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2006.05.23
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カテゴリ:昭和天皇
 第一次上海事変の現地での白川義則大将による停戦(1932.03.03)は天皇の奉勅命令
 ではなく、天皇が直接に白川大将に命じて白川はそれに従った。
 奉勅命令は天皇から閑院宮参謀総長へ、参謀総長から現地司令官の白川へ命令された、
 其の命令とは別に参謀総長を飛ばして天皇が直接白川に停戦を命じ、
 閑院宮は白川の停戦を非難する事になる。

 上記は「昭和天皇独白録」に於ける「上海事変」に対する昭和天皇の主張、
 以下の内容が続く

 白川義則大将は1932年5月26日に死亡、白川の死亡時に昭和天皇は未亡人に歌を送った。
 この歌の話を松岡洋右が知っていて外相時代に南京の本多熊太郎に対して、
 軍を抑えろの意味の御言葉を頂きたいと天皇に願い出たが、
 木戸内大臣が本多の様なお喋りにはよくないと云うので与えるのは止めた。

注)白川義則大将は1932年4月29日の朝鮮人によるテロで重傷を負った為5月26日に死亡、
  上海公使の重光葵は同テロによる負傷で右脚を失っている。


●重光葵は「昭和の動乱(上)」にて上海事変の停戦交渉を記述している、以下その概要

 白川大将は停戦命令を発し停戦が行われたので、
 1932年3月3日の国際連盟総会は無事に済んだ。
 3月上旬から5月初めまで続けられた停戦協定の交渉の全権は統帥権の問題として、
 植田師団長が主権全権となり、重光葵は次席となるが、
 各国と支那側は重光葵と交渉を進めた。
 停戦協定の成立は野村海軍司令長官の理解ある支持と、犬養首相・芳沢外相が派遣した
 松岡洋右政友会代議士の援助に負う事が多かった。

 停戦協定が成立の域に達した4月29日の天長節に閲兵式が白川大将の下に行われた。
 朝鮮の左翼独立党金九一派の尹奉吉は爆弾を投じ河端民団長・白川大将は遂に死亡、
 野村司令官・村井総領事・植田師団長・民団書記長は重症、野村は片目を喪う。
 領事館勤務の少女も一眼を喪った、重光葵も重症を負った。

 重光葵は病院より停戦協定の交渉を続け、5月5日に停戦協定は成立した。
 署名後、手術台が運び込まれ重光葵の一脚は切断された。

注)1945年9月2日のミズーリー号での降伏調印式に重光葵外相は梅津参謀総長と共に
  日本側全権として調印した。
  重光葵は極東国際軍事裁判ではA級戦犯として禁固7年の判決を受け、
  1950年11月21日に恩赦で仮釈放、第一次鳩山一郎内閣では外務大臣を務めた。

注)1941年の日米交渉は松岡洋右(外相)・野村吉三郎(海軍大将・駐米大使)により
  ルーズベルト大統領・ハル国務長官と行われた。


〓勝手な解釈〓

 「昭和天皇独白録」の記述では、
 天皇は国際連盟協調で上海事変の早期収束を望んだが、
 閑院宮参謀総長は拡大を望み、国際連盟との決別を視野に入れていた事を推察する。
 (あくまで昭和天皇の主張を基にしての推察)

 1931.09.18:満州事変
 1931.12.23:閑院宮は参謀総長に
 1932.01.28:上海事変
 1932.03.01:満洲国の建国

 閑院宮を参謀総長にしたのは、満州事変の早期収束を目指した為と思えるが、
 「独白録」では閑院宮の陸軍はさらなる拡大を目指していた事になる。
 昭和天皇が白川司令官に対し閑院宮経由と直接では異なる内容の命令を出していた事
 等から、昭和天皇の主張に納得できない。

 昭和天皇は第一次上海事変の拡大を防いだ白川義則大将の未亡人に歌を送ったが、
 支那事変時に於いての松岡洋右外相の要望である南京の本多熊太郎に
 「軍を抑えろの意味の御言葉を頂きたい」
 に関しては、
 「木戸内大臣がお喋りにはよくないと云うので与えるのは止めた」
 となっている。

 昭和天皇の主張は「第一次上海事変」「支那事変」拡大に反対だったであり、
 松岡洋右外相も同様に拡大反対だった事が判る。
 昭和天皇が拡大反対であった証拠(「歌」)が「第一次上海事変」には存在するが、
 「支那事変」では同様の証拠が木戸内大臣の反対で存在しない事を述べている。

 「第一次上海事変」の拡大阻止は、白川大将によるものが大きいと思えるが、
 昭和天皇の直接指示のみで行われたかは疑問で、
 拡大反対派の力(現地では重光葵)も大きかったと思う。

 「昭和天皇独白録」には「張作霖爆死の件」「上海事変」の項はあるが、
 「満州事変」はなく残念、公式には「関東軍へ勅語」にて追認した形を取っている。

 「独白録」の「226事件」の記述では「満州事変」関連の以下の記述がある。

 「参謀本部の石原莞爾からも町尻武官を通じ討伐命令を出して戴きたいと云って来た、
 一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく判らない、満州事件の張本人であり乍ら
 この時の態度は正当なものであった。」






最終更新日  2006.05.23 22:13:23
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