浅きを去って深きに就く

2024/02/15(木)04:06

松尾芭蕉「野ざらし紀行」

文化(600)

半世紀ぶり発見、挿絵入り自筆稿松尾芭蕉「野ざらし紀行」関西大学名誉教授 藤田 真一 俳人・松尾芭蕉には二つの顔がある。ひとつは庵に住まいする芭蕉、ひとつは各地を旅する芭蕉。相即不離のふたつがあってはじめて、「芭蕉」になる。いちど家を離れたものにとって、故郷への心情は微妙なものがあるらしい。交通が発達し、通信が自在になった明治以降ことに著しい。事情こそ異なれ、江戸時代も似たようなことはあった。嫁入りする女性はもとより、男性も次男以下は家を出るということがふつうだった。芭蕉は、伊賀藤堂藩士松尾家の次男に生まれた。次男なら、いずれ家を出る定めだったはずだが、彼の場合、自らの意志で伊賀をあとにした。いずれ江戸で一人前の俳人になる目標があったのだろう。35歳のころ、宗匠として独り立ちを果たすも、ほどなくして深川に移り、庵にはいる。「俳句稼業」を放棄したに等しい移住だった。 ふるさとへと旅する 41歳の秋、芭蕉は旅に出る。故郷伊賀への帰省。東海道をたどり、名古屋から伊勢をへて、伊賀に向かった。じつは33歳のときに一度帰郷しており、二度目だった。藤堂藩の掟に、他国へ出たものは数年ごとに帰国することが定められて入り、それに沿った行動だった。だから今回の旅も、交換でいわれるように、放浪の詩人になるため、または紀行文を書くためというのは先走った見方である。とはいえ、旅のあとに書き上げた紀行文『野ざらし紀行』は、芭蕉のみならず、俳諧にとって画期的な作品になったのはまちがいない。おどろくべきは、自筆原稿が二種類現存していることである。いずれも巻物で、そのひとつには全体にわたってし記載された絵がそなわっている。えも芭蕉じしんとみられる。従来図録として知られていたのだが、現物がことにしなって出現したのだ。その一端をのぞいてみることにする。9か月に及ぶたびのなかで、芭蕉は二度故郷にもどっている。9月の帰省では、前年に他界した母の遺髪を手にして、「手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜」と涙ながらによんだ。つぎは年末、押しつまった時期だった。「旅寝ながらに年の暮ければ」、つまり旅姿のまま年を越すことになりますといってよんだのが、この句、 年暮ぬ笠きて草鞋はきながら ふるさとでゆっくりするといったふうは、まるでない。旅の途中、たまたまたち寄ったといった口ぶりで、旅人になりきった姿がここにはある。と言いつつも、「山家に年を越て」と、生家で新年を迎えた。絵図ではその山家を描いている。その後も、上方(近畿方面)に来るたびに故郷に立ち寄り、ときに長期滞在した。芭蕉ほど、ふるさとの縁を大事にした俳人も珍しい。晩年の『奥の細道』も、本が完成するやただちに故郷に帰り、真っ先に兄に手渡すほどだった。皮肉なことに、その後伊賀から大坂に出て、そのまま大坂で没した。そして遺骨は、生前なじみの近江・義仲寺に葬られた。51歳だった。終生ふるさとを気にかけた芭蕉だったが、永眠の地は他国となった。とはいえ、芭蕉死してなお、俳句に生き続けているとみれば、終わったとは言いがたいものがある。(ふじた・しんいち)  【文化】公明新聞2022.10.12

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