徒然草7段あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、 いかにもののあはれもなからん。 世は定めなきこそいみじけれ。 冒頭のこの部分が最も有名でしょうね ほぼ暗唱している人も多いと思います。 あだし野 というのは京都にある地名らしいです。 近松門左衛門の 曽根崎心中 には ”この世のなごり 世もなごり 死にに行く身をたとふれば あだしが原の夜の霜” とありますが 曽根崎は大阪でしょうから あだし野 と あだしが原 は別の場所かもしれません。 あだし に何か意味があるのでしょうか 露 や 霜 は すぐに消えてしまうはかないもの の象徴なんだと思います。 科学的には消えるのではなく 蒸発して目に見えなくなるだけですが 昔の人(というか今でも多くの人)は 見えなくなる=消滅する と考えていたのかもしれません。 つまり 露 が消えず 煙 が消えないように 永遠の命があったら情緒もへったくれもない という意味でしょう。 かげろふの夕べを待ち、 夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。 つくづくと一年を暮すほどだにも、 こよなうのどけしや。 飽かず、惜しと思はば、 千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。 住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て、何かはせん。 兼好はかなり知識人だったようですね。 情報の乏しい鎌倉時代に これだけの生物学的知識を持っていたのが驚きです。 命長ければ辱多し。 長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、 めやすかるべけれ。 そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、 人に出で交らはん事を思ひ、 夕べの陽に子孫を愛して、 さかゆく末を見んまでの命をあらまし、 ひたすら世を貪る心のみ深く、 もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。 それが人間 だと思うのです 仏教では煩悩だというけれど それは生物の本能でしょう |