.,(『ガジュマルの樹』番外編)「キジムナー?」 初めて聞く単語。耳慣れないその言葉に顔を上げた。 すると麦わら帽子を挟んで照りつけた太陽が瞳を刺して、一瞬目がくらんだ。 「…ああ。あの樹に棲みつく妖怪だとよ」 縁側に腰をかけた老人はそう言いながら、呑んだ煙を宙に向けて吐き出していた。 庭を指さすその動作で、日に焼けて節くれだった指の間に挟まった煙草の、煙も揺れた。この小さな島でも簡単に手に入れることができる平凡な銘柄だ。 低い位置から上にいる人間を見上げていると首が痛くなる。だから立ち上がろうとしたら、今度は屈んでいた腰の辺りを電流が走ったような感覚が襲った。 「っ……っ!!」 「だいじょーぶかー?」 老人は、痛みにうめいてしばし固まったこちらを気遣っている…ように見せかけて、実は面白がっている。丸くなった目元で丸分かりだ。 誰のおかげで強い日差しの中、こんな暑くてみっともない格好で、荒れ放題の庭を掃除してると思ってるんだ!悪態をつく。心の中でだけ。 老人は伊達に年を食っているわけでなく、だいたい口で言って負かされるのはこちらだった。 老人が煙を吐ききり、煙草を灰皿に押しつけた。 「少し休憩するか?」 大人しく縁側の、老人の隣に腰を下ろした。作業を始めて数時間。へとへとだった。 足元には引き抜いた草と根っこと土が、山をなしている。庭一面に根を下ろした雑草を、やっと半分刈り取れたというところ。つい一月前にも同じように掃除をしたのに、これだから植物の生命力はあなどれない。 土にまみれてドロドロになった軍手を脱ぎ捨てた。作業をするための道具一式と、日差しよけの麦藁帽子などと一緒に貸し出されたものだ。 手ぬぐいで汗をふいていると、ついと、表面に水滴の浮いたグラスがさし出された。 「ほれ。水分とった方がいいぞー?」 すぐに老人の手からグラスを奪い取って、あおった。よく冷えた麦茶が、乾いた喉に落ちていく。飲み干したら、すぐに花柄のプラスチック瓶からおかわりが注ぎ足される。 「干からびてミイラになったら、折角の男前も台無しだぞー?まぁ昔の俺には及ばねーけどな!」 のどを上下させているのを、老人はにやにやしながら眺めていた。 眉をしかめた。休憩時間は大抵、老人の昔話を聞かされる羽目になる。嵐の翌日、島の近海に現れた大物に挑んだ時の、命がけの武勇伝。共に青春を駆け抜けた、親友との友情物語などなど。 中でも特に頻出度が高いのは… 「それでハツさんがな…あ、ハツさんってのは俺のスウィートハートことだが…意味分かるかー?分かんないか?まだガキだもんなー!ハツさんの写真、見るか?ん?」 「いらねーよ」 「そう言うなよー。ほら!」 老人の妻の写真は、もう何度も見せられた。常に財布の中に亡き妻の写真を忍ばせている老人は、今時の学生より純真かもしれない…タヌキだが。 確かに、黄ばんだモノクロ写真の中、着物姿で微笑む女性は、老人が自慢したくなるのも無理はないほど美しかった。 しかし、彼女との出会いから、どのように口説き落として駆け落ち同然で結婚したかなどを、写真を見せられる度に聞かされる身としては、うんざりだった。 「こーんな美人、今時でもなかなかいないぞー?」 老人がのろけた顔で笑っているのを見ると、本当に絞め殺したくなる。代わりに、脱線しかけた話の筋を元に戻してやる。 「で?奥さんがどうかしたのか?」 「ん?ああ。そうそう!ハツさんはこの島より南で産まれて育った人でな。そこに伝わってる話らしい。ハツさんはハツさんのばあさんからこの話を聞いた。ばあさんはそのばあさんから、ばあさんのばあさんはそのまたばあさんから…」 「だからなんの話だ?」 ちっとも前に進みそうにない老人の話の、その先を促す。老人の家に通い始めて、自分は少し忍耐強くなった、気がする。 「だからキジムナーの話さ」 「そのキジムナーってなんだよ?」 「焦るな若人…一服いいか?」 ついイライラしてこちらが話に食いつくと、老人は一歩退く。懐から新しいパッケージを取り出して一本引き抜き、火を点す。 一口目をいかにもうまそうに吸い込み、吐き出す。その煙が消えていくのを確かめるようにじっくり時間をかけて、間を置く。 「…そう、古いガジュマルには、キジムナーって妖怪が棲みつくんだとよ。赤い髪で、海の魚を獲るのが得意でなー。特に魚の目玉が好きらしい」 「うへー…」 魚の目は嫌いだった。魚自体は食べられるのに、死んだ魚の目が不気味に思えて、いくら勧められても食べられない。それが好物だという妖怪… うろこに覆われた体にヒレのついた手足。赤い髪を振り乱す…しかし脳裏に浮かんだキジムナーは、なぜかこの間読んだ漫画に登場した半魚人になった。 「キジムナーは結構人里にもいるとかで、目ん玉のない魚があがると、キジムナーの現れた証拠らしい。棲みついたガジュマルの樹がある家を豊かにするってー話もある。人間と家族ぐるみの付き合いをしたりとか…あと嫁にもらったりもらわれたりとか、な」 「妖怪が人と結婚するのか?」 一瞬、想像をした。 人間と妖怪の婚礼…その間に生まれる子どもは…異形のもの。不気味な話。しかし老人は笑い飛ばす。 「妖怪と人間が結婚する話は珍しくないぞ?それにキジムナーは人間に近い姿らしいし…まぁ、島版の座敷わらしだなー」 「ザシキワラシ…って、なんだ?」 また知らない単語が出てきた。老人が驚いたように目を見開く。 「座敷童も知らねーのか?」 「しょーがないじゃん!…教えてくれる人間なんか、いねーから…」 保護者は悪い人間ではないが、だからと言って善良ではない。そして母親も…寝物語にそんな話をしなかった。 自分がまるで無知に思えて、なんとなくみじめな気分で俯いた。すると頭をぐしゃぐしゃに撫でられた。 「座敷童も妖怪だー。棲みついた家を豊かにするんで、ちょー有名だなー」 「…頭、触んな。ちょーってなんだよ!」 老人の大きな手を、乱暴に振り払った。それでも老人は傷ついた様子も怯んだ様子もなく、短くなった煙草を灰皿に押しつけて潰した。 「ガキは頭なでられると嬉しいもんだろ?」 「俺はガキじゃない!」 「ガキといえば!」 老人がいいことを思いついた風に手を打つ。 「そーいやこの間押入れを整理した時、孫の写真も出てきたんだ!ちょうどいい!ハツさんの写真と一緒に見比べてみろ!」 「いらねーって言ってんだろ!?」 しかし老人は、基本的に人の話を聞かない。 部屋の奥に引っこんだと思ったら、すぐに分厚い皮製のアルバムを抱えて戻ってきた。その行動力を持ってすれば、庭掃除に自分の手など必要ないのではないかと思うが…。 「かぁーわいーだろ?あの子はばあさんによく似ててなー。一等かわいいんだー。ほら!これは小学校に入学した時の写真だー」 広げたアルバムの一枚を老人が指さす。その動きにつられて、ついのぞきこんだ。 小さな少年だった。黒いランドセルを背負って、くしゃくしゃの髪でこの家の前に立っている。 その隣にも同じ少年を撮った写真が並ぶ。場所や服装はバラバラだが何枚も…数ページに渡って。 そして少年は、ページが進むたび少しずつ、年齢を重ねている。「孫」は、老人の語る話によく登場する。実際の孫はすでに成人して、この家にはいない。会ったこともない。 「…そうか?そんなにかわいいか?」 子どもは整った顔立ちをしていた。確かに老人の言う通り、老人の妻の血を引いていると言われたら納得できる。 しかし子どもは表情に乏しかった。どの年代においても共通している。これのどこがかわいいのか。 「このかわいさが分からんとは…目医者に行った方がいいぞ?」 目尻が下がっている。じじバカだ。それもかなり重症の部類。 「じーさんさー……じーさん?」 あきれていると、ふいに老人は表情を曇らせていた。指が、写真の表面を撫でる。 「いい子なんだ。けど、可哀相な子でな…」 可哀相? 老人の言葉が胸に、いきなり突き刺さった。 代わりにされているのか。自分が孫と同じように親のいない…どころか、親に捨てられた可哀相な子どもだから。だから、自分を拾って世話しているつもりなのか? 縁側の板を、爪で引っかいた。 腹立たしい。理由は分からない。けれどムカついた。 「…じーさん。話相手に飢えてんなら、その孫とやらを呼び戻せばいいじゃねーか?」 老人は家族のことをよく話した。そのほとんどが死んでいる。唯一生きているのが、この「孫」らしい。 けれど、会ったことは一度もない。島を出ていったきり、たまに連絡を寄越すだけだから…なぜ、帰ってこない? 「孫は、あんたに会いたくないのかな?」 老人を少しでも傷つけたかった。 「…確かにそうかもな」 老人の声は静かだった。ぎくりとした。 老人が新しい煙草をふかす。吐き出した煙は空に溶けた。 「でもな、ボーズ」 こちらを真っ直ぐに見つめていた。 「俺はな、あの子が幸せだったら、どこで生きてようと何をしてようと、それでいいんだ」 老人は笑っていた。日に焼けた目元に皺が寄っている。喉がかわいていた。 「ただ、一人ぼっちは寂しい…だから俺はこの樹を植えた」 「なんで…?」 妖怪の棲みつく樹なのに? 木陰を作る樹を、老人は見上げる。いや…本当はもっと、向こうを見ているのかもしれない。今はないものを。空の向こうを。 その横顔を隣で見て…急に背筋が寒くなった。 「この樹の下に帰れば…一人じゃないように、な」 目を逸らした。優しい表情。全てを受け入れたみたいな…それを向けられるのは酷く居心地が悪かった。 「お前もいつか、分かるさ。一生かけて一緒にいたい人間が出来たら、な」 「……分かんねー」 好きな女と結婚する自分、その間に子どもを作る自分…自分の家族。想像もできない。 「分かんねーか。はっはっは!」 撫でられた。先ほどよりもっと乱暴に。ぐしゃぐしゃぐしゃ、と。 「だから頭なでるなっつてんだろっ?止めろ…っ」 顔を上げたら、いつもの食えない老人がそこにいた。にやりと、イタズラを仕掛けた子どものように笑っていた。 「…お前も幸せになれよー?」 「…じーさんはどうだった?」 線香の匂い。昔から絶えたことはなかった。 このガジュマルの樹がある家にはいつも、鍵がかかっていなかった。 思い出せばそれは、とても何でもない時間だった。それでもかけがえのない時間だった。失って分かった。 尋ねる声に、答える声はない。けれど…― チャイムを鳴らしても誰も出てこなかった。縁側に回ったら、座敷に男が仰向けに横たわっていた。 すぐにそれが「孫」だと分かったのは、いつか見たアルバムの面影があったから。 頬に触れた。滑らかな肌。汗が浮いている。 当然だ。日暮れが近いと言っても、まだ外は暑い。悪い夢でも見ているのか、眉間に皺が寄った。 汗の玉を拭うと、ふいに男は身じろぎをした。 「じーちゃん…?…がじゅ、まる…?」 名前を呼ぶ声が、あまりにも寂しい。 胸が。痛かった。 「寝てなよ…大丈夫。あともう少ししたら起こすから」 額にかかった髪をすいたら、男の寝息は穏やかに整った。口元に淡い笑みが浮かんだ。まるで、子どものように。 そういえば。 黒猫を胸に抱いて写っている写真。それだけには、柔らかい笑顔があった。 約束を守ろう。 あの、ガジュマルの樹の下で交わした約束を…―― |