浅きを去って深きに就く

2015/08/14(金)05:51

八風に動じない自分自身であること

御書講義(334)

今いる使命の場所で何としても勝ってもらいたい――大聖人は金吾に対して、「八風」に侵されない人こそが「賢人」であることを教えられています。 「八風」とは仏道修行を妨げる働きであり、「利(うるおい)、誉(ほまれ)、称(たたえ)、楽(たのしみ)」の四順と、「衰(おとろえ)、毀(やぶれ)、譏(そしり)、苦(くるしみ)」の四違があります。 (中略) 一般に人々が望み求めることが四順であり、いやがり避けることが四違です。 しかし、仮に四順を得たとしても、それは一時的、相対的な幸福に過ぎません。永遠に順風満帆の人生などありえないものです。凪のような日もあれば、怒濤の日もある。それが人生の実相です。 にもかかわらず、人間は世間体や格好、形式ばかりを気にして、内実をおろそかにしたり、世間の毀誉褒貶や目先の利害損得に風向きのままに流されてしまう。それでは、人生に襲いかかる苦難の烈風や、時代社会の激動の嵐も前には、ひとたまりもなくなってしまいます。 要は、八風に動じない「自分自身」であることです。      ◇ 八風に侵されない不動の人、すなわち、何ものにも揺るがぬ心で、絶対的な幸福を追求する人こそが「賢人」です。真の信仰者の究極の姿も、ここにあるのです。 では、誰よりもまっすぐに死を求め、広宣流布の戦いに挑んできた四条金吾に対して、大聖人は、なぜここまで事細かに「賢人の道」を教えられたのでしょうか。 それは金吾自身の人間革命、人間としての成長によって、問題を根本的に解決していくべきであることを教えられていると拝されます。 「賢人」とは一般的にも、正邪を峻別する力ある人を指します。本質を把握する力を持つ人ともいえましょう。 八風に動じない確固とした自信を築くためには、正邪を峻別し、幸不幸の因果を説く「法」と「師匠」の存在が不可欠です。 正しい法に説かれるままに、そして正しい師匠の指導道理に実践に励む。その「賢人の道」を貫き、妙法を根本とした生き方に徹するからこそ、諸天善神も守ると大聖人は仰せなのです。 (『勝利の経典「御書」に学ぶ』第17巻) 【四条金吾殿御返事(八風抄)―名誉会長の指針から】聖教新聞2015.8.4

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