2019/07/08(月)22:02
友ヶ島の砲台跡
7月2日の友ヶ島訪問は、わずか二時間であったが
ボクにとっては貴重な経験であった
特に予備知識ゼロであったことも
余計に印象深かったようである
第二砲台跡(友ヶ島、2019年7月2日)
同上、反対側から
実物を見てどこに大砲が据わっていたのか
よくわからなかった
第二砲台跡の説明
紀州藩は幕末から、紀淡海峡を北上して大阪湾に
侵入する外国船を監視する目的で
友ヶ島に「友ヶ島奉行」を設置していました。
明治になり、国土防衛の重要性を増すなか
1889年、陸軍は淡路島の由良から友ヶ島を経て
加太に至る紀淡海峡地区に砲台群の建設を計画
淡路島の由良地区に11か所、友ヶ島地区に6か所
加太地区8か所に砲台を設置し
これらを「由良要塞」と称しました。
このようにして設置された友ヶ島の6か所の砲台のうち
第1〜第5砲台までが、ここ沖ノ島にあり
第1・2・5砲台は島の西端に設けられ
海峡にさしかかった船舶を待ち伏せ
真横から砲撃することを目的とし
また、第3・4砲台は360°の視界を持つ山頂付近にあり
長時間の砲撃が可能になっていました。
いずれの砲台も設置されたものの使用されることなく
終戦をむかえましたが、この第2砲台は終戦時に
以後の使用を禁ずる意図で爆破され
砲台右翼の第1・第2砲座は完全に破壊
左翼の第3・第4砲座は半壊の状態で
「第2砲台跡」として、今に残っています。
もう一度、友ヶ島の位置を確認(上図の一部拡大)
説明板を読み、これらの図を見て
ようやく砲台の意味がよく理解できた(上図の一部拡大)
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砲台について
明治時代大日本帝国陸軍により
外国艦隊の大阪湾への進入を阻止する目的で
沖ノ島5箇所と虎島に砲台が造られました。
第二次世界大戦までは機密要塞地帯として
一般人の立入は禁止され地形図にも
記載されていませんでした。
友ヶ島は要塞だったのです。
昭和に入り第二次世界大戦は航空戦主体となり
対艦用に造られた砲台は
一度も使用されたことなかったそうです。
その後は友が島全体が瀬戸内海国立公園になり
第2砲台以外は要塞施設跡が比較的良好な状態で
残すに至っています。
第3砲台は映画や雑誌などのロケで使用される事があり
2003年には土木学会選奨土木遺産に選ばれ
近代化遺産としての価値が高まりました。
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