片山由美子『季語を知る』を斬る 3 荒井 類
片山由美子『季語を知る』を斬る 3 荒井 類《「踏青」は明治~昭和(敗戦前)では不人気だった?》 片山由美子『季語を知る』を斬る(2)で、本書の叙述に含まれる多くの誤りについて指摘した。この(3)でも、本書中の疑問点から始めたい。「踏青」(とその傍題)について片山由美子はつぎのようにいっている。 (踏青は)江戸時代には作例がさほど多いとはいえないところを見ると、「梅見」や「花見」のようには浸透していなかったと思われる。むしろ、現代になって親しまれるようになった季語といえるかもしれない。もちろん、行事としてではなく行楽的な要素が強く、生活の季語になっている。/「青き踏む」は和語的な言い回しだが、中国の「踏青」に基づくことを考えれば、歳時記の項目としてはあくまでも「踏青」を立てるべきであろう。いずれにしても、「野遊び」との情緒の区別が定かとはいえない。例句を見るとそれがよく分かる。(第一章 春の詞 「踏青」の項 31ページ)。 「踏青」(「青き踏む」、「野遊び」等の傍題を含む)が片山由美子のいうように「現代になって親しまれるようになった季語」というのは本当か。「現代」というのは「日本史では、第二次大戦後をさすことが多い」(『大辞林第四版』)「日本史では太平洋戦争の敗戦以後または保守合同の1955年以降」ということだから、ここでは「現代」を「太平洋戦争の敗戦以後」と考えて話を進める。 幼子(おさなごや)や青きを踏みし足の裏 正岡 子規踏青や草履駒下駄足袋はだし 正岡 子規 正岡子規は明治35年(1902年)に没しているから、子規がこの二句を詠んだのは明治時代で「現代」ではない。野遊びや肱つく草の日の匂ひ 大須賀乙字 大須賀乙字の没年は大正9年(1920年)だから、乙字がこれを詠んだのは「現代」ではない。 野遊びや飛行機とべば手を叩く 長谷川かな女 「龍胆」(1929年)所収。1929年は昭和4年だから、かな女の掲句は、「現代」に詠まれたものではない。 青き踏んで帰るや門に客の待つ 高田 蝶衣昭和5年(1930年)没の高田蝶衣であるからこの句も「現代」に詠まれた句ではない。 葛城の神臠はせ青き踏む 4223うち笑める老を助けて青き踏む 5516踏青や川を隔てゝ相笑まる 5517日を仰ぎ水に辺りし青き踏む 5518踏青や古き石階あるばかり 5519 番号を付された五句は、高浜虚子の句。番号は『定本・虚子全句』による。同書は、高浜虚子著、松田ひろむ編。第三書館。2018年発行。 最初の句は大正6年2月10日。後の四句は「昭和二年二月二十八日 発行所例会」にて詠まれた(松田ひろむ編の前掲書による)。とこしへの病躯なれども青き踏む 川端 茅舍この句は句集『華厳』昭和14年(1939年)所収。ゆえに、茅舍がこの句を詠んだのも「現代」ではない。 専門家ならぬ素人(初学者)の小生が短時間調べただけでも「現代(=戦後)」にではなく、明治、大正・昭和(敗戦以前)に詠まれた、「踏青」(あるいはその傍題)を季語とする俳句を、これだけ見いだすことができた。 「古今の歳時記を」ひもとかれた片山由美子ではあろうが。前号の拙論(2)で見たとおり、例えば、杉田久女や山口青邨、飯田蛇笏の句を含む十三句の存在を小生ですら提示できた「夏雨(さめ)」を季語とする俳句群の存在に気づかず、〈「夏雨(さめ)とはいわない〉と本書で述べている。 季語の専門家である著者に敬意をもって接することにやぶさかではないが、拙論(2)で見た誤りの多さに鑑みると、「踏青」(「青き踏む」、「野遊び」等)が「現代になって親しまれるようになった季語」だというのは本当か? と立ち止まって考えざるを得ない。明治、大正、昭和(敗戦以前)には本当に「踏青」やその傍題は「したしまれる季語」ではなかったのか。正岡子規の句(明治)、乙字の句(明治あるいは大正)、や長谷川かな女、高浜虚子の句(第二次大戦敗戦までの)昭和)の句は、「現代になって親しまれるようになった季語」を用いた俳句の例外なのか。「現代」になる前にはそう親しまれていなかった「踏青」等を季語に用いた句を、子規、乙字、虚子、茅舍らはものしていたということか。片山由美子には、この季語(傍題を含む)を用いた近代(明治から第二次大戦敗戦まで)の句の作句例が少ないことを論証する必要がある。その論証なしに、「現代になって親しまれるようになった季語」と結論だけを主張されてもただちには納得できるものではない。(文末【*】に、これに関連して、「現代」の広義の意味にもからめて補足を置いた)。次に、本書にかかわる「季語」以外のことについて申しあげたい。 《「明治」なのか「近代」なのか~用語の不統一~》 〈明治になるとさまざまな歳時記が刊行され、古い季語が捨てられたり新しい季語が加えられたりした。〉(「はじめに」より。七ページ二行目~三行目)〈なお季語という呼称は近代以降のもの(*)だが、本書では古典についても便宜的にこの語を使っていくこととしたい。〉(同前。九行目~一〇行目)。*(引用者注:(季語という言葉は)〈明治四一年大須賀乙字が用いたのが最初といわれる〉(『日本国語大辞典』より)。(宇多喜代子の論文では「最初に用いたのは森無黄であり初出は明治三六年」)だということだ。)(『季語の研究』―「雨」によって日本人の四季観をみる― 中里郁恵による。同論文は「芭蕉会議」[俳句コミュニケーションサイト]の「参考図書室・参考資料室」に載っている)。 「明治」と「近代」――引用した二つの場所では、同じ内容を表しているのに、違う言葉が使われている。 「近代」とは「日本史では明治維新から太平洋戦争の終結までとするのが通説」である(『広辞苑』第七版)。そうすると、日本史上の「近代」は、時代で言えば「明治」「大正」および「敗戦までの昭和」の三つにわけられる。 事柄が「明治」のことならば「明治」といえばいい。「明治」あるいは「明治時代」といえば足りる場合に、敢えて「近代」という用語(ターム)を使うのはミスリーディングな(*)やりかたであろう。 *misleading=人を惑わす[誤らせる]、誤解を招く恐れのある、誤解されやすい、語弊がある(『英辞郎』より)。「明治になるとさまざまな歳時記が・・・・・・」と書いた同じページの七行あとに、「季語という呼称は近代以降・・・・・・」と言って、「明治以降」あるいは「明治末以降」といわず「近代以降」と言いかえる必然性はどこにあるのか。同一ページ内なのだから、同じ内容は同じ言葉で表すべき、つまり「季語という呼称は明治(末)以降・・・・・・」とすべきではないか。 《片山由美子の「明治」「近代」の混用は以前から?》〈江戸時代には季語だけを列挙した季寄せが一般的でした。/現代の歳時記は、近代以降整えられてきたものです。〉(『NHK俳句 今日から俳句 はじめの一歩から上達まで』片山由美子著、NHK出版。奥付には2012年(平成24年)2月20日第一刷発行とある。)Ⅰ 基本編18ページ)。この引用部分では、「はじめの一歩」の者も読むことを承知の上で、「江戸時代には」と書いた次の行で「明治(時代)以降」と言えば「はじめの一歩」の人たちにもわかりやすいだろうに、わざわざ「近代以降」といっている。かかるミスリーディングな言い方をする癖は昔からか。それともここでいう「現代の歳時記」は、大正(あるいは昭和)時代以降に整えられてきたということか。そうならそうで「大正(昭和)以降」と書くのが正しいだろう。 《「現代の歳時記」とはどの歳時記以降の歳時記か》ところで、「現代の歳時記は、近代以降整えられてきた」(前掲書18ページ)というのは本当か? 現代の歳時記が整えられてきたのは「近代以降」ではなく「現代」になってからではないのか。「現代」になってから整えられてきたから「現代の歳時記」というのではないのか。片山由美子のいう「現代の歳時記」は、具体的にはどの歳時記以降の歳時記なのか。辞書の定義(*)に従えば、「太平洋戦争(第二次大戦)以後の敗戦後の歳時記」となるが、片山由美子はそういう意味でこの語を使っているのか。片山由美子は、「現代の歳時記は近代以降に整えられてきた歳時記(例☆)の伝統の流れの中で編纂されている」という意味で、「現代の歳時記は、近代以降整えられてきた」と言ったのか。そうだとするならば、いかにも舌足らずな言い方である。☆『詳解例句纂修歳事記』(大正15年)、『俳諧歳時記』(昭和8年)、『新歳時記』(昭和9年)等。*『広辞苑』第七版げん‐だい【現代】歴史の時代区分の一つで、特に近代と区別して使う語。日本史では太平洋戦争の敗戦以後、世界史では十九世紀末の帝国主義成立期以後、ロシア革命と第一次大戦終結以後、第二次大戦後など、さまざまな区分が行われている。(傍点は引用者)。『大辞林第四版』げん‐だい【現代】・・・・・・日本史では,第二次大戦後をさすことが多い。〈近代になってから加えられた季語もまた多い〉(5ページ)の「近代になってから」も「明治になってから」あるいは「明治以降に」と言った方がわかりやすい。かつ正確である。〈近代以降の新たな時代を・・・・・・〉(11ページ)も「明治以降の新たな時代を・・・・・・」と言った方がいい。 〈「三月尽」が使われるようになったのは近代になってからである。〉(19ページ)。この「近代になってから」も「明治になってから」でいいだろう。 桜日記三月尽と書き納む 正岡 子規 片山由美子は「風光る」について〈近代以降、もっとも親しまれている季語のひとつ〉だという。(第一章45ページ)。この「近代以降」も「明治以降」でことたりるだろう。(大正以降あるいは昭和以降だというなら、そう書けばいい)。〈季語も季題も、明治の終わりに使われるようになった〉と片山由美子は、これらのターム(用語)の使われはじめを言う。(本書232ページ)。であるのに、なぜ、〈季語という呼称は近代以降のもの)(7ページ)と、「明治以降」と言えばすむ場面で、「近代以降」という語を使いたがるのだろう。同一の内容に別の言葉を使うのはミスリーディングであろうに。 《「花冷」は「近代にできた? 大正時代」でなく?》 「近代」が「明治」ではなく「大正」「昭和(敗戦以前)」を表している(であろうと推測される)場合も、本書にはある。(「花冷」について)〈じつはこれは近代になってできた言葉である。最初に「花冷」が歳時記に登場するのは大正13年刊行の『纂修歳時記』ただし例句はない。そして昭和8年の『俳諧歳時記』(改造社)の花の項で初めて例句を見るのである。〉(第一章43ページ)。この記述によれば、「花冷」は、(明治時代にも使われていた可能性がゼロと断定はできないが)、歳時記に登場したのは大正時代の末。だとすれば、43ページからの引用部分の「近代」は(明治である少ない可能性を残しつつも、「大正」であろうから)、そのまま「近代」ということでもいいかなとも思う。しかしながら、明治時代にも使われていた可能性がとても低いと判断されたら、「大正」となすべきである。 《実感と季語の季節――「季語の季節原理主義」宣言》 〈近年、歳時記と実生活が大きくずれているという指摘がある。西瓜が秋の季語であるのはおかしい、というように。暑い夏に食べてこそのものであり、夏に分類すべきものであるというので、夏の季語にしてしまった歳時記もある。さらには胡瓜やトマトは一年中出回っているというので季節感がないという意見も受け入れられやすい。これは、はじめに触れた実感主義のひとつとも言えるだろう。/だが、季語というのは、いま述べたようにそのものから季節の実感を得るためにあるのではなかったのである。胡瓜もトマトも、夏の季語であるという共通認識のもとに、夏らしさを表現するための言葉なのである。生活実感は、歳時記の季節に優先しない。それを前提にしないかぎり、有季俳句は成り立たないのである。/つまり、従来の歳時記の季節の体系を組み替えようという発想は、俳諧以来の俳句の作り方をまったく変えてしまうものである。一見、合理〉)的に思える現実に即した歳時記という発想は、季語が負ってきた季節感を奪うものであり、季語の働きを否定するものとなる。〉第五章231ページ。 長々と引用したが、これは片山由美子の季語論のキモとなる主張なので、ご容赦いただきたい。《大原則としてはいいと思うけど・・・・・・》現在の季節感にあわなくなっていても、詩歌の長い伝統の中で継承された「季語の季節感・本意」に基づき俳句を詠むのが正しい。――これが片山由美子の原則的立場であろう。 大原則としてこの原則を立てることについては、小生も反対するものではない。つまり、季語と実際の季節感が合わなくなったからといって、直ちに(安易に)季語の季節を変えようということには反対である。(ただし、片山由美子の言及していない「(①)季語の季節は旧暦を前提にしていること、(②)季語の前提している地域は、伝統的には奈良・京都(あるいは京阪)である(江戸時代を考慮しても、関東まで)」の①および②の事実をもとにしての話だ)。((①については、「「七夕」の項〈126ページ〉で少しだけ触れているが、そのことをしっかり取り上げて論じている場面はない)。 しかし、「不易流行」ということもある。「不易流行」を季語のありかたに敷衍して考えると、片山由美子のように、あまりにもかたくなに「季語の季節原理主義」を主張するのは如何なものかと思う。あまりにも生活実感との乖離が大きいものについては、一般的には変更に抑制的な気持ちを持ちつつ、季節の変更を考慮してもいいのではないかと思う。〈生活実感は、歳時記の季節に優先しない。それを前提にしないかぎり、有季俳句は成り立たないのである。〉〈従来の歳時記の季節の体系を組み替えようという発想は、俳諧以来の俳句の作り方をまったく変えてしまうものである。〉と言いたくなる気分も(多少は)わからないわけではないが、これは。明らかに言い過ぎである。 《「西瓜」が夏の季語になったら有季俳句は不成立?》 例えば「西瓜」が秋の季語から夏の季語に変わったら、〈有季俳句は成り立たない〉と言うのか。「花火」が秋から夏の季語になったから、〈俳諧以来の俳句の作り方がまったく変わってしまった〉などという事実はあるのか。これらを論証することなしに、〈生活実感は、歳時記の季節に優先しない。それを前提にしないかぎり、有季俳句は成り立たないのである。〉とまで言うのは、明らかに言い過ぎであるし、誤りである。歳時記におけるある季語の季節の変更が〈俳諧以来の俳句の作り方をまったく変えてしまう〉などということが、あるはずもない。大原則とその例外という考え方のできない原則主義(原理主義)者は、現実の変化に対応できないものだ。ここまで書いて、末尾に引用する高野ムツオへのインタビュー記事「季語は変化し深化する」に接した。これを読んで、この書籍『鑑賞 季語の時空』を読んでから、拙論を組み立てなおすことに決意した。(末尾の「参考」を参照のこと)。(つづく)(「鴎座」2020年3月号) 【*】先に〈「踏青」(「青き踏む」、「野遊び」等の傍題を含む)が片山由美子のいうように「現代になって親しまれるようになった季語」というのは本当か。〉という問を立て、〈「現代」を「太平洋戦争の敗戦以後」と考えて話を進め〉、結論として、この傍点部については、このように断言するのは論証不足と思うと申しあげた。また、〈現代の歳時記は、近代以降整えられてきた〉という片山由美子の言について、「現代の歳時記」とはどの歳時記以降の歳時記をいうのかを問い、その言の意味を問うた。ここで「現代」の意味をもう少し広げて考え、補足としたい。げん‐だい【現代】〘名〙① 現在の世。今の世。当世。※風俗画報‐165号(1898)人事門「明治初年に一変せし風俗も、〈略〉現代(ゲンダイ)に至り再三の変革を見る」 ② 歴史の時代区分の一つ。日本では第二次世界大戦終結後の時代。広義には明治維新以後をさすこともある。(『精選版 日本国語大辞典』より。この①の意味の「現代」(英語で言うと、today, present day, present age)だが、『風俗画報』という日本初のグラフィック雑誌の165号(1898年=明治31年)にその使用例が見られることからも、明治時代には使われていたとわかる。同辞書の②の「広義には明治維新以後をさす」ということも踏まえ、さらに考えてみる。〈江戸時代には作例がさほど多いとはいえないところを見ると、「梅見」や「花見」のようには浸透していなかったと思われる。むしろ、現代になって親しまれるようになった季語といえるかもしれない。〉(先に引用した部分より)。ここの「現代になって」を「明治になって」と読み替えることができるだろうか。先述の辞書の定義からいえば、それは不可能ではない。だが、「江戸時代には・・・・・・近代以降は・・・・・・」という片山の言葉癖から考えると、それはあまり考えにくい。また、もしそういう意味で「現代」を使っていたとするなら、ひどくミスリーディングな言い方ということになる。〈現代の歳時記は、近代以降整えられてきた〉の「現代」は「明治維新以後をさす」意味には言い換え不可能である。なぜならば、それを可とするならば、「明治維新以後の歳時記は、近代以降(=明治以降)整えられてきた〉ということになってしまうからである。 (参考) ――本書では、季語の「多重性」について も指摘されています。高野 季語はもともと、中国の歳時記や暦の考え方を、京都奈良を中心とした美意識と重ね合わせながら成長したものです。そのため、さまざまな人が、さまざまな場所で俳句を詠むようになると、それぞれの季節感と〝季語に定められた季節〝にはどうしても矛盾が生じます。たとえば「初雪」ひ。とつとっても関東から西の人は「美しい」というイメージが湧くと思いますが、豪雪地帯の人々にしてみれば厳しい生活の始まりを告げるものです。それに「立春」といっても秋田や青森は真冬の頃。けれども「これから春が来る」という意識をもたらしてくれる言葉でもある。だから実感と歳時記、どちらのイメージで使っても間違いでもないのです。二つの感覚が混在しながら言葉や感性は育まれていく。その両者を受容するのが俳句であろうし、そういった多重性が季語にはある。実感を受けた言葉はそのまま俳句にすればよい。そうすることで季語の世界はより豊かになると思います。 たとえば私の句に〈地震の闇百足なりて歩むべし〉があります。「百足」は夏の季語ですが,この句は三月十一日に作ったものです。東日本大震災当日の実感を表現したので季節はずらせません。 ――実作でも、鑑賞でも、季語は「多重」であっていいということですね。高野 そうです。この本の鑑賞も、あくまで私の感や体験、記憶のなかから紡ぎだした鑑賞の在り方であって、こう読まなければいけないというものではない。「私だったらこう鑑賞する」と、批評性を持ちながら、詠んでいただけると嬉しいです。 また、季語は個人の体験や記憶だけでなく、時代によって移り変わるものでもあります。「揚花火」は納涼行事として夏の季語になっていますが、大震災の後は死者を弔う気持ちが込められるようになった。しかし、これは新しい感覚ではなく、もともと「揚花火」は行楽とともに盆行事と同じ慰霊の要素があったので、本来の意味が戻ってきたといえます。こういった言葉の変遷はいろいろあって、話し出すときりがない(笑)。 季語は固定した世界ではなく、そこに込められた季節感はこれからも変化していく。季語は実感で使って」よいのですが、その成り立ちや核の部分を理解し、その両方――季語の「多重性」を生かすことで、豊かな世界が俳句に託されていると思います。 (角川「俳句」2020年2月号 『鑑賞季語の時空』刊行記念インタビュー「季語は変化し進化する」高野ムツオ より。太字は原文のママ。傍点は引用者)。同書によれば『鑑賞 季語の時空』は1月30日発行予定で、私は誕生日のプレゼントだと受け止めた。(「鷗座」2020年3月号) <松田ひろむの補足>1、片山由美子は(「花冷」について)〈じつはこれは近代になってできた言葉である。最初に「花冷」が歳時記に登場するのは大正13年刊行の『纂修歳時記』〉というがこれは誤り。大正13年刊行ではなく大正15年刊行。また『纂修歳時記』ではなく『詳解例句纂修歳事記』である。片山由美子の引用は『図説俳句大歳時記』(角川書店)の孫引であろう。ただしこの今井柏浦編の『歳事記』には題名の微妙に異なるもの、刊行年の異なるものがある。 2、片山由美子は「(踏青は)江戸時代には作例がさほど多いとはいえない」というが、さほど多くないということは、ないわけではないということであって、あるのならその少ない用例を例示すべきであろう。しかし「踏青」は江戸期には一句もない。「作例がさほど多くはない」と「一句もない」とは全く異なることはいうまでもない。小生が『俳文学大系』で確認したところ「踏青」はなく、「青き踏む」は発句では、幕張で青きを踏ます出養生 几山(春秋閣)の一句のみである。他に『図説俳句大歳時記』は<すねて住む庵や青きを踏むこころ>全峨(明題集)をあげる。また、歌仙中に<青(あをき)を踏でかろき草鞋(わらんず)>米松(新雑談集)、<青(あをき)をふまぬ人とてはなし>岱青(麻刈集)があるのみであった。 したがって「青き踏む」はあっても「踏青」は明治に入ってから使われ始めた季語であるといえる。 3、片山由美子は「中国の「踏青」に基づくことを考えれば、歳時記の項目としてはあくまでも「踏青」を立てるべきであろう。いずれにしても、「野遊び」との情緒の区別が定かとはいえない。例句を見るとそれがよく分かる。」というが、その例句はあげられていないので論証のしようがない。また中国の踏青は野遊びとはまったく異なる概念であった。踏青は踏青節とも掃墓節ともいう行事で、現代中国でも先祖の墓参りの大切な行事である。それはまた男女の出会いの場、恋の場でもある。宗教観のない現代日本の野遊び、ピクニックとは異なるものである。 4、「踏青」の例句は、荒井類のあげる他に、改造社『俳諧歳時記』(春)に踏青や裏戸出づれば桂川 鳴雪(春夏秋冬)などがある。内藤鳴雪は1847年(弘化4年)-1926年(大正15年)。句集『春夏秋冬』(春)は1901年(明治34年)刊行である。また『図説俳句大歳時記』(角川書店)は、 踏青や我歩に遅れ江の流れ 松根東洋城(渋柿句集)などをあげる。『渋柿句集』は1933年(昭和8年)刊。 5、「近世」「近代」「現代」の区別は、その論者の立っている時代によって異なる。荒井類の引用するように、明治の人が「現代」という場合は、明治維新後であろうし、昭和13年(1938年)生まれの小生の少年のころには「現代」は昭和以降であった。2020年の現時点では辞書のいう通り、1945年以降ということになる。山本健吉が『現代俳句』で取り上げている俳人は正岡子規以降である。ただし「あとがき」で「現代俳句の包括する範囲をだいたいにおいて昭和時代に限定した。」「子規に出発した近代俳句」とあるように、山本健吉にとって「現代」は昭和以降。明治、大正が「近代」であった。このように近代、現代はその立つ位置によって揺れる、特に「現代」は揺れが大きいので、文献を引用する場合には注意を要する。(画像は「きごさい」による「青き踏む」)