浅きを去って深きに就く

2019/04/21(日)02:34

日々を丁寧に生きよう/崇峻天皇御書

友岡さんのセミナー(134)

「崇峻天皇御書」とも、「三種財宝御書」とも呼ばれる建治三年九月十一日づけの、四条金吾宛の書簡。   次のような一節があり、とても親しまれている書簡です。   設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ 一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ   人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ、   中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、   穴賢・穴賢、蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし。   日蓮大聖人の文章の特徴は、単に理屈を述べつらうところにあるのではなく、具体的な人の生き方として、結実するような文章、しかもとても日常的なことばづかいで、それが語られていることにあります。 「あなたが、地獄に堕ちるならば、私もともに地獄に堕ちていこう。はて、その場合、そこは地獄だろうか」という意味をいうのに、 設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ と語られる。   この具体的な、映像的イメージをともなった描写は、なかば強制的な説得力ではなく、あくまで日常的人生のリアリティ、体温をともなっています。ドラマチックな内容なのに、暑苦しくない。すがすがしさを感じるのは、そのためでしょう。   さて、本抄は、大聖人門下の四条金吾が、それまで不興をかっていた主君が病気にかかったことにより、医薬の心得あるものとして呼び出された、その経緯を大聖人に知らせたことに対する返事です。   わりと、四条金吾はこのような「順風」が吹いてきたように見えるときに、判断を誤ることが多いのでしょうか? 領地が減らされるかどうか、と言う不安がなくなった時も、外で酒を飲み歩いて、心許してもいい仲間を遠ざけるという、脇の甘さが目立ちました。 大聖人は、その時も、「酒を飲むとしたら、家で女房と飲むことが、衆生所有楽そのものではないか」というお手紙を認められています(御書p.1143)   この御書をみると、注意を促すことばが、たくさんでてきます。   膝をかがめて手を合せ某が力の及ぶべき御所労には候はず候を・いかに辞退申せども・ただと仰せ候へば御内の者にて候間・かくて候とてびむをも・かかずひたたれこはからず、さはやかなる小袖・色ある物なんども・きずして且く・ねうじて御覧あれ。   又我が家の妻戸の脇・持仏堂・家の内の板敷の下か・天井なんどをば、あながちに・心えて振舞い給へ、今度はさきよりも彼等は・たばかり賢かるらん、いかに申すとも鎌倉のえがら夜廻りの殿原にはすぎじ、いかに心にあはぬ事有りとも・かたらひ給へ。   しゃべり方、服装などへの注意。 それは、「ブラック校則」ではありません。順風なとき、しばしば得意げになり、家庭や仲間をほったらかしにして、身近なことをないがしろにして、意気揚々と得意げになる、金吾の「オッサン性」   そして、結論がこれです。 殿は腹悪き人にてよも用ひさせ給はじ、若しさるならば日蓮が祈りの力及びがたし   「腹悪き」という言葉は、とてもキツい言い方です。 しかし、日蓮大聖人にとっては、身近な日常をないがしろにする、「オッサン性」「傲慢さ」は、そのぐらいキツい言葉で評すべきことだったのでしょう。 逆が「世間の心ね」です。 これは、世間体を気にせよということではありません。あくまで社会のなかでの、生活のなかでの行為一つ一つに、仏法は現われるものであるというのです。 「心の財」「人の振舞」。   仏教は、おのれのみ貴し、という独善ではなく、あくまで豊かな社会性を持つもの、またその社会性で、社会を豊かにしていくもの、というのが、大聖人が描いた仏教の人間像ではなかったかと思います。   友岡雅弥

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