浅きを去って深きに就く

2024/02/20(火)05:18

土井晩翠 没後70年

文化(600)

土井晩翠 没後70年詩人  金井 雄二男性的で壮大な力強さのほかロマンチズムも兼ね備えるウクライナ情勢は混沌を極めている。新型コロナウイルスも長丁場になった。我々が以前の生活を完全に取り戻せるのは、いつのことだろうか。そんな日常だが、時代を少し遡り、詩歌の森に入っていくのも悪くない。今年は、土井晩翠の没後七十年の年に当たる。名前は知っているが昨今の読書傾向からすると、残念ながら読者はそう多くはない。だが、詩の歴史上避けて通れない重要な詩人であり、潤いが必要な今だからこそ、読まれるべき詩人である。土井晩翠は明治四年(一八七二)十月二十三日、仙台市青葉区鍛冶町(現、仙台市青葉区本町通)生まれ。本名は林吉。富裕な質商の家であり、家業に従事したが、勉学の意志に燃え東京帝国大学英文科を卒業する。「帝国文学」の編集委員となり、詩を発表。第一詩集『天地有情』で評価が定まる。その後詩集に『暁鐘』、『東海遊子吟』、『曙光』等がある。翻訳や随筆もあり幅広く活躍。一九五〇年、文化勲章を受章し、昭和二七年(一九五二)に没した。問いは「つちい」とも読むが、祭主的には「どい」に改名している。日本の伝統的詩歌といえば、和歌・俳句である。明治に入ると、伝統詩歌に対して、新しい詩を試みる動きが出てきた。それが『新体詩抄』(明治一五年、外山正一・矢田部良吉・井上哲次郎共著)である。この詩集はもちろん漢詩風であるが、それ以前の日本の伝統詩歌とは一線を画していた。この新体詩ブームの後半に土井晩翠は居る。誰も出しっている四には『荒城の月』があるだろう。タイトルを口にしたとたん、滝廉太郎が作曲した、あのメロディが流れてくるようだ。 春高楼の花の宴/めぐる盃影さして/千代の松が枝わけ出でし/むかしの光いまいづこ。(「荒城の月」第一連) 新しく書かれた詩といえども、明治期の「新体詩」は、文語表現と七五調が基本である。晩翠は力強い表現で声高々に言葉を紡いだ。詩の形式は漢詩風であったため硬い言葉が多く、観念的要素も強い。まさに男性的であったといえる。ただ、「荒城の月」を読んでみて感じるとおり、繁栄からの転落、滅びゆく哀愁を描き、多分にロマンチックな抒情を兼ね備えている。晩翠の詩は、どれを読んでも、壮大で力強く、固い意志に貫かれ、その内にナイーブな浪漫沈むが隠されているのだ。実生活では、子どもを亡くし、妻に先立たれ、晩年はかなり憔悴したらしい。だが、激しく自分の人生を生き抜いた人であるからこその、憔悴ではないだろうか。晩翠と対極にあるのが島崎藤村だ。藤村は「女性的」と言われ、晩翠と並んでこの時期の詩を支えてきた。二人の比較もおもしろい。北村薫の『詩歌の待ち伏せ・下巻』(文藝春秋刊)という本には、晩翠の詩「星落秋風五丈原」という詩について触れている。この詩は大正期頃までの中学国語教科書に載っていたものらしく、多くの青年が暗唱できた詩であったとのことである。興味があったら一読を。詩の根本にあるのは、言葉のリズム。意味謎吹っ飛んだところに詩の一つの快感がある。音律によってみるのも詩歌の楽しみの一つである。晩翠は古い、などと知ったかぶりをせず、まずは声に出して読んでみてはいかがだろうか。(かない・ゆうじ) 【文化】公明新聞2022.10.16

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