれた。

 一九三四年(昭和九年)十月、警視庁はカフェーへの未成年者、学生、生徒の出入を禁止する通牒を学校当局、府知事に発出。店に対して「学生さんは遠慮ください」との看板を出すように指導した。こうした規制は全国に波及し、一九三六年(昭和十一年)五月、京都府はカフェー営業取締規則を改正し、学生、生徒、未成年者のカフェーの出入を禁止した。この時点で学生のカフェーへの出入り制限は全国十五府県で実施されていた。

 一九三八年(昭和十三年)二月十五日には、東京都下のカフェーなどで一斉手入れが行われ、約二〇〇〇人の学生が検挙された。女給は客の求めに応じて店外で同伴するケースも見られた。

第二次世界大戦終戦後、いわゆる赤線・青線地帯や特殊飲食街が発生し、かつての遊廓や新規参入業者などがカフェー名目で営業を行うようになったため、それまでのカフェーの方はバー、クラブなどと称するようになった。

 法律用語としての「カフェー」は今も残っており、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風適法)第2条第1項第2号には「待合、料理店、カフェーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業」という規定がある。

なお「純喫茶」という呼称があるが、これは酒類の提供や女給の接待を売りにするカフェー(特殊喫茶)に対して「純粋にコーヒーを売りにする喫茶店」という意味である。(ウイキペディア)(画像は「ほぼ日刊イトイ新聞」https://www.1101.com/edo/2003-10-01.html



★「カフェー」の例句募集!

これまで「カフェー」(「カフェ」ではありません)を使った句がないので例句を募集します。(新作・旧作不問)また過去の句、ご自身の句でなくてもけっこうです。こんな句があるよとお教えいただければ幸いです。(出典を明示してください)よろしくお願いします。

「名句のための俳辞苑」は、将来的には出版する予定です。
採用句はそれに収録させていただきます。


 






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Last updated  2024年03月06日 23時02分58秒
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