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カテゴリ:文化
橘樹官衙遺跡群 東京大学名誉教授 佐藤 信
地方支配の成立と展開を知る—— 律令国家の郡役所跡
川崎市で初めて国指定史跡となった橘樹官衙遺跡群の郡役所の遺跡である。律令国家は中央集権的に地方を統治するため、国・軍には国府・郡家という地方役所を置いた。国府は今の県庁、郡家は市役所にあたる。国富には中央貴族が国司として派遣され、郡家では地方豪族が郡司に任じられた。 武蔵国の橘樹郡は、一般的な郡とは違う来歴もつ。『日本書紀』の地方記事で、ヤマト王権の支援を得て、武蔵国造となった北武蔵野笠原直氏が大王に献上した南武蔵の四屯倉の一つ橘花屯倉が、後に橘樹郡となったのだった。大王直轄領の屯倉が、その後七世紀はカバに「評」の役所(評家)となり、それがさらに八世紀に「郡」役所(郡家)となった変遷が、遺跡によって具体的にわかるのである。郡司の刑部直氏は、ヤマト王権と密接な結びつきを持つ屯倉の管理者から標司・郡司となったこの地の豪族で、七世紀後期には影向寺の寺院や地方役所を造営した。開明的な氏族であった。律令国家の地方支配の成立と展開を知る上で、橘樹郡遺跡群は希少な価値をもっている。 また武蔵国は七七一年に東山道から東海道に所属替えされており、南武蔵の橘樹郡は、それ以前から東海道の相模国(神奈川県)と武蔵国(川崎市など神奈川県の一部・東京都・埼玉県)や下総国(千葉県)を結ぶ交通路として機能している。 郡家は、政務・儀式の場の郡庁、租税を収める国家的倉庫が立ち並んだ正倉院、郡司の官舎である郡司館、食膳を供給する厨、交通施設の駅家(うまや)、そして郡司氏族の氏寺でもある郡寺などから構成される。橘樹郡家では、正倉院、郡庁・館推定地のほか塔心礎石がのこる白鳳寺院の影向寺がセットで残っており、官衙遺跡群と総称される。また影向寺で出土した文字瓦からは、荏原評や都築郡など複数の郡が協力して造営されたことが分かり、南武蔵の地域的一体性もうかがえる。 この度、史跡整備の事業で、堀立柱の高床倉庫で茅葺の屋根をもつ七世紀後半の正倉建物が、建築士の精密な研究成果のもとに当時の候法で復元され、同時期の正倉建物群の配置なども平面的に整備表示された。評段階の正倉建物が復元されたのは、はじめてである。 ぜひこの建物を見て、古代の郡役所の規模を実感し、そこに勤めた郡司達役人や、正倉に稲穀を納税した当時の民衆の気持ちなどに、思いを馳せてほしい。 (さとう・まこと)
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Last updated
April 23, 2025 06:02:52 AM
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