-遺書・後編小さい頃、泣いている僕の手を引いてくれたのはシロウだった。僕たちはまだ同じくらいの背丈で、ささいなことで泣く小さな僕にあきれながら、シロウは僕に手をのばした。 『しょうがないな…ほら』 きっと僕は、その頃からずっと、シロウと一緒にいたかった。 『遺書・後編』 放課後。最後のチャイムが鳴った直後、僕はシロウの前に立った。 周りは掃除のため机を教室の端に寄せる音だとか、ホウキで斬り結ぶ当番の男子たちの笑い声とかで、さざめいていた。 シロウはその波の中で、僕ではない相手と笑っていた。けれど、僕が目の前に立つと一気に笑顔が引いた。 「シロウ。つき合ってほしい場所がある」 「やだ」 即答だった。シロウは薄いカバンをつかみ、教室を飛び出した。 「待てよシロウ!」 警官に追われる犯人が待つはずないように、シロウも待たない。それでも叫んだ。 事情を知らないクラスメートたちは、「がんばれよー」とどっちを応援しているのか分からない言葉をかけ、笑う。 そいつらへ向けての呪いの言葉を胸の内で吐きつつ、僕はシロウの後を追った。 「逃げんなシロウ!」 僕は頭脳労働派なので、走るのはあまり得意じゃない。それでも全力で走った。 おかげでリーチの差がある分、シロウとの距離は少しずつ縮み、校門を出てすぐのところで追いついた。 しかし、あと一歩の距離をのばした腕で埋めようとしたのを、 「来るな!」 と叫んだのと同時に投げつけられたカバンに阻まれた。 「…っ!」 それは見事に僕のみぞおちへヒット。僕はせき込みながら地面に屈んだ。 「ベンちゃん!?」 立ち上がらない僕に、シロウは数メートル行き過ぎた所で引き返してきた。視界に入ってきた足が、逃げたいけれど逃げられない混乱を伝えた。 「ベンちゃん?だいじょうぶ…」 どうしていいか分からないみたいにオロオロとさまよっていた手を、僕はつかんだ。 「あ。」 「…捕まえたっ」 がっちりと捕まえた。顔をあげると、シロウは耳を赤くして怒っていた。 「ず…ずりーぞ!ケガ人を装うなんて!」 「言っとくけどなっ、さっきのはマジで痛かったんだからな!」 「はなせー!」 シロウが僕の手を解こうとめちゃくちゃに振り回す。 「ちょ…シロ、話を」 「みぎゃー!」 僕はもう片方の手も掴み、シロウを引き寄せた。 「話を聞け!」 思わず怒鳴りつけていた。 するとシロウはビクリと肩を大きく震わせて固まってしまった。 僕はまた、失敗をしたことに気づいた。 「あ…ごめん…」 握った指の力をゆるめる。しかし手を離せなかった。 「…放せ!」 「ただ…病院、つきあってほしいだけなんだ」 「なんでオレが…腹壊したんなら一人で行け!」 「頼むから。ついてきてほしい」 じっとシロウの目をのぞきこんだ。 シロウは何かを言いたいみたいに口を開いたけれど、言葉にならなかった。 目をそらしたのを了解の証だと解釈する。 「ついて来てくれる?」 「……」 僕はゆっくりとシロウの手を引いた。シロウの抵抗はなかった。 町田医院はこの町で一番大きな病院だけれど、系列があるほどの規模はない。それでも、小ぎれいな受付は平日の午後にしては人の出入りが多かった。 受付の白衣を着たお姉さんに言われるまま、僕は保険証を提出した。 「いつも持ってるのか?」 「ウチから準備してきた」 僕たちは柔らかい色のソファに並んで座った。ただし、ネコ一匹分くらいの空白を挟んで、だ。 言葉はなく、シロウは目を合わせない。看護婦さんから名前を呼ばれるまでの時間を長く感じた。 「…―勉さーん。診察室へどうぞー」 診察室に入る。整理の行き届いたデスクと、仕切のカーテンの向こうで待つ薬や看護婦さんの気配に、シロウは居心地が悪そうだ。 カルテに何かを書き込む修一さんの横顔は、町田香とよく似ていた。頭が良さそうなのは一緒で、彼女を男の人にして、トゲを抜いた感じだった。 初めて気づいた。よく考えてみれば、向かい合ったのだって初めてだった。あの時でさえ少し距離をおいて、しかも背中しか見ていない。 「…はい。お待たせしました」 イスを回して僕たちに向き直った彼の笑顔は、少し疲れていた。 それは、僕の希望がそう見せたのかもしれないけど。 「今日はどうしたのかな?」 シロウはもじもじと体を揺らす。事情も知らずに連れて来られたんだから当然だ。 「どうしたんだい?」 修一さんは穏やかに微笑んだまま、促すように首を傾げる。僕は意を決して口を開く。 「僕、今日は体の具合が悪くてここに来たんじゃないんです」 少し間を置いて、修一さんは穏やかに聞き返した。 「体の具合が悪いのじゃないなら、何の用でここへ?」 僕は一応、カーテンの向こうに看護婦さんの気配をかうかがった。修一さんにだけ見せなければならない。 「手紙を、届けにきました」 「手紙?」 「はい。真木さんからの」 瞬間、修一さんが腰を浮かせた。その勢いでイスが倒れ、大きな音をたてる。少し後ろでシロウが体をすくめたのが伝わってきた。 僕はカバンの中から、小さな封筒を取り出した。 「これは、一体…」 のばした指が震えていた。 「真木さんから託されました」 「き、君はエイタの行方を知ってるのかっ!」 修一さんが僕の肩をつかみ、揺さぶる。痛い。 この指が目が、偽りでないなら悲しいと、僕は思った。 「知りません。これに何が書いてあるかも知りません。本当に、ただ託されただけなんです。ただ…」 「ただっ?」 僕は修一さんの勢いに気迫されないように、偽りなく答えた。 「これは、自分の遺書のようなものだと思ってくれと」 僕の肩を掴んでいた指が解けた。 修一さんは糸が切れたようにイスに座りこみ、片手で顔を覆った。 僕は自分の役目の終わりを悟った。封筒を修一さんのデスクに置くと、一礼して立ち上がる。 「行こう、シロウ」 「え?あ、ちょっとっ」 来た時と同じようにシロウの腕を掴み、町田医院を出た。 何も受け取らず入り口を出ていく僕たちを、受付の看護婦さんがいぶかしげに見ていたけれど、誰も追いかけてこなかった。 「ちゃんと説明しろよ!」 空はいつの間にか夕陽の色だった。川の表面が空と同じ色に光って、揺れている。 「あの手紙なんだったんだよ!いつあんなの受け取ったんだよ!なぁ!?」 僕は黙ったまま、川沿いの道を歩いた。後ろでシロウが喚くのにも構わない。 「っ…ムシすんなっ!」 そしたらシロウがキレた。今度は飛び蹴りが背中に決まった。 「むぎゃっ」 助走も十分だったらしく、僕は前のめりに吹っ飛んで川に突っ込んだ。 「つ、冷てぇ…」 ついこの間まではこの川辺に足をつけて、アイスを食べて適当な話で笑っていられたのに。 季節は変わっていく。ゆっくりとでも、確実に。 シロウは自分が濡れるのも構わず川に入ってくると、僕に馬乗りになる。おかげでまた変な呻き声をあげるハメになった。 「むぎゅ」 「ちゃんと説明しろって言ってんだろ!?」 シロウは本気で怒っていた。ごまかしは許さないと、目が語っている。真っ直ぐと。 急に笑いがこみ上げてきた。 「なんだよ!」 「なんか久しぶりで」 「はぁ!?」 「シロウに殴られるのも、シロウから目を合わせてくれるのも」 シロウは虚を突かれた表情をした。 「…避けてたの、そっちじゃん」 夕陽の中でシロウが、力無くうつむく。僕はシロウに、そんな表情をさせたいわけではないのに。 「自信、なくて…」 まだ自分の中で整理ができなかった。うまく話せる自信がなかった。 「…頼まれたんだ。手紙を、若先生に渡してくれって」 「…あの人に?」 僕はうなずく。 「そう。真木さんに。あの人が、この町を出る前の日に」 小さなアパートの前で、走り去る軽トラを見送る真木さんを見かけた。シロウが隣にいない、一人の帰り道だ。 足を止めたのは、帰り道の途中にあるそのアパートの一室が、真木さんの住む場所だと知っていたから。その背中がそこへ消えるのをたまに見たことがあった。 しかし、小さな軽トラを見送る真木さんに何かの予感を覚えて、僕は自分の中の人見知りな部分を押さえ込んだ。 「こ…こんにちは」 振り返った真木さんは、いきなり見知らぬ中学生にあいさつをされて、面食らったように目をしばたいた。しかしすぐに笑って、あいさつを返してくれた。 「はい、こんにちは」 応えてもらえたことに僕はほっとした。しかし、すぐに次の言葉に詰まる。 「もしかして君、勉くん?」 けれど、話の接ぎ穂は向こうから投げられた。 「なんでオレのこと…」 僕が真木さんを知っているのはともかく、真木さんが僕のことを知っているなんて思いもしないから驚いた。 「あ、いきなりごめんね。僕の知り合いの女の子が、君たちのことを話していたから」 そう言えば、この人は町田家の食事を作っているのだと思い出した。当然、修一さんの妹である町田香とも知り合いのはずだ。 「その子がよく話す同級生の子に特徴が似てるから、もしかしてそうかなと思ってたんだけど・・・当たりみたいだね」 「オレも、あなたのこと知ってます。真木さん、ですよね?」 「よく知ってるね。オレって意外と有名人?」 そう真木さんは朗らかに笑った。大人だと思った。 言葉や表情が優しくて柔らかい。少なくとも、学校の女子たちや町田香よりは、ずっと。 しかし、改めて近くで見れば声やノド元、骨格は、見間違えるはずもないほど大人の男の物だった。 「今日は一緒じゃないの?」 思わず凝視していたから、少しぎくりとした。 「な、何が?」 「もう一人。いつも一緒に帰っているよね?」 何気ない問い。でも僕の胸は苦しくなる。 「シロ・・・アイツとはケンカ、しちゃって…」 「そうなの?いつ見ても一緒にいるからどうしたのかと思ってたんだけど」 沈黙が下りた。真木さんはアパートの階段の一段目に座り込み、ズボンの後ろポケットからタバコを取り出す。 真木さんがタバコを持っていたのが意外だったのと、それを自然にくわえる唇の形に、僕は見とれた。 僕の視線に気付いた真木さんが、一本僕に差し出す。 「いる?」 「いや・・・オレは」 少しドキドキした心臓を隠したくて、僕は首を振る。 真木さんは大人らしく、苦く笑う。 「そうだね。知らないでいられるなら、知らないほうがいいよね」 そうしてため息のように煙を吐き出した。 なんとなくだけど、真木さんは僕が口を開くのを待ってくれてるのが分かった。だから僕は、もう少し勇気を出してみた。 「引っ越し…ですか?」 「ん?ああ、アレか…」 真木さんは首の後ろをかきながら笑った。 「アレは知り合い。いらない家電とか家具引き取ってくれるって言うから」 それは多分、買い換えとか、そういうレベルではない。軽トラに乗せられた家具家電は、それさえあれば一人暮らしが始められるくらいの物が一式、そろっていた。 それらがこの場所には全ていらないもの、ということは。 「出ていくんですか?」 「…うん」 「若先生のせいですか?」 真木さんの手が固まった。注意深く僕をうかがう。 「…なんでそんなことを聞くの?」 「え、と…わ、若先生が結婚するから、クビにされたのかと…」 真木さんは納得したようにうなずく。細く息を吐き、肩の辺りの緊張を解いた。 「それもある。でもクビにされたんじゃないよ。自分で辞めたんだ」 真木さんは 「そうですか・・・」 僕はふいに、この、もうすぐ町からいなくなる人に話を聞いてほしくなった。 「真木さん、」 青少年の身の上相談、あるいはグチだと思われても、それでも真木さんの答えが聞きたかった。 僕と真木さんは似てなんかいない。でも多分、同じ何かを持っている気がした。 「…オレ、ずっと一緒にいたいヤツがいるんです」 「うん」 真木さんは優しくあいづちを打つ。 「オレ、ずっとそいつと一緒にいたいけど、一緒だったらきっと、傷つけて泣かすって分かってるんです」 「うん」 「なのに、離れる勇気がないんです」 シロウと一緒にいたい。でも怖い。 「真木さんなら・・・どうしますか?」 煙が流れた。 「…オレだって一緒にいたいよ」 もう答えてはくれない気がして、立ち去ろうとした時、真木さんがつぶやくように口にした。 横顔を盗み見ると、真木さんは宙を見ていた。その視線の先に見えるものは、僕では見えない。 「一緒にいたい人がいて、その人が望んでくれたら幸せだよ。でもダメだ」 首をすくめ、あきらめたように笑う。悲しい。 「一緒にいたら、ダメになるって、分かってる。そう思う」 「だから、出て行くんですか…?」 真木さんが僕を見て、うなづく。 「うん。オレならそうする」 それしか、僕にも残されていない気がした。 「でも、」と真木さんが言う。 「でも、それはオレの答えだから」 「え・・・でもそれじゃあ・・・」 ズボンの後ろを払って、立ち上がる。真木さんが僕の頭に手を置く。 「自分の答えは、自分で答えを出すしかないよ」 大人は突き放す。やさしい言葉と手で。 「・・・ありがとう、ございました」 僕は頭を下げた。自分で答えを出すしかないと。 「あ。勉くん」 真木さんが僕を呼び止めた。 「なんですか?」 初めて真木さんが口ごもる。視線が少し迷った後、真木さんは上着の懐に手を突っ込むと、そこから茶色の物を取り出した。 「こんなこと、君に頼むのはおかしいって分かってるんだけど…」 でも直接渡すワケにもいかないからと、真木さんは差し出した。 切手も住所もない封筒。表には、「町田修一様」とだけ書いてあった。 僕はそれを受け取った。 「もう、役目は終わったんだ」 シロウが僕を見上げてくる。 「それで、あの先生のトコに手紙持って行ったのか?」 「うん」 僕達は濡れたズボンとシャツのまま、歩く。靴だけはガマンできないから、脱いで手に持った。 裸足のまま歩く。並んで歩くのは本当に久しぶりで、でも最後になるかもしれなかった。 「・・・なぁシロウ」 「…なんだよ」 「オレのこと、見捨てていいよ」 シロウが立ち止まる。僕も立ち止まってシロウの視線を受け止める。 「…なんだよ、それ」 「だって、あんなことしたオレと一緒にいるの、もうイヤだろ?」 シロウが口ごもる。顔が赤いのはこの間、僕にされたことを思い出したせいだろう。 「ベンちゃん、オレ・・・」 「シロウがイヤなら、もう近づかない。約束する。だから・・・」 「ベンちゃん」 シロウの指が、僕の頬に触れた。シロウの指が、濡れていた。 「…ベンちゃん、泣きながら言たって、説得力ないよ」 「これは・・・勝手に出るんだからしょうがないだろっ…」 僕はシロウの指を払った。情けない。でも僕の意思なんて無視してあふれてくる。 「ベンちゃん。オレの顔見て」 「…何?」 いきなり顔の横を掴まれて、引き寄せられた。首がぐきりと鳴って痛かった。それよりも。 キスを、された。 水の匂いがした。それは瞬き数回分。短くて、長い接触だった。 「シ、シロ…?」 口を離したシロウが、にやりと笑う。 「仕返し。オレの初物だぜ」 僕は数歩ヨロけて、後ろにさがった。 「ねぇ・・・これ、どういう意味っ?」 「知らねぇ」 「知らないって・・・オレ、そんなの困るよっ」 「オレだって・・・困る」 シロウがまぶたを伏せる。シロウが自信を失うなんてことは、 「オレだって、これでもちゃんと考えたんだ」 シロウが顔をあげて、僕の目をしっかりと捕らえる。 「まだ答え出てないけど…でもオレ、まだベンちゃんと一緒でいい…」 僕を見て、確かめるみたいにうなづく。 「うん。一緒がいい」 どこかでまだ、ヒグラシが鳴いている。 沈黙を乱すように、シロウが叫ぶ。 「でもっ!またあんなことしたら、今度こそブッ殺すからな!」 耳を染めてそんなことを言うのが、かわいいと思う。僕は多分、どうかしている。 目が、熱くなった。 「なんでまだ泣いてるんだよ!」 「だ、だって…」 落ちてくる。次々と。止められない。 「止まんないよー・・・」 「泣くな!男のクセに!」 頭をはたかれて、頬を両側から引っ張られる。それでも涙が止まらなかった。 「しょうがねぇな・・・」 手を差し出された。 「・・・帰ろう」 僕は、差し出されたシロウの手を握った。 傾いた太陽の光が、僕たちの背中を射した。 真木さんのその後の行方とか、修一さんがそれを探したかどうかを、僕は知らない。自分のこともままならない僕は、他人を気にかける余裕がない。 最近は、ふとした拍子にわき上がる衝動とか、その後のどうしようもない罪悪感とかに苦しめられ、眠れない夜が多い。 けど今でも、シロウは側にいてくれる。そして、たまには手をつないでくれる。 |