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カテゴリ:神道豆知識
『古事記』および『日本書紀』では,第1代の天皇としてあげられています。彦火火出見尊<ひこほほでみのみこと>と呼ばれ、神倭伊波礼毘古命<かむやまといはれびこのみこと>(神日本磐余彦)と称します。
父は鵜葺草不合命<うがやふきあえず>で、母は「海童<わたつみ>の少女」といわれた玉依姫<たまよりひめ>の書物により異なりますが、四男(三男と記されているものもあります)です。 ~名前について~(…書物などにより読み方にも違いがあります) 『古事記』 「若御毛沼命<わかみけぬのみこと>」または「豐御毛沼命<とよみけぬのみこと>」または「神倭伊波禮毘古命<かむやまといはれびこのみこと>」 『日本書紀』 「神日本磐余彦尊」第一の一書に「狹野尊」、第二の一書「磐余彦尊」 神武天皇のお話をする上で、なくてはならいのが「東征」のお話です。 (邇邇芸命<ニニギノミコト>の天孫降臨以来、九州に国家を構えていた天皇家にとっては、東国とは近畿地方までを指したようです)ちなみに神武天皇は邇邇芸命(瓊々杵尊)のひ孫にあたります。 神武天皇が45歳のとき、兄弟や子供から「東に良いところがあると聞く。恐らくそこが日本の中心地だろう。そこに行って都を造るに限る。」と言われ、彦五瀬命<ひこいつせのみこと>と稲飯命<いなひのみこと>と兄弟3人一緒に日向を発ちます。 神武天皇は、直接、大和に行きませんでした。 ~日本書紀~ 日向→宇佐→筑紫の国の岡水門<おかのみなと>→安芸の国の埃宮<えのみや>→吉備の国の高島宮<たかしまのみや>(高島宮で三年間暮らす) ~古事記~ 日向→宇佐→筑紫の岡田宮(1年)→安芸の国の多祁理宮<たけりのみや>(7年)→吉備の国の高島宮(8年) 書物により若干異なりますがほぼ同じ経由です。 ~大和での戦い~ 神武天皇は、最初、生駒山の方から大和に入ろうとします。そこで大和の長髄彦<ながすねひこ>の激しい抵抗にあい、進路を阻まれてしまいます。この時、神武天皇の長兄の彦五瀬命<ひこいつせのみこと>は傷を負い、それが元で亡くなりました。 神武天皇は、太陽に向かって攻撃するのが良くない(太陽の昇る東に向かって攻撃するということが良くない)として、熊野のほうに迂回(東に回り、西に向かって攻撃できるように)する。この時、暴風に遭い、少しも前に進むことが出来ませんでした。この状態を嘆き、次男の稲飯命<いなひのみこと>は海に入って亡くなってしまいます。 兄弟を失いながらも、神武天皇はやっとの思いで熊野につき、険しい山の中を八咫烏<やたがらす>に導かれ、苦労の末に長髄彦<ながすねひこ>を滅ぼし、東征から6年目で橿原の地に宮を築き、即位するのです。 この即位した日(「辛酉年春正月庚辰」後に、紀元前660年2月11日とされる)が、先日のお話の「建国記念の日」に繋がるのです。 神武天皇はなんと127歳で没したとされています。 神武天皇は初代天皇とされておりますが、今上天皇(現在の天皇)は125代の天皇です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年02月09日 22時47分39秒
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