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国民と天皇と大日本帝国

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大日本帝国興亡史

2016.03.13
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カテゴリ:大日本帝国興亡史
 君死にたまふことなかれ、すめらみことは戦ひに、おほみずから出でまさね、かたみに人の血を流し、獣の道で死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、おほみこころのふかければ、もとよりいかで思されむ。
 (「君死にたまふことなかれ/与謝野晶子」より)

 【1945年11月】~15日

・02日:御召列車と満員列車、一時間の停電
・04日:父や母の話では、ことしの稲のでき具合はいい年の七分できで、青籾が多く、籾にもふくらみがない、・・・、戦争で人手も足りなかったし、満足に肥料の配給もなかったので、田圃がすっかり荒れてしまった結果。「戦争は文明と文化の破壊であり、人類にたいする最悪の犯罪行為である」
・06日:内地勤務の復員は十月半ばでほとんど終わったらしい、最近は外地の朝鮮や台湾あたりからもぽつぽつ帰ってくるようになった。陰膳は欠かしたことがなく・・・それを据えてからでないと、自分も箸をつけない、・・・葬式も出していない
・07日:疎開者の落ち穂拾い。
・09日:新しい天皇の制服(陸海軍の軍服を廃止)、天皇は敗戦の責任をとるだろう
・10日:三菱財閥がかつて東条大将に1千万円を寄付が新聞が出ている、「戦争中軍閥と財閥は結託していた」、配給の煙草
・13日:東京の食糧事情「先月の十日に配給になった主食といったら米が一人にたったの三キロ、それに玉蜀黍の粉が一キロ、魚はこの煙管ぐらいのあじが一匹、肉がやっと十五匁、調味料だって醤油が一ヶ月に一合五勺、味噌は一人二十匁、あとはふすまとか大豆粕とか、どんぐりだかなんだか得体のしれない粉がときたま配給」、「供出だけは完納してやってくれよ」
・15日:京大卒の医学博士の話「敗戦の原因は・・・すべて軍国主義の罪です。・・・日本は民主主義に徹していかなければなりません。日本がこれから平和国家、文化国家として新しく生まれかわれるかは・・・あなた方青年の任務は重大」、こっちが恥ずかしかった・・・戦争中は大政翼賛会の役員なんかして幅をきかせていた。おれたち小学生に「君たちも一日も早く大きくなって皇国の護りについて、天皇陛下の大御心におこたえしなければなりません」「・・・アメリカとイギリスをやっつけなければ・・・」「日本は東亜の盟主」、汚れた手袋を裏返しにはめかえただけ


〓勝手に独断と偏見〓

 『旧約聖書「レビ記」19章9節から10節に定められた律法に、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。…これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」とある。』
 (「落穂拾い/ウィキメディア」より)

 「青籾が多く、籾にもふくらみがない」、疎開者は落ち穂を拾う、渡辺清は父母に「供出だけは完納してやってくれよ」。

 掌を返したような。
 天皇を始め皇族の男子は陸海軍の軍人、天皇は軍服を止めた。
 小学生に、天皇の為に米英をやっつけろと言っていた大政翼賛会の役員だった医学博士が戦後は軍国主義の罪を主張し民主主義・平和国家を説く。


 10日の「三菱財閥がかつて東条大将に1千万円を寄付したということが新聞が出ている」

 「戦中派不戦日記/山田風太郎」の11月12日には
 「米軍総司令部は、東条大将が三菱財閥からその邸宅と一千万円の贈与を受けたと公表し、その後郷古潔から左様な事実なしと訂正の申入れを受けた。事実のあいまいなるに拘わらず、がむしゃらに東条を悪漢にしてしまおうとする魂胆はここにも見えいている。」

 渡辺清(1925年生まれ)と山田風太郎(1922年生まれ)、渡辺は1941年高等小学校卒業後に海軍に志願して戦争に行ったが山田は終戦時に医学生(徴兵検査は丙種、1944年に22歳で東京医学専門学校に合格)、天皇制に関し山田風太郎は「日本の珠玉」。

 三菱財閥と東条英機の関係について、山田の主張がもっともと感じるが、「戦争中軍閥と財閥は結託していた」を完全否定する事はできないと思う。

 「東条大将が三菱財閥からその邸宅と一千万円の贈与を受けた」

 東条英樹の私邸は「世田谷の用賀」と「下北沢の代沢」にあって、用賀の私邸(及び隣接する東条関係の土地)は現在では「立正佼成会の世田谷教会」のようだ、私邸の一部なのか隣接する公園まで含むのかは調査不足だが可成り広いの印象。

 「一千万円の贈与」、現在では3千倍として300億円、ビル・ゲイツの資産が792億ドルなのでありえるのか。

 新聞は裏を取らずにGHQ発表を大本営発表のように記事にしたのだろう、日本の報道側も含めて全部東条が悪いの印象操作を行なっているように感じる。






最終更新日  2016.03.13 08:39:59
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2016.02.21
カテゴリ:大日本帝国興亡史
 国民を直接・間接にマインドコントロールしていたのは指導層・マスメディア・論壇そして教師

 「何事も天皇のためだという教師の教えをまっ正直に信じていて、それを疑ってみるだけの知恵もまだなかった」

 マインドコントロールの核となるのが天皇の存在。

 1941年に海軍に志願した少年兵の渡辺清は宮城を遥拝し謹んで天皇に言上した
 「私は愈々明日帝国海軍の一員として皇国の海の護りに就きます。この上は粉骨砕身軍務に精励し、以て醜の御楯として本分を全うする心算であります。もとより私の体は天皇陛下よりお借りしたもの、いつの日か戦場にて必ずお返し申し上げます」

 【1945年10月】
・10月01日:「現人神」ではなくなった昭和天皇
・10月03日:昭和天皇の意志による日米開戦
・10月07日:新聞とラジオの豹変
・10月11日:連合艦隊の解隊、一億総懺悔
・10月14日:天皇は政治的にロボット?、停戦の決断も?、「かつての忠誠勇武なる水兵さんも変わったものね」
・10月17日:村祭り、戦場からの母への手紙に出てくる「天皇陛下の御為」、天皇に戦場で命を賭けていた、<<戦時中なら死刑になりかねない言葉が続く>>
・10月19日:稲刈り、自決に関して宇垣中将・東条大将など、第一次戦争犯罪人
・10月21日:トルーマン発言、「天皇制の運命、選挙に問うのも一案」、「天子さんにむかってそんな罰あたりなこと言うもんじゃにゃあよ」、昭和天皇のマッカーサー訪問の意味の推測
・10月22日:庭の菊が咲き始めた、マッカーサーの天下、「バスに乗りおくれるな」の標語、あと一月ちょっと満20歳、男女同権と参政権
・10月24日:武蔵が撃沈された日、同年兵は一人残らず死んでしまった
・10月25日:「歌御会」の題が「松上雪」、海戦の夢
・10月26日:天皇責任と近衛公爵、金さんはこの暮れに朝鮮に帰る。
・10月31日:遺骨の帰還、役所の前で出迎えている人が少ない受け容れ儀式もなし、マッカーサー司令部から遺骨迎えは内輪との指令、自分が先頭にたって旗をふって万歳万歳と見送っておいて敗けたとわかると「校長の野郎、ふるえあがっちゃって今日も知らん顔」


〓勝手に独断と偏見〓

 「バスに乗りおくれるな」とフランスに勝利したドイツに乗りおくれずに三国同盟締結、が対米戦前に主張されていた。

・「昭和の戦争報道(40) 日独伊三国同盟と新聞メディア/前坂俊之」によると
 『東京朝日』(十一月二十六日)の朝刊は「日独防共協定調印さる」「東西相呼応し
て赤化の脅威に対抗」「不動の国体擁護」と一面つぶして報道した。
 『東京日日』(同日)朝刊の見出しも「日独防共協定成立す」「世界平和脅威の抑へ、
画期的の我外交協定」「特定国を目標とせず、背後に特殊協定なし」と報じた。

 戦後はマッカーサー・戦勝国のバスに乗りおくれるなの状況が発生している。


 昭和天皇のマッカーサー訪問の衝撃。

 9月30日「おれにとっての”天皇陛下”はこの日に死んだ。そうとでも思わないことにはこの衝撃はおさまらぬ」
 10月1日「おれのこれまでの天皇にたいする限りなき信仰と敬愛の念は、あの一葉の写真によって完全にくつがえされてしまった。」

 新聞とラジオは「聖戦完遂」「一億火の玉」「神州不滅」と公言していたが降伏後は、
 「戦争ははじめから軍閥と財閥と官僚がぐるになって仕組んだものであり、聖戦どころか正義にもとる侵略戦争であった」と盛んに主張している、「新聞で本当なのは死亡広告だけ」。
 宣戦の詔書「朕か陸海軍将兵は全力を奮て交戦に従事せよ」。
 すべてを天皇のために、すべてを天皇の統治したもう祖国のために。

 戦中・戦前に於いて渡辺清と同じ感覚を共有していた大日本帝国の国民は多数存在したと思う、昭和天皇もその一人ではなかったのか。

 靖国神社や伊勢神宮への参拝と行幸と親拝、立場によって異なる、奉られている神との上下関係より異なる、死ねば神になるといっても神にも上下がある。

 人は天皇のために戦って死ねば靖国神社の神になる、しかし「遺骨の帰還」に対して
 『自分が先頭にたって旗をふって万歳万歳と見送っておいて敗けたとわかると「校長の野郎、ふるえあがっちゃって今日も知らん顔」』






最終更新日  2016.02.21 17:47:13
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2016.02.07
カテゴリ:大日本帝国興亡史
 一億総懺悔を首相である東久邇宮稔彦王(陸軍大将)が1945年8月17日の記者会見で主張、また9月5日の施政方針演説でも主張。

 「前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります」

 反省者に天皇・皇族が含まれていない、文中の「神」は天皇の意か。

 日本国民は戦時中に責任を取っている、責任を取らないといけないのは指導層たち及び其の周辺である。

 【1945年9月】-2

・09月02日:「天皇陛下が処刑されるかもしれない」、天皇の責任の取り方
・09月04日:8月15日から戦闘停止だったがミズーリ号で降伏調印式が行なわれた、国敗れて山河あり
・09月05日:復員して7日目だが一歩も外に出ていない、村には戦死者が多い復員後の挨拶回りに躊躇
・09月07日:新聞発表で陸海軍関係の戦死傷者数は8月現在で約15万7千人、死におくれた無念さが胸を打ってあるれた、大本営は「皇土には敵の一指も触れさせぬ」と言っていた
・09月10日:世話になった人、帰ってこない人
・09月13日:東条英機大将が自殺未遂、東条が公布した「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪科の汚名を残すこと勿れ」、復員船の乗務員としての誘いを断る
・09月18日:人前で戦場の話だけはしたくない、言葉ではとても説明しきれるものではない
・09月24日:畑仕事、戦場の情景、東条大将は生命をとりとめ新聞に「一発で死にたかった。時間を要したことを遺憾に思う。(略)陛下の御多幸を行く末までお守りしてどこまでも国家の健全な発達を遂げることが出来れば幸いである。責任者としてとるべきことは多々あると思うが、勝者の裁判にかかりたくない」
・09月26日:同級生の復員兵、同級生で戦死したのは6人、徴兵年齢の引き下げでの戦地での戦死
・09月27日:復員前の物資のぶんどり、全員ではないが士官・下士官・兵が行なった士官の方が大掛かりで巧妙だった
・09月30日:天皇はマッカーサーを訪問、新聞に写真が大きく出る


〓勝手に独断と偏見〓

 戦中・戦前に於ける日本人の意識の一つ「神聖にして侵すべからず」なる天皇を頂点とした美意識・選民思想が敗戦により崩れつつある。

 敗戦国の元首と国民の身の処し方が戦前・戦中の美意識とは異なる場合が表面化する、刑法から「皇室に対する罪」が削除されるのは1947年10月、治安維持法は1945年10月4日にGHQが廃止を要求したが東久邇宮稔彦王内閣は拒絶し幣原喜重郎内閣により廃止された。

 所謂「人間宣言」は1946年1月1日の詔書だが敗戦及び昭和天皇のマッカーサー訪問(訪問は1945年9月27日、会見写真は29日付の新聞に掲載)等により天皇=現人神の構図は崩れたと感じられる。

 阿南惟幾大将のように責任を果たして一人で亡くなった人もいると思えば、身柄を拘束されそうになって死んだ者、死ななくていい部下を引き連れて死んだ者、連合国に殺された者。
 哲学者の三木清は治安維持法で拘留され1945年9月26日に48歳で豊多摩刑務所にて亡くなっている。

 東条英機は身柄を拘束されそうになっての自殺未遂、東条が国民に主張していた美意識と正反対の行動だった。
 対米戦を行なわなければ日本人が日本人でなくなってしまうの美意識が戦争を始めた理由の一つではないのか。

 東条英機の自殺未遂と「戦陣訓」との差は日本国民にはきつかったと思う、指導層及び其の周辺は自らの責任を東条に押し付けるのをやりやすくなったのではないか。

 「砕かれた神」の9月13日では、東条の自殺未遂は「恥」として捉えられている。

 「軍人の最高位をきわめた陸軍大将が、商売道具のピストルを射ちそこなって、敵の縄目にかかる。これではもう喜劇にもなるまい。
 東条はこの失態によって、彼自身の恥だけでなく、日本人全体の恥を内外にさらしたようなものだ。おれは東条大将だけは連合軍から戦犯に指名される前に潔く自決してほしかった。あの阿南陸相のように責任者なら責任者らしく、それにふさわしい最後を遂げてほしかったと思う。」

 極東国際軍事裁判より殺された者には冤罪による判決があると思う、また死刑廃止論者は東条などに死刑が執行されたことに対して憤りを覚えていると思うがどうだろう。






最終更新日  2016.02.07 09:02:01
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2016.01.24
カテゴリ:大日本帝国興亡史
 【1945年9月】

 大日本帝国の戦闘は8月15日に完全終了ではない、以下は昭和天皇の命令(奉勅、勅諭)の一部。

・大海令第四十七号/昭和二十年八月十五日(抜粋)
 何分の令ある迄対米英蘇支積極進攻作戦は之を見合はすべし
──

・大海令第五十号/昭和二十年八月十九日(抜粋)
 一、大海令第四十九号に於ける一切の戦闘行為を停止すべき時機を海軍総司令長官指揮下部隊に在りては昭和二十年八月二十二日零時とす、但し支那方面艦隊に関しては追て定む
──

・勅諭/昭和二十年八月二十五日
 朕帝国陸海軍を復員するに方り朕か股肱たる陸海軍に告く
 朕深く時運に稽へ干戈をおさめ兵備を撤せむとす 皇祖考の遺訓を念ひ汝等軍人多年の忠誠を顧れは切切として胸次を刺す特に戦に殪れ病に死したる幾多の将兵に対しては□(りっしんべんに中)怛に勝へす
 茲に兵を解くに方り一糸紊れさる統制の下整斉迅速なる復員を実施し以て皇国有終の美を済すは朕の深く庶幾する所なり
 汝等軍人其れ克く朕か意を体し忠良なる臣民として各民業に就き艱苦に耐へ荊棘を拓き以て戦後復興に力を到さむことを期せよ
──

 小野田寛郎少尉の戦いは1974年(昭和49年)まで続いている。
 任解除の根拠となった命令には「尚武作命甲第2003号」もあり戦闘停止は「昭和二十年八月二十五日」となっているようだ。


 8月15日夕刻、駆逐艦早波の艦長が「天皇陛下におかせられては、ポツダム宣言受諾の御聖断をくだされ、本日正午ラジオを通じて降伏詔書を煥発せられた」(1945年9月4日の記述)

 20歳の渡辺清は1945年8月末に復員(海軍生活は4年半)、実家は農家で両親は健在、しかし彼の村の戦死者は非常に多く帰郷の挨拶をして回るのに躊躇、渡辺は生きている事に罪悪感がある。

 当時は就業者の半数ぐらいが第一次産業に従事していたよう、復員者の半数近くは渡辺清のような状況下だったと推察する。
 都市生活は一部の者以外は困難な時代、色々な意味合いのヒエラルキー逆転が起こっていたと想像する。

 「9月02日」は「天皇陛下が処刑されるかもしれない」、
 「9月04日」は「降伏調印式」、
 「9月30日」は「昭和天皇のマッカーサー訪問」

 渡辺は戦地から農村、仲間を殺した米英に敗北し日本は占領されている、順応に困難な状態。


〓勝手に独断と偏見〓

 米英に敗北した大日本帝国、「天皇陛下が処刑されるかもしれない」なる危機感は日本人の多くが持っていたと思う、日本国民の多くは天皇制を支持していたと思う。

 9月27日に昭和天皇はマッカーサーを訪問、二人の写真が新聞に掲載された、新聞社は掲載しようとし大日本帝国政府は反対、結局はGHQの意向により掲載されたと認識している。

 「9月30日」には写真の感想として、(日記は若干のタイムラグがある。)
 「モーニング姿の天皇は石のように固くしゃちこばっているのに、マッカーサーのほうはふだん着の開襟シャツで、天皇などまるで眼中にないといったふうに、ゆったりと両手を腰にあてがっている。足をいくらか開きかげんにして「どうだ」といわんばかりに傲岸不遜にかまえている。天皇はさしずめ横柄でのっぽな主人にかしずく、鈍重なで小心な従者といった感じである。」

 自分の子供達(天皇の赤子)を殺した親玉にどう対応するのかの視点が存在する。

 昭和天皇の初訪問では写真のインパクトが強い。

 「おれは降伏詔書を発布された直後に天皇陛下は自決するのではないかと思った。敗北の責任をとる手段といえば、さしずめそれ以外にない。開戦の責任者である以上、そうするのがむしろ当然だと考えたのである。
 ・・・
 天皇陛下は、御親率の陸海軍人がほぼ復員を完了し、人心が平時に復したときか、さもなければ連合国が軍事裁判を開く前あたりをその時期とみて、あるいは御退位するおつもりかもしれない。」

 「戦争は天皇陛下の御命令で開始され、惨憺たる敗北を喫したあげく、最後も天皇陛下の御命令で終止符がうたれた。そして、その間たいへんな犠牲者を出したのだ。天皇の名によっておびただしい人命が失われたのだ。畏れおおいことだが、この責任は誰よりもまず元首としての天皇陛下が負わなければならない。」

 戦後の日本に於ける加害者意識と被害者意識、自分だけが生きて帰って申し訳ないは加害者意識が強いと思う、新聞による天皇に対する一億総懺悔は国民が加害者が強調され加害者の加害者感は緩和されている。

 昭和天皇は加害者・被害者どちらを表明するのか、渡辺の生き方にとっても重要な事。






最終更新日  2016.01.24 20:07:58
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2016.01.10
カテゴリ:大日本帝国興亡史
 「砕かれた神―ある復員兵の手記―/渡辺清」は岩波現代文庫・評論社・朝日選書で出版されている。

 日記形式で1945年9月2日~1946年4月20日が記されている。

 「砕かれた神/渡辺清」記載の経歴によると
 渡辺清は1925年静岡県生まれ。1941年高小卒後海軍に志願(5月1日)。1942年戦艦武蔵に乗り組む。・・・1945年復員(8月30日)。・・・1981年7月23日死去。

 16歳の年に海軍に志願し翌年には武蔵に乗っている、天皇の為に米英と戦いたいとの考えての行動、軍人勅諭の精神を体し、忠実に大日本帝国兵士の本分を全う。
 しかし敗戦の翌年1946年4月20日の記述では戦後の天皇の言動に、「アナタの何もかもが信じられなくなりました。・・・服役中アナタから受けた金品をお返ししたいと思います」


 天皇の意志の表明としての詔書、開戦・終戦の詔書。

 対米・英戦に対する宣戦と終結の詔書

・米國及英國に對する宣戰の詔書(抜粋)
 朕茲に米國及英國に對して戰を宣す朕か陸海將兵は全力を奮て交戰に從事し朕か百僚有司は勵精職務を奉行し朕か衆庶は各々其の本分を盡し億兆一心國家の總力を擧けて征戰の目的を逹成するに遺算なからむことを期せよ
 ・・・
 皇祖皇宗の神靈上に在り朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し祖宗の遺業を恢弘し速に禍根を芟除して東亞永遠の平和を確立し以て帝國の光榮を保全せむことを期す
──ウィキソースより

・大東亞戰爭終結の詔書(抜粋)
 朕は帝國政府をして米英支蘇四國に對し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり
 ・・・
 朕は茲に國體を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し常に爾臣民と共に在り若し夫れ情の激する所濫に事端を滋くし或は同胞排擠互に時局を亂り爲に大道を誤り信義を世界に失ふか如きは朕最も之を戒む宜しく擧國一家子孫相傳へ確く神州の不滅を信し任重くして道遠きを念ひ總力を將來の建設に傾け道義を篤くし志操を鞏くし誓て國體の精華を發揚し世界の進運に後れさらむことを期すへし爾臣民其れ克く朕か意を體せよ
──ウィキソースより


〓勝手に独断と偏見〓

 渡辺清は大日本帝国の統治者ある昭和天皇が現人神であることを信じ続けていたかったと思う。

 また、渡辺清は戦争に生き残った事に関して亡くなった人々に対し罪悪感を感じている。

 このような感情は誰しも持っていたのではないかと思う、人に責任を押し付けられない人は特に罪悪感が強く残ったのではないか、表舞台から去った人もいる。
 また、一人で自殺した人や部下を引き連れて死んだ人。


 昭和天皇は科学者の一面もあり進化論を信じていただろうし、自分が現人神では無い事も判っていたはず、自分の先祖が神でない事を認めていたかは知らない。
 天皇制の存続の為には必要と考えていたのかもしれない。

・終戦後の占領下での「昭和二十一年一月一日詔書」では(抜粋)
 朕と爾等國民との間の紐帶は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、單なる神話と傳説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且日本國民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる觀念に基くものにも非ず。
──ウィキソースより

 詔書で戦中・戦前の天皇や選民思想を全否定、これを信じて(建前であっても)亡くなった人々に対して天皇や皇族達は大日本帝国国民にどのように懺悔したのか。

 もし昭和天皇が、対米英開戦に反対することが正しいの認識であれば、靖国神社に祭られるのは戦争に反対し殺された人々だろう。

 必ずしも、共産主義者を肯定しているのではない。

 チャーチルが著書「第二次世界大戦3」p12にて共産主義者が『「資本主義的、帝国主義的戦争」を非難していたのが「今こそ第二戦線を」のスローガンを書きなぐり始めた。』、ソ連はドイツよりだったが独ソ戦が始まった為。
 ソ連以外の共産主義者はイデオロギー優先の感がある、米国の核兵器は悪い核兵器だがソ連・中国の核兵器はそうでもないの感覚か。

 「産経ニュース」によると、日本共産党の志位和夫委員長は2015年11月7日に核・ミサイル開発を進める北朝鮮と南シナ海で軍事的挑発を続ける中国について
 「北朝鮮、中国にリアルの危険があるのではなく、実際の危険は中東・アフリカにまで自衛隊が出て行き一緒に戦争をやることだ」
 と述べている。

 国民の判断がイデオロギーや宗教やエリート主義に偏るのはよくない。






最終更新日  2016.01.10 09:14:32
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2015.11.29
カテゴリ:大日本帝国興亡史
 閑話休題

 ポピュリズム(大衆主義)や平等主義を否定したエリート主義だった日本、日本国民はエリートに傅く奴隷のように感じた者もいただろう、一方的に大日本帝国が悪であると主張する者もいただろう。
 しかし、米国・英国・仏国・ソ連・中国の人権に対する姿勢や他国に対する対応と大きな差はあったのだろうか。

 大日本帝国のみが加害者とは思えない、基本はパワーバランスで成り立っているように思う。

 大日本帝国が敗北し、米国によるマインドコントロールが始まる。

 意識改革としては人権と国民主権が大きいと思う、人間は平等であり特権階級の廃止、国民の為に天皇・官僚・政治家・マスメディアは存在する。
 ヒエラルキーを正常な状態する意識改革が必要になる、男女は平等であり長男に優位性はなく権利も責任も平等。

 対米開戦に反対だったと言い出す人間、天皇の為に戦争で亡くなった人たちは靖国神社に奉られる。
 天皇が戦争に反対だったのであれば、戦争に反対して亡くなった人たちは靖国神社に奉られ、戦争に賛同した者達は奉られない事になる。

 共産主義者や国家神道に反対し殺されたり獄中死した者は靖国神社に奉られた者は多かったのだろうか。

 東條英機の内閣で対米戦が始まり、対中戦が本格化したのは近衛文麿内閣のとき、参謀本部や軍令部は軍を動かせても予算は動かせない。


 マスメディア・言論は国民を向いて情報を発信していたのか、北朝鮮のメディアが戦意時中の日本と言われる事があるが戦時中のマスメディアのようなものが正しいのではないか。

 ポピュリズムを大衆迎合の意で使用し、大衆迎合の政治を否定する者も存在する、大衆迎合の反対語はエリート主義ではないが、国民の声を封印するような閉塞を感じる。

 マスメディアは国民と権力者(エリート層)の接点のように思う、しかしTPOによって立ち位置を変えている。

 生きていく事が重要は納得できるが、より大きな豊かさを求められると天下りと同じではないかになってしまう。

 国家存続の危機と憲法を守るのどちらが重要かと問われると危機を乗り切る事が重要だが、政治家を信じるのは長期は怖い、国民が憲法で制御できない権力や自分達の利益を優先する団体は危険だ。






最終更新日  2015.11.29 19:29:23
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2015.10.18
カテゴリ:大日本帝国興亡史
 敗戦後の日本で占領軍は間接統治を行なう、大日本帝国憲法の改正も天皇が勅命で議案を帝国議会に審議を命じている。

 連合国最高司令官が大日本帝国政府への要求はポツダム宣言受諾による、国内に於ける法的根拠は「昭和20年勅令第542号」による、この時点で大日本帝国憲法は最高法規でなくなり、天皇は統治者ではなくなっていると思う。

◇「ポツダム」宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件 (ウィキソースよりの抜粋
 昭和20年勅令第542号
 公布: 昭和20年9月20日
 施行: 昭和20年9月20日 → 附則
 貴族院承諾: 昭和20年12月8日
 衆議院承諾: 昭和20年12月18日

 朕茲に緊急の必要ありと認め樞密顧問の諮詢を經て帝國憲法第八條第一項に依り「ポツダム」宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件を裁可し之を公布せしむ

 御名御璽
 昭和二十年九月二十日

 勅令第五百四十二號

 政府は「ポツダム宣言」の受諾に伴ひ聯合國最高司令官の爲す要求に係る事項を實施する爲特に必要ある場合に於ては命令を以て所要の定を爲し及必要なる罰則を設くることを得

 附則

 本令は公布の日より之を施行す
──


〓勝手に独断と偏見〓

 敗戦後の占領下に於いてヒエラルキーの逆転が部分的に行なわれている。

 GHQは全てを決定できるわけではなく、米国や連合国の意向も尊重しなければならない。

 平等と基本的人権が重要視する日本国の再構築が行なわれる。
 もしマスメディアが報道の自由が戦時中に於いて著しく阻害されていたと主張するなら、マスメディアが権力や圧力に屈するのは当然が前提となる。
 戦後の権力はGHQへと移行する、新聞を購読するのは大多数が国民であるため権力にするよるだけでは上手く行かない、国民が不完全な情報で賢明な判断をする事が重要。

 特権階級はGHQやマッカーサーの意向だけへの工作では十分ではない、戦前・戦中の天皇ほどマッカーサーはオールマイティイではない連合国の意向も尊重しなければならない、天皇制の存続と極東国際軍事裁判に向かっての工作は重要である。

 占領下のマスメディアに関して、マッカーサーと昭和天皇の並立写真を新聞掲載、読売新聞の労働争議、「閉ざされた言語空間/江藤淳」等をベースに調べればと思う。


 戦争中に指導部が国民に知らせなかった不都合な真実をGHQが公表、「真相箱」は其の一つと思う、戦時中は何処の国も国民に不都合な真実を知らせているとは思わない、有色人種に関しての差別は存在する。
 当時の日本は国民主権ではなく米国から見て封建的な国で人権に関して米国より劣っていると考えられていたのだろう。

◇『「真相箱」の呪縛を解く』より(抜粋・纏め)
△原子爆弾が広島に投下されたとき合衆国世論はどんなものでしたか/原子爆弾投下とアメリカの世論
 合衆国では世論投票が非常に盛ん、連合国が勝利を博した前後のあわただしい頃には、原子爆弾に対する世論を正確に調べようとする人はいなかった、しかし総ての主要新聞、雑誌の特集記事の題材となった、また協会の説教の題目ともなった。
 意見は2つに分類できる、原子爆弾の使用は容赦し難い且つ全く弁護し難い、原子爆弾は戦争を可及的速やかに終結させる手段で小型爆弾を連続投下して破壊するのと道義的差異はない、原子力エネルギーの動力化は科学の一大発展であった。
・クエーカー派ウィリアムペン大学学長セシル・ヒンショウ博士
 野蛮な、非人道的戦争方法、その使用は許しがたい
──

・仁科芳雄博士は1945年8月7日夜に玉木英彦に置手紙をしている、仁科は広島へ調査に向かう。
 置手紙の一節には広島に投下されたであろう原爆に関して記されている。
 「米英の研究者は日本の研究者、すなわち理研[理化学研究所]の49号館の研究者に対して大勝利を得たのである。これは結局において米英の研究者の人格が49号館の研究者の人格を凌駕しているということに尽きる。
 ・・・
 理論上の次の問題を検討して置いてくれ給え、
 『普通の水の代りに重水を使うとしてらウランの濃縮度はどの位で済むか、またそのウランの量は如何?』」
──

 仁科博士とヒンショウ博士はスタンスの違いか、『「真相箱」の呪縛を解く』の解説には朝日新聞の細川隆元編集局長は終戦の5日前の情報局総裁談話により「戦局は最悪の状態」なる情報を新聞社だけが知らされていた、が記されている。

 科学者でもある昭和天皇は理研で原爆の研究が行なわれていた事は知っていたし原爆とは何かを知っていたと推測する、原爆は一発逆転の武器として期待されていたと考える。






最終更新日  2015.10.18 22:52:53
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2015.09.21
カテゴリ:大日本帝国興亡史
 「情報局」は1940年12月6日~1945年12月31日の間存在した。
 情報局総裁は外務官僚出身者が多い、例外は終戦前後に総裁を務めた緒方竹虎(元朝日新聞社副社長)と下村宏(元朝日新聞社副社長、元日本放送協会会長)。

◇「情報局」/ウィキペディア(抜粋)
 情報局は、1940年12月6日に発足し(第2次近衛内閣)、戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に、内閣情報部と外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局検閲課、逓信省電務局電務課、以上の各省・各部課に分属されていた情報事務を統一化することを目指して設置された日本の内閣直属の情報機関である。

 国内の情報収集、戦時下における言論・出版・文化の検閲・統制、マスコミの統合や文化人の組織化、および銃後の国民に対するプロパガンダを内務省・陸軍省・海軍省・大本営陸軍部・海軍部などと並行して行った政府機関である。「内閣情報局」とも呼ばれるが、公式名称は「情報局」である。

・任務および組織
 国策遂行の基礎たる事項に関する情報蒐集、報道および啓発宣伝
 内務省警保局の検閲(日本における検閲参照)業務の引き継ぎ。
 新聞紙その他の出版物に関する国家総動員法第二〇条に規定する取締と処分(掲載の制限または禁止)
 ラジオなどの放送無線、電話による放送事項に関する指導及び取締
 映画・蓄音機レコード・演劇・演芸の国策遂行の基礎たる事項に関する啓発宣伝上必要なる指導および取締

 総裁-次長の下に第一部(企画 - 情報収集、調査)、第二部(報道 - 新聞、出版、放送)、第三部(対外 - 宣伝、報道、文化活動)、第四部(検閲)、第五部(文化 - 映画、演劇、芸術等)および官房を置いた。
 第四部と第五部は統合、簡略化され、1944年には戦時資料室(国内動向と敵国動向の調査)を置いた。

 内閣情報部所管の「新聞雑誌用紙統制委員会」(1940年5月設置)による用紙の割り当て・配給統制を通じて、全国の新聞社・出版社に対して影響力を行使し、記事の内容への介入など言論統制を図り、今に至る「一県一紙」を目指す新聞統制を指導した。
 1942年には各県の新聞はほとんど一社に統合され、現在の新聞社はこの際の統合をルーツとする会社が多い。
──


〓勝手に独断と偏見〓

 清沢洌に「日本思想界の独裁者」と呼ばれた鈴木庫三(1942年4月に情報官ではなくなる)の人物像の断片。

・「新東亜建設と融和事業/鈴木庫三陸軍少佐」/中央融和事業協会機関紙『融和時報』第164号(1940年7月1日)
 之[新東亜建設]がためには満州や支那に対しても融和同化の皇道精神を以つて臨まねばならぬことになる。
 是に於いて国内の情勢を顧みるに、日本国内の融和は果して名実共に完成して居るかどうか。
 未だにくだらぬ迷信や感情に捕はれて同じ血を分けた同胞を差別視する様な馬鹿者は居らぬか。
 歴史的にみるも数学的にみるも、日本民族は過去3千年の間に、天孫民族を主流として完全に血液の連鎖ができて居るのだ。
 又我国史を精査すれば半島や支那民族との血液の連鎖もある。
 之程明瞭な証跡があるのにくだらぬ迷信や感情に支配されて居るのは、大国民の態度でもなければ文明人の態度でもない。
 一日も早くかかる謬見を捨てて真の融和を完成し、半島に及び台湾に及び満洲、支那に及ばねばならぬ。
─「言論統制/佐藤卓己」p10~

 軍人の多くが酒・芸妓等の宴会接待を喜ぶ傾向を示し、言論出版界は彼らの御機嫌を伺い利権を得る、鈴木庫三は之には批判的であった。
 しかし軍と言論出版界の関係が饗宴を当然とした上での関係で、其れを否定することは困難だったようだ。

 また、この時代に於ける日本人の天皇家を中心とする選民思想は建前あるいは本音で一般化され其れを前提に考えると上記の鈴木庫三の主張はまともに思える。

 この時代、天皇制を否定する者は共産主義者の中でも一部だったと推測する。

 この時代に於いて言論出版界が鈴木庫三に対して行なった事に関し言論出版界は嘘も方便的な言い訳を行なっている、鈴木庫三著『世界再建と国防国家』朝日新聞社刊(1940)があるようだが、朝日新聞社は素晴らしい内容だとは敗戦後には主張しないだろう、むしろ出版せざるをえない状況だったの主張になると推測する。

 鈴木庫三を「日本思想界の独裁者」と主張するのは、国民総懺悔ではなく全ての責任を少数に押し付け自分達は被害者の主張になる。






最終更新日  2015.09.21 07:57:53
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2015.09.06
カテゴリ:大日本帝国興亡史
・鈴木庫三(1894年1月11日 - 1964年4月15日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍大佐。戦時中、情報局情報官として言論統制を行っていた人物として知られる。清沢洌曰く、「日本思想界の独裁者」。
─(「ウィキペディア:鈴木庫三」より)

・清沢 洌(1890年2月8日 - 1945年5月21日)は、ジャーナリスト、評論家。長野県生まれ。外交問題、特に日米関係の評論で知られ、またその太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたことでも名高い。
─(「ウィキペディア:清沢 洌」より)

 終戦の3ヶ月前に亡くなった清沢洌は「戦争日記(暗黒日記)/清沢洌」にて、清沢洌及びその周辺では「赤(共産主義)」≒「平等」の意として使われている、彼らの様なエリート層(知識階級)には「平等」を嫌っている者がおり無知な労働者と知識人には上下関係が必要と考えている。

 戦中亡くなった人の日記は編者がいじらなければ、戦後の言い訳や編集が入ってなく貴重。

◇「清沢洌の戦争日記(1942年12月9日~1945年5月5日)/作成者: 石井彰文」よりの抜粋
<1943年>
・6月18日:嶋中雄作君の話し。
 近くの奥さんが交番に呼ばれ、「女中を使うなどは賛沢だ。明地(ママ)があったら、産業選
手(ママ)に貸してやれ、掃除などしなくてもすむだろう」といったという。
 右のような話しから見ても、社会の根底に赤化的流れが動いていることを知り得る。

<1944年>
・3月21日:先頃、避難荷物の検査があった。その検査官は、出入りの大工梅村であった。我等の隣組長を従えて、挙手の礼をして「よくできました」と讃めて行ったそうだ。
 ワイフは「今までは、勝手口から出入りするのにも遠慮しましたのにね」という。

<1945年>
・4月20日:沖縄戦が景気がいいというので各方面で楽観説続出。株もグッと高い。沖縄の敵が無条件降伏したという説を僕も聞き、瞭も聞いてきた。中には米国が講和を申込んだというものがある。
 民衆がいかに無知であるかが分る。新聞を鵜呑みにしている証拠だ。それは東京のみではなく地方でもそうらしい。

・4月28日:正宗白鳥氏を訪う。・・・無知の農夫や労働者が、高い闇相場の金をとって、しかも王者のように威張り通す。

・5月1日:。「どうしてドイツは頑張れなかったろう」と、どこでも不思議な問題として話しあっているそうだ。
 新聞が、常に優勢らしく伝えるので、一般人にはそれが分らなかった。そして突如として現出した事件のように思うのだ。

・5月2日:坂本氏(坂本直道:元満鉄パリ出張所長)のところに寄る。また、たまたま鳩山一郎氏あり。ティータイムに御馳走になりながら、ここでは極めて愉快に話す。
 鳩山氏は「赤」が中心になっているといった。坂本君と共に「赤」を極端に嫌っている。
 坂本君は東郷茂徳氏が外相になる前に立ち話しをしたことがある。東郷は戦争終結にソ連に期待しているようであった。ソ連をして口をきかせるために、樺太をかえし、共産党の公認等を条件とすれば充分だろうといったという。
 坂本君はこれが反対で、もし左様なことをすれば、岡野(野坂参三の別名)の如き共産党員が乗り込んで来て、国内を滅茶苦茶にするだろうといった。
──底本:橋川文三編『暗黒日記』


〓勝手に独断と偏見〓

 「今までは、勝手口から出入りするのにも遠慮しましたのにね」、ここから知識人の平等を主張する大衆に対する怒りが伝わってくる。

 現在に於いて「ポピュリズム」が「大衆迎合」として使われる場合がある、使う人は自分達は大衆ではないの意識があって使うのだろう。

 「清沢洌の戦争日記」からは戦前戦中に於いて特権階級や知識人等のエリート層(言論界・マスメディアを含む)は大衆を下に見て大衆と接しているように思える。
 彼らは平等や基本的人権の尊重を望んでいたのだろうか、雰囲気的な優位な立場や既得権益を放棄する者は少数派と理解している。

 しかし敗戦のような問題が発生すると大衆の責任を主張し自分達は加害者にもかかわらず被害者ズラをする、最も被害が出ているのが大衆であるにも係わらずだ。

 芥川龍之介の友人が自分達も大衆だと言ったの記憶がある、私は自分を大衆の一人と言えるんですよ偉いでしょうと主張している感があり、自分達は大衆の上位が前提の主張と感じる。

 陸軍の兵士は軍の中では多数を占め農民出身者が多かっただろう、陸軍は天皇の下に於ける日本人の平等を目指していたのだろうか、そして知識人やマスメディアは其れを「赤」として反発していたのだろうか。






最終更新日  2015.09.06 16:59:36
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2015.08.09
カテゴリ:大日本帝国興亡史
 「敵が万が一にもわが神州の地に来襲し来らんにはわれらは醜虜の辱めを受けんよりは肉親合刺し互に祖先の血を守つて皇土に殉ぜん」

 上記は毎日新聞朝刊(1944年2月23日)の一節で「戦陣訓」の一部を切り取り独自の解釈をしているように見える其れとも信念の披露か。
 この日の毎日新聞は「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」を主張。
 「竹槍事件」も見方でイメージが異なり陸海の利権争いを利用した報道姿勢があり逞しくもある。

 当時、戦闘機は陸軍・海軍が所有し日本空軍はない、海洋の担当は海軍で陸地上空附近の担当は陸軍と認識している。
 毎日新聞の主張は当時の正論と推察、毎日新聞は制空権を維持できない海軍(陸軍ではなく)に人・物・金を回せと主張していると思う、記事を書いた海軍省担当キャップの神名丈夫を陸軍は殺そうとし海軍は守ろうとした。

 このとき東條英機は内閣総理大臣・陸軍大臣・軍需大臣を兼任し参謀総長でもあった。


 戦後の1949年、中央公論4月号等では

◇鬼畜の言葉/宮本百合子/青空文庫(抜粋)
 四月号の『中央公論』に「極東情勢の新展開と日本」という座談会記事がある。
 ニューヨーク・タイムズ東京支局長リンゼー・パロット氏、AP東京支局長ラッセル・ブラインズ氏に対して日本人として鈴木文史朗氏が出席している、肩書はリーダーズ・ダイジェスト日本版編集長とある。
 座談会はロイヤル長官の談話そのほかいくつかのトピックで進められているが「切迫せる人口問題」のくだりで、鈴木文史朗氏はいっている。一年に百万ずつもふえている日本の人口問題の解決法がゆきづまっている。「理想的なやりかたは、ひと思いに何千万を殺すか、自殺かだ。」パロット氏「そんなことは出来ない。産児制限と国の工業化が解決の一助だろう」。重ねて鈴木文史朗は「大家族をもっている月給取りは子供の少い上役より月収が多い。これは一面子供多産の奨励のようなものだ」といっているのである。
 読売新聞の時評(美濃口時次郎)はいち早くこの卓見に同調して、労働者に家族手当を出すので子供を生む。家族手当をやめよ、賃銀を労働者一人の能率払いにせよ、と書いている。(五月九日)
─初出:「青年新聞」 1949(昭和24)年5月24日号


〓勝手に独断と偏見〓

 「鬼畜の言葉/宮本百合子」での

 「(切迫せる人口問題)、理想的なやりかたは、ひと思いに何千万を殺すか、自殺かだ。」
 「大家族をもっている月給取りは子供の少い上役より月収が多い。これは一面子供多産の奨励のようなものだ」

 主張する鈴木文史朗はウィキペディアによると「東京外国語学校卒業。1917年東京朝日新聞入社、パリ講和会議などで特派員として活躍。1942年常務。敗戦直後退社」

 現在の朝日新聞等の記者はこのような発言はしないと思う。

 ポピュリズム(大衆主義)の対義語であるエリート主義(資産、知、特別な訓練や経験、その他の属性などによって区別される個人の集団(エリート層)に対する信頼や態度であり、彼らが社会の中でより重要な役割を持ち、建設的な行動を行い、統治するに適した卓越した技術や能力や見識を持っている、と考える。)。
 (ウィキペディアより)

 戦中・戦後に於いて、新聞社の上層部はエリートに属しており、大衆はエリートの指導に従え、のような考え・感覚が前提にあると思う。

 何等かの権力や勢力をバックにしなければ主張できない場合もあると思う、戦争が常態化している環境で理想に近づく報道は困難だったと思う(現在は別の問題が在ると思う)。
 会社は存続し利益を生み出す事が重要、もちろん社員の生活に配慮することも必要、簡単に真実や正義の為に政府や軍部や進駐軍と戦うことはできない。
 主張を貫くためには自社の頭のすげ替えも辞さないの発想を是とする上層部は少数派だろう。

 自説を貫くというのは環境や主張内容によって尊敬できる場合もある、単なる頑固で融通性がはない場合もある、明確には分けられない。
 また自分・自分達の利益やプライドが重要(優先)は否定しがたい。

 自分も他人も信じることは難しい状態。

 戦時中に於いても海外の情報を得るには大使館や領事館に駐在する文官・武官からの情報や新聞会社の海外拠点を通じての情報、海外放送等が指導層・エリート層には流れていたと確信する。
 自分・自分達にとって不利な情報や損をする情報は流さないがあると思う、情報を精査し真実に近い報道を行なうことは困難なのだろう。

 戦後直後の読売新聞社の読売争議や日本新聞労働組合連合によって新聞の体質は改善されたのだろうか。






最終更新日  2015.08.09 08:40:57
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