靖国の論点に勝手な意見-5
『判決に対するささやかな意見-3』(敬称は基本的に略します) 「東京裁判/朝日新聞東京裁判記者団」を主に参考にしました 人を罪人だと断定するのは、生半可な事ではできない。 誰かがそういった、「東京裁判」の判決は正しいでは納得できない。 では、私が判断できるかというと、出来るはずもない。 「東京裁判」のやり直しを誰かやってくれないだろうか、 「女性国際戦犯法廷」のやりかたは好まない、 七名の罪状は、無理やりの感を持つ。 無責任だが、私が調べれる範囲で、勝手なことを述べていく。 本音は、真面目に調べ出すと一日や二日で出来るものではないので、 何とか一度はまとめてみようと、妥協した次第。【個人判決と勝手な意見】■板垣征四郎(陸軍大将・陸軍大臣・関東軍参謀長・満州国軍政部最高顧問)□有罪訴因:01、27、29,31,32,35,36,5401.東亜、太平洋、インド洋地域の支配を確保しようとした事 (1928年1月1日~1945年9月2日までの共同謀議)27.1931年09月18日~1945年09月02日:中華民国に対する戦争(満州事変)29.1941年12月07日~1945年09月02日:アメリカ合衆国に対する戦争31.1941年12月07日~1945年09月02日:全英連邦に対する戦争32.1941年12月07日~1945年09月02日:オランダ王国に対する戦争35.1938年の夏期中:ソ連に対する戦争(張鼓峰事件)36.1939年の夏期中:蒙古人民共和国・ソ連に対する戦争54.1941年12月07日~1945年09月02日:戦争法規違反〓判決のまとめ〓●第一次近衛内閣の陸軍大臣(杉山元の後任として1938年5月より)○中国に対する攻撃は激しくなり拡大した○中国政府を打倒し、傀儡政権の樹立決定の閣議に参加した○汪精衛の傀儡政権の樹立をもたらした準備工作に責任があった。○中国の占領地域を開発するとりきめに参加した。●平沼内閣の陸軍大臣○中国に対する戦争の遂行と日本軍の軍備拡張について責任があった。○ハサン湖でのソ連に対する武力行使の承認を得た。○ノモンハンの戦闘中に大臣だった●1945年4月から終戦まで第七方面軍を指揮(司令部はシンガポール)○ジャワ・スマトラ・マレー・アンダマン・ニコバル諸島・ボルネオを防衛した○捕虜・抑留者の死亡・苦痛に責任がある〓勝手な意見〓●「第一次上海事変」 『別冊 知性』特集「秘められた昭和史」の「上海事変はこうして起された」では 当時の関東軍は「満州国の建国」を画策しており、「国際連盟・列強」の注意をそらす事を 上海駐在武官補佐官・田中隆吉少佐は関東軍参謀の板垣大佐・花谷少佐から依頼を受ける (依頼者は奉天特務機関長土肥原賢二大佐という資料もあり) 田中隆吉少佐は中国人を雇い日本人の僧を狙い撃ちさせた(一人死亡、二人重傷) 「第一次上海事変」のきっかけとなった。注)『別冊 知性』で田中隆吉が述べたものの要旨、「戦争責任/家永三郎」記載より注)「田中隆吉尋問調書」には、記載は無い(見つけていない)。●板垣は陸軍をまとめ、中国との戦いを収める為に陸相となったが、拡大を進めていく。●満州事変は主に石原莞爾と板垣征四郎により行われた。 満州事変・第一次上海事変に関して本人の言い分はあると思うが、 敗戦国としては、指摘されたら反論しにくい事項に思える。■土肥原賢二(陸軍大将・第12方面軍司令官・陸軍教育総監・シンガポール第7方面軍司令官)□有罪訴因:01、27、29、31、32、35、36、5401.東亜、太平洋、インド洋地域の支配を確保しようとした事 (1928年1月1日~1945年9月2日までの共同謀議)27.1931年09月18日~1945年09月02日:中華民国に対する戦争(満州事変)29.1941年12月07日~1945年09月02日:アメリカ合衆国に対する戦争31.1941年12月07日~1945年09月02日:全英連邦に対する戦争32.1941年12月07日~1945年09月02日:オランダ王国に対する戦争35.1938年の夏期中:ソ連に対する戦争(張鼓峰事件)36.1939年の夏期中:蒙古人民共和国・ソ連に対する戦争54.1941年12月07日~1945年09月02日:戦争法規違反〓判決のまとめ〓●連合国以外の国の人々に対する「戦争法規違反」が問題とされている〓勝手な意見〓●「田中隆吉尋問調書」に於ける「土肥原賢二」○土肥原と阿片・麻薬の関係 土肥原は1935年前後に奉天特務機関長をしており、 当時の特務機関は阿片・麻薬で大きな力を持っていた。○「泰緬鉄道」の労働者集めの責任者 マレーでの労働者集めの責任者は土肥原○土肥原の華北分離工作と冀東・冀察政権 土肥原は華北に二つの自治政権をつくった、両地域の首長は支那側によって選ばれた。 彼等に関東軍は金を貸した。 結局「泰緬鉄道」関連が直接の要因になるのか。■松井石根(陸軍大将・中支那方面軍司令官)□有罪訴因:5555.1941年12月07日~1945年09月02日:戦争法規違反(米・全英連邦・仏・蘭・中華民国・ポルトガル・ソ連の軍隊と捕虜)〓判決のまとめ〓●1937年12月13日の南京市攻略○長期にわたる日本陸軍の無力の市民に対する残虐行為○12月17日に松井は南京に入城し5日か7日間滞在した。○松井は残虐行為を緩和する事をしなかった、あるいは効果が無かった。○松井は南京市の占領前に行動を厳正にせよという命令を出したが、効果がなかった。〓勝手な意見〓 「南京事件」は、規模に関しては不明確、通常とは違った占領下での無法が行われたのは確か。●『Wikipedia』によると○「中支那方面軍/司令官:松井石根」は 「上海派遣軍/司令官:朝香宮鳩彦王」と「第十軍/司令官:柳川平助」に別れ 「上海派遣軍」「第十軍」はそれぞれ複数の師団を持つ○南京で開かれた戦犯裁判軍事法廷では、 「第十軍」に属する「第六師団長の陸軍中将谷寿夫」が起訴され死刑 谷は申弁書で虐殺は「上海派遣軍」に属する「中島今朝吾部隊(第十六師団)」で起きた、「第六師団」は無関係と申し立てている。●「東京裁判資料 田中降吉尋問調書」の「第14回」「松井岩根」では、○「南京事件」は松井大将の命令ではない。○何が起こっているか知っていた、止めさせる事はできなかった。○松井は関係者の何人かを処罰したが、田中の判断では軽いものだった。○1938年末「第十六師団」の「中島今朝吾」は「蒋介石の住居から大量の珍宝を持ち出した」後に蒋介石に返した○松井は残虐行為をしたと考える部下に中島を挙げ、「第十六師団」は日本人経営者の商店の襲撃さえしたと言った。○田中の挙げる残虐行為をした名前:谷寿夫将軍、佐々木到一中将、柳川の名前で呼ばれた派遣軍、朝香宮軍○南京の虐殺行為は憲兵隊により行われが、軍法会議は反対が多く実態が糊塗され、「第十六師団長の中島」は罷免された。○松井大将に対する軍法会議は、その上官が容認しなかった、参謀総長は否認した責任がある。 ●「第十軍/司令官:柳川平助」は1945年1月22日に病死●「第十六師団長:中島今朝吾」は1945年10月28日に死亡■木村兵太郎(陸軍大将・陸軍次官・ビルマ方面軍司令官・関東軍参謀長)□有罪訴因:01、27、29、31,32、54,5501.東亜、太平洋、インド洋地域の支配を確保しようとした事 (1928年1月1日~1945年9月2日までの共同謀議)27.1931年09月18日~1945年09月02日:中華民国に対する戦争(満州事変)29.1941年12月07日~1945年09月02日:アメリカ合衆国に対する戦争31.1941年12月07日~1945年09月02日:全英連邦に対する戦争32.1941年12月07日~1945年09月02日:オランダ王国に対する戦争54.1941年12月07日~1945年09月02日:戦争法規違反55.1941年12月07日~1945年09月02日:戦争法規違反(米・全英連邦・仏・蘭・中華民国・ポルトガル・ソ連の軍隊と捕虜)〓判決のまとめ〓●中国との戦争と太平洋戦争との遂行に目立った役割をはたした。●ビルマ方面の司令官として○捕虜を使った戦争法規で禁止された作業を承認した○捕虜を艱難と死亡をもたらす作業を承認した○戦争犯罪を防ぐ十分な措置をとるべき法律上の義務を故意に無視した。○「泰緬鉄道」の建設に於ける捕虜の使用は木村により承認・伝達された。〓勝手な意見〓●「田中隆吉尋問調書」に於ける「木村兵太郎」○補録7 東條陸相下に於ける木村次官は、重要な決定はいっさいしなかった。 次官に相談する事無く、しばしば局長達は大臣と直接接触を持った 佐藤将軍がドゥーリトル麾下の飛行士の処刑を報告した際、陸相・次官は反対した。 「泰緬鉄道」での捕虜使用の決定に木村が発言権を持たなかった。 「泰緬鉄道」の建設の木村の責任は「土肥原大将」と同じ。○「泰緬鉄道」の建設 ビルマに於ける労働者集めの責任者は「木村兵太郎」 陸軍次官:1941.4.10-1943.3.11(1944.2かもしれない)「東京裁判資料 田中降吉尋問調書」の、「第22回」「泰緬鉄道の建設」に於いて 『ビルマに於ける労働者集めの責任者は川辺正三と木村兵太郎』 がある。 勉強不足で「木村兵太郎」を殆ど資料で見たことがない、 「A級戦犯」7名の内の一人としてが殆ど。 「木戸幸一日記(下)」にも他の6人は出てくるが、「木村兵太郎」は出てこない。 「泰緬鉄道の建設」に関しては、「戦争責任/家永三郎」にも「戦争犯罪」の例が記述されている。 罪が無いとは思わないが、「日本を代表して責任を取る」7人の内の一人とは思えない。 間違って7人の中に入ってしまったのではと思う。