国民と天皇と大日本帝国

2005/06/11(土)11:28

靖国の論点に勝手な意見-4

現在と大日本帝国(29)

『判決に対するささやかな意見-2』(敬称は基本的に略します)  「東京裁判/朝日新聞東京裁判記者団」を主に参考にしました 【個人判決と勝手な意見】 ■東條英機(陸軍大将・首相・陸軍大臣・参謀総長・関東軍参謀長・関東軍憲兵司令官) □有罪訴因:01、27、29、31,32、33,54 01.東亜、太平洋、インド洋地域の支配を確保しようとした事    (1928年1月1日~1945年9月2日までの共同謀議) 27.1931年09月18日~1945年09月02日:中華民国に対する戦争(満州事変) 29.1941年12月07日~1945年09月02日:アメリカ合衆国に対する戦争 31.1941年12月07日~1945年09月02日:全英連邦に対する戦争 32.1941年12月07日~1945年09月02日:オランダ王国に対する戦争 33.1940年09月22日:フランス共和国に対する戦争 54.1941年12月07日~1945年09月02日:戦争法規違反 〓判決のまとめ〓 ●1937年6月:関東軍参謀長 ○盧溝橋事件から始まる戦争から共同謀議の首謀者の一人 ○ソ連への攻撃を計画・準備 ○中国攻撃の基地として満州を組織する事を助けた ●1938年5月:陸軍次官 ○戦争に重要な役割を演じ、中国との和平提案に反対した。 ●1940年7月:陸軍大臣 ○日本の近隣諸国に対する侵略戦争を計画・遂行する首謀者の一人 ●1941年10月:総理大臣、1944年7月まで ○中華民国政府の征服と東アジア・南方地域の支配の確立の為、戦争決定を主となり成立させた ●戦争犯罪について ○バターン死の行進に対して、多数の捕虜の死亡を知っていたが、処罰された者は一人もいなかった。 ○泰緬鉄道の敷設に捕虜の使用を勧告、捕虜虐待の調査を行なったが、一中隊長を裁判しただけだった。 ○捕虜収容所に於ける食料・医療品不足による高い死亡率は東條主催の会議で検討されたが、適当な処置は取られなかった。 ○中国人捕虜に対し「事変」は戦争法規が適用されないとした。 ○働かざる捕虜は食うべからずという指令で、病人・負傷者が働かされ苦痛と死亡を生じた。 〓勝手な意見〓  東條英機が陸軍大臣となったのは1940年7月の第三次近衛内閣、  参謀総長は閑院宮だが10月からは杉山元となる。  9月に北部仏印に進駐と三国同盟調印があり東條英機がどの程度影響したかわからない。  第三次近衛内閣の組閣前の「萩窪会談」や閣議決定された「基本国策要領」  7月27日の「大本営政府連絡会議」で決定された「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」  では、南進や三国同盟に対する方針が決められている  当時の責任者は  参謀総長だった杉山元夫妻(1945年09月12日に自殺)  首相だった近衛文麿(出頭日の1945年12月16日に自殺)  外務大臣だった松岡洋右(1946年6月27日に拘留中病死)  参謀総長だった閑院宮(皇族)  軍令部総長だった伏見宮(皇族)  昭和天皇  残ったのは東條英機となり、責任が集中してしまっている。  米英蘭との開戦は第三次近衛内閣で決定されていたが、近衛内閣は解散、  宮様内閣は負けたときに皇室に責任が行くから、木戸幸一内大臣と昭和天皇が反対して、  東條内閣が発足、昭和天皇は御前会議で決定した「米英蘭との開戦」の再検討を命じる。  結局1941年11月2日の御前会議で「帝国国策遂行要領」が再び決定され、  日米交渉期限を11月末とし、12月始めに開戦となる。  日本側としても、戦う前からこのあたりの責任を東條に取らす考えだったのだろう。 □「戦争犯罪について」は他の資料で確認できるのは「泰緬鉄道の敷設」に関して  「東京裁判資料 田中降吉尋問調書」では、  「第9回」での「捕虜問題」に於いて ○捕虜は陸軍省が所管していた ○支那事変の時「軍法会議」による捕虜の裁判の為の機構は存在しなかった。 ○シンガポールが日本に占領されたときに初めて捕虜の裁判が開設され、機構に外務省・陸軍省・海軍省が参加したが、軍法会議の機構は陸軍省の直接指揮監督下にあり俘虜情報局が捕虜に関するいっさいの問題を扱っていた。 ○日本本土で捕らえられた捕虜の処理は「俘虜管理部」、日本の外地で捕らえられた捕虜は各軍司令官下に置かれた。  「第22回」での「泰緬鉄道の建設」に於いて ○米国の潜水艦作戦の為に陸路輸送が計画された(1942年)、責任者は杉山元 ○作業責任者は第三部長の加藤鑰平中将、後に額田担中将・若松只一 ○鉄道建設に当る陸軍部隊を指揮したのは石田栄熊中将 ○ビルマに於ける労働者集めの責任者は川辺正三と木村兵太郎 ○マレーに於ける労働者集めの責任者は斉藤弥平太・土肥原賢二・寺内 ○シャムに於ける労働者集めの責任者は中村明人 ○労働者は諸条件と食料不足で死亡した ○1944年に完成石田栄熊中将は参謀本部から褒賞を授与された ○捕虜を使う支持は大本営(杉山元参謀総長)が出した、次官は田辺盛武 ○捕虜の使用は参謀本部が主体で陸軍省は捺印するだけ。 ○陸軍省内の責任者は東條・木村・佐藤 ○参謀本部の責任者は杉山・田辺・田中新一 □まとめ  「泰緬鉄道の建設」に於ける東條の責任は弱いと思う、  基本的に東條の責任は開戦責任だが、  開戦時の米国への通達遅れは外務省の問題と思う。  開戦時の問題・日中戦争を含め詳細な検討が必要だが、他の機会を見つけて取り組みたい。 【修正(2005.6.12)】 ○マレーに於ける労働者集めの責任者は中村明人 を ○シャムに於ける労働者集めの責任者は中村明人

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