浅きを去って深きに就く

2024/02/11(日)20:07

公共空間と変容と社会

文化(600)

公共空間と変容と社会五十嵐 太郎 コロナ禍で感染防止のため、ベンチ等の使用を禁止する光景が見られたが、こうした過防備や行動制限はコロナ以前から都市の公共空間に広がっていた。ホームレスを排除する目的で設置されたオブジェ、仕切りのついた寝ころべないベンチ……これらは「排除アート」とも呼ばれ、不寛容な都市の空間を生み出している。『誰のための排除アート?』の著者で、都市空間の変容、不寛容、不寛容を指摘する五十嵐太郎・東北大学大学院教授に聞いた。  摘み取られる可能性アートと呼べるかどうか別として、排除を目的とするかどうかは別として、排除を目的とする造形物として最初に記憶されるのは、1996年に東京・新宿駅西口に、ホームレスを排除した後に設置された円筒状のオブジェです。こうした〝排除アート〟がいつ現れたのか、正確の時期は分かりませんが、都市社会学者のマイク・ディヴィス著作『要塞都市LA』(原題『City of Quartz』には、セキュリティーを優先するアメリカの都市で、「浮浪者よけ」ベンチを設置したり、左害する人を追い出すためにスプリンクラーを定期的に作動させていることが紹介されています。叢書は90年の出版ですから、雨居rカデはすでに80年代には公共空間における排除の仕組みが見られたということでしょう。現在、日本でよく見かける仕切りやひじ掛けのついたベンチは、新聞記事を調べると、90年代後半から関連した記事が散見されます。それらの中には排除の目的に触れている記事も見られます。ベンチは座るためにデザインされたものですが、行き場を失ったホームレスには地面に寝ころばないですむ台にもなっていました。仕切り付きのベンチはそうした行為を不可能にし、ホームレス排除の役割を担うものになっています。こうした排除を目的としたベンチや造形物が増えることで、公共空間は窮屈な空間に変化していくのではないかと考えています。 コロナ前から広がる「排除アート」〝観光型の権力〟を疑う コロナ禍でベンチに×印の書かれた紙が貼られ、座り方まで想定した啓示を皆さんも目にしたと思いますが、あの状態が日常にちりばめられているということです。若い元気な人にとっては寝転がることのできないベンチであっても不便はないでしょう。しかし、疲れて横になりたい人や高齢者にとってはどうでしょうか。また災害などが発生すれば、誰もが普通ではいられないでしょう。本来、公共空間は誰もが自由に使える可能性を包摂するものですが、その可能性が摘み取られているのです。そこでは、いつも自分も排除の対象になるか分かりません。  自己責任論と消える自由9月にデンマークを訪問しましたが、日本に比べ、仕切りのついたベンチなどを見かけることはわずかでした。なぜ、日本では排除を目的としたベンチやオブジェがあふれているのでしょうか、いくつかの要因があると思います。ヨーロッパでは近代以降、長い時間をかけ、誰もが利用できる公共空間をつくり出してきました。日本もヨーロッパに習い、都市計画に公共空間を組み入れましたが、誰もが自由に利用してよい場所であるという理念までは理解できていなかったのではないでしょうか。 創造力と議論を欠く日本 また、90年代以降、低迷した日本経済の影響もあります。この時期、殺伐とした風潮が社会を覆い、ホームレスは迷惑な存在とされました。私が子どもの頃、東京・上野公園には傷痍軍人がいて、彼らは戦争の犠牲者として同情の思いで見られましたが、自己責任論が跋扈した90年代からのホームレスは、排除の対象となったのです。さらに95年に発生した地下鉄サリン事件を契機に日本ではセキュリティー意識が高まり、監視カメラが普及します。これと並行し、不審者と見なされるホームレスなどの排除を目的としたオブジェやベンチが増えました。セキュリティーの名の下に、誰もが自由に使える公共空間が消されているのです。  都市の不寛容を知ることこそ建築家の青木淳は、「原っぱと遊園地」という二つの空間モデルを提示し、すべてがデザインされ余白のない「遊園地」に対し、「原っぱ」は子どもたちの発想で自由に工夫して使える空間であるとして、建築のデザインにおいて、その自由なモデルを好んで推奨しています。それは建築家の態度を述べたものですが、私たちもこうした空間の想像力をもっと持つというのではないかと思います。また空間を利用する人に対して寛容であるべきだと思います。2012年のベルリン・ビエンナーレで、驚くべきアート作品と出会いました。行動に壁を立て、階層化された空間を可視化するものですが、出品中、車はそこを通れません。日本では許可されないでしょう。ただやはり問題になって会期途中で撤去されましたが、そのとき、市民を交えて撤去の是非が議論されました。作品にも驚きましたが、その撤去のプロセスに感銘しました。空間の想像力や他者への寛容さ、さらにはそうしたものへの議論が欠けているのが日本の現実です。そのなかで疑ってみているのは、師きりのついたベンチが一般的になり、ホームレスの排除を目的にそれが付けられていること自体、もはや意識されない状況が生まれているのではないかということです。私は排除アートは〝環境型の権力〟と呼んでいますが、それは言葉で禁止を命令するのではなく、環境のありようによって無意識に行動を制限させるものと考えるからです。しかし、それは決して気持ちのよいものではありません。私たちの広場や公共空間に増殖する〝排除アート〟の気持ち悪さに気付き、年の不寛容を知ることから意識を変えていく必要があります。  いがらし・たろう 1967年、パリ生まれ。博士(工学)。専門は建築史・理論研究。ベネチア・ビエンナーレ国際建築展2008日本館コミッショナー、あいちトリエンナーレ2013年芸術監督など務める。著書に『過防備都市』『戦争と建築』などがある。   【文化・社会】聖教新聞2022.10.4

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