敗戦-20:8月14日の御前会議-2
東郷茂徳外相の主張◇「8月14日御前会議 第二回の聖断 終戦の詔勅発布」抜粋 ・・・ 閣僚以外両総長等8月9日御前会議に参列せる者が防空壕内の会議室に参集したが、陛下の御親臨を俟ちて総理は8月10日我方申入れに対する米国回答に付き慎重審議を盡(尽)したるも、最高戦争指導会議構成員会合に於ても閣議に於ても意見一致するに至らずとて外務大臣の意見と之に反対の意見とを説明し、御前にて右反対意見を御聴取せられんことを乞ひ奉る旨を述べ、海津、豊田、阿南の順に指名した。陸相及参謀総長は米国回答の儘にポツダム宣言を受諾するならば国体護持上由々しき大事である、されば更に米国と交渉することが必要であつて、若し国体の護持が出来ないならば一億玉砕を期して戦争を継続するより外にないと思ふと述べた。 軍令部総長は論旨稍々(やや)穏やで、米国の回答其儘を鵜呑みにするに忍びないから今一度日本の所信を披瀝することが、適当であると思ふとの趣旨を述べた。其後には指名はなかつた。 そこで陛下は、此の前ポツダム宣言を受諾する旨決意せるは軽々に為せるにあらず、内外の情勢殊に戦局の推移に鑑みて決意せるものなり、右は今に至るも変る所なし、今次回答に付き色々議論ある由なるも自分は先方は大体に於て之を容れたりと認む、第四項に就きては外相の言ふ通り日本の国体を先方が毀損せんとする意図を持ち居るものとは考へられず、尚此際戦局を収拾せざるに於ては国体を破壊すると共に民族も絶滅することになると思ふ、故に此の際は難きを忍んで之を受諾し、国家を国家として残し又臣民の艱苦(艱難辛苦)を緩げ度しと思ふ、皆其の気持になりてやつて貰ひ度い、尚自分の意思のある所を明にする為めに勅語を用意せよ、今海軍大臣より聴く所に依れば陸海軍内に異論ある由なるが、之等にも良く判らせる様致せよとの仰せであつた。 ・・・─「時代の一面」より◇四国政府に対する申入 14日深夜瑞西及瑞典両国政府を通じて米英蘇支四国政府に対し、陛下に於かせられてはポツダム宣言受諾に関する詔書を発布せられ、右に関する諸手続を執らるる用意ある旨を申入れた。尚前記の占領及武装解除の問題に付き15日朝 一、帝国政府はポツダム宣言の條項を誠意を以て実行せんとするものなるに鑑みて帝国政府の責務を容易圓滑ならしめ且無用の紛糾を避くるが如き配慮を希望する、之が為 (イ)連合国側の艦隊又は軍隊の本土侵入に就きては豫め通報さられたい。 (ロ)保証占領の地点は其数を少くし且派駐の兵力も小ならんことを希望する。 二、武装解除は、帝国軍自ら之を実施し連合国は右の結果として武器の引渡しを受けるものとせられたく、又隋身兵器は認められたい 旨を述べ、尚萬一先方が強壓(圧)的態度に出で、雙(双)方共に不慮の困難に遭逢するが如きことなき様四ヶ国政府が我希望に対し切実なる考慮を加へられんことを希望する旨を瑞西国政府を通じ米国政府に伝達せしめた。─「時代の一面」より〓勝手に独断と偏見〓・昭和25年1月に発表された「繆られた御前会議の真相/豊田副武」/「昭和天皇の時代」のp250 私が最後の御前会議で本土決戦に言及したのは、結局こっちがそこまで大きな決心をしているという意気込みを向うに反映させるとともにこちらの注文を出し、向うがそれを判断するという具合に、事を運ぶのが有利であると考えたからであったが、これが継戦一本槍の主張に歪曲して伝ったことは前に述べた通りである。 東郷外相は20年の重刑を受けたが、これは開戦当初の真珠湾が祟っているものと思う。だからこれはちょっと皮肉な観測かも知れないが、終戦の時にあれほど外相が無条件終戦一本に突進して、針で突いたほどの弱点も作らないように終戦工作をやったというのは、何とかして真珠湾問題の償いをしたいという非常な熱意があったためではないかと思う。─ マスメディア等が本土決戦を煽る中、天皇・皇族を含む指導部に於いて死を恐れず戦争を終わらす原動力は東郷外相だったと推測。 豊田副武(軍令部総長)は8月12日の梅津美治郎(参謀総長)との列立上奏にて「バーンズ回答」に対し「統帥部と致しましては本覚書の如き和平条件は断乎として峻拒すへき」、「繆られた御前会議の真相」にはない。 引用文での豊田副武の主張は、 一度黙殺した「ポツダム宣言」に「国体護持」という受諾条件を付け、四カ国合意の「バーンズ回答」にも同意せず、戦争を長引かせる事で条件が良くなるの判断。