2020.08.01

部位と合体と真の本体

テーマ:考え方(266)
カテゴリ:考え方
我々生き物は体で生成された部位が欠け落ちることが度々行われています。

例えば伸びた爪を切ったり、美容院で髪型を整えたりといった際にです。

悲惨な事に大きな事故で腕や足を失ってしまったような方々も世の中には存在します。

ここで、体から離れた爪や髪の毛は、元々自分の一部であったが、離れてしまうと忽ち自分ではなくなってしまったと言えるわけです。

こうして「残った本体」と「離れた部位」という二つの部分に分かれることになりますが、何が違うのかという疑問に突き当たります。

私は大きく分けて三つの違いがあると思いました。

まず一つ目の違いは自分で動くかどうかという点です。

切れた腕や抜けた毛は動かないですが残った身体は動きます。

次に二つ目の違いは自分で成長するかどうかという点が考えられます。

少しずつ伸びていた爪や髪も切れたらそこで栄養補給が行われなくなって成長が止まってしまいます。

三つ目の違いは自分で生み出し続けるかどうかという点だと思います。

これは二つ目の「自分で成長するかどうか」にニュアンスは似てはいますが、同じものが大きくなることと、新たなものを生み出すことの違いがあります。

例えば生きている人間は知恵によって新しい技術を発見して創造したり、子どもを作ったりということが行えるわけです。

以上の三点の違いは「本体と欠損部位」の比較だけでなく「生者と死者」の違いの認識にも置き換えることができると思います

「自分で動かない」、「自分で成長しない」、「自分で生み出し続けない」が揃えば「死者」と言えるのではないか?というわけです。

生と死の間の判別が難しい状態として、脳死状態の植物人間と言われる状態が問題となっております。

この場合で言えば、他者無しでは「自分で動かない」、「自分で成長しない」、「自分で生み出し続けない」は成り立っていると言えますので個人的には「死者」の部類に入れても良いと思います。

しかし、患者の事を大切に思う人々からすれば、別れは辛いものであり、その延命をやめるという決断を委ねられることも辛いものであります。

更にこの国では、安楽死や尊厳死が認められていないこともあって更なる複雑な葛藤が生まれるというのが実際のところだと思います。

それでは「臓器移植」についてはどうでしょうか。

ドナーから切り離された臓器単体では「自分で動かない」、「自分で成長しない」、「自分で生み出し続けない」が成り立つので「欠損部位」の認識になると思います。

この部位が生者の体に結合することで動き出すわけです。

ドナーも生きていながら、提供された側の体内でも生きるという特殊な状況も起こることになるのです。

これは所謂人間同士の合体と言えるのではないでしょうか。

ここで、移植された新しい臓器を動かしているのは、脳から送られる電気信号なので、脳が本体だという認識が生まれます。

つまり移植は譲渡であって合体ではないという認識ですね。

実際に身体から取り出した臓器や筋肉等も組織が死んでいなければ、体にくっ付けなくとも電気信号を送れば動かすことはできます。

するとここで言う本体の定義は指令を出す場所になってしまいます。

人体で指令を出す場所と言えば脳であり、脳は多くの細胞達からできています。

つまりこの細胞こそが「自分で動く」、「自分で成長する」、「自分で生み出し続ける」という事を兼ね備えた真の本体と言えるのではないでしょうか。

さらに深堀りをしていくと、その細胞達の始まりは両親の精子と卵子が結ばれた受精卵です。

さらに両親にはその両親がいて…と遡っていくと結局は一つの本体に辿り着きます。

地球で初めて生まれた生命とでもいうものですかね。

宗教的に言えば「創造の神」なんていう言い方もできるかもしれませんが、「生み出された人間達は皆兄弟」なんていう言葉も宗教観抜きで合理的にたどり着ける見解でもあるなと思う次第です。

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最終更新日  2020.08.01 08:16:01
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