1223252 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

烏 森 神 社

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2006年02月09日
XML
カテゴリ:神道豆知識
『古事記』および『日本書紀』では,第1代の天皇としてあげられています。彦火火出見尊<ひこほほでみのみこと>と呼ばれ、神倭伊波礼毘古命<かむやまといはれびこのみこと>(神日本磐余彦)と称します。
父は鵜葺草不合命<うがやふきあえず>で、母は「海童<わたつみ>の少女」といわれた玉依姫<たまよりひめ>の書物により異なりますが、四男(三男と記されているものもあります)です。

~名前について~(…書物などにより読み方にも違いがあります)
『古事記』
「若御毛沼命<わかみけぬのみこと>」または「豐御毛沼命<とよみけぬのみこと>」または「神倭伊波禮毘古命<かむやまといはれびこのみこと>」
『日本書紀』
「神日本磐余彦尊」第一の一書に「狹野尊」、第二の一書「磐余彦尊」

神武天皇のお話をする上で、なくてはならいのが「東征」のお話です。

(邇邇芸命<ニニギノミコト>の天孫降臨以来、九州に国家を構えていた天皇家にとっては、東国とは近畿地方までを指したようです)ちなみに神武天皇は邇邇芸命(瓊々杵尊)のひ孫にあたります。

神武天皇が45歳のとき、兄弟や子供から「東に良いところがあると聞く。恐らくそこが日本の中心地だろう。そこに行って都を造るに限る。」と言われ、彦五瀬命<ひこいつせのみこと>と稲飯命<いなひのみこと>と兄弟3人一緒に日向を発ちます。
神武天皇は、直接、大和に行きませんでした。
~日本書紀~
日向→宇佐→筑紫の国の岡水門<おかのみなと>→安芸の国の埃宮<えのみや>→吉備の国の高島宮<たかしまのみや>(高島宮で三年間暮らす)

~古事記~
日向→宇佐→筑紫の岡田宮(1年)→安芸の国の多祁理宮<たけりのみや>(7年)→吉備の国の高島宮(8年)

書物により若干異なりますがほぼ同じ経由です。

~大和での戦い~

神武天皇は、最初、生駒山の方から大和に入ろうとします。そこで大和の長髄彦<ながすねひこ>の激しい抵抗にあい、進路を阻まれてしまいます。この時、神武天皇の長兄の彦五瀬命<ひこいつせのみこと>は傷を負い、それが元で亡くなりました。

神武天皇は、太陽に向かって攻撃するのが良くない(太陽の昇る東に向かって攻撃するということが良くない)として、熊野のほうに迂回(東に回り、西に向かって攻撃できるように)する。この時、暴風に遭い、少しも前に進むことが出来ませんでした。この状態を嘆き、次男の稲飯命<いなひのみこと>は海に入って亡くなってしまいます。

兄弟を失いながらも、神武天皇はやっとの思いで熊野につき、険しい山の中を八咫烏<やたがらす>に導かれ、苦労の末に長髄彦<ながすねひこ>を滅ぼし、東征から6年目で橿原の地に宮を築き、即位するのです。

この即位した日(「辛酉年春正月庚辰」後に、紀元前660年2月11日とされる)が、先日のお話の「建国記念の日」に繋がるのです。

神武天皇はなんと127歳で没したとされています。

神武天皇は初代天皇とされておりますが、今上天皇(現在の天皇)は125代の天皇です。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2006年02月09日 22時47分39秒
[神道豆知識] カテゴリの最新記事


PR

フリーページ

カテゴリ

バックナンバー

2024年04月
2024年03月
2024年02月
2024年01月
2023年12月

日記/記事の投稿


© Rakuten Group, Inc.