堕天使のトリック

2009/03/25(水)23:33

偽キリストは経歴を詐称する。

文氏の説教をいくつか読み比べると、文氏の語る過去の経歴はとても信用できないものだと判ります。 「二人の牧師の反対」 統一教会を中心として、解放後に即時に韓国を中心とした最高クラスのキリスト教のあらゆる牧師、指導者と組み合って「新しい教会編成の為に努力しよう」と、そういう活動したんですね。 ・・・・・そういう解放直前に先生は、これ教会、最高のキリスト教会のその中心メンバー達と組み合って新しい発足をしようというような計画が神の摂理だったんです。 それで、李承晩大統領を中心としたその閣僚重要メンバー達を組み合って-その時の自民党だね。 それで自民党編成の時にそのような重要な要員の一人だったんだね。 年が若いんだね-その時ね、そういう摂理の時が来るんだから、最高クラスでもって組み合おうとした計画が二人の牧師の反対の為に、これは完全にやられてしまった。・・・・・ (1974年5月12日 僑胞に語られたみ言) 「イスラエル修道院」 ・・・・・神の方の立場に立った天使長的、洗礼ヨハネ的その人によって証されなければならない。 それが「金百文」という人なんだね。新約信仰歴は最高なんだね。霊的背景もあるしね。相当の基準にあったんだね。 それが白さんから続く「李龍道」から、自分がみんな霊的相続を受けたという話を聞いておるんだね。 そういう立場に立った男を丁度、四十五年の十月に会った訳なんだよ。 丁度その集団に先生が入るんだね。入って六ヶ月間奉仕する。 六ヶ月間は六千年の全ての摂理を愛さなければならないね。 そこに於いて修道院だからね。色々の修道士がおったんだね。 四〇名近くおったんだけど、その中に入って何も自分の行くべき道は「こう行かなければならない」という蕩減の道を蕩減するには蘇生、長成、完成過程でね。 ・・・・・丁度その所に入って、何も見るものもない姿でもって、そこで働いて朝早く、夕方は勉強する。 熱心に誰よりも代表的な働きをする。その集団の誰よりも負けてはならない。 そういうふうに認めた上で、誠を尽くした面に於いては会う途端に証しする訳にはいかない。 ある期間を通して、六ヶ月路程を通して、その中間にたまたま一九四五年の十二月二十五日だったね。 ある人を通して先生に祝福したね。ソロモンの王に対する祝福だね。 世界的ソロモン王の使命は再臨の主をいうんですよ。 そういうような祝福を受けて、それはもう自分なりにも驚いたね。 ・・・・・そういうような自分として使命を果たしたんだから、既成教会圏から色々摂理の御手を出そうとしても、それは出来ないし最後の一つとしてあったんだけど、金さんが先生に対して敬遠するような立場に立ったね。 まあその時丁度、韓国に於いてはね、自由党を編成する時はね、その編成する背後の一人の関係になった男だよ。 牧師さん達と、こういう関係になり既成教会の反対圏をみんな求めようとしてもみんなそうなっているよ。 (1971年9月21日 韓国に於ける近世の摂理的経路) 「自民党」と言ったり、「自由党」と言ったり、説教の度に党名が変わります。 文氏は自分が設立したと言うのに、その党名さえ知らないのです。 当時李承晩を応援した政党は1945年9月16日に設立された韓民党(韓国民主党)です。 韓民党は、日本の併合下で育った全羅地方の資本家・湖南財閥の金性洙(湖南財閥はこの時期の朝鮮唯一の民族資本と言える存在で、京城紡績、東亜日報、高麗大学なども湖南財閥系)が中心になって民族主義・保守系勢力を結集・組織した政党で、右派独立運動家・宋鎮禹が初代主席総務となります。 他に趙炳玉、金俊淵、白寛洙などが主要メンバーで、もちろん文鮮明の名前はありません。 <解放直後の七年期間(一九四五~一九五二年)> 解放直後は軍政時代でした。主権を立てようとすれば、三年の期間がなければなりませんでした。 政府樹立が一九四八年なので、解放直後より三年間の緩衝期間があったのです。 この期間にキリスト教と統一教会が連合して復興しなければなりませんでした。 ・・・・・統一教会を中心として、キリスト教が歓迎し、韓国が歓迎していたならば、どのようになったでしょうか。 瞬く間に、およそ七年の路程で、新教のアメリカを吸収できたのです。 七年路程を中心として一九五二年に世界史的な出発ができたならば、 先生が四十歳にさえなれば、世界のいかなる為政者も一つにまとめて、 一つの方向に向かって、地上天国の理念に移されていったというのが全般的な摂理観なのです。・・・・・ <韓国政界とキリスト教指導者の不信> 神様はまた、キリスト教が反対する可能性がある立場にいることを知って、内的に、霊的に、数多くの団体を準備したのです。 しかし、どんなに内的団体を準備したとしても、外的なキリスト教が国の形態を整えて反対する日には、イエス様に反対したユダヤ教とイスラエルの国と同じように、さっと回ってしまうようになっています。同じ運命の結果になるのです。 大韓民国において、自由党の時だけ取り上げてもそうです。その自由党を編成した五人の中の一人が、私であったのです。 私は、政治的体制を中心として、基盤をつかまなけれぱならないことをよく知っていたのです。 先生はその時、二十五、六歳の若者でしたが、この国の高位層の人々と手を結んで出発しようとしたのです。 皆さんが知っているように、その時の国防長官であった申性模を中心として、全般的な基盤をもって出発しようとしたことが外れたのです。 最高の基準で出発し、世界的な舞台に行こうとしたことが外れたのです。 もし、李承晩博士とその一派の何人かだけが、すなわち三人から十二人だけでも結束していたならば、その時必ず民主世界の主導国家であるアメリカが、この国に連結されて動くことができました。 最高の立場で出発することが神様から許された位置でしたが、二名の牧師ゆえに、すべてふさがれてしまったのです。 そして最高の牧師から切られてしまうことにより、最下位の道から復帰しなければならなくなりました。 その時、先生と因縁を結んで、先頭に立って仕事をした人が既成教会の有名な牧師でしたが、 彼は自分が、将来権力を握ろうという考えをもったために、先生を裏切りました。・・・・・ <金百文牧師と「イエス教イスラエル修道院」> 李龍道牧師を中心として三代を継いで続いた人が誰かといえば、金百文です。 この人が、信仰生活において、最高の立場まで上がっていました。 この集団は、洗礼ヨハネ格の集団です。 彼は、天から「一つの修道院をもて」というみ言を聞き、そして「再臨主を迎えることができる勢力を準備しろ」という啓示を受けました。 金百文氏と私は、カインとアベル、洗礼ヨハネとイエス様のような立場にあったのです。 金百文という名前が、それで出てきたのです。 ある人々は、先生が金百文の弟子だとか何だとか言いますが、先生が彼の弟子になるとはなんですか。 その人は、キリスト教の信仰をしていましたが、キリスト論ではイエス様が神様と同位の人だといいます。 根本をよく知らずにいます。けれども、その人は神霊の面では、当時の既成教会の、最高の信仰基準にあったことだけは間違いありません。 そして、当時、金百文は李承晩博士と近い立場にあったので、彼を洗礼ヨハネの立場に立ててみ旨を成すことができたのに、そのようにできませんでした。 (真の御父母様の生涯路程 2 韓国解放と摂理の出発より) 韓国統一教会の創立は1954年ですが(笑)、文氏は金百文を「洗礼ヨハネの立場」だと語り、李承晩と近い立場にあった金百文が文氏をメシヤと証しすれば、7年で天国ができたと語ります。 1940年代の朝鮮の全人口は2354万人。カトリックが15万人、プロテスタントが37万人。 しかし金百文はプロテスタントから異端とされた40人程度の神秘神霊集団の教祖であり、約1900年前の洗礼者ヨハネが、全ユダヤ中から「彼こそメシヤではないか?」と期待されたのと比較するのは相当な無理があります。 そして申性模は1949年に第2代の国防部長官を務めましたが、文氏はその時牢獄にいましたから、これもおかしな話です。 <イスラエル修道院上道洞教会> その集団に神様のみ旨があることを知って、先生が訪ねていきました。その時が、解放直後の、一九四五年十月でした。 先生が、一番最初にこの道を出発した時は、一九四四年から一九四五年です。 その時は、上道利教会で教会員たちを指導しました。 先生がその集団に行って、六ヵ月以上の期間、何をしたでしょうか。僕の暮らしをしたのです。・・・・・ (真の御父母様の生涯路程 2 韓国解放と摂理の出発より) 1945年10月16日に李承晩が帰国し韓民党と提携しました。 同年11月23日には金九をはじめとする臨時政府の主要メンバーが帰国しました。 文氏は1945年10月から6ヶ月以上、イスラエル修道院での修道生活「僕の暮らし」だったそうです。 文氏は日本で金九の連絡係を務めたと自慢していますが、せっかく帰国した李承晩とも金九とも接点はありませんでした。 それでは文氏は誰と建国の為の活動をしたのでしょうか? <三人の女性の証と金百文牧師の祝福> ・・・金氏が先生を祝福する前に、そこで先生を証した三人の女性がいました。 六ヵ月後に、金氏は天から啓示を受けて、彼は先生の頭に自分の手を載せて、 全世界のソロモン王の栄光が先生に臨むようになることを祝福しました。 三月の復活節を迎えて、彼の食口を中心として天の役事が起きたのです。 それで、自分に従うすべての食□たちの前で、先生を祝福してくれたのです。 洗礼ヨハネがイエス様に引き継いだのと同じ役事が起こったのです。白い服を着て祝福をしてくれたのです。 (真の御父母様の生涯路程 2 韓国解放と摂理の出発より) とても大事なソロモン王の祝福は「三月の復活節」の時だったそうです。 別の説教では「一九四五年の十二月二十五日だったね。・・・」と語っています。 文氏の説教は大事な話がコロコロ変わりますから信用できません。 原理講論には「責任のない自由はあり得ない」とありますから、文氏も自身の自由な発言には責任を持ってほしいものです。 その後文氏は5月に北に行き、再び南に戻るのは1950年のことです。 文氏、金百文、李承晩の関係は不明ですが、一緒に建国の為の活動をする時間的な接点は全くありませんでした。 文氏は自分を偉く見せる為には、辻褄が合わないことも平気で言う人物です。 そして皮肉にも彼自身の矛盾した発言によって、全てが「嘘」であることが判明するのです。

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