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地方暮らしが変える12章(仮題)

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   海峡まで   加地慶子
                     
 水平線の光を溜める草原が、西側から町を覆うように広がる。河口の小さな港に出入りする渡船の汽笛が小さく聞こえる。草丈に隠れて道路も桟橋も見えない。港へは東側に並ぶ官舎通りを南へ進む。角の小学校をフェンスに添って右折すれば港通りである。いっきに視界が開けて海だ。
 庭から踏み石に上り、振り返ってもう一度草原を眺める。
 藤棚を透かして入る太陽が畳を染めて黄色い。天井まで満ちた日の色は四方へ微粒子を飛ばして光の箱になる。床の間の違い棚だけが濃淡の影をつくり、夏の終わりを告げる大気の揺らぎがある。
衣裳部屋のように散らかる衣類もときどき黄金色を放ち、布の色を消す。物語の羽衣のように舞い上がりそうだ。音は止まってしんと静まる。けさから小鳥もこない。
町から人が消えたのか。縁側に立って迷う搖(よう)を自身の心が急き立てる。早く着替えなければ。着替えて祖父の家へいかなければ。だが母と姉がいない。兄の部屋にいるのだろうか。兄は帰ってくるのだろうか。父も赴任先から戻っていない。
畳を踏むと草に触れる足裏が生温い。絽の着物を手に取って桔梗の青を羽織る。着丈は短く、不恰好にふくらはぎが露わだ。
不意にユキの笑い声があがる。止まらず、長々と笑い転げる。ユキは笑い上戸だ。ばかと叱って搖は薄い布を脱ぐ。着物は七歳の着丈に仕上がっているから、身幅だって合うはずがない。こうしてお気に入りは向こうからどんどん離れていく。そうではなく日々、成長する搖の方が捨てていく。手袋、ベレー帽、靴にマントもだった。
そんなものは母に比べたら小事だろう。母は嫁入り道具のすべてとともに、この官舎を捨てる。
娘の婚礼のために母親が自分で織った金糸銀糸の袋帯を母は、リュックサックに作り替えた。帯一本を持ち出す工夫を寝ずに考えた結果だ。母のそのアイデアにユキは拍手して手伝った。絹糸をしゅっしゅしゅっしゅ、しゅっしゅしゅっしゅ鳴らしながら縫い目を解いた。長い布が畳の上に広がる。母は型紙を当て、裁ち鋏で布を切り分け、肩紐二本とポケット五枚を作る。三枚接ぎの袋は裏表の二重仕立てで重い。ユキの背中に背負わせると金銀が輝く。モデルのユキは歩き回って泣き笑いしている。出発に際して持ち出せる荷物は一人一個と決められている。
兄の部屋の窓下に咲く菫、あれを持っていけないだろうか。シャベルで根ごと掘る。そして母の故郷の、祖母の家の屋敷の隅に植える。だが長旅に枯れるかもしれない。
リュックサックに入れてよいのは一冊だけと母は指示した。そんなものより大事なものがある。米と梅干と父の好物の金平糖だ。
母はユキに命じて炒り米を作らせた。ユキは裏庭にしゃがんで七輪の炭を燃やした。土鍋を載せ、しゃりしゃりしゃりしゃり米を鳴らした。それを晒し袋に入れる。母が縫った五枚の米袋をそれぞれが持つ。搖は一つ、姉と母が二つ。梅干しの小瓶と金平糖の缶も一つずつリュックに入れる。さらに用心深い母は天候の急変に備え、毛皮を持たせる。祖父の家の男が仕掛けて捕った狐だった。母のリュックに最初に入れたのは、勤務に必要なモーニングと三つ揃えだった。女子供の物は二の次、働く父が一番という母の考えは正しい。帰郷したら翌日から働かなければ、家族は飢える。
本を一冊、選ばなければいけない。校長官舎のアキヤマタカノリが朗読してくれた外国の詩集がいいと思う。挿絵があって長旅に向いている。自分の本箱から一冊を選ぶなどできっこない。どれも父が買ってくれただいじな本でどの物語も、自分の心と共にある。
「ぜんぶユキにあげる」
 ユキはぼんやりこちらを見てまた笑うのだ。
「わたしの本があるでしょう、あれを差しあげます」
 笑い止まないユキに言った。
「文字が読めなくても挿絵がたのしいわ」
 ユキはうなずいた。
母がやってきて急かす。左足を少し引きずるのは二歳のころの火傷のせいで、足先が内に曲がって小さくなっている。それを知らずに父は結婚した。
姉は自分の部屋で旅支度をしているのだと話す。姉は父母の故郷を知っている。兄と二人で一度だけ訪ねた。祖母は孫と二人で隠居所で暮らしていたらしい。母の父と跡取りの長兄は死に、隣家に次兄家族がいた。お行儀悪い子は祖母に叱られると姉は搖に言った。おとなしい姉は叱られなかったと兄も話した。そのことしか記憶にない。
父の実家は落ち神と呼ばれている。平家の落人が隠れていたという物語がある。しかし祖父の元の名は鎌倉だ。
裏山の高台には先祖の墓地があり、大小たくさんの墓石が並ぶ。行路人の小さな石積みも並び、姉はそれを嫌った。むかし巡礼の遍路人が死に、そのたびに墓地に葬った。無数の死者の骨が埋められた土地に行きたくない姉は、支度が進まない。わざとぐずぐずしているように見える。
「夜になると骨が燃えるらしいわ。青い炎がごうって鳴るそうよ」
 姉はその炎を見ていない。それなのに見てきたように語る。姉もユキと同じで搖を怖がらせる。
「早く綺麗なお洋服にお着換えなさい」
母は手染めの薄黄色のスカートを揺らし、ほらとユキを促す。母の箪笥には、庭で染めた布がたくさんある。官舎の主婦たちと集まって染めた布も母はユキにあげるのだろうか。そんな服は似合わないからユキは捨てるにちがいない。
ユキは花模様の夏服を掴み、乱暴に搖の頭から被せる。ホックが頬を引っ掻き、搖は痛いと叫ぶがユキはなお服を引っ張る。背中のボタンが外れていない。搖は自分で服を脱ぎ、ボタンを外して被ろうとして止めた。ユキに逆らい、白いレースのドレスを取る。ユキは笑い声を立てながらボタンを止めてくれる。束ねたユキの髪が光って匂う。嗅ぎなれた肌の匂いもある。ユキはこれからどうするのだろう。親はいないと聞いている。それも嘘かもしれない。ユキは嘘つきだった。藤棚の下に坐って悲しい物語を聞かせるのが好きなのだ。父親に殴られたとか母は川で死んだとか話して搖を怖がらせる。
 母は畳を這って服を集めている。抱えた服をユキに押しつけ、欲しい物は何でも持っていきなさいと笑顔で言う。ユキは戸惑って突っ立っている。
「ユキちゃん、小母さんたちにおあげなさい。アサキチがうまく売ってくれるわ」
アサキチはハイヤーの運転手で十年前、ユキを連れてきた地元の男だった。搖が生まれるときハイヤーに乗せてきてそのまま、ユキは小母さんと一緒の部屋に住み着いた。一年後に小母さんは出ていき、ユキは四畳半に一人、残された。
搖には都合よく、四畳半で寝てしまうこともあった。ハイヤーでやってきたときユキは十一歳だったから、躾にうるさい小母さんよりも搖は気楽だった。それに小母さんは色黒で痩せていたがユキは肌が白くてふっくらし、触ると柔らかい。ユキはくすぐったがって笑い声を立てる。あるときユキは乳房を搖の口に押しこんだ。舌に乳首が触れて搖は金縛りになった。ユキを押し遣ることもせず、じっと動かなかった。ユキもどうしていいかわからないように固まっていた。そのあと搖はユキの乳房のどこかを噛んだ。痛いと叫ぶユキに頬を叩かれた。母はユキの部屋で眠ることを禁じた。
 母は三日前から突然、はしゃぎだしたのである。
「そんなもの早くお脱ぎなさい」
自分も黒っぽい服を脱ぎ捨て、搖と姉にも着替えさせた。一度に家の中は明るく華やいだ。廊下の壁の電球も、どの部屋も、家じゅうに電灯の光が満ちた。
故郷に帰れる。母はそれがうれしいだけだった。染め布やレコードを捨てていくのも惜しくない。地元の男たちがきて本や家具を運び出しても執着を見せない。まだユキのほうが未練を見せた。アサキチが面倒見てくれると母が話しても、搖たちと一緒にくることを諦めていない。
女学校へ通っているとき母は、立ち寄った見ず知らずの遍路からこんなことを言われた。
「お嬢さんはきっと、海を渡りますよ」
 手相を見るのでもなかった。巡礼する女に縁先を貸して茶果を出しただけの女学生をただ見つめてだった。
 縁談がきたとき母は、遍路の言葉に誘導された。相手は海の向こうにいる。運命を感じた。役所に勤務する男で、親もその土地で果樹園やハイヤーなど事業を営んでいた。縁談の男が家業を弟に譲り、役所勤めしている点もよかった。自分の親は庄屋で農家だったが、自分は台所の手伝いもしない。机で本を開いていさえすれば勉強とみなされて声がかからない。初め進学に反対だった長兄は、
「お母さん、勉強なんかしていない、小説読んでるだけですよ」
 小説であれ何であれ読み書きは勉強、とすべてに優先して免除される。嫂のつくる弁当を持って女学校に通うような自分の無能を自覚している。
母の不安は父と兄のことだった。父は間もなく、普段通り帰ってくる。兄も死亡通知はきていないから、やがてもどる。自分が支度しているあいだに二人とも帰ってくる。帰れない理由がないのだった。
 搖は父母の故郷を知らない。まだ一度も訪ねたことがない。写真を見せられたこともなかった。突然そんな町へ引っ越すと言われても、ユキと同じように戸惑いがある。ユキは嫁にいくまでこの官舎で暮らすつもりだと藤棚の下で言った。死ぬまでいるんじゃないのと搖が問うと、笑い声をあげた。死ぬまでいたらどうなるか。搖の父母は死に、搖と姉は嫁にいき、自分だけが老女になって一人残ってしまう、そんなことになる前に出ていくと話した。アサキチと結婚すればいいと搖は言った。運転手は四十歳をすぎているから駄目だとユキは怒った。搖は運転手が好きだった。赤いテープを巻いた帽子が似合う。背が高く、帽子を脱いだとき、挿絵のように髪が茶色い。親のどちらかがロシア人かもしれないとユキから聞いた。
 レースのドレスをタカノリに見せたくなった。黒っぽい服を着せられるようになって恥かしく、みっともなかった。以前のような服が着られたことを知らせたい。詩集をもらいに校長官舎へいくとユキに話すとユキが母に伝え、それを聞いた祖父の家の男が、片付けの手を止めてやってきた。もう小学校へ行ってはいけないと言う。
五歳上のタカノリの部屋には、書斎から持ってきた外国語の本があって詩を朗読してくれた。日本語でアドリブを混ぜて搖を笑わせる。
別々の本を読み始めると二人とも、自分だけの世界に入る。日が暮れることもあった。そんなときはタカノリの父が歩いて家まで送ってくれた。背の高い細い体の校長は地面でステッキを鳴らす。
 幼いころ二人で外遊びをした。屋根に梯子が掛かっていてタカノリが上っていき、搖もついていった。途中で怖くなって降りようとし、足を下げたら予想よりも地面が高い。しかも下には庭石がある。
「ようちゃん、いま助けてあげますからね」と繰り返しながらぐるぐる回るタカノリの声が居間に届き、母たちが出てきた。そのときの助けてあげますが耳に残り、タカノリは自分を助けてくれる人なのだとずっと思いつづけてきた。それなのに校長一家は未知の町へ引っ越す。もう二度と会うことはないだろう。そういう悲壮感が大人たちに潜んでいる。
校長官舎へは母も一緒にきて、祖父の家の男とユキが付いてきた。両側に並ぶ官舎に挟まれた乾いた道は埃っぽく、高い煉瓦塀から食み出たサクランボの枝が、色づいた葉を光らせる。赤にも黄にも変える。いつも聞こえるピアノの音はない。もう誰もいないのだろうか。
 鉄道駅へ歩いて五分の官舎通りの入口に小学校があり、学校の敷地内に校長官舎がある。いつもは一人で行き来する官舎の並びは妙に静まり、皆がもう引き払ったように人の気配がしない。急に不安になる搖は母のドレスを掴み、擦り寄ってきたユキの手を握る。
運動場は赤土の粉を舞い上げる。遠くになだらかな山の稜線が石門から入って官舎へ回る。校舎のがらんどうの建物がガラス窓を並べる。運転手のいない自動車が一台だけ停まっている。
母が校長婦人と話したのは三分ほどだった。サイタマという町へタカノリたちは帰郷すると言う。住所を書いた紙を交換しただけでアフタヌーンティもなく、執着のない別れの儀式をする。もう会うことはないと理解した。校長はどこかから呼び出されたまま、もう三日帰っていないという。アキヤマタカノリとさよならをして校門を出た。
ついてきた男に急かされながら小走りで官舎へ帰る。ユキは手を引っ張って叱る。搖は歩くのが遅いと小母さんの小言みたいに言う。言い返さず、搖は走る。
祖父の家からきた男たちは去り、心細くなった。父も兄もまだ帰ってこない。女ばかり四人では物騒だからと、老人が息子と一緒にやってきた。はにかむ少年は父親の指示でさっそく家の周囲を見回りにいく。煉瓦塀の上に鉄条網を張るようで、父親の指示にうなずいている。父親を抜く背丈だった。
彼らはいつも、果樹園の番小屋にいた。高い櫓の台の上で一日じゅう、林檎や梨を盗みにくる者を見張っている。屋敷内に小さな家があって家族と住んでいた。母親と弟妹らしい子供を見かけたことがある。
老人が夜明かしするというので搖は安心した。
母は父と兄を待っていた。やがて帰ってくるはずだった。しかし祖父の家で待った方がよいと老人がいう。祖父からも電話があった。長男の父は家業を継がず、役所勤務を選んだ。長男の代りに家業を継いだ弟は病死したばかりで結局、祖父はすべての事業を捨てることになる。
土木技師の父は若いころ何度か転勤したあと、この官舎に入った。さらに別の町へ単身で赴任した。そこには秘密の重要な地下壕があり、多数の現地労働者が働いていたようだ。赴任先から帰ってきた父は、瞑想するように琵琶を奏でた。朝は神棚に向かって祝詞をあげる。かしこみかしこみもうしそうろうと搖は覚えた。
老人は母に、黒い服と着換えるように言った。搖も姉も再び黒っぽい服を用意した。その服の袖口や裾の折り返しをほどく母は、そこに紙幣を縫いこんだ。巧みに金を隠している。ポケットの口も縫い付ける。
老人が餞別だと言って包みを差し出す。母は床の間の琵琶を老人に手渡す。二人はなにか挨拶の言葉を交わした。涙ぐむ母を初めて見た。
居間の床が冷たい。テーブルも椅子もないだだっ広い部屋はもう暖められない。石炭を燃やす季節になっても灰は冷たいままだ。それとも誰かがこの家に住み着いて床が熱くなるほど石炭をくべるだろうか。でももう終わり、今年の冬、ユキは石炭をくべない、ユキと並んで搖が炎をながめることもしない、炎の前でユキが嘘話を語ることもない。
壁の書架に残った数十冊の本がばらばらに倒れている。画帳もあって挟まった薄い紙が食み出ていた。手に取ると姉の鉛筆画で、母の故郷から届く手漉きの和紙に、鉛筆と色鉛筆で描いたベビードレスとよだれかけだった。そのなだらかな曲線はいかにも姉らしい繊細さで美しい。姉は赤ちゃんが好きなのだろう。
夜、裏庭の蔵で物音がしたと言って老人と息子は、勝手口から外へ出た。母は窓際で窺い、ユキが窓から外を覗き、そのとき外の話し声が聞こえた。言葉はわからなかった。
ユキは窓を閉め、老人と息子が戻ってきた。老人の白い鬚に搖は初めて気づいた。髭は老人の一部でこれまで意識したことがなかった。そして老人が笑うのを初めて見た。母を安心させるために笑ったのだと搖は思う。
その夜は四人一緒の部屋で寝た。持ち出されてベッドはなかった。襖を開けた二間続きに、三人と一人に分かれた。ユキが一人になり、それからというものユキは四畳半へは戻らなかった。
そのときを機に、ざわついた町の気配が伝わってきた。搖は身をこわばらせた。遠くでガラスの割れる音がする。荷車が軋み、哄笑のような声が混ざる。翌朝早く老人は、門扉を丸太で補強し、鉄条網を張る。
校長家族が去ったという話を耳にした。訪ねて確かめたかったがそれは不可能だった。もう老人親子もユキもついてこないし、一人で抜け出る勇気はなかった。学校がどうなっているかを想像するのも怖ろしかった。
どれほどの時間が経っているのか何日を経ていまがあるのかもう、不明な日々があった。父は未だ帰らず、兄も戻らず、祖父の家にもどこにも電話が通じない。昼前には毎日、父の弁当を取りにきていた役所の男もこなくなった。彼と一緒に役所へいったことがある。小さな船で河口を渡り、向こう岸に着く。その日は父がいた。船室のような窓のこちらに机が並び、職員たちがいた。なにしにいったのだったか。
母はもう決心するしかなかった。
老人親子の同行で、女四人は官舎の町を出た。老人は自ら自動車を運転した。隣に少年がいる。スピードを上げる祖父のハイヤーは荷物があって窮屈だった。運転席の後ろで姉は口を利かず、唇を噛んで睨むような表情でいる。生真面目な姉を搖は尊敬していたが、近寄りがたいところがあった。ユキの方が親近感がある。できればユキも一緒に母の故郷へいってほしい。
あれほどはしゃいでいた母が、しだいに陰鬱なようすになっていた。ユキの柔らかさに縋るように搖は身を寄せる。ユキの体温を吸い取るようにくっついた。
鉄道の駅を過ぎ、水平線のある黄色い草原が去って市場の入口を掠めた。製錬所の煙突が見えたとき、自動車は停車し、方向を変えようとした。群衆の声が地面にわくようにあった。再び停ったとき運転手の老人が窓を開けてなにか話し、数秒でまた走り出した。息が止まる長い数秒だった。停車するたびに搖は震えた。また停まるのではないかと恐ろしく、道路に人影が見えるたびにユキの体を掴んだ。老人親子がいなかったら引きずり出されていたかもしれない危険を察知した。距離にして二十キロほど北へ向かう。
鉄道駅の南側にある果樹園の一郭に祖父の家がある。駅のそばの自動車部に立ち寄った。ハイヤーはどこかへ消えて車庫だけが並んでいる。車を降りることなく待たされて再び走りだす。制服の運転手はどうしただろう。すでに祖父の会社は閉鎖している。
祖父の家は人兵隊で溢れていた。座敷も居間も、カーキ色の男たちでいっぱいだった。玄関の三和土は泥に汚れたブーツで埋まっている。廊下にまでリュックやコートがあって土と皮革の匂いを漂わせる。彼らも南下してきてさらに南へ向かう。二、三十人いる。
だがそれは安心の元でもあった。不安に張り裂けそうだった搖にむしろ安堵を与えた。男たちは搖や家族にやさしかった。故郷の母親や妻や恋人、妹を重ねているのだと母が言う。彼らは自分の故郷の話をした。一人の男は祭の奉納芝居について語り、自分は女形だったと化粧のしぐさを披露した。一人は村から見える山の美しさを伝える。イワキサンと覚えた。しかし一人の男は怒鳴ったり泣いたりしていた。乱暴そうなその男に搖は怯えた。耳のほうまで毛が伸びて口の周囲も鬚に覆われている。庭の井戸端で男が小鳥の毛を毟っているのを見かけた。果樹園にくる鳥を捕ったにちがいない野蛮男は、人を殺したのかもしれない。
別棟の外風呂が男たちの入浴場だった。風呂の日は全員が外へ出て自分たちで支度をし、銘々が洗濯した。庭に張ったロープに破れた衣服がぶらさがる。
しゃがんでブーツを洗う者がいる。誰かが口笛を鳴らし、何人かはハタキや箒や雑巾を持って部屋の掃除をしていた。彼らは船が出るのを待っている。
祖父の家の女たちは彼らの食事の準備に追われた。土蔵に保存されていた食料は毎日、取り出されて人々の口に入った。
居間や座敷に集まる同じ服装の坊主頭の男たちは、車座になって喋りあっていた。おおぜいが集団で連行されたという話にもおどろかず、皆は聞き流した。伝言ゲームのようにつぎつぎと降ってわくエピソードだった。北のほうから南下する人々は襲われ、殺されているようだった。父がそのなかにいるかもしれないという想像にそれほど飛躍はなかった。父の赴任先には秘密の地下壕があるようだったから、襲撃されたかもしれない。妻が自宅で毛むくじゃらの野蛮兵に襲われ、夫と共に銃剣で刺された話も珍しくなくなった。なにがほんとうか嘘かわからない。そんな日々がつづいた。なにもかも実のない妙に明るい狂宴だった。
いつの間にかいなくなった姉が、夕暮れになっても帰らなかった。男たちが探しまわったが、果樹園にもいない。近所の学校にも姿はなかった。姉の消息の代りに集落の火災の話が入ってくる。集落が燃えているのだという。寄宿する男たちは交代で寝ずの番をしていたが、屋敷内の夜回りも始める。
姉は学校で支給された青酸カリを持っている。しかしそれは部屋の机に残されていた。母はそれに安堵したようだが、身に起きたなにもかにもに心が麻痺しているだけなのだ。青酸カリを持っていなくても安心とはいえない。
「敵がくる前に川に飛びこむ約束だった」とユキが話した。誰と約束したのよと母はユキを責める。皆がばらばらに尖った感情をあらわにしている。いっきに膨らみを落とした頬に影がある。せめて黒っぽい服を脱いでほしい。搖も脱ぎたい。父の着物で縫った服は着心地はいいが、暗い色に気が滅入る。
ユキと搖は屋敷から出て果樹園へ入る。まだ青い梨をちぎり取るユキは、丈夫な歯を果皮に立てる。唇にだらしなく果汁が流れた。
収穫を止めた林檎は木の上で赤黒く、朽ちて落ちたものは形を留めず、甘酸っぱい腐臭を放っている。老人の息子が近づいて言うのである。
「今年は駄目でも来年は収穫する」
そうなのだ。林檎も梨も春には新しい芽を出す。美しい花を咲かせ、青空の下に誇らしげに実を生らす。老人親子はなにごともなかったように、色づいた果実を収穫する。そういうことなのだろう。搖はそのことに気づいた。そうならないのはにんげんだけなのだ。自分たちはこの地の果樹を見ることはない。
樹木より高い番小屋に立つ老人は、こんなときにまだ平然と見回している。ときどき大声で叫んでいるのは、侵入者を追い払っているのだ。腐った林檎を盗みにくる者がいるのだろうか。
姉は川に流されたのだろうか。青酸カリは残っているから地元の誰かに助けられているかもしれない。ふと、川から引き上げた者に暴行されないか不安になる。もう警察も頼れない。すでにそんなものはないらしい。むしろ誰もが、自分たちの身が危険なのだ。祖父の屋敷も、いつどうなるかわからない。老人親子だっていつまでも主人家族を守りきれない。
祖父は帰郷を急かした。母は父を待っている。兄を待っている。姉を待っている。しかし祖父は乗船許可を待っていた。搖は父と兄と姉を待っていたいが、この地が恐ろしかった。家々が襲撃されたという話が伝わってくる。道端で襲われた母娘もいたようだ。
父はなにをしているのだろう。役所からも連絡はない。
家の中があわただしくなって男たちがいっせいに去った。いよいよ危険が迫っている。それは体感できる。祖父は皆を集め、使用人たちに金を渡している。ここにあるものはいずれ没収される、いまのうちに持ち帰れと命じる。番小屋の親子は中身ごと、箪笥を持ち出した。他の者たちもラジオや蓄音機や戸棚を運び出す。漆の器を入れた木箱を小母さんが欲しいと言って持ち帰る。琴やピアノがどこかへ運び出された。洋間の絨毯を剥がしたのは知らない男だった。男はガラス戸を外そうとして止めた。
ユキが台所でわあわあ泣いている。祖父の家の小母さんがみっともないと言って叱るが泣き止めない。泣けば搖たちと一緒にいけると思っているのかもしれない。それが可能なら搖も泣いて見せるが、とっくにわかっている。父も兄も姉も帰らないのに自分たちは去る。ユキを連れていけるわけがない。
この北の町は初秋だった。水平線の見える草原にコスモスが咲いている。
鉄道会社に勤務していた叔父が乗船許可証を持ってきた。北のほうでは人々が追われてこちらに逃げてくるらしいと情報を話す。なぜ逃げるのか搖にはわからない。襲撃で虐殺された者もいるという。急がなければ山中で雪に凍え死ぬ。早く早く、南へ南へと彼らはいまも歩いている。
搖は赤い靴を選んでその朝、足を入れた。黒っぽい服ではなく、小花模様のワンピースを着て鍔のある、黄色と青と緑と赤い糸模様の帽子を被った。老人親子が港まで同行するらしかった。鉄道の終着地には港がある。客船に乗りさえすれば母の故郷である。乗りさえすればと搖は念じる。祖父と叔父と叔母親子三人と搖と母の二人の七人が一緒だった。
南へ南へ進む座席のない鉄道は、床に犇めく人々を港へ向かって運ぶ。この鉄道に乗った者は荷のごとく、ただ運ばれる。断続的に停車した。人々は飛び降りて叢へ駆けていく。用を足し、米や芋を煮炊きすることもある。搖たちは、叔父が持ち帰った缶詰を開けて食事した。おおぜいのにんげんがいるのに静かだった。皆がひっそり、身を寄せ合っている。食べ物を分け合っているのは港に着けば、客船に乗りさえすればという期待があるからだった。現在の不自由は間もなく解消されるという希望、そのことが人々を鷹揚にしている。
途中下車した駅の町で、赤い靴を脱がされた。薄緑色の大きすぎる布靴を拒むと母は、そんな靴、船を下りたらいくらでも買ってあげると言った。母は故郷に辿り着きさえすればすべて問題解決すると思っている。搖もそんなつもりになった。いまの屈辱はいっときのもの、恥ずかしさはいまだけと言い聞かせた。父と兄と姉は、母の故郷に帰ってくるだろう。
港に着くまで、何度も途中下車した。皆で街へ出て食事を探し、たいていはレストランにも食べ物はなかった。汁粉のある店が見つかり、大喜びで食べたら、薄められて水のような汁にかすかな糖分の味がした。老人親子もついてきたがその町に危険な群衆はいなかった。老人親子はその町で戻ることになり、駅で挨拶した。母は心細げに涙を見せて別れを言う。祖父も二度、頭を下げる。もし搖の姉と兄と父が帰ってきたときは必ず、船に乗せるから安心してくれと老人は念を押す。また鉄道を南下した。
 港に着いても船はなかなか出航しなかった。乗船できず、近くの宿で待機した。一部屋一家族しか割り当てられず、祖父たちと折り重なって眠る。隣にユキの柔らかい体がないことに涙が出た。ユキはいつのまにかいなかった。どこで働いているのだろう。
港にいる金髪兵士のくれる缶詰を部屋で分け合って食べる。母は英語の本を借りてきた。タカノリの朗読を搖は思い出した。
やっと乗船が決まって長い行列に加わった。家と町を失った人々は無力にただ佇んでいる。財産は唯一、背中のリュックサック一つと決められている。母は衣服に縫いこんだ金が見つかるのではないかと怯えている。搖もポケットをさりげなく腕を回して押さえた。
けれども金髪兵たちは身体検査をしなかった。それどころか笑顔の若者は搖の頭を撫で、両脇を抱えて持ち上げた。一瞬だったが、見下ろす金髪が光った。川に飛びこんだらしい姉は勘違いしている。彼らは襲ったりしない。生きていまここにいれば姉もそう気づくだろう。それを知らずに逃げた姉の早とちりが悔しい。行列の後ろで男の声がする。
「異国に配属された若者たちは、故郷の母や妹を思い出しているのだろう」
船の客室はベッドもテーブルもない大広間だった。人々は床に腰をおろすしかなかった。吹き抜けの階段にも人が坐っている。搖は母のそばに場所を確保し、階段を見上げる。回廊を歩く人々が列になっていた。
「こんなにたくさん乗せて沈没しないのかしら」
 母がつぶやく。急に不安が立ちのぼってきた。港町で生まれても搖は海水浴が嫌いで泳いだことがない。河口を横断する渡船で赤十字病院へいくのも好きではない。始終、振動する不安定な船底へ引き込まれそうで怖い。地面に足を着けて立っていない、宙にある自分を想像すると鼓動が鳴る。
もし沈没したらどうなるのだろう。母だって女学生のころに海に入っただけときいている。
巨大な客船は出航した。眠っている間に港に着くと母は教えた。そうか眠ればいいと搖は安堵した。眠っていよう、眠っていよう。傍らの荷物に凭れかかって眠りを待つ。照明の少ない薄暗い船内に、なにとも判別できない声がはびこる。うめき、泣き、唸り、溜息、囁き、怒鳴り、その声は動物に似ている。自分たちはそう、動物の群れ。果樹園の外に柵で囲われて飼われる豚の群れ。あの子らは悲しくもないのにぶうぶう泣いてばかりいた。いつだって餌がほしくて泣いて訴えることしかできない。
 まどろみながら搖は姉を思い出している。左の眼球が少し濁っている斜視ぎみの姉は、体が弱かった。風邪を引きやすく冬は外へ出ないで、暖炉のそばで編み物や読書をしている。ピアノも上手だった。先生がやってくる日はいっそう音が冴えて響いた。
 河口を跨ぐ渡船で、姉が入院している赤十字病院へいった。姉は看護婦の注射を嫌がって泣いていた。体の大きな看護婦は姉の意思を無視して針を刺す。そして姉の左目は冒された。あの看護婦のせいだと母は憎んだ。止めてくれと言ったが外国女は医師の指示だと言って強引だった。
 退院してからも母は四〇日間、寝間着に着替えず、帯付けのままで看病した。注射を止めてやれなかった悔いが母にある。搖も怒りから、看護婦を憎んだ。関係ない祖父の家の女も似ている気がして冷たい感情を持つことがある。押さえつけられて注射針を刺された無力な姉が可哀想だった。
姉の腕の静脈は細く、看護婦は細いことに腹を立てた。針はなおうまくいかず、血を含み、皮膚は鬱血する。赤紫色の注射の痕跡を隠して姉はいつも長袖を着ている。
 搖は涙を流しながら姉を思い出す。姉は自分より、なにもかも優れている。
 体が揺れて目が覚めたとき母は胃を押さえて吐いていた。母は搖の夏帽子に口を入れている。あっと思っても声が出なかった。なにもかもが非常時なのだから仕方ないという感情が体の奥にある。平常はすでに消えた。非常に慣れている。
これでなにもかも失った。赤い靴とお気入りの帽子、桔梗の絽の着物、それにユキもいなくなる。
 大型客船は海峡のただなかで動物の群れを詰めて揺さぶられている。階段で転げ落ちる女、叫び声、回廊でも一塊に折り重なる。母は空っぽの胃袋を抱えるように荷物に凭れて体を支えていた。搖も荷物にしがみつき、体が床を滑らないように踏ん張る。姉は留まってよかったのかもしれない。こんな怖い思いをしなくてすんだ。姉に同行すべきだったという考えがうかぶ。アキヤマタカノリ、彼はもう海峡を越えただろうか。故郷へ辿り着いただろうか。兄と父はどうなっただろう。吐きそうになりながらもこらえることができていっきに思いが走りまわる。乾いた涙が皮膚につっぱる。
 母たちが大人だけで話している。どうやら故郷は焼け野原のようだ。爆弾で街は燃えたのか。家やビルや人が焔になって犬も猫も馬も、自動車と鉄道が火柱になって空へ昇った。搖はもう驚かない。祖母の家も焼けたのだろう。そしてなくなったのだろう。小石を積んだ行路人の墓のある落ち神に神はいなかった。外国の詩集の言葉だけが架空の地上に舞う。アキヤマタカノリの声だけが現実として空に響く。揺れる巨大客船は宇宙を流れる。もし難破船になったら地球のどこに沈むのか。
踊り場のあたりに少年と少女たちが一塊りに集まっている。まだ未就学の小さな子も混じっている。誰も泣いていない。ぼんやりした緩慢な動きで大人の指示を待っている。保護者とはぐれた子供らしく、搖は母の体に密着して離れないように注意した。母の眼の動きに素早く行動を察知した。母が立ち上がる気配で立ち上がる。眠るときはリュックと母の服を帽子のリボンで結わえた。
港に着いたら祖父たちと別れることに決まったようだ。母と搖は二人で母の故郷を目指す。祖父たちは東京の親戚を訪ねる。船内を駆け巡る情報では、そこに家も血縁者もいないだろう。それでもとにかく、そうするしかなかった。

客船は大きく揺れつづけた。すでに祖父たちは場所を移し、母と二人だけになっていた。空腹と吐き気と眩暈のなかで搖は死ぬのだと思った。もう母と抱き合うこともなく、胎児の形で床に転がっている。
ふと目に入ったのは円筒のガラス柱である。客船のホールを飾る熱帯魚が上下に泳いでいる。それは不似合いな不思議な装飾だった。あっけにとられて鮮やかな彩色の魚を追う。こんなときにと思うが日常を引きずって変えられずに放置された非日常だろう。
男の怒鳴り声に呼ばれ、搖は押されてデッキにいた。眼前に小型船が上へ下へ波頭に載って揺れている。足許は客船と小型船を繋ぐ俄か造りの桟橋で、荒れる波頭の白い海が覗く。早く飛び乗れと近くの誰かにまた怒鳴られる。躊躇していると知らない男に抱えられて搖は飛ぶ。波しぶきが降り落ちてくる。無数の水滴が太陽に光る。


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