かぽんのこだわり道場ミリタリー館

2006/06/24(土)09:35

愛国心教育に思ふ その2

教育時事(50)

 昨日も朝早かったためか・・・9時には子供と寝てしまいました。おもちゃの整備をする余裕も御座いません。なので、引き続きつまらん話の続きでも・・・(書き置きしておくと楽なのよねえ)  <愛国心を育む方法>  愛国心は制御不可能で自然発生的な「同族愛」と、コントロールが可能で意図的に操作できる「仲間愛」があるということを前回述べたが、当然その育み方は異なっている。  同族愛は、自然発生的なものであり強制的なものであるから、その契機付け的なことについては口を挟む余地はない。あとは、その同族愛の強さの問題であるが、それは自己と同族的な繋がりをいかに感じるか如何である。私たちは少なからず、親子だから兄弟だからという理由だけで、我慢したりあるいは援助したりした経験があるはずである。現在の世の中は、金と理屈ばかりがまかり通るにもかかわらず、なんら論理的な理由で説明できない血の繋がりで納得してしまうのである。さらに、近所の幼馴染みや雷おやじ、噂好きのおばさんなど嫌がおうにも付き合わざるを得ない隣人達がいる。中にいる時には気づかないが、いったん外に出たとき郷土の言葉や風景が懐かしく思えることがある。思いがけず、同郷の人と遭遇したときに感じる感情こそ同族愛である。  この同族愛を高めることは同族の事をいかに知っているかということに尽きるだろう。家族のことはもちろん、郷土、そして国家のことを知っていれば知っているほど、思い入れと郷愁がつのるのである。これを「伝統・文化」という。つまり、同族愛とは伝統・文化を学ぶことによって高まっていくものと言える。  もう一つの仲間愛はどうであろうか。集団とは何らかの要因があってはじめて形成されるものであり、その要因を突き詰めて昇華させていけばその結束力は高まっていく。その要因が同じ学級だからとか同じ会社だからといった比較的偶発的な場合であった場合は、その偶然性に神秘的なものを感じる事が出来るが、クラブ活動や政治組織、宗教組織といった自発的な集団であった場合には要因を昇華させていくことはなかなか難しい。言うまでもなく個々人の個性がある故、その考え方は千差万別となる。その不統一性をまとめあげるためには、法律やルールといったものを制定していく事が必要となる。同族愛の場合は無常の愛というもので我慢できるものが、仲間愛の場合はそうはいかずに、紙に書いた理屈が必要なのである。お互いがその理屈(ルール)を最低限守る事によって互いを信頼できるし、逆にルール外のことを我慢することにも納得できるのだ。  ただし、この仲間愛のルールは改変される余地があり、内外部の力によっていくらでも変更できる性質のものである。それは集団内のリーダーにとって不都合と思うこともしばしばあるため、強圧的なルールづくりにまで発展するケースがある。言うまでもなく、戦前の日本は天皇という神格をもって絶対的存在を作り出したし、ドイツはヒトラー、ソビエトはスターリンという絶対的恐怖でそれを支配した。これらは、仲間愛のルールの設定に同族愛を無理矢理に押し込んだ結果であり、結局の所大きな誤解と混乱を招いた。  この仲間愛を高めていくためには、ルール規制を厳しくしていくことに尽きる。自分の置かれた身に制限がかかればかかるほどその特権意識も向上していくからだ。そう言う意味で、国家という社会契約集団が法律改正という形で縛りを強めることは愛国心を高める効果となり、まさに的を射たものと言える。  また、前回書いた左系の論調である「愛される国づくり」を考えてみると、愛される国づくりが「互いに争いのない、住みやすい」という解釈であれば、まさにより厳しい規制を強めていくことに他ならないし、「自分の権利が行使される、奪われない」という意味であれば小泉首相の進めている規制緩和の流れとなり、逆に国家的愛国心は失われていくこととなる。  次回は、では私たち日本人はどのような愛国心を持って行くべきなのか、求められる施策について考えてみたい。(まだ続くのか!)

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